家老室の、身の上噺
若家老の、にぎりめしは、人をつなぐ、刻ぐすりになりえるか
小倉城の廊下は、冬が近づくと容赦のない底冷えがした。
杉の床板を踏みしめる足音が、やけに高く響く。宮本伊織は、背筋を硬い定規でも入れたかのように真っ直ぐに伸ばし、ゆっくりと歩いていた。
その姿は、お城の誰もが息を呑むほどに凛々しい。
身にまとっているのは、他藩の使者や幕府の巡見使を迎える際にも恥じない、黒五つ紋の羽織袴である。
背中と両胸、そして両袖の五箇所に、宮本家の家紋である「九曜紋」が、鮮やかな白で染め抜かれていた。
伊織は、若干二十歳。
世間なら、まだ親の脛をかじって夜遊びにうつつを抜かしていてもおかしくない若者が、ここでは百人以上の家来たちの生殺与奪の権を握り、四千石の知行を差配する筆頭家老として君臨している。
ここは、播磨明石藩・十万石の中心。大大名の仲間入りを果たす格式高い大藩の、まさに中枢であった。
「伊織殿、お早いお着きで」
すれ違う、御年寄さま、たちが、
皆、伊織よりも低く頭を下げる。
その目には、畏敬の念と、随所に
「浪人の子のくせに、十万石の家老などと」
という、冷淡なる棘が混じっていた。
伊織は、それを百も承知の顔で、小さく一礼を返す。
彼の顔は、まるで能面のようにつんと冷たく、感情の起伏というものが一切見当たらなかった。
自分の控え室である「家老室」に入り、重い襖をぴっちりと閉めた瞬間、伊織の身体から、張り詰めていた空気がふっと抜けた。
彼は、誰に見せるでもなく、小さくため息をついた。
手早く黒の紋付羽織を脱ぎ、衣桁へと掛けた。
袴の裾を少し高めにたくし上げると、彼は机の上に置いてあった私物の風呂敷包みを静かに解いた。
竹の皮で包まれた、素朴な、塩味のにぎりめしだ。
そのすぐ横に、小さく四角に折り畳まれた、藍染めの前掛けがいつもそっと忍ばせてあった。
幾度も洗い晒されて浅葱色に褪せたその布からは、今朝までいた宮本家の台所の、鰹節とお醤油の匂いが微かに漂った。
それは戦の硝煙の匂いとも、道場の汗の匂いとも違う、絶対的な「生活」の、いや、これまで、生き抜いてきた、においはそのものだった。
世の武士たちは、親父殿の書いた『五輪書』の巻物をありがたがり、それを心の拠り所にしている。
けれど、刀を握るよりも、先に宮本家の台所を任されてきた伊織にとっては、この生活の匂いが染みついた一枚の前掛けこそが、己の『五輪書』であり、
十万石の重圧のなかで自分を正気に戻してくれる唯一の心の拠り所であった。
伊織は愛おしそうにその布に指先で触れ、それから竹の皮をそっと開いた。
中から現れたのは、今朝、自分で握ってきた、にぎりめしだった。
それは、きれいな三角形ではなかった。
丸いのである。角がどこにもない、少し歪な、しかし伊織の手のひらの温もりがそのまま残っているような丸だった。
お城での昼飯にと持ってきたこれを見つめているときだけが、十万石の政治という能面を脱げる時間だった。
そこへ、襖が遠慮がちに、しかし、どこか切羽詰まった様子でトントンと叩かれた。
「伊織殿……おられますか。坂崎でございます」
声の主、坂崎は、伊織よりも二回りも年上の、頑固で知られる古参の御年寄だった。
日頃は、伊織の出世を最も面白くなさそうに睨みつけている男である。
「どうぞ、お入りください」
伊織は、前掛けを風呂敷の隅へそっと隠し、穏やかに声をかけた。
襖が開くと、坂崎は、十万石の家老が竹の皮の上のにぎりめしを見つめている異様な光景に一瞬目を見開いたが、すぐに顔を伏せた。
その肩が、微かに震えている。
「伊織殿……恥を忍んでお願いに参った。倅のことでござる」
坂崎殿の、話を聴けば、
坂崎の長男は、最近、江戸から来たという風変わりな軍学者、由比正雪の私塾に出入りしていた。
正雪は若者たちの心を掴み、連れ出そうとしているという。
このままでは、坂崎家はお家断絶、
先祖に顔向けが立たないと、老武士は涙を流した。
「倅は、正雪先生の術は本物の神変不可思議の術だと言って聞きませぬ。
空中に何もないところから、熟した蜜柑をいくつも取り出してみせた、あれは天の加護がある証拠だと……」
坂崎の言葉を聞きながら、伊織は数日前の出来事を苦々しく思い出していた。
それは、藩主・忠真の前で行われた、由比正雪を招いての講義の席でのことだった。
正雪は講釈の途中で、若侍たちを煽るようにして、何もない虚空から次々と見事な蜜柑を取り出してみせ、広間を沸かせた。
若者たちが
「おおっ」
と歓声をあげる中、
伊織の冷徹な「頭脳」だけは、正雪の不自然な右袖の動きを捉えていた!
