第七章 願いの代償 ②
「境界の門番よ、我が声に応え、その閂を外したまえ」
エドワードが柏手をパンとうち、そう呟く。
いつもなら起こる頭痛は、全く気配を感じない。それに、いつも彼が何を言っていたのかをはっきりと耳にすることができる。
エドワードの血は、たしかに俺の存在を作り変えていた。
今の俺は、“あちら側”に干渉できる。
両手を開くと、空間が裂けた。そして、ぽっかりと穴が開く。
その奥は、もう真っ暗な深淵ではない。
「わぁ……っ!」
俺は思わず感嘆した。
そこに広がるのは、青々とした空と、一面の花畑。木々は生い茂り、楽園を絵に描いたような場所だった。
いつも彼が見ている景色は、これなのだ。
「エド、景色が見えたよ。……見せたがってたよね」
「……そうだね」
俺の言葉に、エドは優しく言った。嬉しそうな気配は無い。
理由は分かっている。彼は、本当は俺を“あちら側”に干渉させたくなかったのだ。
俺は視える目を持っているけれど、エドは精霊を還す仕事を手伝わせたがらなかった。同席する時も、絶対に虚空に近付けさせなかった。あの境界の夢に残ると言った時も、嫌がっていた。
それがエドワードなりの、俺を守る方法だったのだろう。
だが、俺は今、満たされた気持ちでいっぱいだった。
ずっと見たかった、エドワードの景色を垣間見たのだ。やっと、少しだけ、エドワードの世界に近付けた気がした。
「ほらエド、チビ、乗りな!」
フェンリルが身を屈める。俺とエドワードは、その背に跨った。
もふもふの毛は柔らかく、乗り心地を良くしてくれている。こっそりさわさわしたら、コラッとフェンリルに怒られてしまった。
「じゃ、振り落とされんなよ!」
フェンリルはすくりと立ち上がり、ぴょんと境界を超える。世界が色鮮やかな楽園に包まれたあと首だけで振り返れば、すでに入口は閉じられていた。
上下に激しく揺さぶられながら、何とかしがみついて進むこと、数十分。
景色は、ごつごつした岩肌の、薄暗い洞窟に変わる。
フェンリルが徒歩に切り替えたので、揺れはかなり収まり、俺は上体を起こして周りを見回す。
澱みのようなものが辺り一面に広がり、おどろおどろしい気配に、亡者の嘆きのようなものが響き渡っている。
冥界、あるいは死者の国。それが、この洞窟の正体だ。
俺は本能的な恐怖に、エドワードの背中をぎゅっと抱き締める。エドワードは回された腕を、優しくぽんぽんと叩いて落ち着かせてくれる。
やがて目の前には、大きな城が現れた。
「ヘルの城、着いたぜ。こっからは歩きな。案内はしてやるよ」
フェンリルがそう言って身を屈めたので、俺とエドワードはぴょんと飛び降りた。
ヘトヘトの俺と違い、エドワードは涼しい顔をしている。
乗っている時も、彼はほとんど揺さぶられておらず、体幹もほとんどぶれていなかった。これが乗馬経験の差か。
フェンリルに案内され城の中を進むと、これまた大きなドアが現れた。この先が、女王の間ということだ。
緊張した面持ちで、城の亡者が扉を開けるのを待つ。
ゆっくりと開かれた先には、大広間があった。その奥には玉座。女性が座っている。
傍まで近寄ると、その異様さが見てとれた。
美しい相貌の女性は、長いスカートのドレスを身に纏っている。だが、下半身に膨らみは無く、代わりに緑とも黒ともつかない液体がとめどなく流れ出ていた。匂いは無いが、ヘドロ状である。その液体は玉座の横の通路を伝って、どこかへ流れている。
じろじろ見るのも失礼かと思い、俺は、さっと視線を自分の真下に移す。
女王への謁見などしたことはなく、立ち居振る舞いはエドワードの真似をするしかない。
彼はスッと膝を折り、頭を下げた。俺もそれに倣う。
様子を眺めていたヘルは、ゆっくりと口を開いた。
「フェンリル。突然の来訪とは、珍しいこともあるものだな。何かあったのか?」
「ようヘル、久しぶりだなぁ? 実は、俺の友がお前に用があるってんで、連れて来たんだ」
「友? そなたに人間の友がいたとはな。して、何用だ。我も暇ではない、さっさと用件を言え」
「それは私から説明させていただいてもよろしいでしょうか、女王陛下」
エドワードが顔を下げたまま、そう言った。
「構わん。面を上げよ」
エドワードはその言葉に、スッと顔を上げる。許可を得ていない俺は、視線を絨毯に縫い付けたまま、耳だけで様子を伺う。
「お初にお目にかかります。私はエドワード・ムール・グレンアーモンドと申します」
「グレンアーモンド? ああ、あの奇怪な一族か」
「ちなみに、セルキーの王子でもあるぜ」
「セルキーの? そういえば、どこぞの女王がヒトとの間に子をもうけたと言っておったわ。そなたがその子というわけだな。して、何用だ」
「伊邪那美命への言伝と、これからこの地に送る者の処分をお願いしたいのでございます」
「イザナミ?」
女王の声色が、少し暗くなった。警戒されているのだ。
エドワードは怯むことなく、話を続ける。
「私の隣にいる者が、黄泉醜女に執着をされております。このままでは、彼は黄泉へ捧げられることとなってしまう。私は彼を助けるため、黄泉醜女をこちらの世界へ送り返したいと考えております」
「そなた、あちらの管轄に干渉できるのか?」
「いいえ。ですから、この冥界へ送りたいと思っています」
「……ほう?」
「女王陛下には、その黄泉醜女を伊邪那美命のもとへ送り返し、黄泉醜女へ灸を据えてもらうよう頼んでいただきたいのです」
「我に、どんなメリットがある? 我はそこの者が黄泉に捧げられたところで、どうも思わん。その者のために働く理由は無い」
ぎくりとした。彼女の言葉は、真っ当だったからだ。
神にとって、人間は取るに足らない存在だろう。俺が黄泉に囚われても、その肉を黄泉醜女に荒らされても、ヘルには何のデメリットも無い。ましてや、俺は北欧神話に連なる血を持っていない。完全に赤の他人だ。
だがエドワードは、そう問われることを予想していたのだろう。はっきりとした口調で言い切った。
「私は陛下が何をお望みになるかわかりません。ですから、交渉に来たのです」
「交渉とは、人間風情が随分と強気に出たものだな」
「どうとでも仰っていただいて結構です。私も、生半可な覚悟でここに来たわけではありません」
「では問おう。そなたは、何を差し出せる?」
「私は人間ですから、差し出せるものには限りがございます。けれど、陛下の希望にできるだけ適うものを差し出しましょう」
「ふん、面白いことを言う。もし、命を差し出せと言ったらどうするのだ」
「私の命に見合う働きを求めましょう。私の願いは、私の命とは釣り合っていませんから、もっといろいろと手を貸していただくことになるかと」
「……なるほど、己の価値を分かっているようだな」
「おかげさまで」
エドワードが、飄々と言ってのけた。きっとその表情は、完璧な笑顔だろう。店の客に見せるものと同じ、外行きの顔だ。
それから何度かやり取りをしていたが、エドワードは絶対に自分から差し出すものを提案しなかった。なぜならエドワードが言葉にした時点で、その代償が大きかれ小さかれ、基準となってしまうからだ。
ヘルもそれを分かっているのだろう。あえて無理や無茶に思える難題をぶつけ、エドワードがどう拒むのかを見ているようだった。




