第1章 ファル公爵の旅立ち【6】
どうぞお大事に、と深々と辞儀をして医師が去って行くと、入れ替わりでジークベルトが険しい表情で部屋に入ってきた。そんなジークベルトの様子に苦笑しつつ、エレンは俯いたまま言う。
「殺鼠剤だそうです。まるで小説ですね。医師が解毒の魔法を使えて助かりました」
解毒の魔法は有用性が高いが、使用したあとに体に多少のだるさが残るのが玉に瑕だ。ベッドにもたれるエレンのそばに立ち、ジークベルトは溜め息を落とす。
「護衛を雇い入れたことで、焦って行動を起こしたか」
「そういうことでしょうね。さすがに毒を盛られるのは想定外でした。完全に油断していましたね」
食事に細工をされる可能性は、考えていなかったわけではない。ただ、それはかなりリスクの高いことだ。すぐに犯人はわかるだろう。その危険を冒したとしても、エレンの暗殺を遂行したかったということだ。いままで行われなかったことが起きたというのは、ジークベルトがこの屋敷に来た影響を受けたということだろう。毒を盛られることは、いかに優秀な護衛でも止めることができないからだ。
「……毒を盛るのは強硬手段だ」ジークベルトが言う。「お前はこの屋敷に居続けることはできないんじゃないか?」
「……どうでもいいです」
エレンが小さく呟くように言うと、ジークベルトの眉がぴくりと震えた。エレンは自嘲気味な笑みを浮かべる。
「使用人は全員、信用しているつもりでした。運良く助かってしまいましたが、やはり私が死んだほうが都合の良い者が多いようです。でも、私には行く場所がありません。この屋敷を出たところで、路頭に迷うだけです」
「…………」
ジークベルトは眉間に深いしわを寄せたあと、不意に踵を返した。おもむろにドアの外の衛兵に声を掛けると、かしこまりました、と衛兵が応えるのが聞こえた。戻って来たジークベルトにエレンが首を傾げても、彼は応えず椅子に腰を下ろし、黙ったままであった。
* * *
衛兵の声でエレンは目を覚ました。どれくらい眠っていたのだろう。体のだるさはすっかり取れている。
衛兵に声を掛けて戻って来たジークベルトが、エレンの膝に箱を放った。エレンが首を傾げていると、ジークベルトは椅子に腰を下ろし、静かに口を開く。
「爵位を放棄する気はあるか?」
エレンは言葉に詰まった。彼の意図が読めない。
「その気があるならこの場で放棄しろ」
「……それはできません」
以前、叔父にも同じ質問をされたことがある。もしエレンにとって爵位が重荷なら、他の人間に預ける方法もあると叔父は言った。秘密裡に事を進めれば、エレンが爵位を持たないと知られず預かった者の命が狙われることもない。しかしそれでは状況は変わらない。他人を巻き込む可能性は排除するべきだと、エレンはそれを断った。彼の命を狙う者にとって、エレンが爵位を有しているかどうかは関係がないのだ。危険はすべて自分が請け負う、それでいいとエレンは思っていた。そうするのが最善だと。だが、そう自分に言い聞かせていただけだったのかもしれない。そうでなければ、これほどまでに心が揺さぶられることもないはずだ。毒で体が弱っているせいだろうか。それとも、ジークベルトの鮮やかな青色の瞳に、心の奥底まで見透かされているような気分になるからだろうか。
「爵位の放棄は争いを生みます。正当な後継者が継承しなければなりません。中途半端な放棄はできません」
「それなら、この屋敷を出るぞ」
エレンはジークベルトを見上げた。もともと表情が読み取りにくいと思っていたが、何を考えているかがわからない。だが、とても真剣な表情をしている。
「ここにいるから命を狙われる。屋敷の者を散開させろ」
「……ですが……」
「なにもクビにしろを言っているわけじゃない。使用人だってここにいないほうが身の危険は少ないだろ」
確かに、屋敷に石が投げ込まれるのは使用人にとっても危険なことだ。命を狙われているのがエレンだけだったとしても、使用人に危険が及ぶ可能性は高い。そうであれば、エレンが屋敷からいなくなることが、この公爵家に平穏をもたらす唯一の方法なのだ。




