第58話 ヴォルガロス
その瞬間――。
「……っ!」
全身がびりっと震えた。
息が詰まる。
洞窟の奥から、とてつもない魔力が溢れ出していた。
今まで感じたことのないほど濃く、重く、圧倒的な魔力。
思わず一歩後ずさる。
「な、なに……これ……。」
足が震える。
身体が本能的に「近づくな」と訴えていた。
それなのに。
胸の奥では、別の何かが囁いている。
『この先に、何かある。』
私は無意識に胸元を押さえた。
鼓動が早い。
怖い。
私は深く息を吸い込み、暗い洞窟の奥へと視線を向けた。
一歩踏み出そうとした、その時だった。
ドン……。
洞窟の奥から、重い足音が響く。
私は思わず息をのんだ。
暗闇の中から、ゆっくりと巨大な影が姿を現す。
真っ赤な皮膚。
太く隆起した筋肉。
頭には、天へ突き出すような二本の大きな角。
闘牛のような顔つきでありながら、二本の足で堂々と立つその姿は、圧倒的な威圧感を放っていた。
その全身から溢れ出る魔力だけで、空気が震えている。
「……うそ。」
私は小さく呟いた。
「ヴォルガロス……。」
学園の魔獣図鑑でしか見たことがない。
Aランク指定魔獣。
熟練の騎士でも単独討伐は困難とされる、極めて危険な魔獣だった。
こんな場所にいるはずがない。
なのに、ヴォルガロスは赤い瞳で私を見据え、一歩、また一歩と近づいてくる。
私は無意識に唾をのみ込み、ゆっくりと魔力を練り始めた。
私の手は、小さく震えていた。
『大丈夫……。』
『私ならできる。』
自分に言い聞かせるように、小さく息を吐く。
私は魔力を指先へ集中させた。
攻撃魔法を放とうとした――その瞬間。
「待て。」
低く響く声が、森に響いた。
「……え?」
私は目を見開く。
目の前にいるヴォルガロスが、ゆっくりと口を開いていた。
『しゃ……喋った……?』
そんな話、聞いたことがない。
魔獣は本能で動く存在。
言葉を話すことなどありえない。
つまり――。
『知能がある……。』
背筋に冷たいものが走る。
これは普通の魔獣じゃない。
ヴォルガロスは赤い瞳で私を見据え、ゆっくりと口角を上げた。
「お前だな。」
「あの方がお会いしたいと言っていた者は。」
私は息をのむ。
「あの方……?」
ヴォルガロスは一歩、こちらへ近づいた。
「私がお前を連れて行く。」
そして、低く不気味な笑みを浮かべる。
「さあ、一緒に来い。」
「……お前の身体が欲しい。」
その言葉を聞いた瞬間、胸が凍りつくような恐怖に襲われた。
「や……やだ……。」
震える声で、私ははっきりと答えた。
怖い。
足がすくむ。
それでも、ここで連れて行かれるわけにはいかない。
「私は……行かない!」
私は一歩踏み込み、魔力を一気に解放する。
『闇を感じる……。』
そう思った瞬間、私は迷わず光魔法を放った。
眩い光が一直線にヴォルガロスへと走る。
ヴォルガロスは避けようともせず、左腕を前へ突き出した。
ドォンッ!!
光が腕に直撃する。
激しい衝撃とともに土煙が舞い上がった。
「やった……?」
煙が晴れる。
ヴォルガロスは腕をゆっくりと見下ろした。
そこには黒く焼け焦げた跡が残っている。
確かに、効いていた。
ヴォルガロスは初めて興味を示したように私を見つめる。
「……ほう。」
「光魔法か。」
ヴォルガロスは焼け焦げた腕を一瞥し、ゆっくりと握りしめた。
「……なるほど。」
「その力か。」
赤い瞳が、まっすぐ私を見据える。
「だが、その程度では私を止められん。」
重い足音とともに、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
私は思わず後ずさった。
「来るな……!」
ヴォルガロスは口元を歪める。
「ならば――」
「力づくで連れて行く。」
その瞬間、地面を砕く勢いで踏み込み、巨体とは思えない速さで私へと襲いかかってきた。
ヴォルガロスが一瞬で間合いを詰める。
「――っ!」
避けられない。
そう判断した私は、咄嗟に両手を前へ突き出した。
右手には光。
左手には闇。
それぞれの魔力を一気に解き放つ。
すると――。
光と闇は互いに反発することなく、まるで意思を持つように絡み合い、渦を描き始めた。
「えっ……?」
私自身も見たことのない魔法だった。
眩い光と漆黒の闇が一つの渦となり、ヴォルガロスへ向かって一直線に放たれる。
その瞬間、周囲の空気が大きく震えた。
光と闇が渦を巻きながら、ヴォルガロスを飲み込む。
ドォォンッ!!
