第六章 破邪の桃香 ②
「ねえ、君、見えてるんでしょ~? どうして無視するのぉ?」
口が大きく裂けた女が、俺を見て笑った。真っ赤に染まった唇に、病的なほど青白い肌。白い服を着て、麦わら帽子で目元は隠れている。
だが俺は、絶対にそちらを見なかった。気が付かないふりをして、ただ前だけを見て歩き続ける。
これが、俺の日常だった。
この世の人ならざるもの、妖とか物の怪とか呼ばれる存在。それらは当たり前に人の世界に存在し、生活をしている。悪さをする存在もいれば、ただそこにいるだけの存在も、あるいは人々に幸運をもたらす存在もいた。
だが俺にとって、視えている妖がどんな存在であるかなど、どうでも良かった。人ではないことが、ひたすら恐怖の対象だった。
「ねぇ、聞いてる~?」
「っ!」
にゅっと目の前に現れて、俺は思わず体をびくりとさせながら足を止める。
しまったと思った時には、もう遅い。
女の口の端が、これ以上ないほどに上がる。
「やっぱり、見えてる~」
その嬉しそうな声を聞いた瞬間、俺は踵を返して走り出した。
道行く人が不思議そうにこちらを見て来るが、そんなのは構わない。それよりも後ろから追いかけてくる女に捕まらないことだけが、俺の頭いっぱいを占める。
俺は進んできた道を逆走しながら、道の横に現れた階段を駆け上がった。
二十段をゆうに超える石階段の先には、大きな赤色の鳥居が現れる。足がもつれそうになるのも構わずその鳥居に駆け込んだ瞬間、俺はその場に崩れ落ちた。
肩で息をしながら後ろを振り返ると、鳥居の前で立ち尽くす口裂け女が、こちらを悔しそうに睨んでいる。
「入れない、はいれない、ハイレナイ、ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ」
「それはこっちのセリフです」
地団太を踏み恨み言を呟く赤い女と俺の間に、赤い袴姿の青年が割って入った。俺を背に庇いながら、ホウキを構えている。
そして、女に向かって、ホウキを思い切り振り被る。
「悪霊退散!」
「ぎゃああああああああ」
ホウキは女に綺麗に入り、その瞬間、女は断末魔を響かせながら灰となって消えた。
辺りが静まると、袴姿の青年がくるりと振り返る。白い髪の上に生えた耳はぴくぴくと揺れ、仕舞われていた白のしっぽはもふりと袴の隙間からはみ出して左右に振られている。
「悠大、迂闊に反応しちゃ駄目って言ったでしょ!」
「今回のは不可抗力だよ」
「まったく、僕の毛で編んだ首紐も付けてないし。だからあいつらが干渉してくるんだよ。君はもう少し、妖たちに好かれる自覚をもって」
「あーはいはい、悪かったよ白狐!」
説教が始まりそうな青年を遮るように、俺は降参するように手を上げた。
立ち上がろうとすれば、彼はやれやれと溜息を吐いて手を差し伸べてくれる。
多くの妖は、俺にとって害でしかない。だが、家から程近くにあるこの稲荷神社の狐は違った。
狛犬ならぬ狛狐の、白狐。そして、今はどこかへ行っているらしい、黒狐。この二人の妖は、妖に困らされている俺の手助けをしてくれている。
まだ小学生の頃に、同じように妖に追われて駆け込んだ時からの縁だった。
かつて、なぜ助けてくれるのかと尋ねたことがある。曰く、それが稲荷神として祀られている九尾の狐の指示なのだとか。九尾の狐が俺を助けてくれる理由は不明だけれど、一人ではどうにもできないから、お言葉に甘えさせてもらっている。
「悠大。とにかく首紐は付けて出るようにして? いつか大きなことに巻き込まれるかも」
「あーうん、そうだな。いつもは付けてるんだけど、昨日風呂に入る時に外してから付け忘れてて」
「お風呂でも大丈夫って言ったでしょ! 僕の毛は特殊なんだ。ヒトにも見えないし、濡れもしない。付けてる感覚だって、ほとんどないでしょ?」
