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第49話 ネフィルガ

『……やっぱり気になる』


 あんな魔獣、今まで見たことがない。


 それに、触れたときに感じたあの魔力。


 確証はないけど、どうしてもあの子が私を襲ってくるようには思えなかった。


『お腹も空いてるかもしれないし……』


 夕食のとき、私は自分の皿に出ていた肉をこっそり少し残しておいた。


『……これだけじゃ足りないよね』


 あの身体の大きさを思い出す。


 どう考えても足りない。

 夕食を終えてしばらく経ったころ、私はこっそり厨房へ向かった。


「料理長ー」


「おや、フリージア様。どうされました?」


「ちょっと小腹が空いちゃって」

 我ながら苦しい言い訳だ。


「先ほど夕食を召し上がったばかりでは……?」


「育ち盛りなの!」


「は、はぁ……」


 料理長は不思議そうな顔をしながらも、温かいミルクティーと焼き菓子を用意してくれた。


「ありがとうございます!」


 それを受け取りながら、私は厨房にあった肉や果物にもちらりと目を向ける。


『……あと、あれも欲しい』


 料理長が別の作業に目を向けた隙に、少しだけ肉と果物をアイテムボックスへ入れた。


『ごめんなさい、料理長。あとでちゃんと謝ります』


 何食わぬ顔で焼き菓子とミルクティーを抱え、厨房をあとにする。

  ランやダリアンに「おやすみなさい」と挨拶をして、私はいったん自分の部屋へ戻った。


 それから――城の中が完全に静かになるのを、じっと待つ。


『……そろそろかな』


 廊下から人の気配が消えたのを確認して、私はそっと扉を開けた。


「ラムネ、行くよ」


 小声で呼ぶと、ラムネがぷるぷるっと身体を震わせる。


 どうやらついてきてくれるらしい。


 私は指先に小さな光を灯し、足音を立てないように城の裏手へ向かった。


 森の手前まで来ると、ダリアンが張った結界が、闇の中でごく薄く赤く光っていた。


『まだちゃんと残ってる』


 その向こうを見る。


 ネフィルガは昼間とほとんど同じ姿勢のまま、地面に伏せていた。


 動いている様子はない。


『……寝てるのかな』


 私はそっと結界の中へ入った。


 その瞬間――。


 ふさり。


 ネフィルガの尻尾が、わずかに動いた。


「……っ」


 隣にいたラムネも、縦にぶるぶるっと震える。


 私はその場で固まった。


「……起きちゃった?」


 返事はない。


 しばらく様子を見てから、持ってきた食べ物をそっと取り出した。


「もしよかったら……これ、食べて」


 少し離れたところに肉を置く。


 ネフィルガは動かない。


『やっぱり食べられないくらい弱ってるのかな……』


 そう思ったとき。


 すん。


 すんすん。


 鼻が小さく動いた。


「……!」


 ネフィルガが匂いを嗅いでいる。


 そして――。


 閉じていた瞼が、ほんの少しずつ持ち上がった。


 ゆっくりと、その目が開く。


 暗闇の中で、その瞳だけが静かに光を映していた。


その眼差しは、確かに野獣のものだった。


 鋭くて、油断なくこちらを見ている。


 なのに――不思議と怖いとは思わなかった。


