最終章 迷い家の約束 ①
「もういい、勝手にしろ!」
俺は苛立ちに任せてそう叫び、足早に家を飛び出した。
どこへ行くわけでもなく、ただひたすらに歩き続ける。
事の発端は、エドワードの一言。
「日本に残ったほうが良いなんて、そんな……エドのやつ、何も分かってない」
それは、黄泉醜女の一件が片付いてから一週間、後処理もいろいろと終わり、そろそろイギリスへ帰ろうかと話していた時だった。
エドワードは神妙な面持ちで、俺は日本に残るべきだと言って来たのだ。
もう黄泉醜女に追われる心配も無くなり、日本はすでに安全だから、俺がイギリスにいる理由は無いはずだと。
「理由なら、あるだろ」
『ルーメン・クレペルム』は、俺にとってすでにもう一つの帰る場所になっていた。できればずっと働きたいと思っていたくらいに。
しかも、そこにはエドワードがいる。俺にとっては、それだけでイギリスへ戻る理由になる。
ワーキングホリデーは二年間。その期日が近いことも、エドワードが俺に残るよう促した理由の一つかもしれない。
だがおそらく、もっと大きな理由は別にある。
「俺に、何の恩返しもさせないつもりかよ……」
俺は独り言ちる。悔しさで涙がぽろぽろと流れて来た。
ここ最近の俺の涙腺は、どうも壊れてしまっているようだ。以前なら、こんなことで泣いたりしなかったのに。
エドワードが精霊や妖の声を聞けなくなったことは、すぐに形となって表れた。お礼がてら稲荷神社を訪れた俺とエドワードは、歓待を受けた。境内でベンチに座り、涙ながらに喜びを語る白狐の姿を、エドワードはただ寂しそうに見つめていた。黒狐は事情を察して喜びを神楽舞で表現してくれたので、エドワードも楽しめたようだったけれど、その計らいさえ、彼にとっては辛かったに違いない。
店に戻っても、エドワードはもうブラウニーと話すことはできない。もちろん筆談などはできるが、ふと話しかけられても気付くことはできないし、精霊たちの話を聞くこともできない。
そのことがどれほどエドワードを孤独にするか。
だから俺は提案したのだ。俺はロンドンに戻って、エドワードの仕事の手伝いをすると。彼はこの先も仕事を続けると言っていたから。
だが、エドワードの答えは。
「邪魔、か」
俺は足を緩め、とぼとぼと歩く。やがて、ゆっくりと足を止めた。
かなり歩いてきたのだろう。周囲に視線をやると、すっかり森に入っている。位置的に、町の一番近くにある小高い山の中だ。幼い頃は、よくここで遊んでいた。周囲に馴染めない俺にとっては、誰もいない場所の方が、居心地が良かったのだ。
これ以上奥に行くと、森が深くなる。それはつまり、妖に出会う確率が上がるということでもある。森は“あちら側”との境界が曖昧なのか、妖が現れやすい。
だが、今は戻る気にはなれない。まだエドワードへの怒りは収まっておらず、酷い言葉を投げてしまいそうだった。
進むことも戻ることもできない。まるで今の自分のようだと自嘲する。
秋の冷たい風が、容赦なく俺の体に当たる。木々は、まるで俺を責めるように音を立てる。
エドワードが俺は仕事の邪魔になるのだと言った時、先にその言葉に驚いたのは彼自身だった。目を見開きながら口元に手をやり、手を震わせていた。全身の血が一気に引いたような様子だった。
俺は彼が何かを言う前に、勢いに任せて家を飛び出した。
たぶんエドワードはあの時、すぐに謝ろうとしていたのだろう。でも、聞きたくなかった。
あの言葉が本心だとは思わない。だが、それだけ俺を拒絶したかったことも、嘘偽りない事実なのだと思う。
そのことが、無性に悲しかった。
雨が降って来た。冷たい水は、あっという間に俺の全身を包み込む。
顔を濡らしているのが、雨なのか涙なのか、もう分からない。
体温がみるみる奪われ、俺の手は、ほとんど感覚が無くなっていた。
それでも俺は、ただそこに立ち尽くしていた。足は縫い付けられたように地面に張り付き、体は金縛りにでもあったように固くなっている。
このまま溶けて消えてしまえたら、いっそ楽なのに。
地面を見つめながら、そう考えていた時。
「悠大くん!」
背後から、俺を呼ぶ声が聞こえた。その温かな音は、俺の耳にスッと入ってくる。
それが今は少し、忌々しい。
地面を跳ねる水の音は、どんどん俺に近づいてくる。
そしてほどなくして、気配は俺の真後ろにやって来た。
「ああ、こんなに濡れて……。体もこんなに冷たく」
エドワードは俺の前に周り、確かめるように頬を触った。彼の手は、今の俺には少し熱い。
傘が、雨から俺を守ってくれている。いつだって、エドワードは俺の傘だった。
「なんで、来たんだ」
「なんでって……それはもちろん、心配で」
「俺が、邪魔なんだろ」
「……ごめん。本当に、ごめん。あんなこと言うつもりはなかったんだ」
「思ってないことは、口にできない」
「思ってない! 信じてほしい!」
エドワードは必死の形相で訴えてくる。
華やかな相貌は泣きそうに歪んでいる。そんな姿さえ、憎らしいほど美しかった。
「……とにかく、移動しよう。このままじゃ、悠大くんが体を壊してしまう」
「俺のことなんて、放っておいてくれ」
「できるわけないだろ。ほら、こっち」
エドワードは俺の手を引いて無理矢理歩かせると、つかつかと森の奥へと足を進めた。




