にがい、にぎりめし
世の無情は、にぎりめしの味さえかえてゆくのだった。
第3話
島原の「原城」を囲む海は、灰色に濁り、冷たく凍てついていた。
寛永十五年、二月。
明石藩十万石の総司令官(惣軍奉行)として出陣した宮本伊織は、朱塗りの具足をまとっていた。
二十歳をいくつか超えた彼の顔は、戦場の硝煙に洗われて、お城にいた時よりもさらに冷徹な厳しさを帯びている。
けれど、その頑丈な鉄の胸当ての下には、あの小さく四角に折り畳まれた藍染めの前掛けが、今も肌守りのように仕込まれていた。
「伊織殿……城内の奴ら、そろそろ限界のようでござるな」
隣に立つ老臣のすぐ後ろには、かつて家老室で身の上噺を涙ながらに語った坂崎の姿があり、
その傍らには、明石藩の兵(足軽)として志願した、あの坂崎の倅の姿もあった。
坂崎殿の倅は、
あの「丸いにぎりめし」を食べ、目を覚ましたのだ。
坂崎の倅は、
今、飢えた敵を前にしても、一人の生活する人間としての目を崩さずに戦場に立っていた。
それは、紛れもなく、坂崎のお家を、背負った、一人の漢の姿であった。
だが、城内の現実はあまりにも凄惨だった。
島原城は、三方を海に囲まれた天然の要塞であり、
一揆軍の抵抗は凄まじかった。
一回目の総攻撃では
幕府軍の総大将が戦死するという歴史的大敗を喫し、
今や日本全国から集まった十二万という途方もない大軍がこの地に投入されていた。
伊織の鋭い「頭脳」は、夜の海を見つめていた。
城の地下にある隠された抜け穴から、夜な夜なキリシタンたちが這い出し、岩場にこびりついた生臭い海藻を毟り取っては口へ運んでいる。
彼らは皆、大人の都合で
「豊臣秀頼の末裔」
に祭り上げられた天草四郎という、ただの十六歳の少年を神輿にして、立て籠もっているのだ。
彼らは
「いつかスペインの黒船が自分たちを救いにやってくる」
という決して叶わぬ夢を見て、声を枯らして祈っていたが、灰色の空はただ冷たく沈黙しているだけだった。
「伊織殿、昨夜、城内から投降しようとした者が、身内に見つかり城壁の上で首を撥ねられました」
ただ
「生きたい、飯が食いたい」
と願った人間たちが、同胞や身内に殺されていく。
さらに城壁の上ではキリシタンの指導者たちが、空中から干し柿や海藻を取り出し
「神の恵みだ」
と人々を熱狂させていた。
だが、幕府軍の陣営には、城内から矢文で惨状を密告し続ける
南蛮絵師・山田右衛門作というスパイがいた。
その報告によって、伊織はすべてを知っていた。
(あれは、袖の裏に仕掛けがあるのだ)伊織は、
かつて家老室で由比正雪の手品を見破った時の自分の言葉を、苦々しく思い出していた。
それは、手品のタネが、ここでは、飢えた人々を極限まで縛り付け、逃げる自由すら奪うための悪魔の嘘として使われている。
大人たちの嘘の神輿に担がれ、震えている天草四郎の孤独が、伊織には痛いほど分かった。
伊織は無言で陣幕の奥へ下がると、私物の風呂敷包みを開いた。
中には、竹の皮に包まれた、いつもの丸いにぎりめしがあった。
我が家が一番貧しかった頃、おひつの底の冷え飯をかき集めて握った、あの歪な、にぎりめしだ。
もし、これがただの路地裏ならば、にぎりめしをあの飢えた子供たちに、差し出してやれただろうか。
だが、
幕府からの命令は
「キリシタンは一人残らず全滅させよ」
という非情なものだった。
これを執行せねば、今度はお家が取り潰される。
伊織は己を殺し、激烈な鬼となることを選択した。
それは、伊織もまた、宮本のお家を背負っていたからだ。
「伊織、ワシが助けに来ぞ」
それは、不器用極まりない、
親父殿・宮本武蔵の聲であった。
すっかり老け込んだはずの剣聖だが、その眼だけはぎらぎらと輝いている。
「親父殿、なぜここに。
留守を守ると、言ったのに何故に」
「ワシを年寄り扱いするな。
城の外には、
まだ、儂の知らない『極意』があるやもしれん」
武蔵は刀を握り直したが、伊織は知っていた。
親父殿は、自分が十二万の大軍の重圧と、これから行う虐殺の業に潰されないよう、心配してついてきたのだ。
障子さえ、満足に張り替えられない、親父さまなりの、これが言葉にならない情の現れだった。
「明日、総攻撃を仕掛けます」
伊織は、能面のような顔のまま、静かに言った。
翌朝、運命の二回目の総攻撃が始まった。
十二万の兵による力攻めの中、本丸の崩れかけた壁の上に、天草四郎が立っていた。
きらびやかな衣装をまとっていたが、その細い身体は、飢えと恐怖で激しく震えていた。
伊織は、四郎の前に立った。刀を抜く伊織の胸の奥で、藍染めの前掛けが、かすかに、鰹節と醤油の匂いを放ったような気がした。
「天草 殿」
伊織は、能面を装った、自分を設えた。
「神様なる者たちは、
わっどんに、
にぎりめしをくれましたか?
