最終章 迷い家の約束 ③
「お待たせ」
エドワードは、トレイをこたつの上に置くと、湯呑を俺の前に差し出した。中には緑茶が入っており、茶柱が立っている。
本当に、幸運を授かれれば良いのに。
一口すすれば、その優しい熱さが全身にじんわりと広がっていく。
少しの間、俺達は何も話さなかった。緑茶の香りと、すする音だけが、部屋を満たしていた。
やがてエドワードが、口を開いた。
「これからの、話をしようか」
どきりとして、俺は手を止める。視線は、ぷかぷかと浮かぶ茶柱に注がれている。
エドワードは俺の様子に構うことなく、話を続けた。
「さっきも言ったけど、悠大くんは日本に残るべきだと思う」
「だからそれは」
「とにかく、話を聞いて。君、まだ若い。これから何だってできるんだよ。政治経済学部を卒業したんだったよね? しかも英語力はブラウニーのお墨付きだ。きっと、どこへ行っても引く手あまただよ。日本に残って、これから先も、自分の人生を歩む権利がある」
「でも、俺は」
「分かっているよ。君が、僕の耳のことを気にしているのも、負い目を感じているのも。でもね、悠大くん。僕はこのことで、君を縛りたくないんだ。これは僕の自己満足で、君のせいじゃない。何度も、そう言ったよね?」
エドワードが、少し硬い口調でそう言った。
俺を責めたいわけではないのは分かる。だが、言うことを聞かない俺に焦れたような声色だった。
俺は、視線をエドワードに移す。彼は、じっとこちらを見ていた。
その瞳は温かい色を湛えているのに、優しくはない。
しばらく見つめ合い、やがてエドワードは、少し躊躇うような素振りを見せてから、ふっと息を吐いた。
「……本音を言えば。負い目を感じている君が傍にいるのが、辛いんだ。僕が妖や精霊のやりとりを眺めていると、君は自分を責めるような顔をしている。精霊たちの声が聞こえないことよりも、そちらの方が、辛い」
「……」
「仕事を手助けしてくれるのは嬉しいよ。でも、彼らの言葉を聞かなくても、仕事に支障は無い。それよりも、僕と精霊の仲を取り持とうとする君を見る方が、きついんだ」
「……俺の存在が、迷惑だってこと?」
「そうじゃない。……でも、君とは、一緒にいられない」
エドワードの本心は、酷く鋭い刃となって、俺の心に突き刺さる。
彼は否定したけれど、やはり、今の俺の存在が迷惑になっているということだ。
たぶんエドワードは、日本に来る前から俺と別れることを考えていたのだろう。だから明依がいつでも家に来たら良いと言った時、彼にはそのつもりがなかったのだ。
俺が自責の念に苛まれることなど、分かりきっていただろうから。
「君の姿を見るたびに、きっと僕は思う。あの選択をしなければ、君を縛り付けずに済んだのではないかって。もしヘル殿と交渉しなければ君が助からなかったと、理解していてもね」
「……離れていても、俺はエドを忘れられない。むしろ、俺はずっと、後悔し続ける。エドと出会わなければ良かった、黄泉醜女に従っておけば良かったって」
「悠大くん、君は何も悪くない。僕は君を助けられて良かった。ただ……君は全部、忘れてしまって良い。黄泉醜女のことも、僕のことも。何もなかった日常に、戻るんだ」
「……エドは、俺がすべてを忘れて、のうのうと生きればいいと、そう言うんだ」
「……そうなれば良いと、思っているよ」
何もなかった日常に戻る。そんなこと、できるはずがない。だって俺はもう、知ってしまったのだ。妖や精霊のことも、エドワードのことも。
俺の日常は、いつだって残酷だった。見えるはずのないものが視え、聞こえるはずのない声が聞こえて、人には馴染めず。妖に対抗する力は無くて、逃げてばかりだった。いつか妖に殺されるだろうと、そう思っていた。
でもエドワードと出会って、世界は冷たいだけではないのだと知った。やりがいのある仕事と、役に立ちたいと思える人の傍で頑張る楽しさを知ってしまった。
それらをすべて忘れてしまえだなんて。
「今更、無理だよ」
俺は、内から湧き出る怒りと無力感に体を乗っ取られそうになりながら、大きく深呼吸をした。
そして、エドワードを睨む。
「そんなこと、できるわけないだろ。俺はエドと出会って、全部が変わったんだ。考え方も、世界も、なにもかも! もう、昔には戻れないし、戻りたくない!」
「悠大くん……」
「エドは言ってくれたよな? 俺が苦しんでいる時に助けられる、だから力があって良かったと初めて思えたって。俺だって、同じだ。ナイトメアの夢に囚われたエドを助けられると分かった時、俺は、この力があって良かったと思ったんだ」
疎ましいだけの力を変えたのは、他でもないエドワードだ。彼が迷子になった俺の手を引いてくれたから、俺はここまでやってこられた。
エドワードは、俺がどれほど彼によって変わったのかを、全く分かっていない。
「元の日常に戻るべきだと言うなら、俺の記憶を消してよ。エドなら、そうできる精霊を知ってるんじゃないか? そしたら、全部忘れるから。イギリスのことも、……エドのことも」
俺の言葉に、エドワードが悲痛な面持ちを浮かべた。
たぶんエドワードは本当に、記憶を奪うことができる精霊を知っているのだ。だから、具体的に想像したのだろう。すべての記憶を忘れ、日本で何も知らず生活する俺を。
だが俺にとって、エドワードのその表情こそが、答えだった。
