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婚約破棄の瞬間に「前世の記憶」が戻りまして。〜ヒロインの座は譲りますので、私は推しキャラの側仕えを目指します!〜  作者: 綾瀬蒼


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第88話 ついに魔王と対峙。「お前が噂の豊穣の女神か」

 私のチート魔法で魔王城のダンジョンギミックをすべて無視し、玄関から一直線に貫いて開通させた、我が家専用のVIPパレードロード。


 その見晴らしの良すぎる安全なトンネルの上を、私たちはピクニック気分で堂々と進んでいた。


 左右の壁には、本来ならプレイヤーを苦しめたはずの複雑な回廊や罠の無惨な残骸。

 頭上には、私が崩落防止のコーティングをかけて綺麗に押し固めた黒い石の断面。

 そして前方には、最奥の『玉座の間』へ続く、やたらと風通しの良い一直線の道。


「……本当に、定規で引いたように真っすぐですわね」

 私は自分の完璧な大工仕事(魔法)に、改めて自画自賛して感心した。

「自分で物理的に城をぶち抜いておいて、今さら何を言っている」

 隣を歩くクライス様が、呆れたように低く言う。

「いえ、だって」

 私はフンスと胸を張る。

「思った以上に、段差もなくてベビーカーでも通れそうなくらい快適ですもの」

「魔王城のラストダンジョンに、バリアフリーの快適さを求めるな」

「でも、子連れの旅行には絶対に必要でしょう?」

「……」

「大切なお子たちも同伴しておりますのよ?」

「それは、そう」

 後ろを歩くエルが、少しだけ遠い目で呟く。

「母上の滅茶苦茶な理屈、たまにすごく反論できない正論が混ざるから困る」

「まあ」

 私はニッコリと誇らしく笑った。

「最高の褒め言葉として受け取りますわ」

「褒めてない。呆れてるの」

「でしょうね」


 私たちの後ろでは、リリアが私の作った真っ直ぐなトンネルを、キョロキョロと物珍しそうに辺りを見回していた。

「おかあさま」

「何かしら、リリア」

「このくろいおしろ、なんか、まんなかから『ばーん!』ってこわれてるね!」

「ええ」

 私は大きく、悪びれずに頷く。

「ママが、もともと少々壊す予定で施工しましたの」

「よていだったの?」

「ええ。邪魔な壁でしたから」

「おかあさま、やっぱりすごい! だいくさん!」

「当然ですわ。これくらい朝飯前です」

「母さん」

 エルが、頭痛を堪えるようにポツリと言う。

「リリアに、他人の家(城)を勝手に壊していいっていう変な常識を植えつけないで」

「あら失礼。教育には細心の注意を払っておりますわ」

「でも、母上が現実に城を壊したのが半分くらい事実だから止めにくい」

「エル、最近その辺りの事実とツッコミの状況判断が、だいぶ的確ですわね」

「毎日見てたら慣れたから」

「これもエルの成長ですわ……!」


 ああ。

 いけませんわね。

 こうして平和に家族で会話しながら歩いていると、ここが世界滅亡の震源地である暗黒大陸の最奥、魔王城の中枢だという絶望的な事実を、1ミクロンも感じずに忘れそうになる。


