第七章 願いの代償 ①
「本当に、良いんだね?」
「しつこいぞ、エド。さ、早く」
俺がそう言うと、エドは口を引き締めて、ナイフを己の腕に当てた。
遡ること、一時間前。
突如現れた狼は、何食わぬ顔で虚空から出ると、すたりと地面に降り立った。
白狐は恐れおののいて、ソファの後ろに隠れてしまった。
「ふぇ、フェンリル……」
エドワードが呆然としたように言えば、オオカミはニッと笑った。
「おう、エド。困ってるって聞いたぜ」
「聞いたって、誰に……」
「お前んとこの無愛想な精霊さ。名前、なんだっけ、ほら、うまそうな……」
「ブラウニー?」
「そうだ、それそれ! あいつが珍しく俺達の世界に戻ってきたもんで、どうしたのかと思って様子を見てみれば、お前とそこのチビが困ってるから力になれることを探しに来たって言うじゃないか。こりゃぁ、俺も力になるしかねぇってことで、来てやったぞ」
「……君に世話になるようなことは無いよ」
「なんでぃ、連れねぇなあ。な、チビ。お前もそう思うよな?」
「へ? あ、えっと……」
俺は状況が飲み込めなくて、フェンリルと呼ばれた狼とエドワードを交互に見た。
エドワードは、とても渋い顔をしている。どうやら、フェンリルの申し出は嬉しくないようだ。
その理由は、エドワードの口から語られた。
「フェンリル。僕を友人だと思ってくれるのは嬉しい。でも、本来なら君は、僕ら人間と関わるような立場じゃないんだよ。ましてや、人間の力になるなんて……」
「けっ、辛気臭ぇ顔して何を言うかと思えば。あのなぁ、立場ってのは、俺がどう使いたいかだけだ。お前ら人間に、とやかく言われる筋合いは無ぇよ。それとも、俺と交渉しようってか?」
「それは……」
二人のやりとりだけで、フェンリルがどういう存在なのかはなんとなく把握できる。
管轄を移動できるほど、高位の精霊。交渉を盾にできるということは、神に類する立場なのだろう。
そしてその名は、神話に詳しくない俺でもよく知っていた。
北欧神話に登場する、主神オーディンと並び立つ神、ロキ。その息子が、まさにフェンリルという名である。
それにしても、オオカムズミといい、なんだってこうガラの悪い神がちらほらいるのだろうか。別に良いけども。
「エド、俺はお前が気に入ってんだ。うっかり罠にハマった俺を助けてくれた。俺は、恩を忘れるようなワンちゃんじゃ無ぇぞ」
「……十分返してもらったよ。前も、ファウヌスさんを呼んでもらったし」
「あんなん、何もしてないようなもんだ。俺はな、お前が絶望の淵に立たされているところで、さっと助けてやりてぇのさ」
それはつまり、エドワードに絶望してもらいたいということではないだろうか。それはそれで、どうなのだろう。
そう思いつつ、俺は記憶を漁る。ファウヌスという名前には聞き覚えがある。
ピンと思い至ったのは、下半身がヤギの男だった。ラミアの想い精霊である。たしかにエドワードは、ファウヌスを連れてくるよう友人に頼んだと言っていた。なるほど、その時の相手が、このフェンリルということか。
「さ、話してみ? 何をして欲しいんだ?」
「いや、だから……」
「ちっ。いいか、エド。俺は、気が長い方じゃねぇ。お前が吐かねぇなら、そこの狐を食っちまうぞ」
「ひぇえっ!」
名指しされた白狐が、しっぽを足の間に挟みながら悲鳴を上げた。
もともと狼と狐は相性が悪い。そのうえ、片や神に列する存在、片や神の遣い。力の違いは圧倒的だ。
エドワードは怯える白狐を見て、溜息を吐いた。
「わかった。今回は、君の厚意に甘えるよ」
「おう、分かればいいんだ! で、何をして欲しいって?」
「……君は、ヘル殿と会うことはできるよね?」
「ヘル? ああ、もちろん。俺の可愛い妹に、なんか用か?」
「彼女と、交渉がしたい。連れていってもらえるかな」
フェンリルは、興味深そうにエドワードを見た。そして、耳をぴくぴくとさせ、リズムよくしっぽを揺らす。
体高がエドワードの身長とほとんど変わらない狼の威圧感はすさまじいが、仕草だけ見ると普通の犬にも見える。
今がシリアスな場面でなければ、俺は間違いなく、もふらせてもらっていただろう。
目の前で繰り広げられる現実離れした状況に、俺の意識はついぼんやりと流れてしまう。
ハッとして気を引き締めた時、灰色の犬は、口角をキュッと上げた。
「なるほどなぁ、交渉か。お前が何しようとしてるかは知らんが、いいぜ。俺に任せろ!」
「ありがとう」
「そっちのチビはどうすんだ?」
「僕も行きます!」
「でも、悠大くんは“あちら側”には干渉できないから」
「それなら、そこの王子の血を飲ませれば良いじゃないか」
エドワードが断ろうとした時、フェンリルのものではない声が、フェンリルから聞こえた。正確には、彼の背中から。
俺とエドワードが背中に視線を向けると、もふもふの毛の合間から、蛇の頭がにゅっと出てきた。真っ黒のそれは、中サイズのアオダイショウほどの大きさだった。
