第五章 人喰い絵画 ⑩
「あああ!」
エドワードの叫び声で、俺はハッと目を覚ました。
いや、正確には覚ましたわけではない。むしろ、さらに夢を見たと言った方が正しいだろう。
俺はガバリと起き上がると、そこがエミリーという女性の使っていた部屋であることを確信した。
そして立ち上がり、一歩踏み出してみる。
足は軽やかに、前の地面へと下ろされた。
成功だ。やはり読み通りだったのだ。
俺が試したのは、俺自身が夢を見るという方法だった。ここが夢を見続ける空間ならば、もしかしたら夢を経由すれば、エドワードに干渉できるかもしれないと思ったのである。
先程までの俺は、ただエドワードの夢の中にいるだけの、俺の心だった。けれど今の俺は、俺が見たい夢の中にいる俺になっている。そして俺の見たい夢は、エドワードを夢から救い上げるというものだ。
何の確証も無かったけれど、どうやらこのすべてが曖昧な狭間の空間では、どんなこともやってみたら案外上手く行くのかもしれない。
それよりも。
俺はシーツを抱きしめながら嘆くエドワードに駆け寄った。
「エド!」
後ろから抱き締めれば、嘆く声が驚きに止まる。
「エド、迎えに来た。俺が分かる?」
「……悠大くん?」
「そうだよ。ああ、よかった、エドは今のエドなんだな」
「どうして、ここに? ここはエミリーの部屋で……あれ、僕はどうして悠大くんを知っているんだろう。僕たちは、知り合いだよね。でも、僕、いつ君と出会ったのか思い出せない……」
「混乱してるな。落ち着いて、エド。エミリーさんがいなくなったのは、もうずっと前だ。……温室の精霊を消してしまったのも」
「温室の、精霊……ああ、そうだ、僕は彼らを消してしまったんだ。だから、エミリーは僕のせいで」
わなわなと震えるエドワードを、俺はただ抱きしめて、落ち着かせるように背中を叩く。
「落ち着いて。全部、昔のことだ。今の話じゃない。ここはナイトメアの夢の中なんだよ」
「夢の、中……?」
「そう。そして、エドも、昔のエドじゃない。今のエドは、ロンドンでアンティークショップをやりながら、精霊を“あちら側”へ返す仕事をしているんだ。今は使用人が失踪した事件を追って、実家に帰省中だよ」
「アンティークショップ……」
「もう惑わされないで。ここはナイトメアの世界。エドを傷付けるためだけに作られた空間なんだ」
「分からない、ごめん、分からないんだ……ああ、でも、僕はまた、精霊を殺してしまう。エミリーを失う……。ああ、また、また、僕はあのシーンをやらされる」
エドワードが怯えるように己を抱きしめた。震える体は、彼の心が深く抉られている証だ。
景色が温室に切り替わる。そう、再び上映が始まるのだ。
「エド、やらなくて良い。ナイトメアの悪夢に負けないでくれ」
「僕は……僕は……」
怯えた表情が、すっと無表情へと切り替わった。彼はすくりと立ち上がり、温室を見つめる。
駄目だ、このままでは埒が明かない。
俺は意を決し、エドワードの前に出る。
「先に言っておく、ごめん」
「え?」
――バシン。
乾いた音が、温室に響いた。
兄譲りのこの目覚めさせ方法は、果たして弟に効果があるのだろうか。
少しでも何かが変わればという気持ちでエドワードを見ると、彼は目をまんまるく開いたまま、固まっていた。
やがて、世界にピシッと亀裂が走り、景色はぼろぼろと崩れ落ちてゆく。
その先に広がったのは、何もない真っ暗な空間だった。
エドワードは固まったまま、ゆっくりと俺を見る。そして、何度か瞬きをしたあとに、ハッと我に返った。
「エド、目が覚めた?」
「悠大、くん……」
「今度こそ、エドが帰ってきたかな」
「……うん。……ありがとう、僕の夢を終わらせてくれて」
「良いんだ。さ、ここから出よう?」
俺が促すように手を取ると、彼はスッとその手を解く。
そして、手を降ろして一歩下がった。
「エド?」
「ごめんね、悠大くん。僕は行けない」
「何を言って……」
「君と過ごしているうちに、僕は自分が大罪人だと言うことを忘れてしまっていたんだ。君と過ごす日々があんまりにも心地よかったから、僕でも幸せになれる気がした」
「エド?」
「僕にはそんな権利、無かったのに」
エドワードは俯いて、さらに一歩下がった。俺が追うように一歩前に出れば、再び一歩下がる。
それを何度か繰り返したあと、エドワードは床に座り込んだ。
俺からは、彼の表情は見えない。
「僕が何をしたか、君も見たんだよね?」
「それは……でも、エドの意思じゃなかっただろ。コンスタンスの命令だったって」
「言い訳だよ。僕はただ、自分が楽をしたかっただけだ。僕はあの人の命令に従って、何でもした。さすがに犯罪になるようなことは無かったけれど、それに近いこともあった。僕は、自分のために誰かを不幸にしてきた人間なんだ」
