木枠の折れた、夕暮れ
世間の講談師たちは、
宮本武蔵の養子・伊織のことを「川原で素手でドジョウを捕まえていた天才少年」と面白おかしく語りたがる。
あるいは、二十歳そこさこで十万石の大藩のトップに上り詰めた「冷徹なエリート官僚」として。
しかし、本当の伊織は、そのどちらでもなかった。これは、きらびやかな歴史の裏側で、いつも藍染めの前掛けをきゅっと締め、文字通り「命のやりくり」をし続けた一人の若者と、剣のことは世界一知っているのに、家では障子の張り替え方さえ知らなかった、不器用極まりない父親の、切なくて温かい日々の記憶である。
暮れ方の、少し湿気を帯びた風が障子の隙間から滑り込んでくる。
八畳の座敷は、まるで戦のあとのようであった。
床板にはべっとりと白い米の糊がこぼれ、乾きかけたそれは夕暮れの薄光を浴びて、まるで大きなナメクジが幾匹も這い回った跡のように鈍く光っている。
その真ん中で、天下に聞こえた「剣聖」宮本武蔵は、大きな身体をさらに丸くして胡坐をかいていた。
今年で、五十四になる武蔵の髪には白いものが混じり、いつもは鋭い野鷲のような眼が、今は近所の子供に悪戯が見つかった犬のように泳いでいる。
その右手には、一国の主から拝領した名刀ではなく、糊と細かな紙屑が容赦なくこぼれた一本の竹べらが握られていた。
「……伊織か」
低い、地鳴りのような声だったが、そこには明らかな狼狽が混じっていた。
宮本伊織は、播磨明石藩・十万石の家老職という重責を弱冠二十歳で背負う身でありながら、家に帰ればただの
「小言の多い息子」に戻る。
彼は刀を玄関の衣桁に掛けると、上着を脱ぐのももどかしく、腰に藍染めの前掛けをきゅっと結んだ。
この前掛けは、彼が十五歳で武蔵の養子になった時から愛用しているもので、幾度も洗い晒されて、今では良い具合に浅葱色に褪せている。
伊織にとって、この前掛けの紐を締める瞬間こそが、世間の建前や政治の泥沼から自分を切り離す、唯一の「結界」のようなものであった。
伊織はパタパタと足音を立てて座敷へ上がると、一目で状況を察した。
案の定、破れた障子を張り替えようとしたのだ。
「親父殿。またやったのですか」
伊織の声は、決して張り上げられてはいない。
むしろ、よく通る静かなトーンだったが、それが逆に武蔵の背筋をぴんと伸ばさせた。
「いや、その、障子がな、少しばかり風通しが良すぎると思ってな。お前が毎日、城での仕事で骨を折っているのだから、これくらいはワシが、と思って手を付けたのだが……」
武蔵の言い訳は、まるで子供のそれだった。見れば、新しく張るはずだった障子紙が、まるで猛獣に引き裂かれたようにバリバリに破れて転がっている。
武蔵は糊を均一に塗るという繊細な作業がどうしても我慢できず、途中で「エエイ」とばかりに竹べらを叩きつけ、あろうことか障子紙を真剣で一気に断ち切ろうとしたらしい。
結果、刃の風圧と勢いで、紙だけでなく木枠の組子まで二本、見事に叩き折られていた。
「剣の『見切り』は天下一品ですのに、どうして紙の『見切り』は、これほどまでに、苦手なのですか」
伊織は深いため息をつくと、前掛けの大きなポケットから、手際よく乾いた雑巾と濡らし固めた雑巾を二枚取り出した。
こういう事態をあらかじめ予測していたかのような、見事な準備の良さである。
伊織は膝をつくと、武蔵の足元に広がる糊の海を、迷いのない手つきで拭き取り始めた。
「親父殿、障子の張り替えというのは、敵の首を獲るのとは違うのです。
力を入れれば良いというものではありません。糊は薄く、均一に。紙は風を孕ませるように、そっと置くのです。
いつも親父殿が『五輪書』に書いている『物事を平らに見る』というのは、こういう日常の雑事にこそ活かすべきではありませんか」
「うむ……全く、その通りだ。返す言葉もない」
