第17話 帰りを待つ小さな灯りと毒牙
夜会の喧騒を後にした馬車が、公爵邸の重厚な鉄門をくぐったのは深夜を回った頃だった。
馬車を降りたアンヌの肩に、ランベールが自らの軍用外套をふわりと掛ける。
春の夜風はまだ冷たい。
だが、アンヌの胸の内には、寒さを寄せ付けない確かな温もりが灯っていた。
二人が向かったのは、本邸ではなく、木立の奥に佇む別邸だった。
木々の隙間から見えた二階の窓には、橙色の柔らかな灯りがぽつりと灯っている。
あの冷たく暗い牢獄のようだった別邸の窓に、帰りを待つ温かい光が揺れている。
その光景を目にしただけで、王宮での刃のような舌戦の疲労が溶け落ちていく。
「まだ起きているのか」
ランベールが少しだけ眉を下げ、苦笑混じりに呟いた。
「心配でたまらなかったのでしょう。留守番を任された小さな騎士様ですから」
アンヌが微笑み、二人は静かに別邸の扉を開けた。
足音を忍ばせて階段を上がり、二階の寝室の扉をそっと開ける。
部屋の中では、暖炉の火が静かに爆ぜていた。
長椅子の上で、レオンハルトが、厚い毛布に包まれれ小さな木剣を胸に抱いたまま、こくりこくりと船を漕いでいた。
老執事ハインツが、傍らに控え音もなく頭を下げる。
「旦那様、奥様、おかえりなさいませ。若君は、父上とアンヌ様が帰ってくるまで絶対に眠らないと頑として聞き入れず、ずっと窓の外を見つめておいででした」
「ハインツ、下がって休むといい。あとは俺たちがやる」
ランベールが囁くと、ハインツは深々と一礼して静かに部屋を退出した。
足音に気づいたのか、レオンハルトの長い睫毛が震え、金色の双眸が薄く開いた。
「父上、アンヌ」
擦れた幼い声。
レオンハルトは目を擦りながら、よろよろと毛布から這い出て、アンヌの元へ小さな手を伸ばしてきた。
「レオンハルト様、ただいま戻りました。お留守番、とても立派でしたね」
アンヌが膝をついて抱きしめると、少年は首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「アンヌの匂い。怖くなかった、レオン、強いから」
「ええ、本当に強い子です。でも、もう夜更けですから、ベッドに入りましょうね」
アンヌが立ち上がり、レオンハルトを寝台へ運ぼうとしたその時、部屋の隅の机の上に置かれた銀の盆が目に入った。
ハインツが用意した白湯の入った銀器の隣に、もう一つ、小さな陶器の器が置かれていた。
中には、甘く煮詰めた牛乳が入っている。
表面には細かく刻んだ乾燥果実が散らされ、まだ微かに温かい。
「それは何だ」
ランベールが訝しげに目を留めた。
「レオンハルト様、このお乳はどなたが持ってきてくださったのですか」
アンヌが優しく尋ねると、レオンハルトは眠気眼のまま、ぽつりと言葉を紡いだ。
「さっき、きれいな服の人が来たの。本邸の厨房からって。夜会で頑張ったレオンに、特別な甘いお乳だって」
アンヌの背筋に、氷水を流し込まれたような悪寒が走った。
本邸の厨房の者が、公爵の許可も執事頭の通達もなく、深夜の別邸に直接飲食物を運ぶことなどあり得ない。
アンヌが整備した公爵邸の管理体制では、別邸に出入りできる使用人はハインツが厳選した数名に限定されていたはずだった。
アンヌはレオンハルトをランベールの腕へそっと預けると、足音を消して机の前に歩み寄った。
器を手に取り、微かに揺らす。
漂ってくるのは、甘い蜂蜜と牛乳の香り。
だが、アンヌの嗅覚は、その甘い香りの奥底に潜む、極めて微かな苦味を捉えていた。
前世の記憶。
離れに幽閉されていた頃、使用人たちが時折、食事に混ぜ込んでいたあの薬品。
最初は甘く、やがて内臓をじわじわと蝕み、高熱を出させて床に伏せさせる、王都の裏市で出回る遅効性の毒草、紫斑草の絞り汁だった。