爆風が吹き荒れ、土煙が舞い上がった。
「グアァァァッ!!」
ヴォルガロスは先ほどとは違う、苦しげな叫び声を上げる。
その声には明らかな焦りが混じっていた。
煙が晴れると、ヴォルガロスは大きく後ずさっている。
さっき光魔法を受けた時よりも、明らかに苦しそうだった。
焼け焦げた腕だけでなく、胸元まで黒く焼け、赤い身体からは黒い靄のようなものが立ち上っている。
「……なぜだ。」
ヴォルガロスは苦しそうに息を吐きながら、初めて驚いたような表情を浮かべた。
「その力……。」
「まさか、光と闇を同時に……。」
その低い声には、わずかな驚きが混じっていた。
ヴォルガロスは苦しげに胸を押さえながらも、不気味な笑みを浮かべた。
「なるほど……。」
「その力なら――」
一瞬、何かを思い出したように目を細める。
「あの方の封印を……。」
しかし、言葉を途中で飲み込んだ。
「……いや。」
ゆっくりと私を見つめる。
赤い瞳が妖しく光る。
「お前と私が一つになるのも悪くない。」
私は息をのんだ。
「……何を言ってるの?」
ヴォルガロスは口元を歪める。
「その身体。」
「その底知れぬ魔力。」
「すべて手に入れば、私はさらに完全な存在となる。」
その視線は、獲物を見るものではなかった。
まるで、欲しい宝物を眺めるような目だった。
『受け止められる……?』
ヴォルガロスから放たれる魔力は、今まで感じたことのないほど凄まじかった。
空気が震え、大地まで揺れる。
「はぁっ!」
私は咄嗟に魔法障壁を展開する。
ドォンッ!!
衝撃が全身を襲う。
「くっ……!」
何とか受け止めた。
けれど、腕が痺れ、足が地面を滑る。
『重い……!』
息を整える暇もない。
ヴォルガロスは間髪入れずに二撃目を放ってきた。
「しまっ――」
私は横へ飛び退き、すれすれでかわす。
攻撃がすれすれをかすめ、地面が大きくえぐれる。
『速い……!』
私はすぐにアイテムボックスへ手を伸ばした。
「これなら!」
取り出したのは、ガルドが作ってくれた盾。
魔力を流すと、一気に展開する。
初めて実戦で使うそれを、私は咄嗟に前へ構えた。
次の瞬間――。
ガァンッ!!
「っ!」
ヴォルガロスの一撃が盾を直撃した。
バキッ。
「……え?」
嫌な音がした。
盾の表面に、一本の大きなひびが走る。
そこからさらに――。
バキ、バキバキッ!
「うそ……!」
アルマジュの甲殻で作られた盾が、見る間にひび割れていく。
『壊れた……』
完全に砕けこそしなかったものの、もう次の攻撃を受けられる状態じゃない。
『ヴォルガロスの攻撃って、こんなに……』
私は使い物にならなくなった盾を見て、息を呑んだ。
『アルマジュの甲殻じゃ、耐えられないんだ……』
ヴォルガロスはそんな私を待つこともなく、再び身体を沈めた。
私は光魔法を放つ。
続けて闇魔法。
さらに水の刃を飛ばす。
だが、ヴォルガロスは巨体とは思えないほど素早く身をひねり、そのほとんどをかわしていく。
「どうして……!」
攻撃が、なかなか当たらない。
私は必死に魔法を放ち続ける。
けれど、少しずつ息が上がり始めていた。
ヴォルガロスの魔力が、一気に膨れ上がる。
「終わりだ。」
放たれた一撃が、私のシールドへと激突した。
バキッ……!
「っ……!」
防御壁に大きな亀裂が走る。
『まずい……!』
もう耐えられない。
次の一撃でシールドは確実に砕ける。
その瞬間だった。
ヴォルガロスが腕を振り上げる。
『当たる――!』
私は思わず目を閉じた。
ヴォルガロスの拳が振り下ろされる――その瞬間。
「ウォーターランス!」
鋭い水の槍が横から飛来し、ヴォルガロスの腕を弾き飛ばした。
ドォンッ!!
衝撃でヴォルガロスが数歩後退する。
「……っ!」
私は振り返る。
「レイ……!」
レイは私の前へ立ち、私を庇うように構えた。
「フリー、大丈夫か?」
「う、うん……。」
レイは私が無事だと分かると、小さく息をついた。
そして鋭い目でヴォルガロスを睨みつける。
「お前は何者だ。」
「なんでフリーを狙う。」
ヴォルガロスは鼻で笑った。
「邪魔をするな、人間。」
「私はこの娘を連れて行くだけだ。」
レイは一歩前へ出る。
「そんなこと、させるか。」
静かな声だった。
だが、その瞳には今まで見たことのない怒りが宿っていた。
ヴォルガロスはレイを見下ろし、低く唸るように言った。
「……邪魔だ。」
次の瞬間、膨大な魔力がヴォルガロスの腕に集まる。
『さっきより……強い!』
「レイ!」
「下がるな!」
ヴォルガロスが巨大な魔力の塊を放つ。
轟音とともに地面が揺れ、私たちは同時に防御魔法を展開した。
「ぐっ……!」
「くそっ……!」
押し返そうと必死に魔力を込める。
しかし、その威力は想像をはるかに超えていた。
バリンッ!
