第六章 破邪の桃香 ③
「悠大!」
連れてこられたのは、稲荷神社だった。
腰が抜けた俺はオオカムズミに抱えられ、いたたまれない気持ちのまま狐たちと合流することとなった。
オオカムズミに抱えられている間は人間には見えないらしく、そこは少し安心である。さすがに成人男性がお姫様抱っこは、恥ずかしいことこの上ない。
駆け寄って来た白狐が、不思議そうに長身の男を見る。
「これはオオカムズミ様、なぜ貴方様が悠大を?」
「成り行きでな。クロはいるか? ここいらじゃ、クロが一番腕の良い穢れ祓いだ」
「穢れですって? と、とにかくこちらへ!」
白狐は社務所へと案内してくれる。十畳ほどの畳部屋の中には、黒いしっぽを櫛で梳かしている途中の黒髪青年がいた。吊り気味の目も黒で、瞳孔が狐らしい細さをしていなければ、日本人と言っても通じるだろう。
黒狐は俺を見るなりぎょっとして立ち上がり、傍らのタンスから神楽鈴と葉っぱを取り出した。
「ここ、寝かせて」
「さすがクロ、話が早くて助かるな」
俺はそのまま畳の上に寝かされる。
何がどうなっているのか分からないまま、何かの儀式が始められるようで、俺は額の上にはっぱを乗せられる。
白狐がそっと、俺の右手をぎゅっと握る。
「笛はいるか?」
「オオカムズミ様の笛なら、欲しい」
「了解」
オオカムズミは懐からサッと横笛を取り出すと、構える。
「ボウズ、ちょっと苦しいかもしれんが、我慢しろよ」
それだけ言って、音を奏で始めた。黒狐は音に合わせて、神楽舞を踊る。
りんと鈴が鳴った瞬間、全身の血が沸くような、強い熱さと痛みを感じた。
「うっ、あああ」
耐えられない呻き声が漏れ出る。だが、音も舞も終わらない。
白狐が慰めるように手を握りながら、大丈夫ですよ、もうすぐですよと声を掛けてくる。
しかし、激しい痛みに、その声は遠い。
腹の奥で何かが渦巻いて、酷く気持ちが悪かった。吐き出してしまいたくても、全身を苛まれてできそうもない。
頭の奥ががんがんする。視界がチカチカと点滅し、ぐにゃりと世界が歪む。
それがどれくらい続いただろうか。
最後のりんという音が響くと、ふっとすべてから解放された。
ぜぇぜぇと上がった息を吸っては吐き出す。
「よし、とりあえずは大丈夫そうだな」
「穢れ、祓えたみたい。よかった」
黒狐は軽く上がった息を整えながら、俺の上から葉っぱをどけた。
白狐は優しく手を添えて俺を起こし、水を飲ませてくれる。
その優しさが、じんわりと沁み渡っていく。
「それでオオカムズミ様。一体、何があったのですか?」
白狐は俺の呼吸が整うと、オオカムズミの方を向き、尋ねた。
オオカムズミはちらりと俺を見ながら、がしがしと頭を掻く。
「そこのボウズが、黄泉醜女に魅入られた」
「はぁっ?」
白狐のしっぽの毛がぶわりと立った。しっぽは口よりも雄弁だ。
隣に座る黒狐が、宥めるように声を掛ける。
「シロ、落ち着こう。今は、話を聞こう」
「……そうだね。たぶん、悠大も状況を分かっていないと思うし。……だよね?」
話を振られ、俺はぶんぶんと頷く。
何も分かっていない。老婆が何なのか、俺はなぜ老婆と縁ができたのか、オオカムズミとは誰で、なぜ助けてくれたのか。そして、さきほどの神楽舞と穢れ祓いとは何なのか。
オオカムズミは、どこから説明したものかと思案して、面倒くさくなったのか初めから話すことにしたようだった。
「ボウズ。黄泉醜女ってのは、何か知ってるか」
「ええっと……、なんか黄泉にいる妖だってことくらいしか知らないです。たしか、イザナギが黄泉から逃げる時に、追いかけて来たんだっけ?」
「おおむね合ってるな。つまりは、黄泉に住んでる醜い婆さんたちの総称だ。普段は黄泉でだらだらしてるんだが、たまに豊葦原……つまりはヒトの世にやってくる」
「どうしてですか?」
「力を持った人間を、黄泉に引きずり込むためだ。そいつの新鮮な肉を食らうと、力を付けられるらしい。黄泉ってのは意外と実力主義社会だからな、上に行くなら、力を付けなきゃなんねぇ」
「は、はぁ……それで、俺が選ばれたと」
「そうだ。あの様子じゃ、相当前から狙われてたな」
オオカムズミの言葉に、白狐が怪訝な顔をする。
「相当前から? でも、僕の首紐は、穢れの強い存在から悠大の力を隠すもの。……悠大、まさか」
「……あー、うん、ごめんなさい」
白狐がキッとこちらを見たので、俺は何かを言われる前に両手をぱしりと合わせ、謝罪の言葉を口にした。
白狐のしっぽは苛立たしげに揺れている。
助けを求めるように黒狐を見たが、彼は表情を消したまま、視線を反らした。どうやら、黒狐も怒っているらしい。
