第四章 金色の宝物 ⑩
ソーホーといえば、中華街だ。横浜にあるような大きな規模ではないけれど、赤い門をくぐれば中華料理店や中華食材店が立ち並ぶ。ピカデリーからも程近いので、俺もたまに遊びに来ていた。
その一角、それこそ猫でもなければ気付かないような場所に、金色の指輪は隠されていた。ちゃんと土を被せたのは良いけれど、おかげで湿り気のある土がべったりついている。
おそらく価値を付けることさえできないであろう品物が、今まさに汚されている。
昔の俺なら卒倒していただろうが、今はもう、ちょっとしたことでは驚かない心を手に入れていた。
「ユウタ、そんなに離れたところでどうしたの?」
「あーいや、うん、何でもないんだ」
ピクシーに問われ、俺は曖昧に答える。
正直に言えば、あの金色って本物の金なのかなとか、汚したらどれくらい大変なことになるんだろうとか、いろいろなことが頭を巡っていた。しかたない。俺は最高でも、アルバイトでもらっている給与くらいの金額しか見たことが無いのだから。
「さて、回収したことだし、兄上のところに戻ろうか」
「うん、そうだな。……あっ」
俺は、言いたかったことを思い出して、足を止めた。
エドワードが、不思議そうにこちらを見る。
話す前に何か手土産が欲しかったので、俺はちらりと見知った看板へ視線を移した。
「フィリップさん、抹茶は好きかな」
「兄上? さあ、知らないな。でも、好き嫌いは無いと思うよ」
「フィリップ様でしたら、抹茶は大変好まれておりますよ。ミルク入りの方がお好きです」
突然の背後から声に、俺は驚いて危うく腰を抜かしそうになる。声を上げなかったことを褒めたい。
振り返ると、そこには相変わらず何を考えているか分からない表情をした、ブラウニーがいた。
「ブラウニー、どうしてここに?」
「近所の猫が、私を呼びに来たんです。なんでも、ピクシーを掴まえたから回収して欲しいとか」
「もしかして、ケットシーが?」
「話を聞くに、すぐに兄君のもとへ行かれる方が良いんじゃないかと思いやしてね。余計なお世話でしたかにゃ?」
「まさか! グッジョブだ!」
俺がぐっと親指を立てれば、ケットシーもぐっと同じポーズをした。
ブラウニーが、ピクシーとケットシーを連れて店に戻ってくれるというので任せると、俺は京都で有名な茶屋である辻に来た。
俺が何かを飲みたいのだと思ったらしいエドワードは、大人しく付いてくる。
ブラウニーが、フィリップは抹茶が好きだと言っていた。そして抹茶は、日本の食べ物でもある。
これは、友好の証になるかもしれない。
「エドは、抹茶好き?」
「よく飲むほどではないけど、日本ではよくお茶屋さんに行って、お菓子と一緒にいただいていたよ」
「ミルクは?」
「どちらでも。もしかして、買ってくれるの?」
「うん。……嫌じゃなければ」
「それなら、お言葉に甘えて。和菓子が無いから、ミルク入りをお願いしようかな」
俺は頷いて、抹茶ミルクを三つ購入した。
三つ頼んだところで、エドワードが怪訝そうな顔をする。
しかし俺はそれに応えず、一つをエドワードに持たせて二つは自分で受け取ってから、店を出た。
そして、くるりと振り返る。
「これは俺の勘だけど。……フィリップさんは、エドと仲良くしたいんだと思うよ」
「え? 兄上?」
名前が出ると思っていなかったようで、エドワードは眉の皺をより深くする。本当に、今日は表情が豊かだ。
俺は別宅のあるメリアルボーンエリアへ向かいながら、思っていたことを話した。
「フィリップさんは、エドが酷い目に遭っていたなんて知らなかったんだろ? きっと、どうして嫌われるのかも分かってなかったんだ」
「あんな威圧的に来られたら、過去のことが無くても好きにはならないよ」
「まあまあ。エドは実家に寄りつかないから、親交を深めようにも難しい。パーティーに招待しても、鳴かず飛ばず」
「それで、店にまで押しかけたって?」
「そうだな。たぶん、他に無いって思ったんだろ。エドのことだし、どうせ連絡先も教えてないんだろ?」
「……それは、そうだね」
「そして多分、あの人はとんでもなく不器用なんだ。だから、距離を近づける方法を知らない」
「……僕も、彼を拒絶していたしね」
「まあ、フィリップさんの言い方も大概だけどな。でもきっと、本気で絶縁されたくなくて、必死だったんだよ。エドのこと、無理に連れ戻したりしなかったんだろ?」
「たしかに僕が家出してからこっち、何かを言われたことはなかったな。パーティーの招待状も、去年一回来ただけだしね。無視したけど」
俺は信号を待ちながら、口元に指を当てて何かを考えているエドワードをちらりと見る。
フィリップの話をしても、以前のような固さは無かった。きっと、彼の中で少しずつピースが嵌まっていっているのだ。
「もしかしたら、指輪の件も」
「そうすれば、僕が家に帰ると思ったのか」
「多分だけどな。フィリップさん、当主として誇りを持ってるタイプだろ。指輪を失くしたと知った時も、首を括りかねないほど真っ青だった」
「そうだね。あの人は母親とは違うけど、当主であることも、家も、大事にしてる人だ」
「それなら、そんな簡単に当主を譲ろうとするわけがない。でもきっと、エドワードとどうしたら仲良くなれるか分からなくて」
俺の言葉は、エドワードには響いたらしい。
エドワードは、納得したように頷いたあと、はぁっと白い息を吐き出した。
「分かりづらいよ、そんなの」
「そうだな。俺もそう思う」
本当は、こんな手助けをするつもりなんてなかった。兄弟の問題だし、エドワードが嫌いだという相手と仲良くすべきだとは思わないからだ。
けれどはっきりと嫌いだと言われて、その痛みを表に出せないような人だと知ってしまえば。嫌われた理由を知り、諦めたように脱力する姿を見てしまっては。
ただ何も見なかったことにして流すなど、できなかった。俺だって、大切な妹を持つ兄なのである。
「別に仲良くしたくないならいいんだ。この抹茶ミルクは、俺が飲むよ。でももし、少しでも、歩み寄っても良いと思えるなら……」
俺の言葉は、隣から伸びた手に遮られた。抹茶ミルクが一つ、俺の手から消える。
エドワードを見ると、ふわりと柔らかく微笑んでいた。
「これは、僕が渡すよ」
「……うん、それが良い」
抹茶ミルクは今、三人の手の中に収まっている。
俺は、目の前でぽつりぽつりと言葉を交わす兄弟を、そわそわしながら見守っていた。
「……指輪、ありがとう。助かった」
「……別に。それが無くなると困るのは、僕も同じだし」
沈黙。たっぷり、三分。
「……パーティーは、来なくて良い」
「……うん、行くつもりはないよ」
再び沈黙。今度は、五分。
「……母上は、もういない。お前はグレンアーモンド家の者なんだ。あそこは、お前の家でもある」
「……だから?」
「……、……。……いつでも、帰ってきて良いんだ」
長い静寂。しかし、先程よりも空気は軽くなっている。
フィリップは、エドワードの返事を根気強く待っているようだった。
俺はといえば、すでに無くなってしまったカップを、まるでまだ存在しているかのように口元に寄せることしかできない。
どれほど経っただろう。
エドワードが、ぽつりと呟いた。
「夏頃、帰るよ。冬は、寂しすぎる」
「……そうか。待っている」
その時のフィリップの声は、どこか嬉しそうに響いていた。