五十を過ぎてなお、
戦場では数千の敵を恐怖に陥れる男が、二十歳の若者の前で完全に小さくなっている。
武蔵は、伊織が差し出した濡れ雑巾を受け取ると、自分のごつごつとした、刀傷の絶えない大きな手を拭いた。
だが、焦れば焦るほど手が滑り、今度は自分の顔の横に白い糊をつけてしまう。
「親父殿、顔。顔に糊がついています」
「どこだ? ここか?」
「違います、もっと右です。
もう、じっとしていてください」
伊織はあきれ顔で立ち上がると、武蔵の前に屈み込んだ。
そして、自分が腰につけている藍染めの前掛けの端をひょいと持ち上げると、武蔵の頬の汚れを、ポンポンと優しく、しかし確実な手つきで拭い取った。
前掛けからは、伊織が今朝から仕込んでおいた、鰹節と醤油の匂いが微かに漂った。
それは戦の硝煙の匂いとも、道場の汗の匂いとも違う、絶対的な「生活」の匂いだった。
武蔵はその匂いに包まれながら、ふと、自分がこの賢い若者を養子にもらってからの歳月を思った。
二人は血の繋がった親子ではない。公には浪人の子を武蔵が引き取ったことになっているが、
伊織に出会った時から驚くほど冷徹で、合理的で、そして誰よりも優しかった。
かつて「泥鰌伊織」の謂れとして面白おかしく語られる出会いも、
伊織が「今夜の柳川鍋の材料です。邪魔をしないでください」と、この大剣豪を冷たくあしらったのが始まりだった。
武蔵が惚れ込んだのは、その並外れた「生活力」と、物事を冷めて見る眼だった。
「伊織」
「なんですか、親父殿。
私はこれから組子を直さねばならないのです」
「いや……お前が城で、他の武士たちに後ろ指を指されていないかと思ってな」
武蔵の眼に、一瞬だけ、父親としての本物の陰りが宿った。
名門の武士たちが、二十歳そこそこの、しかも素性の知れない浪人の養子にすぎない伊織が十万石の家老に抜擢されたことを、快く思うはずがない。
妬み、嫉み、足の引っ張り合い。そして何より、宮本家の台所はいつも火の車だった。
自分の四千石から家来たちの給料を払えば手元には一文も残らない。
それなのに親父殿は
「この刀は良い刃だ」
と言っては、勝手に米屋の金兵衛から大金を借りてきてしまう。
伊織の前掛けのポケットには、金兵衛からの借入状の束がいつもぎっしりと押し込まれていた。
「親父殿、私のことなら、ご心配には及びません」
伊織は、折れた障子の木枠を拾い上げながら、小さく笑った。
「明日も、朝から大忙しです。
隣の細川家が何やら揉めているようですし、江戸の軍学者がおかしな手品で若侍たちを騙しているとか。
私がまとめて面倒を見てやりますよ。それより……」
伊織は台所へ向かうと、そこにある木製の御櫃を開けた。
大きなおひつの底に、ほんの少しだけ残った冷や飯。
それを、しゃもじできれいに、名残惜しそうにかき集める。
伊織は手のひらに軽く塩をまぶすと、その冷え飯を包み込むようにして、手際よく丸め始めた。
出来上がったのは、にぎりめしは、きれいな三角形ではない。
手のひらの温もりがそのまま残るような、少し歪な、丸いにぎりめしが二つだった。
伊織はそれを黙って一つ、武蔵の前に差し出した。
武蔵は何も言わず、その大きな、傷だらけの手で冷たいにぎりめしを受け取ると、大事そうに口へ運んだ。
言葉にできない情を、察し合う
不器用な、父親と倅のように。
二人の間には、血の繋がりを超えた、生活の底でしっかりと結ばれた「親子の骨組み」があった。
「さあ、親父殿。
障子は明日、私が綺麗に張り直します。
夕餉は、ドジョウの温かい汁ものに、致しましょう」
伊織の言葉に、武蔵の腹がぐうと鳴った。天下の剣聖は、息子の後ろ姿を追いかけるようにして、そそくさと台所へ向かうのだった。
にぎりめしが、つないでいく人同士の、ぬくもりある繋がりは、いつの時代もかわらない。




