第三章 不思議な家 ①
「へぇ~、僕のことは放ったらかしにして、随分と楽しんだみたいじゃない」
ピクシーが、机の端に座り足をぷらぷらさせながら、恨めしそうにそう言った。
「ごめんって。でもほんと、すごかったんだ。俺、乗馬したのなんて、初めてだよ。エドが俺の馬を引いてくれたんだよ」
「それでバイブリーに行ったって? 貴重な経験ができて良かったですね~」
「拗ねないでくれって。ほら、お土産にチーズも買ってきたんだ。ちゃんとコッツウォルズで作られたチーズだぞ」
俺は手に持っていた袋から、チーズの塊を取り出した。
コッツウォルズから帰国してすぐに夏季の休みに入ってしまったので、彼と会うのは実に三週間ぶりだ。
ちなみに、休日には絶対に店に入るなと言われている。曰く、ピクシーに遊びをせがまれたり、働き始めたりするのが目に見えているからだそう。
「ほら、どうぞ」
「ユウタ、君はなんて最高なんだ! 君は僕の心の友だよ!」
欠片を剥いて分けてやると、ピクシーは上機嫌になる。現金な奴だ。
今日はもう店は閉まっていて、給湯室で少し遅めのクリームティーをしていた。
給湯室とはいえども、テーブルと椅子は置かれている。装飾が施された木の丸いテーブルと椅子だが、これも高そうである。
テーブルの上には、皿に乗せられたスコーンに、ブラウニー特製のクロテッドクリームといちごジャム。紅茶にはもちろんミルクが入っている。フォートナム・アンド・メゾンのアフタヌーンティーブレンドである。
イギリスに来てから紅茶にも詳しくなったなと思いながら、スコーンを割り、クロテッドクリームといちごジャムをたっぷりと付けて、ぱくり。芳醇でクリーミーな香りが鼻を抜け、優しい酸味が舌をつつく、贅沢な瞬間だ。
ピクシーと一緒に食事を楽しんでいると、携帯がぶるりと震えた。画面上には、メッセージアプリのライムの通知。どうやら、メッセージが来ているらしい。母と妹からだ。いつもならば家族グループで来るのに、珍しい。
俺はメッセージを開いた。
『明依に彼氏ができたみたい! 勉強が疎かにならないように、悠大から言ってやって』
『お兄ちゃん! お母さんが、恋人よりまず勉強しろってうざい! お兄ちゃんからも文句言ってよ!』
俺は持っていたスコーンをぼとりと落とす。これは一大事だ。
「あれ、悠大くん? どうしたの、固まって」
たまたま給湯室へやって来たエドワードが、俺の様子を見て不思議そうに尋ねてきた。
俺はギギギと音がしそうな動きで、エドワードを見る。彼がぎょっとした顔をしているから、きっと俺は今、とんでもない形相なのだろう。
「ゆ、悠大くん……?」
「エド、聞いてください……、い、妹に……妹に彼氏ができました……」
「それは、おめでとう……?」
エドワードがおそるおそるといった様子で口を開いた瞬間、俺は机に突っ伏した。本当は机も叩きたかったけれど、賠償金が怖くてやめた。
俺はそのまま、恨みがましくエドワードに言葉を向ける。
「おめでとうなわけがないですよ! 妹はまだ十七歳ですよ? それなのに、それなのに彼氏だなんて……」
「いや、そのくらいの年齢なら、彼氏はおかしくないんじゃないかな、なんて……」
「妹は美人なんです! 俺とは五歳離れてるんですけど、それはもう小さい頃から可愛くて。俺の後を付いて回り、俺の真似をして、俺と一緒じゃなきゃ寝ないって駄々を捏ねたこともあるんですよ!」
「そ、それは素敵な話だね……」
「イギリスへ来るのだって、空港で泣きながら見送ってくれたんです。私は大学受験がんばるから、お兄ちゃんも頑張ってねって送り出してくれて……毎日は無理でも頻繁にやり取りをして……」
「それは、うん、優しい妹さんだね」
「そうなんです! 器量も良くて、運動もできて。勉強はちょっと怪しいけど、志望校に合格するんだって意気込んで。それなのに、それなのに!」
俺はがばりと顔をあげて、エドワードを見た。彼は片眉を上げ、上げてない方の目を半分閉じている、完全にドン引きしている顔をしていた。
しかし、今の俺はそんなこと構わない。エドワードは雇い主とか、距離感がどうのとか、そんなことは関係ないのだ。
俺は訴えるように声を張った。
「彼氏ができたなんて!」
信じられるだろうか。目に入れても痛くない、両親とともに大切に育んできた妹の明依が、誰かと付き合うなどと。
それに、御年十七歳になるまで、明依が誰かに恋愛的な関心を抱いている姿を見たことが無い。つまり、これが初恋なのだ。心配の方が勝るに決まっていた。
