第六章 破邪の桃香 ④
「家に帰った俺は、さっそく事情を話して、海外に出ることにした。イギリスを選んだのは、ワーキングホリデーが二年間で合法的にいられる期間が長かったし、日本から遠かったからだ。母さんの強い勧めもあった」
「……そうだったんだね」
エドワードは俺の話を聞いて、静かにそう呟いた。
その手は、何度も話に詰まる俺を支えるように、俺の手を握ってくれていた。
すべてを話し終えて、ふっと脱力する。張り詰めていた緊張が解け、その反動で涙が零れ落ちた。何かが悲しいわけではない。ただ、理由の分からない涙は、留まることなく俺の頬を濡らし続ける。
エドワードは何も言わずその雫をハンカチで拭うと、立ち上がって俺に近づく。
そして、ふわりと俺を抱きしめた。
「エド?」
「話してくれて、ありがとう。何も知らなかったとはいえ、この仕事に誘った自分を殴ってやりたいよ」
「そんなこと、気にしなくていい。俺はエドのおかげで、精霊たちと触れ合えるようになった。たしかに怖いこともあるけど、同時に、面白い存在だって知ることができたし」
背中を優しく癒すように叩くエドワードが、どのような表情をしているかは分からない。俺の顔は肩に埋められ、柔らかで質の良い布を濡らしている。
だがきっとまた、あの痛みを抱えたような表情をしているのだろう。彼は、そういう人だった。
「悠大くん……」
「本当だ。俺、ここに来てよかったよ。精霊や妖が身近にいても怖くないって思えるようになったんだ」
一つも嘘は無い。エドワードのおかげで、俺は彼らを知ることができたのだ。
すべてから逃げるために、イギリスへやってきた。けれど、俺は今、すべてに向き合える気がする。
「エド、俺、白狐の話ちゃんと聞くよ。昨日は、結局聞けなかったから」
俺は顔を上げて、エドワードを見る。
エドワードは、あの慈愛に満ちた微笑みで、頷いた。
白狐は、どうやら二階の一室に泊まっていたらしい。応接室へ誘うと、切羽詰まった暗い表情のまま、部屋から出て来た。
ブラウニーの淹れた紅茶をちびちびと飲む白狐は、耳もぺしょんとしてしまっている。
「……白狐、何があったか聞かせてくれ」
白狐は紅茶のカップをコトリと置くと、ぽつりぽつりと話し始めた。
「平坂公園の改築計画の一環で、オオカムズミ様の桃の木が切られちゃったんだ。僕たちは強く反対してたし、オオカムズミ様も怖がらせたりしてたけど、それでも計画は止まらなくて。それで、オオカムズミ様が、黄泉醜女を抑えられなくなってしまった」
「そんな……なら、あの公園は?」
「クロや、祓いの力を持った妖たちが、交代で抑えてる。でも、もともと黄泉醜女の方が格が上だから、長くは抑えられない。それに、漏れ出た呪いが通行人にまで影響を出しちゃって、何人もの人が怪我を負う事態になってるんだ」
「公園の改築計画は?」
「当然、中止になってる。公園も閉鎖された。でも、今更遅いよ……もう、オオカムズミ様はいないんだから」
オオカムズミは、桃の木に宿った神気だった。伐採により木ごと失われたならば、当然、神気も失われることになる。
公園は人通りの多い場所ではない。だが周辺は住宅街だし、近くには小学校や中学校がある。呪いがそこまで伝播してしまえば、被害はさらに広がるだろう。
「白狐くん。黄泉醜女が境界を越えたと言っていたけど、どういうこと?」
「本来、豊葦原と黄泉は交わらない世界でした。でも、改築計画で桃の木が伐採され、いろいろなところが掘り返されたりして、場が乱れてしまった。乱れは境界を曖昧にします。そして、豊葦原と黄泉が交わりやすい逢魔が時に、黄泉醜女は強い力でその境界を越えました。本来ならあり得ないことが、最悪の条件が重なって、起こってしまった」
「それで、君たちの仲間が今、彼女を抑えているってことだね」
「はい。黄泉醜女の力の源は、強い穢れです。弱った黄泉醜女に杭をうがち、力が戻らないよう、四六時中祓い続けることで、なんとか……」