「えっと、貴方は……」
「よう王子! 初めましてだな。俺はヨルムンガンド。普段はもっと大きいんだが、フェンリルがヒトの世界に来るってんで、小型化してみたぜ!」
「よ、ヨルムンガンド……」
エドワードに答えた蛇の言葉に、俺は思わずその名を復唱してしまう。
ヨルムンガンドはフェンリルの弟にあたる、大蛇だ。こちらもとんでもない大物である。わざわざ小型化して、エドワードに会いに来たのだ。
エドワードの顔の広さには舌を巻くしかない。もっとも、ヨルムンガンドとは初対面のようで、エドワードはすっかり固まってしまっているけれど。
「えっと、ヨルムンガンドさん、その、王子って……?」
静止しているエドワードに代わって、俺は尋ねた。きっとエドワードも、そう呼ばれることを不思議に思っているはずだ。
ヨルムンガンドは不思議そうに首を傾げながら、俺に答える。
「そのままの意味だぞ? セルキーのとこの、王子だろ?」
「え?」
「え?」
小型化済み大蛇の言葉に、俺とエドワードは素っ頓狂な声を上げた。
互いに顔を見合わせる。どうやら、エドワードも状況を把握していないらしかった。
ヨルムンガンドは合点がいったとばかりに、ああ、と頷く。
「なるほど、知らなかったんだな。おい、フェンリル。言ってないのか?」
「いやぁ、俺もまさか、知らないとは思ってなかったもんで」
「まったく。いいか、そこの金毛。お前は、セルキーの女王と人間の間にできた、王子なんだよ。半分は、セルキーの血が入ってる。女王は立場上いつまでも人間と一緒にいられないし、かといって人間の血が混じるお前を俺達の世界に連れてくるわけにもいかないってんで、本人だけこっちに帰ってきたけどな」
「半分は、精霊の血が……」
エドワードがぼそりと呟いた。
おそらく、エドワードは納得したのだろう。自分がなぜ、“あちら側”の景色を色鮮やかに見ることができるのかを。半分は“あちら側”の存在なら、俺には真っ黒な深淵にしか見えないあの虚空の奥を見られても不思議ではない。
そして、“あちら側”の精霊の血と、神との交渉を行うグレンアーモンド家の血が混ざりあった子供ならば、強い力を持ち、“あちら側”の入り口を開き、干渉できるのも合点がいく。
エドワードを置いて去ったと思っていた母は、女王として“あちら側”へ帰ったらしい。エドワードは捨てられたわけではなかった。ヨルムンガンドの口ぶりからして、女王はエドワードを“あちら側”に連れて行きたいと思っていたはずだ。できなかったけれど。
なぜ先代伯爵公がその話をエドワードにしなかったのかは、分からない。そもそもどういう経緯でセルキーの女王と知り合ったのかも謎である。ただ、せめて何か一つでもエドワードに話していたならば。エドワードは、ここまで思いや悩まずに済んだはずなのに。
俺は、エドワードに寄り添うように立ち、そっと手を握った。彼が俺を労わる時にしてくれるように。
エドワードはゆっくりと俺を見て、ふっと肩の力を抜く。
「ヨルムンガンド殿。僕の血を飲ませれば良いとは、どういうことでしょうか」
「お前の血は俺達に通じているからな。血を飲ませれば、飲んだ奴は一時的に俺達の世界に干渉できるようになるってこった。ま、相性はあるが……そこの小童も、俺達に近い血を持ってるみたいだからな。効果はそれなりに期待できるぞ」
「ち、ちなみに、相性が悪いとどうなるのでしょうか……」
「耐えきれなくて、場合によっては死ぬな!」
「えぇ……」
精霊というのは、本当にどうしてこう、軽いのだろうか。いや、ブラウニーや白狐は俺達を命ごと大切にしてくれているから、もしかしたら高位の存在がこうなだけかもしれない。
なんにせよ、なんでもスムーズに上手く行くはずもないということだ。
不安そうにするエドワードに、ヨルムンガンドはカラカラと笑った。
「安心しろって。俺も、何の勝算も無く言ったりしないぜ。王子に流れてるセルキーの血は、もともと人間と相性が良いんだ。そのうえ、小童の血には魔や毒を祓う力がある。問題ないと思うぜ」
「俺の血のことも、分かるんですか?」
「まあな。かなり薄れているし、管轄外だから詳しくはわからんが……おおかた、俺達の世界の誰かと人間の間に生まれた子の子孫ってところだろう」
精霊王は、俺をセツオリヒメの末だと言っていた。ならばきっと、ヨルムンガンドの言う血は、セツオリヒメのものだろう。
先祖に神がいたなど聞いたことは無い。我が家は至って普通の庶民の家柄だから、そんな先祖代々を語るようなこともなかった。両親は、何か知っているのだろうか。
「……エド、俺に血を飲ませて。それで、一緒にヘルさんのところに行こう」
「でも……」
「良いから。ゆっくりしていられる時間も無いだろ? ほら!」
躊躇うエドワードの腕を引っ張り、俺は急かすように言った。
エドは聞き入れたくないと言わんばかりの顔をした後、やがて近くのシェルフから、小刀を取り出した。




