第五章 人喰い絵画 ③
「げっ」
「げっとはなんだ。相も変わらず失礼極まりない男だ」
廊下に出ると、スリーピースに身を包んだ、ダークブラウン髪の男が通りかかった。俺の反応に、神経質そうな眉間の皺をさらに濃くする。
その様子に、俺はにやりと笑って胸に手を添え、深々と礼をした。
「これはどうも、フィリップ卿。お元気そうで何よりです」
「なんだ、その態度は。気持ち悪い、やめろ」
「いやいや、礼を弁えた対応をしようかと」
「はっ、今更取り繕ったところで、貴様の下品さは隠せはせん」
「あーそうですか。なら、遠慮なく無礼講でいさせてもらいますね」
「ちっ、ああ言えばこう言う」
「どの口が言うんだか」
フィリップとしばし睨み合ってから、互いに同時に視線を反らす。
俺は別に、彼が嫌いなわけではない。だが、人を小馬鹿にしたような態度を崩さない男を、そう簡単に好きになれるはずもなかった。
フィリップの方も俺を処断しないところを見ると、嫌われてはいないと思う。それにこの男、俺が日本人だからこの態度というよりも、たぶん、誰に対してもこの有様なのだろう。彼は高圧的だが、ロンドンでたまに受ける扱いのような気味悪さはない。
「エドの部屋に?」
「そうだ。お前も来い」
「言われなくても、そのつもりですけどね」
前を歩くフィリップの、伸びた背筋を追いかける。エドワードもそうだが、フィリップもやはり立ち居振る舞いは優雅だ。威圧感で隠れているけれど。歩く姿一つとっても、幼い頃から厳しく躾けられたのだろうと分かる。
フィリップの態度は気に食わないけれど、彼の言っていることが間違っているわけでもない。下品とまでは行かずとも、嫌でも自分の至らなさを痛感させられる。
エドワードの隣で当たり前のように過ごしているが、釣り合っていないことなど分かりきっていた。一朝一夕で優美な振る舞いを手に入れられるとは思っていないけれど、少しでもマシにしたいものだ。
俺が悶々と考えているうちに、俺の部屋からそれほど距離のないエドワードの部屋に辿り着いた。
フィリップが遠慮なくドアをノックする。
「おい、いるか」
声を掛けてからややあって、ドアが開いた。俺は現れたエドワードの姿に、ぎょっとした。
いつもは綺麗に着られているシャツは首元のボタンが外され、全体的に緩んでいる。髪も乱れ、前髪がはらりと顔にかかっていた。顔色はやや青白く、唇も少しではあるが変色しているように見える。
「え、エド、大丈夫?」
「え? ああ、悠大くん、いたのか。大丈夫だよ、ちょっと横になっていたから、情けない姿にはなっているけど。二人とも、入って」
エドワードは取り繕うように笑って、中へ促した。
大丈夫でないことは一目瞭然だ。普段ならば、いくら俺がフィリップの後ろにいたからといって、エドワードが気付かないなんてあり得ない。俺が自意識過剰というわけではなく、エドワードはそれくらい抜け目ないのだ。
室内に荒れた様子はなく、布団は使われた痕跡があるから、横になっていたのは嘘ではないだろう。だが、部屋に到着してから今まで、三十分も経っていない。そのわずかな時間で寝ていたとは思えないし、なにより、後から俺が来ることが分かっていたはずのエドワードが、俺を放って寝てしまうはずもない。
エディンバラを出てから、ずっと様子がおかしい。屋敷にトラウマがあるからだと思っていたけれど、それ以外の何かがあるというのか。
俺が尋ねようとした時、フィリップが先に口を開いた。
「おい、なんだその体たらくは」
「……ごめん」
「謝れと言っているわけではない。理由を言え」
「……ごめん」
「おい、答えになってないぞ」
「……」
エドワードはフィリップの顔を見ることなく、どこか虚ろな瞳をさまよわせ、俺と目が合うとサッと反らした。
フィリップは溜息を吐いて、どかりとソファに腰掛ける。
「まあいい。絵画について、情報を共有しに来た」
「後で兄上のところに行ったのに」
「着いたばかりの人間を動かすほど、私は非常識ではない」
