第五章 人喰い絵画 ⑪
「ヒトの子よ」
眩しさが収まり、俺はゆっくりと目を開いた。そこは先ほどまでの暗闇と正反対の、真っ白な世界が広がっている。
声の主を探して辺りを見回すと、再び声が聞こえた。
「そなたには我の実体は見えておらぬ。だが、そなたは我を知っているはずじゃ」
「……エドワードの夢で見た、精霊の王様、ですか」
「王ではない。が、当たらずも遠からずじゃな。お前にちと、頼みたいことがあっての。あちらへ戻る前に、お前だけここに留め置かせてもらった」
「俺に頼みたいこと?」
「あの愚かな子への言伝よ。あやつには、我の声が聞こえぬのでな」
「聞こえない? どうしてです?」
「さてな。おおかた、己の罪の意識が、我の声を無意識に拒んでおるのだろう」
精霊王は、やれやれという口ぶりで言った。
夢の中では無慈悲な断罪人という雰囲気だったが、どうやら本物はもっと、俺の知る精霊らしい精霊だったようだ。
「それで、言伝とは?」
「うむ。三つある。心して聞くように」
俺は精霊王からの言伝を聞いて、思わず相好をほころばせる。一つは業務連絡だったけれど、残りの二つは、エドワードにとって朗報だったからだ。
きっとこの言葉は、エドワードの荷を軽くしてくれるはずである。
俺は強く頷いた。
「任せてください。必ず伝えます」
「うむ、頼んだぞ。セオリツヒメの末よ」
「え? 今、なんて」
俺の言葉は、まばゆい光に遮られて消えた。
俺が再び目を開くと、紫色の天蓋が広がっていた。そこが自分のために用意された部屋のベッドの上だと、すぐに理解する。エドワードの夢がループするたびに見せつけられていたので、嫌でも特徴を捉えてしまったのだ。
こうして起きるのは何度目だ、と自分に突っ込みながら、ゆっくりと体を起こす。
「悠大くん!」
横にいたらしいエドワードが、ものすごい勢いで駆け寄ってきた。
「あ、エド。よかった、戻って来られたんだな」
「よかったじゃないよ! 君、どれだけ寝ていたか分かっているのかな? 一ヶ月だよ!」
「い、一ヶ月……?」
「そうだよ。死んだように眠り続けて、もう二度と目覚めないかもしれないとまで言われて……。僕が、どれだけ心配したか……」
「うっ、ごめん」
「“あちら側”に心が取り残されている状態なのは分かったから、どうやって“あちら側”から連れ戻すかを考えていたところなんだ」
「行き違いにならなくてよかった」
「そういう問題じゃないよ! 本当に、まったく」
エドワードがそう言いながら、俺を強く抱きしめてきた。あまりの力強さに彼の腕をぺちぺち叩いてみたが、緩む気配は無い。
俺はひとまず、されるがままでいることにした。
一ヶ月経っていたとは思わなかった。あの精霊王と会話したのなんて、ほんの十分程度だったというのに。
“あちら側”とは時間の流れが違うのか、それとも、あの王との空間が違ったのか。
いずれにせよ、どうやら方々に心配をかけていたらしい。
ベッドの上には、クリスやウィットモア卿、そしてラミア王女などからねぎらいの贈り物が添えられている。
ピクシーからは、手紙が来ていた。字は書けなかったはずだから、このために練習してくれたのだろうか。
「心配かけて、ごめん。……俺、エドワードに言伝を頼まれてたんだ」
「言伝?」
「そう。あの時の、精霊の王様……じゃなかった、それに近い存在から」
「あの時の……って、まさか、エミリーの?」
「そう。それじゃあ、伝えるね。用件は三つ」
エドワードは、真剣な面持ちで俺を見た。
何を言われるのか不安なのだろう。何せ、自分を罰した精霊なのだ。良い話が来ると思えなくても、仕方がない。
だがエドワードを必要以上に怯えさせたくなくて、俺は努めて穏やかな口調のまま、話す。
「一つ目。ナイトメアは“消失”処分にすること」
「つまり、消せってことだね。まあ、妥当かな。あの子は、人間を殺し過ぎた」
「……大丈夫?」
「消すこと? 大丈夫だよ。悠大くんには伝えてなかったけど、今でもたまにそういうことはあるんだ。“あちら側”に還すことさえ難しいほど重い行いをしたなら、その子には消えてもらうしかない。“あちら側”とこちら側の、秩序のためにね」
エドワードは穏やかに微笑む。瞳の奥にわずかな痛みが見えたけれど、俺は見ないふりをした。
痛みというのは、時に目を背ける必要があることもある。きっと、許されないほどの悪さをした精霊を消すことは、そういう痛みなのだ。
フィリップは、エドワードがなぜ精霊を消す役割を与えられていたのかを知らないはずだと言っていた。でもたぶん、エドワードはどこかのタイミングで、自力で気が付いたのだ。それが秩序のためであり、家を存続させるためでもあるのだと。そしてこの優しい青年は、家を疎ましく思っていながらも、それを無碍にできなかったのだろう。