「俺はエドのこと、忘れたくない。エドだって、俺に忘れて欲しくないんじゃないのか?」
「……でも、全部忘れる方が、君は幸せになれる」
「俺の幸せは、俺が決めることだ!」
俺の言葉に、エドワードは押し黙った。
エドワードは、何でも卒なくこなしそうに見えるけれど、完璧な人間ではない。ごく普通の……ちょっと出自の特殊な、お兄さんだ。
家族のことで悩むし、人のためを思って自分を押し殺そうとする。そしてそれを、他人に見せようとしない。だがそれは、何も感じていないということではない。
うぬぼれでもなんでもなく、エドワードにとって俺は、特別な存在のはずだ。俺にとっての彼がそうであるように、友人とも家族とも違う、けれど、けして浅くはない間柄。
そんな相手に忘れられることが、辛くないわけがない。たとえその選択が正しいと分かっていたって、躊躇いなく選ぶことは難しい。
ゆっくりと、俺の中で腹が決まるのを感じる。
そもそも、俺が負い目を感じていつまでもうじうじしていたのが問題なのだ。だから優しい彼は、あえて突き放すような言葉を選んで、俺に告げてきた。そうすれば、俺が引くと思ったのだろう。
だが俺は、エドワードが思っているより、ずっと自分勝手だ。そうでなければ、黄泉醜女の問題を置いてイギリスに飛ばなかったし、エドワードに黙って日本に帰り、醜女に喰われていただろう。俺は生きたくて、だからそのために、いろんな犠牲を払わせた。
ここでその自分勝手を発揮しなくて、どうするというのだろうか。それこそ、今まで俺のために力を尽くしてくれた人たちに、失礼なのではないか。誰もが納得して、俺のために戦ってくれた。俺がいつまでも後ろ向きで居続けることは、彼らの気持ちを無碍にするようなものだ。
負い目が無くなるわけではない。きっとこの先も、この罪悪感は胸の内でくすぶり続ける。だがそれなら、俺はそれごと前に進まなくてはいけない。
「エド、俺の幸せは俺が決めることだ」
俺は、もう一度言った。
エドワードは俺を見つめたまま、何も言わない。
「俺にとっての幸せは、エドの隣で、エドの仕事を手伝えることだ。エドが大切にしていたものを、精霊との絆を、守っていくことだ。日本で、何も知らずにのうのうと暮らすことじゃない。どれほど良い会社に入っても、平凡な日常を手に入れても、俺にとっての幸せじゃない」
「それは、君が僕との世界しか知らないから」
「そうかもしれない。違う世界を見れば、選択肢は増えると思う。でもそのために、エドを一人にしたくない。狭い世界で幸せを見つけて、その中で生きることは、それほど悪いこと?」
「それは……」
「どれだけ世界をみたら、エドは納得してくれるんだ? 一年? 十年? それとも、もっと? どれだけ離れれば、俺が隣にいることに、納得してくれるんだ」
「……」
エドワードは答えない。きっと、答えを持っていないのだ。
もし本当にここで引けば、エドワード何かと理由を付けて、二度と関わろうとしないだろう。音信不通にでもなられたら、地位も財も無い俺では、もう追うことはできない。
だからこそ、俺は今ここで、エドワードに納得させるしかなかった。
「俺がうじうじしてたから悪いんだよな。でも、もう覚悟は決めたよ。俺は、エドの隣で生きる。たとえばこの先誰かと結婚したとしても、俺はいくらでも時間を作って、エドの隣にいるつもりだ。……エド、もっとシンプルに考えようよ」
俺はエドワードをじっと見た。エドワードは、俺から目を反らす。
俺はエドワードの左手を取って、両手で包み込む。それは、いつの間にか二人の中で習慣になっていた、相手を支えたい気持ちの表れだった。
「エドは俺といるのは、嫌? もし本当に迷惑で邪魔なら、強くは言わない。……エド、答えて」
エドワードは、何度か視線をさまよわせたあと、諦めたように肩を落として項垂れた。
「邪魔なわけ、ないよ……。僕だって、悠大くんとこれからもいたい」
俺は、嬉しさで口の端を上げた。同時に、涙がぽろぽろと零れ落ちる。
ああ、本当に。俺の涙腺はいつの間に、こんなに脆くなってしまったのだろうか。
エドワードが、慌ててハンカチで俺の涙を拭ってくれる。
「ゆ、悠大くん、泣かないで……」
「エドこそ」
「え? ……ああっ、本当だ」
自分の頬を触り、エドワードが困ったように笑った。その眦からは、綺麗な雫がぽろぽろと零れ落ちていく。
俺はその涙を、手で拭った。
「エド、お願いがあるんだ。これからは、自分を抑えるようなことはしないでほしい。もし俺のためだったとしても……俺は、エドの本心が知りたいよ」
「……うん、約束する。もう、自分を後回しにはしないよ」
「俺、まだ頼りないと思うけど、これからどんどん成長する予定だしな」
「そんなことないよ。悠大くんは、いつも道を切り開いてくれる。頼りにしてるよ」
「ほんとに?」
疑わしそうに見る俺に、エドワードは濡れた目尻を拭いながら、本当だよと微笑んだ。
そして、優しく俺の手を取る。
「僕も、悠大くんにお願いしたことがあるんだ。これから先、もし何かあったら、いつでも相談して。一人で無茶しないでほしい」
「……うん、俺も約束する。困ったら、頼れるお兄さんにすぐ相談するよ」
俺がそう言って笑ったら、エドワードは満足そうに、そしてどこか面映ゆそうに、くすくすと笑った。
冷えた体は、すっかり温まっていた。