『……綺麗な目』


 暗くてはっきりとは分からないけれど、その瞳の色はどこか見覚えがある。


『私と……同じ色?』


 ネフィルガはしばらく私を見つめたあと、ゆっくり身体を起こした。


 まだ力が入らないのか、動きは重い。


 それでも目の前に置いた肉へ顔を近づけると、黙って食べ始めた。


「……食べた」


 私は邪魔をしないように、その場に座ってじっと見守った。


その間に、料理長にもらったホットミルクティーを少しずつ飲みながら、焼き菓子をつまむ。


『あったかい……』


 夜の森は少し冷えていたから、ちょうどよかった。


 ティグが食べる音と、時折ラムネがぷるんっと揺れる音だけが静かに響いている。

 どれくらい経ったんだろう。


 たぶん数十分くらい。


 持ってきた肉も果物も、気づけば綺麗になくなっていた。


『よかった……』


 少し安心していると、ネフィルガがゆっくり顔を上げた。


 まっすぐ私を見る。


 そして――。


「お前か。昼間、私に魔力を与えたのは」


「……!!」


 思わず身体が跳ねた。


「しゃ、喋った!」


 ネフィルガは怪訝そうにこちらを見る。


「あっ……うん。私。怪我を治しただけだけど」


「なぜだ」


「え?」


「普通、お前たちは魔獣とは関わろうとしないだろう」


「…………」


 少しだけ考えてから、私は正直に答えた。


「……魔力が」


「魔力?」


「あのとき触ったら、あなたの魔力が流れてきたの」


 私は自分の手のひらを見る。


「それが……怖くなかった」


 むしろ、とても優しかった。


「だから、助けても大丈夫だって思ったの」


 ネフィルガは何も言わず、じっと私を見つめていた。


「そのスライム……普通のスライムとは違うな」


「ラムネ?」


 ネフィルガの視線が、私の隣にいるラムネへ向く。


「昼間、オレを食っただろう」


「食ったっていうか……包んだ?」


 ラムネがぷるんっと揺れた。


「特殊個体か」


「たぶん。私も最近、知らないことばっかり発見してる」


 そう答えると、ネフィルガは今度は私へ視線を戻した。


「それに、お前――」


「なに?」


「ほかの世界から来ただろう」


「……!!」


 思わず息が止まった。


「なんで……」


「魔力が少し変わっていた。昼間、お前が使った治癒魔法も普通とは違う」


「違うって……?」


「上手く言えんが、混じっているものが違う」


 ネフィルガはじっと私を見る。


「お前――」


「ちょっと!」


「……なんだ」


「さっきから、お前お前って!」


 私はむっとして胸を張った。


「私はフリージア! フリーでもいいし、フリージアでもいい!」


「……」


「ちゃんと名前で呼んで」


 ネフィルガが少しだけ目を細める。


「……フリージア」


「うん!」


 ちゃんと呼ばれたことに満足して、今度は私がネフィルガを見る。


「じゃあ、あなたの名前は?」


 その問いに、ネフィルガはしばらく黙っていた。

「名などない」


「え?」


「ネフィルガという」


「それは……んー」


 私は少し首をかしげる。


「ネフィルガって、魔獣の種類の名前でしょ?」

 