胸元の、氷狼の涙が、ピシリと小さく冷たい波動を放った。
魔石が、悪意の存在を明確に告げていた。
「アンヌ、どうした」
ランベールの声が、一段と低くなった。
アンヌの張り詰めた気配を敏感に察知したのだ。
「閣下、この牛乳を口にしてはなりません」
アンヌは振り返り、氷のように冷徹な瞳で告げた。
「毒が入っています。死に至るほどではありませんが、幼い子であれば数日間高熱に冒され、衰弱する劇薬です」
ランベールの金色の瞳が、夜の野獣のように爛々と見開かれた。
その巨体から立ち上る本物の殺気に、部屋の空気が一瞬で凍りつく。
「誰が持ち込んだ」
地を這うような呻き声。
「王都の夜会で私を罠にかけ損ねたカルヴェリュン侯爵か、あるいは彼らに買収された本邸の内通者でしょう。私が夜会で恥をかき、追い詰められている隙を突き、若君を病に伏せさせ、別邸の女主人の管理不行き届きを責め立てる算段だったに違いありません」
もし自分が夜会から戻るのがあと半刻遅れていたら。
もしレオンハルトが、寒さと空腹に耐えかねてこの器に口をつけていたら。
前世で、病の我が子を抱くことすら許されず、冷たい床で死んでいった幻影が、レオンハルトの小さな姿に重なった。
絶対に、許さない。
アンヌの胸の奥で、静かで激しい焔が燃え上がった。
かつて屋根裏で虐げられていた頃の弱々しい娘は、もうどこにもいない。
母の愛を知り、守るべき家族を得た女は、敵の毒牙に対して最も冷酷な牙を剥く。
「ハインツ」
ランベールが低く呼ぶと、控えていた老執事が血相を変えて飛び込んできた。
「はい」
「別邸の通用門を直ちに封鎖しろ。今夜、本邸の厨房から別邸へ足を運んだ使用人を一人残らず拘束しろ。門番の出納記録もすべて照合しろ」
「は、直ちに」
老執事が蒼白な顔で走り去っていく。
部屋に残されたレオンハルトは、両親のただならぬ気配に怯え、ランベールの胸元で小さく身を縮めていた。
「レオン、悪いことしたの。お乳、飲まなかったよ」
アンヌは、泣きそうな声で呟く少年の小さな頭を両手で優しく包み込んだ。
「いいえ、レオンハルト様。あなたは何も悪いことなんてしていません。飲まずに待っていてくれて本当に偉いわ」
アンヌは微笑み、少年の額に優しく口づけを落とした。
その温もりに触れた瞬間、ランベールの腕の中で強張っていた少年の身体から、すうっと力を抜けた。
「お父様とアンヌが、悪い狼を全部やっつけてあげますからね。安心して、目を閉じてお休みなさい」
「うん、アンヌ、おやすみ」
レオンハルトは安心しきったように息を吐き、今度こそ深い眠りへと落ちていった。
ランベールは、寝台に我が子を横たえ毛布を掛けた後、腰の長剣を握り直した。
その横顔には、戦場の冷酷な将軍の貌が戻っていた。
「アンヌ、お前はここに残れ。俺が本邸の鼠どもを一匹残らず絞め殺してくる」
「いいえ、閣下。私も参ります」
アンヌは毅然として首を横に振った。
夜空色のドレスの裾を翻し、ランベールの隣へと並び立つ。
「この毒を調合した手口、そして誰の差し金であるかを暴くには、母から受け継いだ薬草の知識が必要です」
アンヌは胸元の、氷狼の涙に、そっと指先を触れ冷ややかに微笑んだ。
「我が子の命を脅かそうとした輩に、母親がどれほど恐ろしい存在であるかを、思い知らせてやらねば気が済みません」
ランベールは驚きに目を見張った後、獰猛で頼もしい笑みを浮かべた。
「いいだろう。我が公爵夫人の命に従おう」
静まり返った夜のとばりの中、二人は並んで別邸を出た。
背後で揺れる小さな窓の灯りを、二度と脅かさせないために。
リュネシネージュ公爵夫妻の、容赦なき粛清の夜が幕を開けようとしていた。




