第18話 揺れる木の葉と狩人
本邸の地下深く、冷たい石壁に囲まれた尋問室には、息の詰まるような重い静寂が漂っていた。
床に置かれた鉄製の燭台が微かに揺れ、拘束具に繋がれた女料理人の青ざめた横顔を照らしている。
「言い逃れはできんぞ」
ランベールの冷酷な声が、石壁に反響した。
軍靴の踵を鳴らし、一歩ずつ間合いを詰める。
その手に握られているのは、別邸のレオンハルトの部屋へ運び込まれたあの陶器の器だった。
「紫斑草の毒だ。王都の裏市でしか流通しない代物だな。カルヴェリュン侯爵家からいくら貰った。実家の誰を人質に取られた」
女料理人は恐怖に歯を鳴らし、狂ったように首を横に振った。
「私は何も存じません。見知らぬ使いの者から金貨を渡され、若君の寝る前にこのお乳を届ければ、病気の母の薬代を用立ててやると言われただけで」
ランベールが吐き捨てるように息を漏らし、腰の長剣の柄に手をかけた。
男の瞳に宿る剥き出しの殺気が、容赦ない断罪を告げていた。
アンヌが、その切っ先が動く寸前に静かに前に進み出た。
「お待ちください、閣下」
アンヌは女料理人の前に膝をつき、目線の高さを合わせた。
その穏やかな表情には、怒りも怯えもない。ただ、真実を見通す澄んだ瞳だけがあった。
「あなたを責めるつもりはありません。母親を救いたかったのでしょう。その金貨の包みには、手紙か何かが添えられていませんでしたか。あるいは、その使いの男が身につけていたものの特徴は」
女料理人は涙を流しながら、必死に記憶を手繰り寄せた。
「手紙はありませんでした。ただ、男の外套の留め具に、銀の百合と絡み合う鎖の紋章がありました。それと、夜が明けたら城の東門の裏手にある古木の下で落ち合う手筈に」
「銀の百合と鎖」
ランベールが低く呻いた。
「カルヴェリュン侯爵家の親衛隊の紋章だ。奴め、毒を盛った後、公爵邸の内情を直接確認するために手勢を城のすぐ外まで忍ばせているのか」
アンヌは立ち上がり、ドレスの裾を払った。
「相手は、レオンハルト様が毒に倒れ、公爵邸が混乱に陥るのを、いまや遅しと待っているはずです。ならば、その油断を利用いたしましょう」
アンヌの瞳に、冴えわたるような知略の光が宿っていた。
夜明け前、別邸の周囲を取り囲む鬱蒼とした原生林。
春の冷たい朝霧が立ち込める中、木々の葉が風に吹かれてざわざわと波打っていた。
森の奥、巨大な樫の木の影に、灰色の外套に身を包んだ男が潜んでいた。
カルヴェリュン侯爵が放った手練れの工作員だ。
男は息を潜め、本邸の様子を双眼鏡で窺っている。
「そろそろ騒ぎが起きる頃合いだ。若君が倒れれば、あの女は直ちに監禁されるか、公爵に処分される」
男が冷笑を浮かべ、懐から短剣を抜き放ち、手筈通りの合流地点へと足を踏み出そうとした。
カサリ、と頭上で揺れる木の葉の音がしする。
風の音ではない。
獲物を狙う獣が、木々の隙間をすり抜けたような微かな摩擦音。
男が咄嗟に顔を上げた瞬間、上空の枝から漆黒の影が音もなく舞い降りてきた。
息を吸い込む隙すら与えられなかった。
強烈な衝撃が男のみぞおちを撃ち抜き、背骨が湿った地面へと叩きつけられる。
喉元に突き立てられたのは、冷徹な青い光を放つ軍用短剣の切っ先だった。
「動くな。息を吸えば首が飛ぶ」
霜を踏み砕くような冷たい声。
影の主、ランベール公爵が、獲物を捕らえた飢えた狼のような金色の双眸で男を見下ろしていた。
男の仲間二人が慌てて茂みから飛び出し、剣を抜こうとする。
だが、その背後から音もなく現れた十数名の公爵家精鋭兵が、一瞬で切っ先を突きつけ、男たちを完全に制圧する。
「馬鹿な。なぜここに俺たちがいるとわかった」
工作員の男が唇を震わせ、苦痛に顔を歪める。
ざわめく木の葉を踏みしめ、霧の奥からもう一人の影が静かに歩み寄ってきた。
夜空色の衣服をまとい、胸元に、氷狼の涙を、冷たく輝かせたアンヌだった。
「簡単なことです」
アンヌは男の足元に視線を落とし、淡々と告げる。
「東門の裏手に待ち合わせ場所を指定しておきながら、森の風下に足跡を残していましたね。それに、あなたが踏み荒らしたこの茂み、昨夜私が毒草の出処を特定した場所と同じ土の匂いが立ち込めています」
男は絶句した。
すべて見透かされていたのだ。
女子供と侮っていた公爵夫人が、実家の屋根裏で培った執念深い観察眼と、土地の精霊の気配を読み取る鋭敏な感覚を持っていたことなど知る由もなかった。
「カルヴェリュンに伝えろと言いたいところだが、お前たちを王都へ帰す気はない」
ランベールが短剣の切っ先をわずかに沈めると、男の首筋から一筋の血が流れた。
「貴族院の最高法廷へ、カルヴェリュン侯爵による公爵家跡継ぎ暗殺未遂の動かぬ証拠として、お前たちの身柄と毒物を差し出す。あの男の首が落ちるまで、地下牢でじっくりと待つがいい」
工作員たちが、騎士たちに引き立てられ連行されていく。
森の奥に、再び朝露の落ちる静けさが戻った。
頭上では、昇り始めた朝日に照らされ、木々の葉が黄金色にきらきらと揺れていた。
ランベールは短剣を鞘に収めると、アンヌの隣へと歩み寄った。
その金色の瞳には、戦場の冷酷さはなく、妻への尽きせぬ感嘆が宿っている。
「見事な狩りだったな、アンヌ。お前が風向きと足跡を読まなければ、奴らをこれほど鮮やかに一網打尽にはできなかった」
「いいえ。閣下が最高の狩人として、迷わず敵を仕留めてくださったからです」
アンヌが柔らかく微笑み返すと、ランベールは不器用そうに口元を緩め、そっと冷えた手を自らの大きな掌で包み込んだ。
「帰ろう。レオンハルトが、腹を空かせて待っている」
「はい。今朝は、温かい焼きたての丸パンと、澄んだスープを作りましょう」
二人は並んで、朝霧の晴れゆく森の小道を歩き始めた。
木漏れ日が降り注ぐ先には、煙突から白い煙を優しく立ち上らせる、温かな我が家が待っていた。