「そうだ」


「じゃあ、名前じゃないじゃん」


「必要なかったからな」


「えー……」


 私はじっとネフィルガを見る。


『こんなに立派なのに、名前ないんだ』


「じゃあ、私がつけようか?」


「……名を?」


「うん!」


 ネフィルガは少し考えるように目を細めた。


「なら、名を付けるか」


「いいの!?」


「ああ。お前が決めろ」


 急に任されて、私はネフィルガを上から下までじっと見た。


『名前かぁ……』


『大学のとき、ちょっとだけラテン語調べたよなー』


『獅子って、ラテン語でレオだったよね』


 私は目の前のネフィルガをじっと見る。


『……でも、これ虎?』


『虎は……ティ、ティ……』


 しばらく必死に記憶を探る。


『ティグリスだ!』


「じゃあ、ティグで!」


「ティグか」


 ネフィルガ――ティグは少し考えるように目を細めた。


「まあ、いいだろう」


「よし! 決まり!」


 私が満足していると、ティグがふいにこちらを見る。


「それと……フリー」


「なに?」


「オレと契約していることには気づいているか」


「……?」


「…………???」


 意味が分からず、思わず首をかしげる。


「何を言っております?」


「そんなはずはないですわ」


「ふん。確認できるだろう、お主」


「ぬっ!」

 思わず変な声が出た。


「な、なぜそれを……!」


 私はティグを指さす。


「誰にも言ったことないざます!」


「……ざます?」


「そこは気にしないで!」


 ティグが怪訝そうに目を細める。


「契約したから分かる」


「…………え?」


『いやいやいや、待って。いつ!?』


「…………え?」


 頭が追いつかない。


『契約した……? いつ!?』


 私は慌てて自分の状態を確認しようとした。


「いつ契約したのでございますの!?」


「……なんか喋り方が変だぞ」


 自分でも何を喋っているのか分からない。

 完全に昔の漫画みたいになってる。


「まあいい。そうだな――お前がオレに触れた瞬間だ」


「…………え?」


 その言葉で、少しだけ頭が冷えた。


「だって、あのときは大丈夫かなって思って、触っただけだよ?」


「ふん。オレは倒れてはいたが、お前たちが近づいてきたことくらい分かっていた」


「起きてたの!?」


「意識はあった。起き上がる力さえ戻れば、すぐにでも倒せた」


「こわっ」


「ただ――」


 ティグの視線が、私の隣にいるラムネへ向いた。


「最初はあのスライムから妙な魔力を感じてな。少し警戒していた」


「ラムネを?」


「普通のスライムではないからな」


 ラムネが何も知らない顔でぷるんっと揺れる。


「赤髪の男は別だ。あいつには警戒していた」


「ダリアン?」


「ああ。だが、すぐに襲ってくる様子もなかった。いざとなれば殺せばいいと思っていた」


「ダリアンは殺しちゃ駄目!」


 思わず身を乗り出す。


「私の大事な人なんだから!」


「……分かった、分かった」


 ティグは面倒そうに尻尾を一度動かした。


「それより、そのあとだ。あのスライムがオレを包んで、お前の前まで運んだだろう」


「うん」


「あのとき、薄っすらだが感じた」


 ティグの声が少しだけ静かになる。


「――こいつなら平気だ、と」


「私?」


「ああ」


 ティグはまっすぐ私を見る。


「不思議だった。あれだけ弱っているのに、お前の近くにいると初めて力を抜けた」


「……」


「だから、お前が触れる前から決めていた」


「何を?」


「お前――フリージアとなら、契約してもいいとな」


 私はぱちぱちと瞬きをした。

 

「じゃあ、あのとき触れた瞬間にティグの魔力を感じたのって……」


 私ははっとする。


「あれ、契約だったの!?」


『確かにラムネのときも、ああいう魔力の流れだった気がする……』


 でも――。


「私から魔力なんて流してないよね?」


 ティグが呆れたように鼻を鳴らした。


「わしが流したら、お主もわしの魔力に応えただろう」


「…………」


『え?』


 昼間のことを思い出す。


 触れた瞬間、確かにティグの魔力を感じた。


 優しくて、怖くなくて。


 その流れが気になって、私は無意識に探るように魔力を返したような――。


『……あ』


『確かに、ちょっと自分の魔力も流したかも』


 私はゆっくりティグを見る。


「……それだけで契約になるの?」


「互いに受け入れればな」


「そんな簡単に!?」


「簡単ではない。わしがお主を認めたから成立したのだ」


「…………」


『知らないうちに、伝説級の神獣と契約してたんだけど!?』


 私は念のため、ティグに鑑定を使った。


『鑑定』


 目の前に情報が浮かび上がる。


【名前】ティグ

【種族】ネフィルガ

【分類】神獣種


【ランク】SSSSS

【状態】衰弱

【契約者】フリージア・フェリア

【契約状態】成立

【魔法】光・風・土


「…………」


 二度見した。


『成立してるー!!』


「ほんとに契約してる……」


「だから言っただろう」


 ティグは当然のように鼻を鳴らした。


「それより……」


 私はもう一度、表示を凝視する。


「ランクにSがいっぱいついてるんだけど……」


「……」


「見間違い?」


 目をこする。


 もう一度見る。


【ランク】SSS


「…………」


『減ってない』


「ん? これ夢?」


 ほっぺをつねる。


「痛い……」


『夢じゃない』


 私はゆっくりティグを見る。


「こ、これは……いったいなにー!?」


 思わず夜の森に声が響いた。


「うるさい」


「だってSだよ!?」


「なんだ?S?」


「それはすごいのか?」


「すごいどころじゃないよ!」


「ふん。オレはすごいに決まってるだろう」

 

