第五章 人喰い絵画 ⑤
まだ明けやらぬ頃、俺は一人で温室を訪れていた。室内は春のような温度が保たれていて、程よく暖かい。
夕方、俺とエドワードはフィリアの部屋を訪れた。件の絵画はたしかに黒く濃い澱みが纏わりついていて、傍にいるだけで気分が悪くなるほどであった。まるで内側から負のエネルギーが暴走しそうな、そんな気持ち悪さがあった。
その雰囲気をもろに食らったのが、エドワードである。彼は絵画を見るなり膝から崩れ落ち、意識を朦朧とさせていた。今は自室で休んでいる。
逢魔が時は“あちら側”との境界が曖昧になる時間。精霊たちが干渉しやすい時間ということなのだろう。逆に言えばこちらも干渉しやすいわけだが、負荷が高すぎては危ない。
そんなわけで、絵画の精霊を返すのは日中帯ということになった。
俺はといえば、なかなか寝付けなくて、この温室へやって来たのである。
「なんだ、お前もいたのか」
室内のベンチに座りながら植物をぼうっと眺めていると、声を掛けられた。
視線だけで見れば、寝間着姿のフィリップが立っている。
「フィリップ卿、どうしてここに」
「私がどこにいようと、お前には関係ないだろ。ここは私の家だ」
「それもそうですね」
俺がそれだけ言って言葉を止めると、フィリップが怪訝そうに口を開く。
「……おい、なんだ。覇気が無いじゃないか。いつもの鬱陶しさはどうした」
「別に。フィリップ卿には関係ありません」
「なんだ、落ち込んでいるのか? エドワードが倒れたから」
「っ!」
俺はフィリップの言葉に、押し黙る。
図星だった。エドワードの役に立ちたいと思った矢先に、俺は何もできないのだと現実を見せられた。苦しんでいる彼の気を楽にする力なんて持っていないし、彼の代わりに精霊や“あちら側”に干渉することもできない。医学の心得も無いから、応急処置だってできない。ただ目の前で苦しむエドワードを、彼を取り巻く人たちを、眺めていることしかできなかった。
フィリップはフンと鼻を鳴らして、向かいのベンチに座る。
「あまり気にするな。あれは昔から時々、ああやって倒れていた。ここは”あちら側”と距離が近いから、普段より影響を受けやすいんだろう」
「昔から? 昔から無茶をさせられてたってことですか?」
「させられていた、か。お前、一体どこまで聞いているんだ」
「えっと、エドが悪い精霊を消してたってことは、聞いています」
「……そうか」
フィリップは、持参したワインボトルを開けてグラスに注ぐと、一口飲む。
視線だけで飲むかと尋ねられたので、丁重に断った。飲む気分にはなれない。
「我がグレンアーモンド家は古の時代から、精霊と言葉を交わし、領地の安寧を保ってきた。しかし中には悪さをする精霊もいてな。”あちら側”としても、人間の世で悪さをする精霊は処罰を下さねばならん。そこで、私たちの願いを聞き届ける代わりに、精霊を消す力を与えられたというわけだ」
「エドには、その力があった。だから、精霊を消す役割をさせられていたってことですね」
「……先々代、つまりは祖父の代には、精霊を消す力を持つ者はついぞ現れなかった。結果、”あちら側”は私たちに力を貸さなくなった。もともと干渉し合わないはずの精霊と人間が交わるには、それなりの秩序が必要というわけだ」
フィリップが、コトリとグラスを置いた。その視線は植物に注がれているが、見えているのは別のものだろう。
記憶のページを捲るように、視線を動かしている。
「父によれば、すぐに何かが起きたわけではなかったらしい。もともと、人間は自分たちだけで生きていけるように整えているのだからな。それほど困ることはあるまい」
だが、とフィリップが言葉を続ける。ワインを飲むペースが、少しだけ早くなっていた。