寝室に尋ねて来るのは非常識ではないのか、と思ったが、俺は何も言わなかった。フィリップの厚意を無碍にする必要もない。
エドワードも深く突っ込むつもりはないらしく、近くの使用人にお茶を淹れるよう頼んでから、席に着いた。
かくして、俺とエドワードとフィリップは顔を突き合わせながら、件の絵画について話し合うこととなった。
「まず二ヶ月前に、西棟を担当していたローザが消えた。そこから使用人たちが、たびたび消えるようになった。共通点は西棟を担当した者たちだが、全員が消えたわけではなくてな。それで、特定が遅くなった」
「どうして絵画のせいだって分かったんだ?」
「西棟担当の使用人に、いつ何をしたかを記録させたんだ。すると、陽が落ちる頃にフィリア様の部屋を担当した者だけが、何名か消えていると分かった。そして、私が見に行ったところ」
「絵画に澱みがあったってことか」
澱みとは、精霊が憑いている時に出ているあの黒い靄のことだ。エドワードはいつもあれに触れて、精霊たちを実体化させている。
フィリップも視る目を持っているから、絵画を見て精霊の仕業だと確信したというわけだ。
「今、西棟はどうしているの?」
「フィリア様の部屋だけ避けて、いつも通り担当させている。今のところ、あれ以上の被害は出ていない」
「なるほどね。なら、今日の夕方に様子を見てみるよ」
「ああ、そうしてくれ」
フィリップが、話は終わったとばかりに立ち上がる。
そのまま入口へ向かう途中で、ぴたりと足を止めた。
そして振り返ると、じっとエドワードを見る。
エドワードは怪訝な顔で彼を見つめ返す。
フィリップは、言いにくそうに視線をさまよわせた後、意を決したようにふっと息を吐いてから、口を開いた。
「……面倒をかけてすまない」
エドワードがその言葉に、目を見開く。俺も思わず口をぽかんと開けてしまった。
プライドが富士山を超えてそうな彼が、まさか申し訳なさそうに謝るとは。
エドワードは衝撃で少し固まっていたが、慌てて首を横に振る。
「い、いや、僕にも関係あることだし……気にしないで」
「だが……本当は、戻りたくなかっただろう、こんな家」
「……遊びに来るって約束していただろ。もともと来るつもりだったよ。少し、形は変わったけど」
「……そうか」
フィリップはそれだけ言うと、部屋を後にした。
俺はエドワードを見る。エドワードは視線に気が付いて俺を見ると、眉を寄せながら苦笑した。
「まさか、兄上に謝られる日が来るなんてね」
「歩み寄りってやつ?」
「さあ、どうかな。……僕も、いつまでも過去に囚われていられないね」
エドワードが、紅茶を見つめながらそう言った。
俺はその言葉に応えず、気になっていたことを尋ねる。
「そういえば、フィリア様ってもしかして」
「ああ、僕の母の名前だよ」
「綺麗な名前だな」
「そうだね。ちなみに、兄上の母親の名前はコンスタンス」
「……気の強そうな名前だな」
「はは、そうかも。とにかく何でも自分が最優先じゃないと気が済まない人だったよ」
コンスタンスの名前を口にした時、エドワードの眉がわずかに動いたことを、俺は見逃さなかった。
たぶん、今でもその名を口にするのは嫌なのだろう。
エドワードはたしか、パブリックスクールを卒業するまではロンドンの別宅にいたはずだ。オックスフォードに進学してからは、オックスフォードにフラットを借りていたらしい。
大学を卒業してから五年前までの数年間は、この家に住んでいたようだが、それでも、それほど長い間この家にいたわけではない。。
それなのに、エドワードは明らかにこの家を拒絶している。何をされていたかまでは知らないが、そう生易しいものではなかったと想像が付く。
故人を悪く言うのは気が引けるけれど、知りもしない女性に悪態を吐きたくなった。
「日の入りまでまだ少し時間があるし、うちを案内するよ」
エドワードがそう提案してくれたので、二つ返事でそれに乗った。




