第三章 不思議な家 ②
「奥さんが不幸な目に遭われている、と?」
「はい、その通りです。昨日も階段から落ちてしまいまして。幸い、大事には至りませんでしたが」
背筋をピンと伸ばした体格の良い男性が、頷いた。高齢だが、俺よりもはるかに健康そうに見える。上品な英語は優しい音を響かせつつも、所々に不思議な覇気を感じる。その手は慰めるように、隣に座る奥さんの手を握っていた。
俺は話を耳で聞きながら、紅茶の入ったカップをテーブルに置く。今日はこの紳士の希望で、練乳入りだ。
「お心当たりはありますか?」
「実は先日、新居に越しまして。どうもその日から、何か変なことが起こるようになった気がしております」
「なるほど、それでクリスに、家の何かが原因ではないかと相談したのですね」
「はい。クリスくんの家とは、彼の父君がまだ学生だった頃からの付き合いでして。グレンアーモンド卿が蓄音機の件を解決したと聞き、ぜひ私の件もと思い、参じました」
エドワードは居心地悪そうにわずかに眉を寄せたあと、すぐに完璧な笑顔で促す。
「……どうぞエドワードと呼んでください、ウィットモア卿」
どうやら、グレンアーモンド卿という呼び方が嫌だったようだ。
俺はイギリスの社会はよく分からないが、卿と呼ばれる理由を知らないほど疎くもない。
エドワードが超金持ちの出身だとは知っていたけれど、どうやらそれで済む話ではなさそうだ。後で尋ねたら、彼は答えてくれるだろうか。
俺はエドワードの横顔をちらりと見た。
老紳士は、畏れ多いといった様子で、軽く頭を下げる。角度は小さかったけれど、恭しいと分かる仕草だった。
「それでは、私のことはヘンリーとお呼びください。それで、エドワード様。どうにか解決していただけますでしょうか」
「見てみないと何とも……。今もその家に?」
「いえ、今日から弟夫妻のところに世話になる予定です。マーガレットに何かあっては大変ですから」
ヘンリーはマーガレットの手を包み、見つめ合った。互いへの信頼が現れている。
この年齢になっても仲睦まじく暮らしているというのは、羨ましい。俺も結婚するなら、彼らのような関係を築きたいものだ。そして、明依にも。
俺は妹の彼氏のことを思い出して、少しだけ気分が悪くなった。妹離れできないのは問題だと分かっていても、そう簡単には割り切れないのが兄心である。
「では、いつ頃伺いましょう。場所は、カーディフでしたか」
「ええ、そうです。ご迷惑をおかけしてしまい、何とお詫びを申し上げたら良いか……」
「どうか気にしないでください、ヘンリー殿。出張対応もいつでも承っておりますので」
ヘンリーは深々と頭を下げた。マーガレットもそれに倣う。
エドワードが慌てて顔を上げるように言うと、二人は顔を上げた。
「ところで、そこの青年は使用人ですか?」
突然話を振られ、俺は驚いて思わずきょろきょろと、ヘンリーとエドワードを見る。
エドワードはこちらに向くことなく、少しだけ強張った声で問うた。
「なぜ、そんなことを?」
「ああいえ、グレンアーモンドがアジア人を雇うなど、珍しいこともあるのだなと」
あ、まずい。俺はエドワードの肩がピクリと動いたのを見て、そう察した。
俺は別に、周りが何を言おうが気にしていない。実際ロンドンの街を歩いていると、心ない対応をされることが無いわけではなかった。もちろん、ほとんどの人は親切で優しいが。聞いた話では、バスに乗ろうとしてわざと押されたり、道を塞がれたりすることもあるらしい。
もともと出不精だからそういう機会は少ないし、あったとしても今日は天気悪かったなくらいの感覚である。
しかし、このエドワードという男は違う。俺以上に、俺への不当な扱いに敏感なのだ。
俺が声を掛けようとする前に、エドワードは足を優雅に組んで、完璧に見える笑顔を作った。いや、完璧ではない。俺からすれば、いつもよりわずかに右目が閉じている。苛立っているのだろう。
「私は私ですから。彼は使用人ではなく、うちのスタッフです。何か問題があるなら、この話は無かったことに」
さすがは年齢を積んだだけのことはあるようで、ヘンリーは慌てて訂正するように首を振った。
「不快にさせて申し訳ない、そのようなことはありません。本当に、珍しいと思っただけでして。言い訳になるかもしれませんが、私はむしろ日本人に好感を持っております。日本人に大切な友を助けられたことがあるのです」
先程までの毅然とした老紳士が、そこら辺の気のいいおじいちゃんに見えて来た。狼狽ぶりが少し可哀想だ。
助け船を出すべきか悩んだが、俺が何かを言う前にエドワードが口を開いた。
「そうですか、それは良かった。こちらこそ、すみません。時々、私の大切な友人を愚弄する者がおりまして」
「とんでもない。エドワード様の心中、お察しいたします」
「ありがとうございます。……それで、伺うのは明後日でよろしいですか?」
「ええ、問題ありません。ありがとうございます」
ヘンリーは安心したように、ほっと肩の力を抜く。
心中を乱す原因になっているのは俺なので、とりあえず日常でたまに受ける理不尽のことは黙っておいても良いかもしれないなと思った。
俺が気にしていないことまで、彼の心を煩わせたくはない。
それからほどなくして、ウィットモア夫妻は店を後にした。