「父に代わってから、それは起きた。力の強い精霊が、いたずらをし始めたんだ。彼らにとってのいたずらは、人間にとっては大災厄にもなり得る。祖母や使用人たちが、次々と崖に飛び降りた」
「飛び降りた?」
「そうだ。精神に作用するタイプの精霊だったらしくてな。父はグレンアーモンド家の血を継いでいるから耐性があったが、祖母も使用人たちも、普通の人間だ。精霊は彼らで思う存分遊んで、必要なくなったら捨てていたらしい」
「そんな……」
「お前が精霊をどう思っているのかは知らないが、精霊とはそういう存在だ。気まぐれで、人の命を命とも思わん」
俺は、ウィットモア邸でのラミアを思い出した。彼女も自分の我儘のために、夫人のマーガレットを危険な目に遭わせていた。
フィリップだって、セイレーンの善意によって殺されかけた一人だ。
たしかに精霊たちは、人間の命が簡単に消えてしまうものだという意識は無いだろう。
だが彼らが悪いだけの存在でないことも、俺はよく知っている。
「父は精霊に、どうにか助けて欲しいと頼んだ。精霊に干渉する力が無い以上、彼らに動いてもらわねばならないからな。そこで、父は精霊に告げられたらしい。今回は助けるが、もし父の代で力を持つ子が産まれなければ、一族からは手を引くと」
「それで、エドが産まれたんですか?」
「そうだ。どこで出会ったのかは知らないが……フィリア様は大層強い力を持っていた。”あちら側”に干渉できる力を持ち、悪さをする精霊はせっせと追い返していたな。そして産まれた子供も、強い力をもっていた」
「エドが精霊を消していたのは、家のためってことですよね」
「ああ、そうだ。フィリア様がいなくなり、誰も精霊の対処をできなくなった。だから、まだ幼かったエドワードが、代わりをすることとなった」
「その話、エドは知っているんですか?」
「いや、知らないだろうな。私が当主になるからと教えられたことだ」
「ならエドは、何も知らないまま、精霊を消す役割を果たしていたんですね」
「……そうだな」
フィリップの言葉に、殴りかからなかった自分を褒めたくなる。
エドワードにとって精霊は、ただの不可思議な存在ではない。話して、笑い合える、友人だった。たとえ悪さをする精霊であっても、無感情のまま消すことなんてできなかっただろう。
でも、彼はやらなければならなかった。理由も教えられないまま、それが役割だからと。
あるいは、コンスタンスの洗脳によって、そうしなければならないと信じ込まされていたのかもしれない。
話を聞く限り、コンスタンスは名誉や権威を大事にしていたし、フィリップのことも大切にしていたはず。エドワードが力を使わなくなって精霊との距離が離れれば、家がこの先も保たれ続ける保証は無い。フィリップに代替わりする頃には廃れているかもしれないし、精霊のいたずらで多くの犠牲が出ているかもしれない。
コンスタンスが、そんな有様を望むはずがない。
すべては想像の域を出ないけれど、当たらずとも遠からずな気がしている。
「消すのは、悪さをした精霊だけですか?」
「ああ、もちろんだ。善き精霊まで消しては、それこそ精霊たちの怒りを買う」
俺はフィリップの言葉に、もしやと思い尋ねる。
「……フィリップ卿、この温室には精霊たちがいたのを御存じですか?」
「ん? ああ、そういえば、昔はいろいろな精霊がいたな。私もたまに見かけていたが、悪さをするような連中ではなかったから、気にも留めていなかったな。それがどうかしたか?」
予想通りの受け答えだ。やはりフィリップは、エドワードがこの温室で何をさせられたのかを知らない。そもそも、コンスタンスがエドワードを虐待していたことも知らなかったのだ。
いくらなんでも無関心すぎる気もするが、彼もまた、コンスタンスにそうなるよう仕向けられていたのだろう。フィリップを責めるのは、少しばかり不憫だ。