俺には、エドワードが悪いとは思えなかった。ほとんど洗脳に近い状態で、コンスタンスの命令を聞くように仕向けられていた。事情を知らされないまま、精霊を消す役割も押し付けられて。自分の頭で考えて、感じて、責任を取れるような状態ではなかったはずだ。
だが、何も罪がないとも、言えなかった。エドワードは実際に自分の手で人が不幸になるところを見たのだろう。精霊を殺した断末魔が、エミリーを失った絶望が、彼を苛まない日は無かったのだと思う。ナイトメアが幾度もこの夢を見せるのは、エドワード自身が深く心に刻み込んでいたからだ。
「僕が妖精を“あちら側”に還す理由を、話したことなかったよね」
「……うん」
「罪滅ぼしだよ。僕が消してしまった罪のない精霊への。そして、僕のせいで死んでしまったエミリーへの」
「……エミリーさんも、やっぱり亡くなったんだ」
「“あちら側”に引きずり込まれた人間は、そう長くは生きていられないんだ。精霊から招き入れられたなら問題ないけれど、エミリーは、僕への罰として、“あちら側”に放り込まれたから」
ジャックも言っていた。俺やエドワードは特別で、普通の人間は“あちら側”では生きていられないのだと。
エミリーは、この暗闇と孤独の中で、亡くなっていったのだろう。
「エド、それならここを出て、また精霊たちを救おう。エドにしかできないことだろ」
「……戻れない」
「どうして」
「ナイトメアに言われたよ。お前の罰は永遠の孤独の中で、苦しみ続けることだって。人間の世界にいれば、僕は君と過ごした日々のように、いつかはこの罪を忘れてしまう。幸せを感じてしまう。それでは、罰にならない」
「だから、自らナイトメアのところに行ったのか?」
「……」
無言は肯定だった。
ナイトメアの気に当てられたエドワードは、負の感情を増幅させていた。そこで唆されれば、この優しい人は、己を罰するために自らを差し出すだろう。
俺でさえ、影響を強く受けて判断が鈍っていたのだ。エドワードならばもっと強く惑わされることに、もっと早く気が付くべきだった。
だが、今更後悔しても仕方がない。ともかく、エドワードを連れ戻すことが先だ。
「エド、罪は消えない。精霊たちのことも、エミリーさんのことも、他の誰が許しても、エド自身が許せることじゃないと思う」
「……そうだね」
「でも、一人で背負わなくても良いと思うんだ」
「……え?」
「エド。俺も、……エドに言ってなかったことがあるんだ」
俺はエドの隣に座る。
そして、何もない暗闇を見つめながら、罪を告白するように続けた。
「俺も、逃げてきたんだ。自分の責任から」
「逃げてきた?」
「イギリスに来たのは、ワーホリのためだけじゃないんだ。もともと日本でいろいろあって、逃げるために、ここに来た。そして俺が逃げたせいで、たぶん今でも誰かが不幸になってる」
「……何があったの」
「……それは、言えない。エドに背負わせるために来たわけじゃないから」
「……一人で背負わなくて良いと言ったのは、君なのに」
「うん。だからさ」
俺は立ち上がって、手を差し伸べる。
「俺にも、エドの罪を背負わせてよ。そしたら、俺もちゃんと話すよ」
「それは……僕は、君に背負わせる気はないよ」
「なら、俺も自分一人で背負っていく。はは、罰を受けたエドより、現在進行形で不幸をばらまいている俺の方が、よっぽど罪深いな」
「そんなことは!」
エドが思わず立ち上がった。そして、そんな自分にハッとしたように静止する。
俺が差し伸べた手を、じっと見つめていた。
どうすべきか視線をさまよわせている。
「それに、この暗闇にいても、エドは永遠の孤独の苦しみに苛まれることはできないよ」
「……どうして、そう思うのかな?」
「俺が、ずっとエドの傍にいるから。エドがここから出ないなら、俺も出ない。だから、エドはこの暗闇で罪を償うことなんて、できないんだ」
「……僕が、二人でこの世界に居続けたいと願ったらどうするつもりかな」
困ったように、しかしどこか挑戦的に笑うエドに、俺はにやりと口の端を上げた。
「それでも良いよ。満足するまで付き合う」
「なっ! 君は大切な家族がいるだろう!」
「エドにも、いるだろ。フィリップさん、エドのことすごく心配してた。俺がここに来るのを手伝ってくれたよ」
「……僕と兄上は、君たち家族とは違う」
「同じだよ。エドたちが不器用なだけで、思い合ってるのは同じだ。それに俺も、生半可な気持ちでここまで来たわけじゃない」
「……」
エドワードは、再び押し黙った。
何度か視線を左右に揺らし、やがて諦めたように肩を落とす。
「悠大くんって、こういう時は結構強情だよね」
「そうかも。……嫌だったかな」
「……嫌だったら、とっくに離れているよ」
エドワードは、ふっと短く息を吹いてから、俺を見た。その瞳には、優しくたおやかな、しかし力強い光が戻っている。
そして、エドワードは俺の手を取った。
その途端に、辺り一面が眩しく光る。
俺とエドワードは思わず腕で顔を覆い、目を瞑った。