「うん、まあ、分かってるんだけど……」
白狐の毛で作られた首紐は、たしかに普段付ける分には問題が無かった。しかし、昨日は様子が違っていたのだ。夜に突然燃えるような熱さを感じて。それで思わず外してしまったのである。
首紐に変なところは見当たらなかったので、勘違いだったのだろう。今朝付けようと思っていたのだけれど、家を出る時にうっかり忘れてしまっていた。
なんとなくそのことが言えなくて、咄嗟に嘘を吐いてしまった。
「今日帰ったら、ちゃんと付けるよ」
「本当に、あんまり心配かけないでね。僕は悠大のこと、大事な友達だと思ってるんだから」
「ありがとう」
白狐の言葉に、俺は笑って礼を言う。
彼の言葉が本心かは分からない。稲荷神の命令が無ければ、彼らは俺を助けてくれる保証はないのだ。
こんなに良くしてもらっても、俺は白狐も黒狐も信じ切れずにいた。首紐が燃えるような熱さを発した時、この善良な白い狐を疑ってしまうくらいには。
それがいけなかったのだ。誰も信用できない弱い心は、魔を呼び寄せた。
事件は、それからほどなくして起こる。
「お兄さん、すまないけども、ちょっと手伝ってくれないかねぇ」
大学からの帰り道で、腰の曲がった老婆に声を掛けられた。床に置かれたスーパーの袋は、老婆が一人で持つには少し多めに見える。
声を掛けられたからには無視をするわけにもいかず、俺は老婆に近づく。
「どうかしましたか?」
「信号を渡ったとこの公園まで孫が迎えに来てくれるんだけども、そこまで行くのも大変でねぇ。良ければ、手伝ってくれないかい?」
「信号の……ああ、あそこですね」
俺は視線を信号の先にある公園へとやる。平坂公園と呼ばれるそこは、夜な夜な幽霊が出るとか、実は地獄に繋がっているとか、あまり良くない噂を聞く場所であった。
日中帯はごく普通の公園だが、陽が落ちかけて薄暗いこの時間には、どこか不気味な雰囲気を漂わせている。
「あそこで良いんですか? これから暗くなるし、危ないんじゃ」
「心配してくれてありがとねぇ。でも大丈夫、孫はすぐ来るみたいだから」
「……まあ、それなら」
俺は老婆の持っていた荷物をひょいと持ち上げて、行きましょうと老婆を促した。
信号は、それほど大きくない。けれど老婆の足取りでは、青色のライトが点滅するころに、ようやく対岸へ辿り着いた。
「お兄さん、力持ちだねぇ」
「そうでもないですよ。よし、じゃあ公園のベンチまで運んじゃいますね」
「ありがとねぇ」
俺は老婆とともに公園へと足を踏み入れる。一瞬、ざわりと鳥肌が立った。
無意識に首元に手をやる。しかし、そこに首紐は無い。あれからたびたび熱を発するようになり、結局取ってしまっていたのだ。白狐に相談しようと思っていたが、しないまま今に至ってしまった。
「あそこのベンチでいいかねえ」
「あ、はい。そうしましょう」
老婆が指したベンチは、わずかに黒く霧がかかっているように見えた。だが、瞬きをすればすぐにその霧は消える。
この公園に入ってから、空気が重い。けれど、どこからどう見ても普通の公園である。人がいないからそう感じるだけだろうか。
わずかな違和感を振り払いながら、俺は老婆の指定するベンチへやってきた。
老婆は、よっこいしょとベンチに座ると、俺も隣に座るように促した。
「孫はまだ少しかかるみたいだねぇ。お礼といってはなんだけど、このみかんを食べないかい?」
「いや、でも……」
「いいからいいから。さあ、どうだい?」
「……じゃあ、せっかくなんで」
老婆が腕を引きながら言ったので、俺は彼女の横に腰掛ける。
本心では、すぐにでもこの場所を出たかった。けれど老婆を一人にするのも心配だったし、彼女の厚意を無駄にするのも良くないと思ったのだ。