 だが。

 オタクの私が忘れるほど、この世界のゲームのシステム(強制イベント)は甘くなかった。


 最奥の『玉座の間』が近づくにつれて、肌を刺すように空気が重くなる。

 濃密な瘴気。

 圧倒的な魔力。

 それも、道中でクライス様がワンパンで瞬殺した四天王のそれとは、明らかに次元と質が違う。


 濃い。

 絶対零度のように冷たい。

 そして、底なしに深い。

 まるで、光を一切通さない深海か、宇宙の闇そのものが、そこへ凝縮して沈んでいるみたいな不気味な気配だった。


「……来ますわね。ラスボスの気配が」

 私は、無意識にオタクの顔を引き締めて声を落としていた。

 クライス様も、愛剣の柄に手を置いて鋭く頷く。

「ああ。格が違うな」

 その一言と張り詰めた殺気だけで、子どもたちも空気を読んだらしい。

 リリアはそっと私のドレスの裾を強く握り、エルは木剣の柄へ触れたまま、緊張した面持ちで真っ直ぐに前を見た。


 やがて、トンネルの先に、玉座の間の巨大な大扉が見えてくる。


 本来なら、きっと重々しく閉ざされ、凝った封印やら解錠ギミックやらがいくつもかかっていたのだろう。

 でも今は違う。

 私が城の入り口から一直線にぶち抜いた魔法の余波で、分厚い扉の片側は完全に吹き飛び、もう片側も飴細工のように斜めにひしゃげて半開きになっていた。


 ……ええ。

 だいぶ換気が良くて入りやすいですわね。


「行くぞ。俺から離れるな」

 クライス様が、家族を守る盾として低く言った。


 私たちは、そのままクライス様を先頭にして、開け放たれた玉座の間へ足を踏み入れた。


 ◇ ◇ ◇


 無駄に広い。


 それが、玉座の間へ入った私の、最初のオタクとしての率直な印象だった。


 無駄に広い。

 無駄に天井が高い。

 そして、無駄に照明が少なくて暗い。


 黒曜石みたいに磨き上げられた床が、どこまでも不気味に続いている。

 左右に並ぶ巨大な柱は、人の背丈の何十倍もあるくせに、やたらと細くて建築学的に不安定そうだ。

 天井の奥では赤黒い不気味な火がゆらめき、壁には直視したくない悪趣味な悪魔の彫刻がうねっている。


「……本当に趣味が悪いですわね」

 私は、入って早々に容赦なくそう毒づいた。

「絶対言うと思った」

 エルが小さく、呆れて呟く。

「だって、本当に悪趣味なのですもの」

 私は不快そうに眉を寄せる。

「隠し最終シナリオの最終決戦の舞台なら、もう少し『ラスボスとしての格』というものを考えて建築デザインしていただきたいですわ。これではただのホラーハウスです」

「母さん」

「何ですの」

「今、ツッコミを入れるのそこ?」

「今こそですわよ。舞台装置(背景)の作画はオタクにとって命ですもの」


 そして、その広大な玉座の間の最奥。


 一段高くなった黒い玉座へ、足を組んで悠然と腰かけている影が一つ。


 ――魔王。


 私は、その姿を見た瞬間、オタクの審美眼でほんの少しだけ目を細めた。


 闇に溶けるような長い黒髪。

 病的に白すぎる肌。

 血のように紅い目。

 人型ではあるが、明らかに人ではないと一目で分かる、異質で完成された美貌。

 纏う漆黒の衣すら影みたいに揺れ、その指先一つで、この部屋の空気すべてを絶望に塗り替えられそうな、絶対強者の威圧感がある。


 ああ。

 なるほど。

 さすがファンディスクの隠し最終シナリオのラスボス。

 先ほどの道化の四天王とは、作画のコストも格も違いますわね。


 ただ。


(……だからといって)


 私は、その魔王の顔を数秒冷静に見つめてから、限界オタクとして静かに結論づけた。


(顔の良さ(スチルの強さ)では、うちの最推しの旦那様の『完全なる圧勝』ですわね)