正雪が三つ目の蜜柑を出そうとしたその瞬間、伊織は席からすっと立ち上がり、静かに言ったのだ。
「正雪殿。お見事な軍学講釈ですが、
その羽織の右袖の裏に仕込まれた小袋から蜜柑を取り出す手際、
少々慌てておられる。
糸の結び目が緩んで、
袖から蜜柑の皮の匂いがこちらまで漂っておりますよ」
広間は凍りつき、タネを完全に見破られた正雪は顔を真っ赤にして口を噤んだ。
あの男は、そうしたまやかしの「奇跡」を使って、
世間に不満を持つ若者たちの心を狂わせているのだ。
伊織は、目の前の風呂敷から米屋の金兵衛からの借入状がカサリと覗いているのを見つめた。
我が家も同じように、見えない火の車を引いている。だからこそ、地に足のつかない奇跡の嘘が許せなかった。
「坂崎殿」
伊織は、竹の皮の上から、自分のためのお弁当だった丸いにぎりめしを一つ、そっと坂崎の前に差し出した。
「これを、倅殿に、食べさせてあげてください。
人間、お腹が空いていると、大きな声で大義を語る男の言葉や、まやかしの奇跡が、妙に心に染みてしまうものです。
これを食べれば、倅殿の、冷えたお腹も、少しは温まるはずです。
親父殿が命がけで、禄をはむ、一粒の米の重みには、どんな立派な教えも、手品の蜜柑も敵いません」
坂崎が、にぎりめしを両手で包むようにして受け取り、何度も頭を下げて部屋を出て行った、その直後のことだった。
「失礼いたします」
襖の向こうで気配が動いた。
藩主・小笠原忠真の身の回りの世話をする、
お小姓の少年であった。
「宮本様、殿が御召にございます。四ツ(午前十時)の鐘と共に、奥の御殿へお越しくだされ、とのことです。明日の細川家との寄り合いの件について、お耳に入れたいと仰せでございます」
「承知した。すぐに向かうと、殿にお伝えください」
伊織は落ち着いた声で返事をした。お小姓の足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。
四ツの鐘が鳴るまで、あとわずかだ。
伊織は、残ったもう一つのにぎりめしを丁寧に竹の皮で包み直し、己の五輪書である藍染めの前掛けと一緒に、再び風呂敷へと仕舞った。
冷たい黒五つ紋の羽織を肩にかけた瞬間に、
彼の顔は血の通った「武蔵の倅」から、
完璧な「十万石の筆頭家老」の能面へと戻った。
「帰ったら、おひつの底をさらって、親父殿へも、にぎりめしをこしらえねば」
心の中でだけそう呟き、
伊織は、四ツの御用に向けて、静かに家老室の襖を開けるのだった。
襖の向こうには、何がまちうけているのか