シールドが砕け散る。
「きゃあっ!」
爆風に吹き飛ばされ、地面を何度も転がる。
腕や頬を鋭い石がかすめ、熱い痛みが走った。
私は何とか立ち上がる。
隣ではレイも肩から血を流しながら剣を構えていた。
「レイ……!」
「まだだ。」
短く言うと、レイは私の前へ半歩出る。
私も傷だらけの身体に力を入れ、再び魔力を練った。
二人とも満身創痍だった。
それでも、構えを解こうとはしなかった。
ヴォルガロスが再び魔力を練り始める。
『また来る……!』
その瞬間だった。
胸の奥から、何かが込み上げてくる。
怒り。
悔しさ。
絶対に負けたくないという強い想い。
「うあああぁぁっ!」
私の身体から、今まで見たことのない魔力が溢れ出した。
虹色――。
七色に輝く魔力が光となり、渦を巻きながらヴォルガロスへ向かって放たれる。
その光は安定していなかった。
揺れ、暴れ、制御できているとは言えない。
それでも。
ドォォォンッ!!
七色の光はヴォルガロスへ直撃した。
「グアァァァァッ!!」
ヴォルガロスが苦痛の叫びを上げる。
巨大な身体が吹き飛び、地面を大きくえぐった。
胸には深い傷が刻まれ、全身から黒い靄が噴き出している。
それでも――。
ヴォルガロスは、ゆっくりと立ち上がった。
「……面白い。」
その姿を見た瞬間、私は膝をつく。
「はぁ……はぁ……。」
魔力が、ほとんど残っていない。
今の一撃で、ほぼ使い果たしてしまった。
もう、次の魔法は撃てない。
ヴォルガロスはゆっくりと腕を持ち上げる。
禍々しい魔力が集まり始めた。
「大丈夫だ。」
不気味な笑みを浮かべる。
「お前は完全には殺さん。」
「その身体は……必要だからな。」
その時だった。
洞窟の奥から、淡い光が漏れ始める。
「……?」
私は思わず振り返る。
光は少しずつ強くなっていく。
ヴォルガロスの表情が初めて曇った。
「くっ……。」
「あいつまで目覚めてしまうか……。」
ヴォルガロスは舌打ちをする。
「ならば、その前に終わらせる。」
巨大な魔力が私たちへ向けられた。
私はレイの腕を掴む。
「レイ……。」
「大丈夫。」
「あいつは私を殺さない。」
「だから……逃げて。」
レイは首を横に振る。
「そんなこと、できるわけないだろ。」
私の前へ立ち、剣を握り直す。
「俺は……君のためなら――」
言葉を最後まで言い切る前だった。
「フリィィィーー!!」
森中に響くほど大きな声が聞こえた。
聞き慣れた、大好きな声。
「お兄様……!」
振り返ると、炎をまといながらアスターお兄様が一直線に駆けてくる。
その瞳に宿っていたのは、今まで見たことがないほどの怒りだった。
「フリィィィーー!!」
アスターお兄様は怒りのままヴォルガロスへ突っ込んだ。
「妹に手を出すなぁぁぁ!!」
炎をまとった剣が大きく振り下ろされる。
ドォォンッ!!
ヴォルガロスは咄嗟に腕で受け止めようとした。
しかし。
先ほど私の七色の魔法で負った傷が深く、その動きは鈍っていた。
「ぐあぁっ!」
炎の斬撃が胸を切り裂く。
続けざまに風魔法がヴォルガロスの身体を吹き飛ばした。
巨体は何本もの木をなぎ倒しながら地面へ叩きつけられる。
ヴォルガロスは苦しそうに起き上がろうとした。
だが、アスターお兄様は間髪入れずに剣を突きつける。
「終わりだ。」
炎が一気に噴き上がった。
轟ッ!!
激しい爆炎が辺りを包み込み、ヴォルガロスは苦しげな叫びを上げる。
「ぐ……あぁ……。」
やがて、その巨体は力なく崩れ落ち、動かなくなった。
ヴォルガロスが倒れたのを確認した瞬間、全身の力が一気に抜けた。
私はその場に崩れ落ちる。
「……っ。」
視界が揺れる。
すると、隣で同じようによろめいたレイが、とっさに私の身体を支えてくれた。
「フリー……。」
レイの腕も震えていた。
肩や腕からは血が流れ、息も荒い。
それでも、倒れそうな私を離そうとはしなかった。
「レイ……。」
「大丈夫だ……。」
そう言うレイの声も、今にも途切れそうだった。
一方、アスターお兄様はヴォルガロスが完全に動かないことを確認すると、すぐに魔球弾を飛ばした。