とはいえ、知らなかったで済ませて良いことではない。エドワードが抱える痛みは、フィリップも知るべきだ。この家の当主であり、彼の兄なのだから。そして、エドワードを大切にしたいと、フィリップ自身が思っているのだから。
エドワードはこんなこと望まないだろうと、分かっているけれど。
俺は、少しの後ろめたさを感じながら、重々しく口を開いた。
「ここにいた精霊は、エドが消したんです。あんたの母親の命令で」
「……なに?」
「エドワードは言っていました。精霊が集まっていたから、よく温室に来ていたと。たぶん、精霊たちとの時間を楽しんでいた」
「……何度か見かけた。いつもそこの隅で、隠れるように精霊たちと話をしていた」
「知っていたんですか?」
「……ああ、知っていた。だが、その時は気にも留めていなかったんだ。弟だというのは理解していたが……母に、生きる世界が違うのだから気にするなと言われていた」
「気にするなと言われて、本当に気にしないとは。今とは違って、随分素直だったようですね」
「皮肉を言うな。私とて、過去の自分が正しかったとは思わない」
「ああ、だから今、エドワードとの仲を深めようと頑張っているわけですね」
「……」
じろりとフィリップに睨まれる。そこには威圧的な雰囲気はなく、ちょっと傲慢なだけの年上の男がいた。
おそらく、これが素の彼。高い地位と横柄な態度で包まれてしまっていても、フィリップとて普通の人間なのだ。弟との距離を掴みかねて、近付こうと思ったら余計に怒らせてしまう、不器用な兄なのである。
彼が俺になぜ素を見せているのかは分からない。少しは信用されたのか、あるいはいつの間にか半分以上空いている酒のせいか。
だが、それが俺を無性に苛立たせた。
もしフィリップがもっと早くエドワードを気に掛けていたなら、彼は辛い経験をせずに済んだかもしれないのに。今更仲直りしようなどと、都合が良すぎるのではないか。
ささくれ立った心が、そのモヤをフィリップにぶつけてしまえと呟く。
「ユウタ?」
フィリップに名前を呼ばれ、俺は殴られたようにハッとした。
俺は今、何を考えていただろうか。エドワードのためと言いながら、フィリップに八つ当たりしていた。それがエドワードを傷付けると、分かっていたくせに。エドワードは、誰かが傷ついて喜べるような人ではないと、知っていたはずなのに。
俺は両の手で、頬をばしんと叩く。目が覚めた気がした。
「お、おい、なんだいきなり」
「ああ、すみません。俺、ちょっと、どうかしてたみたいで」
フィリップが引いたように頬をぴくぴくさせていたので、俺は肩を竦めて答える。
心が荒んでいた理由は分かっている。おそらく、あの絵画のせいだ。あれは負の気持ちを増長させる何かを持っていた。
俺はこの地に因縁のある人間ではないけれど、“あちら側”との距離が近い影響は少なからず受けているらしい。気を引き締めねば。
「それで、エドワードが母の命で精霊を消したと言うのはどういうことだ」
フィリップが気を取り直して尋ねて来た。
俺は全てを話すべきか悩んだけれど、中途半端に伝える方が良くないだろうと考え、はっきり告げる。
「そのままの意味です。あんたの母親が、この温室の精霊を消せと言った。エドは逆らえなくて……」
「……そうか」
フィリップが、悲痛な面持ちでがっくりと項垂れる。
精霊と親しんでいた姿を知っていたならば、きっと俺よりもずっと、その痛ましさを胸に受けているはずだ。だが、彼はその痛みを知り、背負うべきだと思う。
フィリップが悪いわけでないことも分かっている。だが、俺はどうしたってエドワードの味方だった。
これ以上、何かを話すことは無い。フィリップもそのつもりか、ヤケになったようにワインを煽っている。
俺は立ち上がって、温室を出た。