……袖の裏の食べ物も、海の向こうの黒船も、全部大人たちの偽りです」
おぼえたばかりの、天草弁は、伊織にとっても、難しく難解であったら。
四郎は、伊織の顔を見た。
豊臣の若君という大嘘の仮面が剥がれ落ち、
ただの十六歳の、飢えた子供の顔に戻った。
「……神様は、本当に冷たいですね」
四郎が、ふっと力なく微笑んだ、その時だった。
「伊織! 危ない!」
後ろから武蔵が叫び、伊織を突き飛ばした。城壁の上から、一揆軍の生き残りが、漬物石のような巨大な石を投げ落としたのだ。
ドン、と鈍い音がして、その石は伊織をかばった武蔵の右のスネを、見事に直撃した。
「あだァァァッ!!」
天下の剣聖が、その場に派手に転がり、スネを抱えてのたうち回った。
「アイタタタ! 折れた! ワシの足が折れたぞ、伊織!」
「ですから、親父殿は下がっていてくださいと言ったのです!」
伊織は、目の前の凄惨な戦場も忘れ、大慌てで武蔵の元へ駆け寄った。
そして、自分の胸元からあの藍染めの前掛けを引っ張り出すと、包帯代わりに、武蔵の泥だらけのスネにぐるぐると力任せに巻き付けた。
「痛い! 伊織、きつい! 縛り方がきつい!」
「 じっとしていてください!」
その、血の海の真ん中で繰り広げられる、あまりにも無様で、あまりにも温かい「親子」の喧嘩を、天草四郎は呆然と見つめていた。
十字架を握りしめ、首を刎ねられるその直前、少年はぽつりと、小さく笑った。
「なんだ。神様なんかより、ずっと楽しそうだ……」
二回目の猛攻のあと、城内が完全に飢餓で干上がったのを見計らい、幕府軍は三回目の最終総攻撃を仕掛けた。
原城は完全に火の海となり、三万七千人のキリシタンは一人残らず全滅した。
その激しい炎に照らされた灰の風景の中で、伊織は、竹の皮に残っていた自分のためのにぎりめしを、ふと口に運んだ。
だが、その瞬間、喉が引き裂かれそうになった。真っ白なにぎりめしから伝わってきたのは、米の甘みではなかった。
それは、海藻を貪り食い、飢えに狂い、大人たちの嘘に騙されて焼き殺されていった、三万七千人の怨念と無念が染みついた、この世の何よりも「にがい」にぎりめしだった。
伊織は、その苦しさに顔を歪め、涙を流しながら、にがい塊を無理やり喉の奥へと押し込むのだった。
島原の乱の後、生き残った者たちの骨は砕かれ、火で燃やされた。
伊織は、その凄絶な業のすべてを、家老として、粛々と、差配し続けた。
けれど、
武蔵のスネを縛り、
血と泥、
そして、なりよりキリシタンの無念にまみれて二度と使えなくなったあの藍染めの前掛けを、伊織は捨てることだけはできなかった。
彼はそれを、風呂敷包みの底に深く、深く、仕舞い込むのだった。
つながなる、にぎりめしの味は、如何なるものか。