幼少期に恋をするのとはわけが違う。結婚だって視野に入れる相手になるかもしれない。
しかし、その男は明依のことをどれだけ知っているのだろうか。
「きっと妹が美人だから、それに寄って来た蚊ですよ。妹のことも、よく知りもしないんだ。そうに違いない。ふふふ、飛んで火にいる夏の虫とはこのこと……俺がしっかり見極めて……」
「ストップ!」
エドワードが、俺の目の前で、手をパシンと合わせた。
俺はハッとして、言葉を止める。
「す、すみません……」
「うん、気にしないで。……それにしても、悠大くんの家族が仲良いことは知っていたけど、まさか妹さんのことでこんなに取り乱すなんて知らなかったよ」
「あ、その……すみません」
「謝らなくて良いって。ほら、お茶を飲んで落ち着こうか」
エドワードに促されて、俺はティーカップに入っていた紅茶を口に含む。優しいミルクの味が、じんわりと心を落ち着かせてくれた。
ほぅっと溜息を吐いてから、俺はエドワードを見た。
「うち、共働きで、俺が妹の面倒を見てたんです。だから、つい親みたいな気持ちになっちゃって」
「なるほどね。それで、彼氏ができて慌てたんだ」
「はい。……受験もあるし、心配だ」
「妹さんは、心配になるような子なの? うっかりしているとか」
「全然! 俺よりしっかりしてますよ。たまに怒られてたくらい」
「それなら、妹さんを信じてみても良いんじゃない? きっと、変な男は選ばないよ」
「うっ、そ、そうかもしれません……」
エドワードに諭されると、本当にそういう気がしてくるから不思議だ。
たしかに、あの明依がそんな変な男に捕まるとは思えない。むしろ、恋愛より条件で選びそうだ。
それに、兄としては可愛い妹の味方をしてやりたい。母には悪いが、ここは明依側に付かせてもらおう。
俺はライムを返そうと携帯を開き、ふと気になってエドワードに尋ねた。
「エドは、兄弟はいるんですか?」
「いるよ、兄が一人ね」
「お兄さんか。エドは、あんまり弟って感じはしないですね。ご家族とは、仲は良いんですか?」
俺はぽちぽちと返信をしていたが、エドワードからの返事が無かったので、彼を見た。
「……仲はあまり良くないかな」
綺麗な微笑みだ。出来の良い彫像のような、芸術的なアルカイックスマイル。エドワードを知らない人ならば、きっとただの微笑だと思うだろう。それ以前に、この端整な顔立ちに気を取られてしまうかもしれない。
これは、やんわりとした、けれどはっきりとした拒絶だ。これ以上話を続けてくれるなという、言外のメッセージ。つまりそれだけ、エドワードにとって、良くない話なのだろう。
俺はその微笑みの意図に気付かなかったふりをして、できるだけ自然に話を続ける。
「そうなんですね。なら、俺はエドの弟になろうかな」
「え?」
「あっ、いや、俺、お兄ちゃん欲しかったし。……すみません、変なこと言って」
俺は慌てて取り繕いながら目を反らした。
何を言っているのだろう、本当に。弟になるなどおこがましいにもほどがある。気分を悪くしたかもしれない。
俺は、まるで処刑台に上る囚人のような気持ちで、ゆっくりとエドワードを見た。もし嫌がられている様子があったら、首を括るしかない。
だが、エドワードはくすくすと笑っていた。作られていない自然のそれに、俺は肩の力がふっと抜ける。
「そんな、笑わなくても……」
「いや、まさか君がそんな風に思ってくれていると思わなくて。いいね、弟か。それなら、困った時はなんでも、この頼れるお兄さんに相談するんだよ」
慈愛に満ちた瞳に俺は、心の奥底がくすぐられるのを感じた。
きっとこの表情は、ただの従業員や友人では見られないものだ。仲が悪いという兄も見たことは無いかもしれない。
暫定、俺だけ知る特別な表情。これほど嬉しいことはない。
俺は、元気よく頷く。
「はい! ……あっ、さっそく一つお願いしたいことが」
俺は名案が閃いて、携帯のカメラを起動する。
エドワードが不思議そうに首を捻った。
「なんだい?」
「写真を撮っても良いですか? 妹に送るんです」
「良いけど、なんで?」
「エドを見たら、普通の男なんてそこら辺の雑草にしか見えません。妹が、もし顔で相手を選んでるなら、目を覚まさせてやろうかと」
「結局、彼氏の件は諦めてなかったんだね……」
エドワードは、呆れながら撮影を了承した。
妹に写真を送ってすぐに『お兄ちゃんウザイ』と返信が来たことは、エドワードには秘密である。