エドワードはそんな中で割り切ってきたのだ。彼の痛みも覚悟も共有できない俺が、口を挟むことではない。
「二つ目。善良な精霊を消した罪は消えない。だが、精霊とは本来気の塊のような存在であり、エドワードが消したからといってすべてが無に帰すわけではなく、やがて生まれ変わる。さらに、罰はすでに下されているから、これ以上の罰は過剰となる。よって、自らを罰することは禁ずる、だそうで」
「……それは、えっと、つまり?」
「“あちら側”は均衡を大事にするんだってさ。善良な行いには恩恵を、悪しき行いには罰を。それらは重すぎても軽すぎてもダメらしい。で、エドワードが自分を罰し続けることは、その均衡を崩すことになるから、やめるようにって」
「でも、僕はエミリーを失った絶望を抱えながら償えと、そう言われたよ」
「その後、罪滅ぼしとしてせっせと善行を積んだだろ? そして、“あちら側”でエドの名前は、精霊殺しの罪よりも、精霊を救っているということで広まってる。それがすべてだって。あと、あの時消した精霊も、ほとんどがすでに生まれ変わっているらしいよ」
「……はは、なんだ、それ」
エドワードは、気が抜けたように笑った。その表情は、付き物が一つ落ちたかのように、少し晴れた。
しかし、まだもう一つある。きっとこれで、彼は憂いをさらに拭うことができるだろう。
「三つ目。エミリーさんは、“あちら側”で結ばれて、子供が産まれて、幸せそうだったってさ」
エドワードは俺の言葉に、ぴたりと動きを止める。意味を少しずつ咀嚼しているのか、彼は長い間動かなかった。
数分経って、エドワードの瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「それ、は、本当……?」
「うん、本当。罰として“あちら側”に連れ去られたあと、憐れに思ったエルフの長が、エミリーさんに力を与えて面倒を見たんだって。無理に連れてこられた人間だから長生きはできなかったけど、四年生きて、その間に子供が産まれて、最後は家族に看取られながら亡くなったって」
「四年……」
「そう、四年」
「そっか。……そうなんだね」
エドワードは小さく、良かった、と漏らした。
エミリーがエドワードのせいで理不尽に晒された事実は消えない。それでも、その最後が少しでも幸せなものになっていたのならば。少しくらいは、救われた気持ちになっても許されるのではないだろうか。
エドワードは、俺の肩口に頭を寄せる。肩が濡れていくのを感じて、その頭をそっと優しく撫でた。
これで少しは、彼が前を向けると良い。
俺は涙がなかなか止まらないエドワードに、気になっていたことを尋ねる。
「エミリーさんって、もしかして婚約者?」
「そうだよ。父が懇意にしていた子爵の娘で、幼い頃からの仲だったんだ」
鼻をすんすんと鳴らしながら、エドワードは顔を上げないまま答えた。
俺は、ウィットモア宅で見た少女を思い出す。やはり、あの子なのだろう。ラミアの話では、婚約者は他で子を作り、エドワードは捨てられたとのことだったが。全てが完全に間違いだったわけではなかったようだ。
「政略結婚なのかと思ってたけど、恋愛だったんだな」
「政略ではあるよ。互いの家にメリットはあったからね。でも、僕たちはちゃんと、愛し合っていたと思う。そのせいで、彼女には取り返しのつかない迷惑をかけてしまったけど……」
「この家に来るのは五年ぶりだって言ってたよな。もしかして、この家を出た理由も?」
「そう。エミリーのことがあって、家を出たんだ。ほとんど自棄になっていて、もうどうにでもなれと思った。すでに家督は兄が継いでいたから、結局コンスタンス様は何もできず仕舞いだったみたいだけどね」
コンスタンスが本当に何かをしようとしていたかは、定かではない。だが結果としてコンスタンスは何もできなかったし、エドワードは洗脳を解いて今に至っている。コンスタンス亡き今、こうして実家に戻ってくることもできた。
きっと、コンスタンスが空の上から見ていたら、さぞ悔しさでハンカチを噛みしめているに違いない。ざまあみろ、である。見知らぬ淑女に思う言葉でもないが。
五年前に家を出た時、エドワードは精霊を返す方法を知らなかったという。つまり、二年前に店を開くまでの約三年の間に、その方法を学んだということだ。
三年。どこかで聞いた数字だ。だが、それがどこだったのか、俺はすぐには思い出せなかった。




