第六章 破邪の桃香 ⑤
「なるほど、開ける境界は、血に依存するんだね」
「はい、ですから黄泉の扉を開くことは難しいと思います」
白狐の言葉に、エドワードは手を顎に沿えながら思案顔になる。
俺達三人は今、黄泉醜女討伐に向けて、準備を進めていた。
俺を差し出さねばならないことに心を痛めていた白狐も、可能性があるならばとそこに賭けることにしたようで、“あちら側”のルールを確認しながら、情報を整理している。
話し合いで分かったことがいくつかある。
まず、“あちら側”の管轄とは、そのまま俺達の神話を当てはめられるということ。例えば、日本神話の神々は北欧神話に干渉することはできない。だから黄泉醜女は、“あちら側”を移動してこのイギリスへやってくることはできないのだ。イギリスにはいくつかの神話が入り混じっているが、日本神話はこの土地に馴染みが無い。
次に、白狐がここイギリスに来られた理由だ。狐はもともと管轄の行き来がしやすい動物でもあった。どの神話や伝承にも存在し、ほとんどの土地に生息しているからである。同様に、猫も管轄を跨げるらしい。
そして、今しがたエドワードが確認したことである。古来より“あちら側”に干渉することができる人間はいたが、その誰もが、己の血に近い神話にしか干渉できなかった。エドワードには日本人の血は全く入っていない。だが逆に、スコットランドを含めたイギリス各地に伝わる伝承や、北欧神話、ギリシア神話などに通じる力を持っているという。
「悠大くんの血なら、日本の神話に干渉できるんだけどな」
「悠大は特殊な血を持っていますが、すでにその力はほとんど失われています。扉を開くほどの力はありません」
「……何か、方法は無いかな」
エドワードが立ち上がり、自室の本棚を眺める。参考になるものが無いか探しているのだろう。
スコットランドの実家では、大きな屋敷がまるまる一棟、図書館になっていた。その膨大な書簡は、グレンアーモンド家にまつわるもののほか、古今東西あらゆる国や地域で出版された“あちら側”に関するものだという。
あそこならば何か見つかったかも、とエドワードが悔しそうにぼやいた。
「……方法は、無くはないのです」
白狐が、躊躇うように言った。
俺は白狐の言葉に、視線を彼に向ける。エドワードも本を持ったまま、彼を見た。
「神々は、管轄に関係なくやりとりをしているのです。互いの管轄には干渉できませんが、他国の神と親交のある神も多く」
「それなら、別の神話の神から、日本神話の神に交渉してもらうことはできるってことか」
「はい。ただ、聞き入れられるとは限りません。他の管轄に口を出すようなことは、基本的に嫌がられます」
「管轄の領分を越えない範囲の願いなら、聞き入れられる可能性があるってことだね」
「……それと、もう一つ」
白狐のしっぽが、落ち着きなく左右に揺れている。表情は、相変わらず硬い。
「本来、人間が神に直接交渉することは、許されません。ヒトは神に願いを託しますが、それは交渉ではなく、あくまでもお伺いです。神が叶えるかどうかは、神の決定次第なのです」
「たしかに、うちも“あちら側”へ願いを託し、神託を受け取る役割だったな。神と直接交渉をするとは、聞いたことが無い」
「豊葦原においても同様です。おそらく、どの管轄の神でも同じでしょう。けれど、今回はその禁を破ることになります。そのために、何を代償とするか……正直、読めません」
“あちら側”は均衡を大切にしているのだと、精霊王が言っていた。だから、必要以上に己を罰することは過剰となるので、エドワードに自罰を禁じたのだ。
であれば、人間が神に交渉をする時、同じように均衡を保とうとするはず。その代償が何になるかは、その重さで決まるのだろう。
「命を取られるようなことは、あるのか?」
俺の問いに、白狐は緩く首を振った。
「いえ、おそらくそれはないでしょう。命はとても重いのです。交渉の内容次第ですが……黄泉醜女はすでにヒトに害をなしていますから、仮に消すとしても、善良な命を奪うことは無いと思います。でも、それ以外の何になるかは……」
「命が取られないなら、僕は構わないよ」
エドワードが、さっぱりとした口調で言った。彼は本を閉じて棚に戻し、白狐の前に座る。
そして、隣に座る俺を見た。
「命と言われたら、さすがに僕も躊躇うけど……それ以外なら、何だって差し出せる」
「エド、俺は」
「良いんだよ、悠大くん。僕は何度も言っているよね? 君のためなら何でもやるって。それに……君は、僕の大事な弟だ。弟のためなら、兄はいくらでも動くものじゃないかな」
エドが笑いながら、俺の頭を撫でる。
兄弟になりたいと言ったのは、俺だった。快く兄になってくれたエドワードは、明依ともすっかり打ち解けて、本当の兄妹のように接していた。
でもそれは、彼に何かを犠牲にしてもらうためではなかった。
俺の不満は、顔に出ていたのだろう。エドワードが苦笑する。
「本当に、良いんだ。僕はね、悠大くん。君に何度も救われた。もらわれっぱなしは嫌なんだよ。少しくらい、恩を返させて欲しい」
「俺は何もしてない」
「うん、君はそう言うと思っていた。でも、君はたしかに僕を救ってくれている。今でもね。だから、君がなんと言おうと、僕は君に恩返しをするよ」
「……恩返しは、押し付けるものじゃない」
「僕は押し付ける。可能性があるなら、何だってやりたいんだ。聞き分けてくれるね?」
エドワードは諭すように何度も手を往復させる。頭に乗った温もりが、今は痛い。
今まで、俺をこんな風に年下扱いすることはなかった。エドワードは自分の立場を利用して、誰かに言うことを聞かせるのを嫌っていたから。
だが今、エドワードは明らかに年上の立場を利用して、彼の言い分を押し通そうとしている。つまり、それだけ本気ということだ。
自分のせいで、誰かが傷付くのは嫌なのに。けれどエドワードは、きっと意思を曲げない。
「なら、俺も行く。隣で、話を聞く」
「……君は、“あちら側”に行けないよ。手で触れているうちは大丈夫かもしれない。でも、何かあって手が離れてしまえば、君はあの暗闇に取り残されてしまう」
「……それでも」
「悠大くん」
「エドが意見を曲げないなら、俺も曲げたくない」
そう言うと、エドワードは困ったように眉を寄せた。
譲れない思いが膠着し、互いに視線を反らさないまま、時間だけが過ぎていく。
と、その時。
空間がパカリと割れ、虚空が現れた。
「困ってるんだってなぁ、兄弟!」
中から現れたのは、大きな灰色の狼だった。




