第1章 ファル公爵の旅立ち【5】
「おかえりなさいませ、エレン様」
廊下の掃除をしていた侍女長が優しく微笑んだ。事件後、ファル公爵邸から去った使用人は多く、残ったのはエレンが幼い頃から仕えている者だけだった。その残った使用人たちは、エレンのことをよく気にかけてくれる。
エレンが微笑み返すと、そうですわ、と侍女長は手を叩いた。
「ご夕食は、せっかくですからジークベルト様とダイニングでお過ごしになられてはいかがですか?」
「護衛対象と同じテーブルには着かない」
ジークベルトが素っ気なく言うので、侍女長は残念そうに眉尻を下げる。それはそうだろう、と考えつつ、エレンは肩をすくめた。
「たまには誰かと食事をするのもいいかもしれません。ぜひお付き合いいただけませんか?」
「…………」
「お願いします。今日は叔父もいませんし」
「……わかった」
渋々といった様子でジークベルトは頷く。融通の利かない護衛ではないようで、エレンは少しだけ安堵していた。侍女長は顔を綻ばせ、ご用意いたします、と辞儀をして去って行った。
「すみません、無理を言って」
「お貴族様のわがままには慣れている」
「そうですか。助かります」
ジークベルトの気負わない態度は、とても気が楽だ。ファル公爵家はかつて筆頭公爵家だった。それが父の罪によって地に落ちた。それでも、これまでの護衛はエレンをファル公爵として扱った。エレンは堅苦しいのが苦手で、これくらいがちょうどいい。
ジークベルトは一切の隙がない。庭園での反応も含めて、熟練度が高いことは、経験のないエレンでもよくわかる。おそらく、いままで何人もの対象を護衛してきたのだろう。
斜交いに誰か居たとしても、食卓は相変わらず静かだ。ジークベルトは口数の多い性質ではないのだろう。それに加え、今日が初対面だ。まだ楽しく会話をするような間柄でもない。エレンもそこまでの関心はない。おそらく、それはジークベルトにとっても同じことだろう。
パンを千切りながら、エレンはふと思い立って言った。
「ジークベルトさんは冒険者としてやってきたのですか?」
「俺は傭兵だ」
「おや、そうなんですね」
尋ねておいてなんだが、冒険者と傭兵の何が違うのか、エレンにはよくわからない。そもそも、冒険者というものもなんなのか、その詳細は知らない。なぜ何もわからないことを訊いてしまったのだろうか。エレンは首を傾げた。
誰かと食卓をともにするのが久しぶりだったからかもしれない。叔父が居てくれることもあるが、それも何度もあることではない。普段はひとりで、自室で食事を取っている。久々にダイニングでエレンに食事を提供する料理人たちも、どこか嬉しそうな表情をしているように見えた。
それから特に会話もなく、黙々と食事は続く。叔父は屋敷から出られないエレンに、街での出来事を話してくれる。それも特に興味があったわけではないが、人間、人と会話を交わさない日が続くと心が重たくなるものである。
家族以外の誰かが斜交いに居るというのは少し新鮮だった。気のせいかもしれないが、料理にもいつも以上に気合いが入っているように感じられた。きっと、気のせいではないのだろう。
「公爵邸のお食事はいかがでしたか?」
「悪くないんじゃないか」
「それは良かったです」
部屋に戻ろうと立ち上がったとき、ぐらりと視界が揺れた。足に力が入らず、侍女が悲鳴を上げる。そのまま倒れ、誰かに受け止められたのを感じると同時に意識を失った。