 ティグは当然のように胸を張る。


「はいはい、すごいすごい」


「なんだその言い方は」


「だって自分で言うんだもん」


 私が呆れていると、ティグはふっと鼻を鳴らした。


「まあ、それより契約のことだ」


「うん?」


 ティグは少し真面目な顔になる

「魔獣契約はな、お前たちがどう思うかより、わしら魔獣側が受け入れるかどうかのほうが重要なんだ」


「そうなの?」


「ああ。特に強い魔獣ほど意思も強い。気に入らぬ者の魔力など、まず受け入れん。だから契約もそう簡単には成立しない」


「へぇ……」


 そういえば、ガエンのおおお婆様もルルと契約していた。


「そういえば、昔どこかの婆さんがいたな」


「婆さん?」


「ああ。あいつなんか短気で、誰ともろくに言葉を交わさないような奴だったのに、突然契約してきた」


「……ん?」


 なんだか妙に聞き覚えのある話だ。


「随分昔のことだがな」


 ティグは遠くを見るように目を細めた。


「そろそろ、あの婆さんも寿命が尽きる頃か」


「…………え?」


 私はティグの顔をじっと見た。


『ちょっと待って』


『その“婆さん”って……まさか?』

「ルルのこと!?」


「ルル?」


「ガエンにいるルフィル!」


「ああ、そうだ。ルフィルだ」


 ティグは思い出したように目を細めた。


「あいつも、そろそろ自由の身になる頃だな」


「自由の身?」


「契約者がいなくなれば、契約も終わる。そのあとはどうすることやら」


「待って。おおお婆様、そろそろ寿命って……」


「ああ。そろそろだ」


「……」


「魔力がずいぶん尽きてきている。真っ当に生ききったのなら、そう気にすることでもない」


「あっ……えっ……」


 そう言われても、すぐには受け止めきれなかった。

「でも、なんでそんなこと分かるの?」


「ああ。たまたまあの近くを通ったんだ」

「少し前に、あのルフィルに会った」


「ルルに?」


「ああ。近くを通ったときにな。あいつから契約者の魔力がかなり弱っていると聞いた」


「……」


「魔獣契約をしていれば、相手の魔力が弱っていくのは分かる。あのルフィルは、もう覚悟しているようだったぞ」


「あっ……えっ……」


『しょうがないことなんだろうけど……カグラ、大丈夫かな』


『おおお婆様とは、もう一度会いたかったのに……』


 少し沈んでいると、私はふと顔を上げた。


「でも、ティグはなんでガエンの近くにいたの?」


「そのあと森に入って狩りをしていたんだが……途中で妙に騒がしくてな」


 ティグの表情が少し険しくなる。


「洞窟の前で、何かと戦っている奴がいた」


「誰?」


「分からん。ただ――あれはたぶん魔族だ」


「魔族……?」


「ああ。そいつと戦っていた奴は、すでにかなり傷を負っていた」


 ティグは低く息を吐く。


「少し様子を見ていたら、今度は別の奴が突然、わしの後ろから襲ってきた」


「後ろから!?」


「気配がなかった」


 ティグの目が鋭くなる。


「久しぶりだったな。あれほど気配を消せる奴は」


「それで、その傷……?」


「ああ。油断した。大きく一撃をもらった」


「……」


「魔族と戦うのも久しぶりだったからな。あいつらは魔力の扱いも独特で、戦いづらい」


 私は昼間見た、ティグの身体中の傷を思い出した。


『じゃあ、あれ全部……魔族に?』

「それで、魔族はどうしたの?」


「そいつは倒したと思うが……消えていった」


「消えた?」


「ああ。わしも傷が深くてな。追う余裕はなかった」


 ティグは少しだけ目を細める。


「そのままふらふら歩いていたら、ここに辿り着いた」


「じゃあ、そのあとは昨日のことなんだ」


「ああ」


「……なんか、大変だったね」


「他人事じゃな」


「だって私、今聞いたばっかりだもん」


 話を聞いていたら、なんだか急に力が抜けた。


「ちょっと……寄りかかっていい?」


「おい」


 返事を待たず、私はティグのお腹のあたりに頭を乗せた。


「……ふかふか」


「勝手なやつだな」


 少し野獣っぽい匂いはするけど、毛は思った以上に柔らかくて、何よりあったかい。


 そのまま空を見上げる。


 雲のない夜空には、たくさんの星が浮かんでいた。


『綺麗……』


 しばらく黙って眺めてから、ぽつりと呟く。


「私たち……契約しちゃったのか」


「ああ」


「んー……どうしよう」


「何がだ」


「お父様たちに説明しなきゃいけない」


「面倒なのか?」


「そーだね。魔獣契約って今じゃほとんど知られてないから、説明するの大変そう」


 しかも相手は伝説級の神獣。


『絶対、大騒ぎになる……』


「悪いんだけど、当分の間は森で暮らしててくれる?」


「ふん。問題ない。元からそうしておる」


「そっか……よかった」


 ティグのお腹に頬をつけたまま、私は小さく息を吐いた。


「じゃあ、あし……た……」


 急に瞼が重くなる。


『やばい……眠い』


『寝たら駄目……城に戻らないと……』


「フリー?」


「だい……じょうぶ……」


『全然、大丈夫じゃない……』


 そう思ったのを最後に、私はティグのあたたかい毛に包まれたまま、そのまま眠りに落ちていった。

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