第19話 払暁の鉄騎による亡霊の終焉
東の地平が白く霞み始める明け方。
夜気と朝の冷気がせめぎ合う王都の目抜き通りは、凍りついたように静まり返っていた。
王都の一等地にそびえ立つ、カルヴェリュン侯爵邸。
ジュリアン・フォン・カルヴェリュン侯爵は、豪奢な天蓋付きの寝室の窓辺で、寝間着の上に羽織ったガウンを握りしめ、焦燥に駆られて窓の外を睨みつけていた。
公爵邸の別邸へ放った工作員たちからの通信が途絶えてから、すでに五刻が過ぎていた。
昨夜の夜会でアンヌから浴びせられた冷徹な言葉の数々が、いまもなお胸を焼くような屈辱となってくすぶっている。
「あの薄汚い落胤の分際で。飢饉に喘ぐ我が領地を救うための、ただの生贄の苗床にすぎぬくせに」
前世でアンヌを世継ぎの容れ物として使い潰した記憶など、彼にはない。
だが、その傲慢な魂に刻まれた特権意識と底なしの強欲は、前世と何一つ変わっていなかった。
死に瀕した南部領地を蘇らせ、第一王子派閥の頂点に立つため、ヴァルベール家の血を引くアンヌは是が非でも手に入れねばならない鍵だった。そのためなら、公爵家の幼い跡継ぎ一人を毒殺することなど、小石を蹴飛ばす程度の犠牲としか思っていなかった。
その時だった。
地底から響くような重く低い振動が、寝室の床を突き上げる。
飾り棚に置かれた硝子の酒瓶がカタカタと鳴り始める。
「地震か。いや、違うな」
ジュリアンが眉をひそめ、窓硝子に顔を寄せた瞬間、その息が喉の奥で詰まった。
夜明け前の青みがかったもやを切り裂き、石畳の大通りを黒鉄の奔流が疾走してくる。
鳴り響く無数のひづめの音。
掲げられているのは、双頭の黒狼の軍旗。
リュネシネージュ公爵家が誇る最精鋭部隊、北方鉄騎隊だった。
「なぜだ。なぜ北方の私兵が王都の目抜き通りを武装行軍している」
門番の制止する声など、地鳴りのような突進の前には羽虫の羽音にも等しかった。
先頭を駆る漆黒の軍馬が、カルヴェリュン侯爵邸の豪奢な鉄門を蹴破り、敷石を砕いて中庭へと雪崩れ込んでくる。
庭園を瞬く間に包囲した鉄騎兵たちは、一糸乱れぬ動きで抜き身の長剣を構え、邸宅の出入り口という出入り口を完全に封鎖した。
先頭の軍馬から音もなく降り立ったのは、黒銀の重装甲冑をまとったランベール公爵だった。
その漆黒のマントを翻す姿は、夜明けの冷気を引き連れた死神そのものに見えた。
さらにその背後から、国王直属の近衛兵の一団と、貴族院最高法廷の主席執行官が、厳しい表情で馬車から降り立つ。
「カルヴェリュン侯爵、速やかに玄関を開けよ」
執行官の冷徹な宣告が、邸内に反響した。
「公爵家跡継ぎ毒殺未遂の容疑、ならびに国家反逆の嫌疑により、貴殿の身柄を直ちに拘束する」
「馬鹿な。何かの間違いだ」
ジュリアンは取り乱し、腰を抜かしかけている執事や侍女を突き飛ばしながら、階段を転がるように駆け下りた。
正面玄関の重い扉を勢いよく開け放つ。
目の前には、朝露に濡れた刃を構えた鉄騎兵たちがずらりと居並び、中央に立つランベールが、絶対零度の金色の双眸で自分を見下ろしていた。
「無礼な真似を、ランベール公爵。ここは由緒あるカルヴェリュン侯爵邸だぞ。国王軍でもない私兵を率いて土足で踏み入るなど、貴族院法廷に対する明らかな反逆行為だ。何の証拠があってこのような暴挙に及ぶのか」
ジュリアンは震える声を張り上げ、必死に貴族としての威厳を繕おうとした。
だが、その虚勢を切り裂くように、鉄騎兵の隊列が左右に割れた。
静かな足音が、砕かれた敷石を踏みしめる。
現れたのは、夜空色のドレスをまとい、胸元に、氷狼の涙を、冷たく輝かせたアンヌだった。
その佇まいには、夜明けの薄明かりすら霞むほどの凛とした気品が宿っていた。
アンヌの手には、革張りの書類挟みと、昨夜森で捕らえられた工作員が隠し持っていた紫斑草の小瓶、そしてカルヴェリュン親衛隊の紋章が刻まれた銀の留め具が握られていた。