俺は、手渡されたみかんを剥く。そして一欠けら手に取った。
「そういえば、今日はアレしてないんだねぇ」
「アレ?」
「いつも首に付けていただろう? あの忌まわしい首輪のことさ」
忌まわしい首輪。何のことだろうか。そして、なぜこの老婆は、以前から俺を知っているような口ぶりなのだろう。
不審に思いながらも、みかんを一口食べた時。
全身の血が、まるで沸騰するような熱さを感じてうずくまった。ほとんど反射的に、みかんを飲み込む。
「あはは、食った、食ったねぇ! これであんたはアタシのモノさ!」
老婆はすくりと立ち上がり、たちまち醜い女へと姿を変えていく。やせ細り、今にも餓死してしまいそうなほどの体に、崩れ落ちかけている相貌。この世のものではないと、見ただけで分かる。
俺は全身に走る痛みに呻きながら、本能的に公園の出口を目指した。
「無駄さぁ、無駄だよ。ここは黄泉平坂。お前はもう、黄泉のモノさ」
実際に坂になっているわけでもないのに、足へかかる負担は急な地面を駆け上っているかのようなそれだった。
息も絶え絶えになりながら、それでもなんとか前に進む。
だが醜女は足早に追いかけてくる。
追い付かれる。そう思った瞬間、ふわりと桃の匂いが鼻を掠めた。
「だまれ、悪鬼。こいつはお前には渡さない」
誰かに腕を強く引かれ、気付けば俺は温もりに包まれていた。
その人物が誰かを見るよりも先に、老婆だった女を振り返る。
醜いそれは苦しそうに顔を手で覆い、呻いていた。
「おのれ、オオカムズミ。ゆるさん、ゆるさんぞ」
「お前は黄泉で大人しくおねんねしてな」
「ヒトの子よ、あんたはアタシと縁ができている。お前はアタシのものだ。あんたがこちらに来ないなら、この地へやって来た者に呪いをかけようじゃないか。アタシのものになるってなら、呪いは解いてやっても良い」
女の言葉に反応して俺が何かを言おうとする前に、大きな手が俺の口を塞ぐ。
そして、頭の上から威勢の良い声が、小馬鹿にした様子で投げられた。
「この地は俺の領域だ。ババアの好きにはさせないさ」
「あはは、馬鹿を言うんじゃぁないよ、オオカムズミ。お前はただの桃さ。お前にできるのは、せいぜいアタシの呪いを弱くすることくらい。それも、いつまでもできるもんじゃぁない。そうだろう?」
「はっ、それはどうかな」
「覚えておいで、ヒトの子よ。あんたはどこへ行ってもアタシから逃れることはできない。黄泉はいつでも、そこいらで口を開けているからねぇ。あんたが黄泉に近い場所に来たなら、次こそはきっと連れ去ってやるさね」
「くそババア、お前は俺がこの地に閉じ込めておくさ」
「オオカムズミ、あんたとの根競べといこうじゃないか。あんたの力が弱まった時、アタシは必ず再び葦原へ舞い戻る!」
「言ってろ!」
オオカムズミと呼ばれた男が、ダンと大きく地面を鳴らした。
重々しい空気は一瞬にして晴れ、爽やかな風が頬を撫でる。女の声は消え、木々のざわめきだけが、耳に入って来た。
男は俺を離し、心配そうに顔を覗き込んでくる。
見た目は人間に見えるけれど、瞳も髪も桃色だ。男らしい顔立ちとがっしりした体躯。鼻を擽る桃の香りが、彼の匂いなのだと分かる。
桃色の着流しに身を包み、緑色の帯を締めている。上から下まで、桃一色である。
「おい、大丈夫か?」
「……あ、ありがとう、ございます」
何が起こったのか分からず、とにかく混乱していた。
目の前の長身の男は間違いなく人間ではないし、俺に執着していた老婆も、人間ではなかった。
あとは何と言っていたか。黄泉平坂がどうとか。
混乱している俺の様子に、オオカムズミはがしがしと頭を掻いて、とにかく付いて来いと言った。