「実はあの首紐、時々すごく熱くなることがあって……つい、外してたんだ」
「そりゃ、あのババアがお前に干渉してたってことだろうな。黄泉醜女ってのは少し特殊な存在でな。豊葦原と黄泉が交わる時間以外は豊葦原の存在に触れられないんだが、豊葦原を徘徊することはできるんだ。おそらく、偶然通りかかったか何かした黄泉醜女の穢れに反応して、熱を持ったってとこだろ」
「悠大! どうしてもっと早く言ってくれなかったの! 分かっていれば、対策もできたのに!」
「ご、ごめんってば」
正直に言えば、何をどこまで信じられるのか迷っていたのだ。熱を持つ理由が分からなかったし、相談して良いのかも分からなかった。だから、次に稲荷神社に寄った時に聞いてみようと思いつつも、わざわざ出向かなかったのである。
俺はその本音は隠して、ただ謝るばかりだった。
少なくとも、白狐も黒狐も、俺を本心から案じてくれていた。それなのに疑ってしまい、罪悪感がチクリと胸を刺す。
オオカムズミはそんな俺の気持ちを察したのだろう。ちらりと俺を見て、ふっと息を吐く。しかし、何も言わなかった。
「黄泉醜女と逢っただけなら、あんなに穢れない。何があったの」
黒狐が、問うてきた。いつもはどこかぽやっとしている口調が、今は厳しい。
だが俺自身も理由は分かっていないので、オオカムズミを見る。
「黄泉竈食いだ」
「よもつへぐい?」
「そうだ。お前、ババアから、食べ物をもらったな?」
「食べ物……あ、みかん」
「お前は、それを食べたな」
「食べました、一欠けらだけ」
「一欠けらどころか、一舐めで十分だ。お前はそれで、黄泉と縁が生まれちまった」
「……と、いうと」
「悠大。君は今、黄泉に片足を突っ込んでるってことだよ」
白狐が、俺の疑問に答えるように言った。
黄泉竈食い。それは、黄泉の食べ物を口にすることで、人の世に戻れなくなることだという。
俺の場合は黄泉の食べ物を直接食べたわけではないので、黄泉に取り残されることは無いらしい。だが、黄泉醜女から与えられた穢れの強い食べ物は、俺と黄泉の縁を繋げるのには十分だった。
結果、俺は大きな穢れを受け、さらには黄泉に近い場所に近づくと引きずり込まれる状態になったのだ。
「縁ができちまうと、もう時間帯は関係ねぇ。昼だろうが夜だろうが、いつでもお前に干渉できる。そしてこの豊葦原は、至る所に黄泉と近い場所がある。お前、日本中どこへ行っても、安心できねぇぞ。本体は俺が抑えているが、アイツにはお仲間がたくさんいるからな」
「そんな……」
あの平坂公園も、その黄泉と近い場所の一つだったのだろう。もしあんな風に、なんてことはない場所が黄泉に近かったなら。俺は何も気が付かないまま迂闊に近付いて、黄泉に飲まれてしまうだろう。
これだから嫌なんだ、と俺は内心で舌打ちをした。
力が強い人間を引きずり込むのだと言っていた。妖たちを視える、この力のことだろう。もしこの力が無ければ、俺は妖たちに怯えることも、こうして命を脅かされることもなかったのだ。
誰がこんな力を欲しいと願っただろう。生まれた時から他の人には無い力があり、周囲からも疎まれて。かといって、妖たちは俺に何か良いことをしてくれることも無い。
両親が柔軟な人たちだったから、大切に育てられたことは幸いだったけれど。
こんな力、無くなってしまえばいいのに。
願ったところでどうしようもないと分かっていても、俺はこの疎ましく煩わしい力を、憎まずにはいられなかった。
「ボウズ。視える力は厄介だろうが、お前を守る盾にもなる。妖どもは、視えようが視えまいがヒトに害を与えて来るからな」
「そういえば、貴方は俺を守ってくれましたよね。貴方は、一体……」
俺が気になっていたことを尋ねると、オオカムズミは手からポンッと桃を取り出した。部屋に広がる桃の香りが、一層強くなる。
「俺はオオカムズミ。ま、さしずめ桃の神様だな」
「か、神様?」
言葉も荒々しく、立ち居振る舞いもどこかのヤクザみたいなのに、神だという。いや、ヤクザみたいだと神らしくないと思うのは、偏見かもしれないが。
いずれにせよ、俺は生まれてこの方、神というものは見たことがなかった。妖が視えている身でありながら、神が本当に存在しているとも思っていなかったのである。
「ま、神様つっても、もともと神様として生まれたわけじゃねぇ。もとは黄泉平坂の傍に立つただの桃だったが、伊邪那岐から神格を与えてもらって、末席に置いてもらっただけだ」
「神格を与えてもらった? そんなことがあるんですか?」
「我らの世界ではよくあるよ。ヒトも、怨霊に神格を与えて鎮めることがあるでしょ? このオオカムズミ様は、伊邪那岐様が黄泉から逃げる時に、黄泉醜女を退けたことで、神格をいただいたんだ」