「カルヴェリュン侯爵、証拠ならここにすべて揃っております」
アンヌの声は、澄み渡り、冷涼な大気を震わせた。
「昨夜、別邸の森で捕縛されたあなたの部下三名は、すでに貴族院の執行官立ち会いのもとで、すべての罪状を自供いたしました。あなたが私の母の血筋であるヴァルベール家の加護を奪うため、私を拉致しようと企て、その邪魔立てとなる幼きレオンハルト様を毒殺しようとしたことを」
ジュリアンの顔から、完全に血の気が引いた。
唇が痙攣し、指先が小刻みに震え始める。
「そんな出鱈目を。この女は、ただの卑しい伯爵家の落胤だ。実家を破滅させた虚言癖の娘の言うことなど、誰が信じるものか。公爵、その狂女に騙されているぞ」
見苦しく喚き散らす男の姿を、アンヌは眉ひとつ動かさずに見つめた。
前世で、まさにこの男は同じ言葉を使ってアンヌを離れに閉じ込めたのだ。
「精神を病んで子を害そうとした」
偽りの罪を着せ、誰も信じてくれない絶望の淵で、我が子を奪った。
かつて自分を地獄へと突き落とした言葉が、追い詰められた男の無様な足掻きとして吐き出されている。
立場は、完全に逆転していた。
「いいえ。真実を歪め、己の欲望のために他者の命を踏みにじり続けてきたのは、あなたの方です」
アンヌは一歩、冷ややかに踏み出した。
胸元の、氷狼の涙が、東の空から昇り始めた朝日の光を受けて、目も眩むような青い光彩を放つ。
「土地の精霊は、命を奪い、他者を搾取する者の願いなど決して聞き入れません。あなたの南部領が痩せ衰えたのは天災ではなく、領民を顧みず、私腹を肥やすために大地の恵みを貪り食った、あなたの強欲に対する大地の報いです。母の血も、私の命も、あなたのような卑劣な者の道具には決してなりません」
ジュリアンは息を呑み、アンヌの放つ圧倒的な威厳に気圧されて、無様に後ずる。
その瞬間、男の脳裏に、冷たい床の上で息絶えていった名もなき女の幻影が一瞬だけ過った。
だが、目の前に立つ女性は、もはや踏みにじられるだけの無力な存在ではなかった。
自らの足で立ち、悪を討ち滅ぼすための牙を手に入れた、北方の女主人だった。
「カルヴェリュン、終わりだ」
ランベールが重い軍靴を踏み鳴らし、腰から抜き放った大剣の切っ先を、ジュリアンの喉元へと突きつけた。
刃から放たれる圧倒的な冷気と本物の殺気に、ジュリアンは膝から崩れ落ち、冷たい石畳の上にへたり込む。
「国王陛下より、お前の爵位剥奪と全財産の没収。ならびに北方の永久地下牢への収監の勅命が下った。お前が欲しがった我が妻の力も、我が息子の命も、貴様の手には二度と届かん」
近衛兵たちが一斉に踏み込み、抵抗の力を失ったジュリアンの両腕に重い鉄の手錠をはめる。
屋敷の奥からは、侯爵に与していた家臣や使用人たちが捕縛されていく混乱の声が響いていた。ジュリアンの連行されていく背中を、アンヌはただ静かに見送った。
前世で自分を殺し、我が子を奪った亡霊は、ここに完全に滅び去った。
復讐の炎ではなく、法と正義の光によって、過去の因縁はすべて断ち切られたのだ。
明け方の光が、王都の街並みを黄金色に染め上げていく。
鉄騎兵たちが一斉に剣を鞘に収めると、朝の清々しい風が吹き抜けた。
ランベールが大剣を収め、アンヌの隣へと歩み寄った。
その無骨で傷だらけの手が、優しくアンヌの冷えた指先を包み込む。
「終わったな、アンヌ」
「はい、閣下。すべて、終わりました」
アンヌが顔を上げると、ランベールの金色の双眸には、戦いを終えた男の深い安堵と、妻への揺るぎない敬愛が満ちていた。
「帰ろう」
「はい。レオンハルト様が、目を覚まして待っていらっしゃいます」
二人は並んで馬車へと乗り込み走り出した。
もう二度と、怯える夜も、凍える冬も訪れない。
守るべき家族とともに、春の光に満ちた新しい人生が、いま始まった。




