第二章 いたずらな蓄音機 ⑥
クリスは目を覚ますなり、蓄音機に駆け寄ってすぐに音楽を流した。
そして、エドワードに思い切り抱きつく。
「ああ、本当に直ってる! ありがとう、エド!」
「う、うん、わかった、わかったから。あんまり締め付けないでくれるかな……」
苦しそうにはしているが、エドもまんざらでもないようで。抱擁は、たっぷり五分は続いたと思う。
室内には、オーケストラが演奏するヴォカリーズが流れている。ラフマニノフ作曲のそれは、どこか物悲しい。
二人の抱擁が大切な友人二人の別れのシーンにさえ見えて、それが少し面白かった。
曲が終わり、クリスが曲を変えるために離れる。エドワードはそのまま席に着いた。
タイミングよくメイドが紅茶を持ってきてくれたので、音楽を聴きながらティータイムとなった。
「ラ・カンパネッラだ」
「おや、ユウタは音楽に詳しいの?」
「いえ、全然。でも、この曲は有名だから。ピアノですけど」
今流れているのは、ヴァイオリンだった。しかし、俺の記憶にあるこの曲は、ピアノである。同じ曲でも、雰囲気は少し違う。
俺の言葉に、クリスが笑った。
「はは、パガニーニが泣くね。これはもともと、彼の曲なのに」
「そうなんですか?」
「うん、リストが編曲したんだ。私も昔弾いたなぁ。さすがに、指はもう回らないかな。エドはどうだい? ヴァイオリン、まだできる?」
「さあ、どうだろうね」
エドワードが微笑んだ。でもこの微笑みは、これ以上聞いてくれるなというメッセージである。証拠に、彼の瞳は笑っていない。
だがクリスは気にしていないようで、俺に話を振ってきた。
「ユウタは、エドのヴァイオリンは聞いたことあるかい?」
「いえ。というか、弾けるのも知らなかったし……」
「もったいない! エドのヴァイオリンは、聞くだけでどんな口説き文句よりも簡単に、心を奪っていくぞ。この美貌すら、音の前に跪くだろうね」
「ちょっとクリス、それは言い過ぎだよ」
「いや、そんなことないね! 私は初めて君の音を聞いた瞬間から、もうずっと心を囚われているんだから!」
クリスが、厄介オタクのような早口で熱弁した。エドワードは止める気も失せたようで、静かに紅茶を飲んでいる。
俺はクリスの圧に引きつつも、彼がそこまで言うなら聞いてみたいと思った。
しかし、エドワードは完全に壁を作っている。そんな彼に無理に頼むのは気が引ける。
俺のジレンマを打ち破ったのは、クリスだった。セッションをしよう、と言ったのだ。
「私がピアノ、君がヴァイオリンだ。うちには良い品がいくつかある、好きなのを選んで良いぞ」
「クリス、僕は本当にしばらく触ってないんだ」
「なにもラ・カンパネラを弾こうと言っているわけじゃない。君の十八番で良いさ。学生時代、私たちは何度もセッションをしたじゃないか。ほら、ユウタだって聞きたいだろ?」
「は、はい……」
「ほら見ろ! エド、この可愛らしい青年に聞かせてやろうじゃないか!」
クリスのはきはきと話す明るい声は、鬱陶しさを際立てていた。だがきっと、クリスのこういうところも、エドワードは好きなのだろう。もし嫌ならば、二十年以上も交友関係を続けていないはずだ。
エドワードが俺を見た。俺はできる限り、捨てられた子犬のような眼差しで見つめ返す。本音を言えば、やっぱり聞きたいからだ。
エドワードは溜息を吐いて、立ち上がった。
「分かった。少しだけだからね」
「さすがはエドだ! 音楽部屋へ移動しよう!」
上機嫌に立ち上がったクリスが手早く蓄音機を止め、踊るような足取りで部屋を出た。
その後に、やれやれといった様子でエドワードが出て行く。
俺は、その後ろを追った。
「あ、あの……すみません、無理を言って……」
「いや、良いんだよ。本当に嫌なら、弾くなんて言わないさ。ただし、ヴァイオリンを持つのは本当に久しぶりなんだ。多分、一年以上経っている。下手でも笑わないでね?」
「笑うわけないですよ! 俺は鍵盤ハーモニカとリコーダーしかできないんです。失敗したって、たぶん気付かないです」
「ははっ、それなら安心だね」
エドワードが顔をほころばせる。嬉しくなって、俺も笑った。