「そういうこった。黄泉醜女とは昔から因縁の仲ってことだな」
白狐の説明に、俺は先ほど見たやりとりを思い出して納得する。
黄泉醜女とオオカムズミは、旧知の間柄のように話をしていた。それこそ神話の時代からの仲ならば、相当な腐れ縁と言えるだろう。
「でも、どうして平坂公園にいたんですか? 黄泉平坂って出雲にありましたよね、たしか」
「俺は、豊葦原の桃の木たちと繋がってるのさ。平坂公園には桃の木が生えているからな、黄泉醜女の気配に反応できたってわけだ。それと、俺は本体じゃない。本体は出雲にいる」
「本体じゃない? 神様って分裂できるんですか?」
「俺の場合は、だな。黄泉に近い場所にある桃の木には、神気を分け与えてる。俺は、その神気が形を取ったものだと思ってくれればいい」
「は、はぁ……」
情報過多である。いきなり神話の世界に放り出されたような、そんな気分だった。
とはいえ、分かったこともいくつかある。
オオカムズミは俺を黄泉醜女から助けてくれた。黄泉醜女の穢れは、黒狐が祓ってくれた。白狐は日常で、俺を守り続けてくれていた。
俺が忌み嫌っていた妖は、全てが俺に害なす存在とは限らない。俺が彼らをもっと信じられていたら、このような事態にはなっていなかったのかもしれない。
おどろおどろしい黄泉醜女を思い出す。妖への嫌悪感は消えない。視えなければいいと、何度でも思う。これから先も、俺は彼らをいないものとして扱っていく。
ただ、それでも。こういう存在もいるのだということは、覚えていても良いだろう。
「これから、どうしたら良いのかな」
「お前はもう、豊葦原にはいられねぇよ。生きたきゃな。黄泉への入り口はどこにでも転がってる。お前が思ってるよりずっとな」
「……それって、どこにも行けないってことですか?」
「この国を出ろってこと。海外なら、黄泉醜女は、干渉できない」
黒狐の言葉に、俺は首を傾げる。
「海外?」
「そう。僕たちは普通、自分たちの管轄にしかいられない。違う管轄との間には、壁がある。だから、黄泉醜女は、海外に干渉できない」
「妖の世界にも、国境みたいなのがあるってことか」
「そういうこった。できるだけ遠い場所が良いな。俺達の世界と、絶対に交わらないような場所だ」
海外に行く。それは俺にとって、想像の上を行く選択だった。もともと俺は、この街からさえも出るつもりがなかったくらいなのだ。
妖はどこにいっても存在していて、外の世界に行くことは、すなわち新たな妖と出会うということでもある。この街ならば、どこに出やすいとか、どんな妖がいるとかが分かっている。だから、できるだけ避けることもできた。しかし、外に出てしまえば、そうもいかない。また一から、情報を築いて行かねばならない。
だが、海外はどうだろうか。海外にも、妖のようなものはいるのか。あるいは、俺が視えるのは日本の妖だけかもしれない。もしそうならば、俺は海外でなら、普通の人のように生活ができるかも。
そこまで考えて、ふと、黄泉醜女の言葉を思い出した。
「……俺が黄泉醜女のもとへ行かないと、公園の利用者が呪われますよね」
それは、あの恨み言だった。
俺があの女のもとへ行かないのならば、人々を呪う。もし行けば、呪いを解いてやる。
俺が黄泉醜女から逃げれば、罪のない人たちが巻き込まれてしまう。
俺が俯いていると、大きな手が頭をわしわしと撫でた。
「心配すんな。あそこは俺の領域だ。俺の力が及ぶ限り、好きにはさせねぇよ」
「でも黄泉醜女は、呪いを弱めるのがやっとだって言ってました」
「たしかに、俺にゃ呪い自体を祓うことはできねえ。だがな、呪いを極限まで弱めることができる。死の呪いを、ちょっと小指を角にぶつけやすくなるくらいまで抑えられるってこった」
「でも、ずっとは無理ですよね」
「お前が生きてる間くらいなら問題ねぇよ。黄泉醜女は、お前の新鮮な肉に興味がある。お前が天寿を全うして、その肉が燃やされちまえば、お前にこだわることも無くなるだろうさ」
オオカムズミが嘘を言っているようには見えなかった。
呪いが小さくなるとしても、その人が呪われた事実は変わらない。俺が逃げることは、多くの人を不幸にし続けるだろう。
それでも、こうして俺のために力を尽くしてくれている妖や神がいるのだ。両親も妹も、俺が黄泉へ下れば、きっと深く悲しむ。
自分勝手と謗られるかもしれない。だが、それでも。
俺は、まだ生きたい。俺を大切に想ってくる人のために。
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