「でも、それではいつまでも持たない、だね」
エドワードの言葉に、白狐が頷いた。そして、泣きそうな目で俺を見る。
「このままでは多くの犠牲が出ます。妖も、人間も。そこで、神々の決定が、下りました」
続きの言葉を言おうとして、しかし強く躊躇われたのか、何も言わなかった。
しばらくは口元をまごつかせながら、視線をさまよわせ、その合間に何度もちらちらと俺を見る。
嫌な予感がした。同時に、納得している自分もいた。
白狐が言いたいことは、きっと、俺の想像通りだ。
「俺を差し出して、丸く収めようって?」
「……っ!」
白狐が、びくりと耳を立てた。そしてすぐに、ぺしょんと垂らす。しっぽも力なく垂れ下がっている。
たぶん白狐がイギリスまでやってきたのは、俺を連れ戻すためだ。異なる管轄にいる俺を黄泉醜女に差し出すには、俺が日本に戻らなければならないから。
いつか、こうなる気もしていた。
オオカムズミは安心させるように俺に笑ったけれど、自分が抑えられなくなる可能性を考えていたのかもしれない。あるいはそれを見越して、海外に逃がしたのかもしれなかった。
今となっては、彼が何を考えていたかは分からない。聞きたければ、出雲にある黄泉平坂へ赴くしかない。だがそこに赴くということは黄泉に近づくということであり、やはり黄泉醜女に囚われることとなるだろう。
白狐は九尾に仕える神使だ。彼が何を望んだところで、神々の決定は覆らないだろう。
「……エド、俺、日本に帰らなくちゃ」
「悠大くん?」
「ここでの生活は、本当に楽しかったよ。エドと出会えてよかったと思ってる」
「僕は君を、日本へ帰すつもりはないよ?」
「エド、俺は、やらなくちゃいけないことがある」
「分かっている。でも、僕は日本の神々とは縁もゆかりもないからね。悠大君の方が大事なんだ」
「……俺、誰かが傷付いても平気なタイプに見える?」
それは、いつかのエドワードの言葉だった。
エドワードは眉を顰めて、言葉を詰まらせる。
俺は誰かを不幸にするとしても、それでも良いと思って、イギリスへやって来た。けれどエドワードと出会って、精霊たちと過ごして、この店で精霊に困らされる人たちを見て、少しずつ、考えが変わっていった。
いや。もともと、誰かを踏みつけて笑えるほど、強くなんてなかったのだ。ただその痛みから目を反らしていただけで。
けれど、もうそれも終わりだ。
エドワードがナイトメアの夢で己のトラウマに向き合い、それでも前に進んでいるように。
俺だって、自分の痛みに正面から向き合いたい。たとえそれが、どんな道に続くとしても。
俺は強い意志で、エドワードに言った。
「俺、日本に帰るよ」
「……なら、僕も行くよ」
「え?」
「ようは、黄泉醜女を黄泉に戻せば良いって話でしょ。それなら、僕もきっと役に立てる」
エドワードは己の手を、俺に見せつけるように掲げる。
「忘れた? 僕は、境界の入り口を開く力を持っているんだ」
俺はハッとして、エドワードの顔と手を交互に見た。
そうだ、エドワードには境界を開く力がある。黄泉に戻せば良いだけなら、彼の力を使えるかもしれない。
「それに、僕は精霊を消す力もある。いざとなれば、黄泉醜女も消せるかも」
俺は、触れた瞬間燃え上がった精霊を思い出した。ナイトメアほどの力のある精霊でも、彼はその手で消し去った。
エドワードは、悲しそうに笑う。
「悠大くん、自分を犠牲にしようだなんて思わないで。僕にできることは、何だってする。ぎりぎりまで、考えてみようよ」
「でも、エドが危険な目に遭うかも」
「君はナイトメアの夢の中で、危険を顧みずに、僕を助けてくれただろ。今度は、僕の番だ」
エドワードは、そう言って俺の手を優しく掴んだ。
まるで姫の手でも扱うようにそっと持ち上げると、そのまま、手の甲へキスをする。
驚く俺に、彼はふわりと笑って、ウインクをした。