 ええ。

 大事なことです。

 オタクにとって、とても大事な比較です。


 確かに、魔王の顔面偏差値は整っている。

 非の打ち所がないほど整ってはいる。

 でも、何というか、人形のように『作り物めいている』のだ。

 完成度は高い。

 だが、冷たくて、刺々しくて、そこに“人を惹きつける人間らしい温度(色気)”が1ミクロンもない。


 対して、我が最推しことクライス様はどうか。


 凛としていて。

 不器用で静かで。

 誰より強くて。

 しかも、愛する家族へ向ける時だけ、とんでもなく甘くやさしい。

 その上で、愛剣を持てばこの世の誰より美しく、圧倒的な雄として映えるのだ。


 ……ふふっ、顔面対決は勝負になりませんわね。


 そんな私の不敬なオタクの内心を知らず、魔王は玉座からゆっくりと立ち上がった。


 その静かな動きだけで、玉座の間全体の空間がビリッ、と重圧で軋む。

 紅い目が、真っすぐ私たちを、いや『私』を射抜く。


「ほう」

 低く、地鳴りのようにひどくよく通る声。

「お前が」

 魔王は私を見下ろした。

「我が封印を揺るがす異界の魂……噂の『豊穣の女神』か」


「…………」


 きましたわね。


 隠し最終ボス特有の、“妙にこちらの存在を高く評価してくる、意味深な第一声”が。

 前世のRPGでもよくありましたわね。

 プレイヤーの絶望感と緊張感を煽るためか何なのか、こういう時だけ敵が妙に詩的で大仰なことを言うのです。


「人違いですわ」

 私は、1秒の迷いもなく即答で否定した。


 玉座の間の張り詰めた空気が、一瞬だけ「え?」とズッコケて止まる。

 魔王も、予想外の返答にほんのわずかに目を細めた。


「……違う、だと?」

「ええ」

 私はニッコリともせずに、冷酷に答える。

「そのふざけた中二病の呼び名、領地の一部のアホが勝手に言っているだけでして。私はただの『フェルド辺境伯爵夫人』ですわ」

「ただの、だと?」

「ええ。ただの妻であり、二人の子どもの母です」

「……我が精鋭の四天王を一瞬で屠り、絶対防壁を砕き、この魔王城を一直線に物理で穿ってきた化け物(女)が?」

「多少、表現が大げさですわね」

「多少ではない。事実だ」

 クライス様が、呆れたようにボソリと横からツッコんだ。

「クライス様」

「何だ」

「今、ラスボス相手の私のシリアスな自己紹介タイムですのに。邪魔しないでくださいまし」

「そうか。お前がシリアスをぶち壊しているようにしか見えんがな」

「心外ですわ」


 魔王の眉が、ピクリと不快げに動く。

 ああ。

 そうでしょうとも。

 せっかく魔王として絶望感を演出して登場したのに、こちらの夫婦の会話が妙に家庭的(漫才)で、だいぶ調子が狂って苛立っていらっしゃるのでしょうね。


「おかあさま」

 リリアが、空気を読まずに小声で私の袖を引いた。

「この、まっしろなおかおのひとが、まおう?」

「ええ」

 私は娘へ小さく頷く。

「多分、そうですわ」

「なんか」

 リリアはじっと魔王の顔を見てから、子どもの残酷な正直さで言った。

「おばけみたいで、こわそう。おとうさまのほうがかっこいい」

「そうですわね」

「でも」

 今度はエルが、少しだけ顔をしかめながら、トドメを刺すように言う。

「父上の方が、作画のレベルがずっと格好いいし、強そうだね」

「……ッ!」


 ああもう。

 そう。

 そうですわよね!!

 よく分かっておりますわよエル、リリア!!

 この子たち、本当に本質(顔の良さ)を見るオタクの審美眼が天才的に育っておりますわね!


 私は思わず、感動で胸元を押さえた。

「大変、的確で素晴らしい評価ですわ」

「母さん」

「何ですの」

「今、ちょっとオタクとして嬉しそう」

「当然ですわ」

「……」

「愛する実子から、“魔王より父上の方が格好いい”と公式認定をいただいたのですもの。赤飯を炊きたい気分です」

 クライス様が、やれやれと小さく息を吐いた。

 だが、その銀髪に隠れた耳がほんの少しだけ照れて赤い。

 ああ、ええ。

 聞こえておりますわよね。

 もちろん、妻と子どもたちのベタ褒め、全部。


 魔王の美しい顔から、ゆっくりとすべての表情(余裕)が消えた。


「……下等な人間の分際で」

「?」

「余へ向かって」

「ええ」

「顔の良し悪しを、品評するか」

「だって」

 私は心外そうにパチパチと瞬いた。

「乙女ゲームにおいて、一番大事なことではなくて?」

「何がだ。またゲームの話か」

 クライス様が低く問う。


「第一印象(スチルの顔面偏差値)ですわ」

 私はキッパリと、オタクの真理を言い切った。

「どうせ最終決戦なら、相手の見た目も含めて冷静に評価(品評)するべきでしょう?」

「そうか」

「そうです」

「……」

「その上で、もう一度ハッキリと申し上げますけれど」

 私は魔王を、上から目線で見下ろすように見上げる。

「顔の良さ(オーラ)なら、うちの旦那様の『完全な圧勝』ですわね。あなたはただの色白のモブですわ」


「ッ……!! 貴様ァァァ!!」


 空気が、怒りで爆ぜた。


 魔王の周囲から、赤黒い高密度の魔力が、火山が噴火するように一気に噴き上がる。

 巨大な柱が軋む。

 強固な黒曜石の床へ、巨大な亀裂が走る。

 普通の人間なら、その威圧だけで血を吐いて膝をついてもおかしくない。


 だが、私は微動だにしなかった。


 なぜなら。


 その隣に立つ、愛剣を構えたクライス様の横顔の方が、私にとってよほど目を奪われるほど格好いいからである。


「余を前に、よくも愚弄したな!」

 魔王の声が、怒気と殺意を孕んで重く落ちる。

「あら、その程度の事実で怒るのですか」

 私は余裕の笑みで首を傾げた。

「魔王のくせに、意外と器が小さいのですわね。小物感が漂っておりますわよ?」

「ルシア」

 クライス様が、低くたしなめるように呼ぶ。

「何ですの」

「あまり煽るな。面倒になる」

「本音ですわ」

「今はやめろ。子どもたちもいるんだ」

「ですが」

 私は小さくため息をついた。

「私は本当にそう思っておりますのに」

「分かっている。俺への愛は痛いほど伝わっている」

「でしたら」

「なおさらだ。少し自重しろ」


 ああ。

 はい。

 そうですわね。

 冷静なクライス様が止めるということは、魔王の魔力ゲージが、あまりよろしくない危険な温度になっているのでしょう。


 でも。

 魔王の方が、勝手に自分の顔面偏差値の低さにキレて怒っているのも事実だ。


「母上」

 エルが、少しだけ私のドレスの袖を引いた。

「今の、やっぱり煽りすぎでまずかった?」

「いえ」

 私はキッパリと答える。

「真実(顔が負けていること)は、時にプライドの高い人を傷つけるだけですわ」

「母さん」

「何ですの」

「たぶん、その言い方も、魔王に聞こえてるしわりと煽ってる」

「まあ。それは失礼いたしましたわ」


 リリアは、私とクライス様の間から、そろそろと怒り狂う魔王を見ていた。

「おとうさま」

「何だ、リリア」

「このまっしろなひと、なんか、すごくおこってる」

「ああ。顔を馬鹿にされて怒っているな」

「だいじょうぶ?」

「問題ない。俺が斬る」

 クライス様は、愛剣の切っ先を魔王に向けて短く答える。

「お前たちは、絶対に俺の背中から離れず、下がっていろ」

「うん!」

 エルとリリアが、ちゃんと指示に従って一歩後ろへ下がる。


 その素直さに、私は親として少しだけ安堵した。

 よろしい。

 子どもたちは、魔王の威圧感に怖がりすぎてもいないし、逆に浮かれすぎてもいない。

 ちゃんと、この場がただ事ではない『命懸けの最終決戦』だと理解している。


 そして、魔王は。


 完全に、プライドを折られてブチギレていた。


「……面白い」

 魔王の美しい唇が、怒りを通り越してゆっくりと吊り上がる。

 その笑みは、凍りつくように冷たい。

「実に面白い。痴れ者どもめ」

「そうでしょうか。ただの事実ですわ」

「余を、この世界の絶対の恐怖を、微塵も恐れぬか」

「……」

 私は少しだけ、真面目に考えた。


 恐れ。

 畏怖。

 絶望的な、圧倒的な存在感。


 たしかに、目の前のこのラスボスは“そういう絶望を撒き散らす存在”なのだろう。

 普通の敵ではない。

 存在そのものが、世界を滅ぼす歩く災厄みたいな相手だ。

 前世のゲームでも、この魔王の登場シーンはかなり作画コストが盛られていた。

 BGMも絶望的なコーラスで、演出も、プレイヤーの絶望感を煽る方向へ全力だった。


 でも。


「いえ」

 私は、一切の嘘偽りなく、正直に答えた。

「そこまででも。むしろ、私の老後計画を狂わせる害虫への『怒り』の方が勝っておりますわ」


「…………」


 玉座の間の空気が、今度こそ本当に、理解不能なものを見るように止まる。


 クライス様が、「またか」と片手でこめかみを押さえた。

 あら。

 少々、オタクとして率直すぎましたかしら。


「……その理由を聞こう」

 魔王が、不気味なほど静かに言う。

 その怒りは消えていない。

 だが今は、それ以上に“恐怖を感じない理解不能なバグを見る目”になっていた。


 私は、隣に立つ最愛の夫を見上げた。

 静かで研ぎ澄まされた横顔。

 私と子どもたちを守る、鋭い蒼い目。

 剣へ置かれた、力強い手。

 その、世界最強の盾と剣としての、立ち姿の完成度。


 ええ。

 何度見ても、やはりうちの推しが宇宙一素晴らしいですわね。


「だって」

 私は、当然の真理のように答えた。

「あんなハリボテの赤い空やあなたの魔力より、怒って本気を出したうちの旦那様の方が、ずっと強くて格好いい(怖い)ですもの。あなたなんて目じゃありませんわ」

「…………」


 今度は、子どもたちまでドン引きして静かになった。

 リリアはキョトンとし、エルは“母さんはラスボスの前でも本当にそういうブレないオタクだよな”みたいな顔で額を押さえている。


 魔王の表情は、完全にスッと消えていた。

 怒りを通り越して、屈辱で理解が追いついていない顔だ。


 ああ。

 はい。

 分かりますわよ。


 世界に絶望を撒き散らす最終ボスとして威厳たっぷりに登場したのに、こちらの辺境伯夫人が、威圧感に怯えるより先に『夫との顔面比較』を始め、挙句の果てに『お前より夫の方が強いし怖い』とマウントを取ってきたのだ。

 そりゃあ、予定していた絶望の雰囲気もだいぶ崩れて萎えますわよね。


 だが。

 それでいい。


 どうせこの後、有無を言わさず戦って殺し合うのだ。

 だったら、相手のペースへ乗ってやる必要は1ミクロンもない。

 こちらはこちらのオタクの価値観で、魔王だろうが何だろうが、きっちりモブとして扱って差し上げればよろしい。


 魔王の赤い目が、ジワリと狂気を含んで細まる。


「……なるほど」

 その声は、先ほどまでと少し温度が変わっていた。

 プライドを傷つけられた怒りだけではない。

 何か、もっと陰湿で、別の悪意が混じっている。


「余を前にしても、その程度の揺らぎしかしないか。強がりな女だ」

「ええ、強がりではありませんわ」

 私は涼しい顔で頷く。

「今さら、あなたの見た目の圧や魔力くらいでは、私の心臓は1ミリも跳ねませんわよ」

「そうか」

「うちには、クライス様という『最高の基準』がございますので」

「その絶対の基準が、隣に立つその男か」

 魔王の底知れぬ視線が、クライス様へ移る。


「ええ」

 私はキッパリと、誇らしく答えた。

「私の愛する、世界一の夫ですもの」


 クライス様が、ほんの少しだけ照れたように肩を揺らした。

 ため息なのか、諦めなのか、少しだけ嬉しくて照れているのか。

 多分、全部でしょうね。


 その時だった。


 魔王が、ゆっくりと玉座から一歩、階段を下りた。


 その重い足音だけで、床がビリッ、と嫌な音を立てて震える。

 赤黒い魔力が、今度はさっきよりずっと静かに、しかし濃く、毒の沼のように足元へ広がる。

 単純な怒りとは違う。

 もっと嫌な、精神にまとわりつくような不快な圧。


「ならば」

 魔王が、静かに、ひどく邪悪に言った。

「別のもので、貴様のその余裕の心を揺らして絶望させてやろう」


「……」

「人の心は、圧倒的な力や恐怖だけで折れるわけではない」

「……」

「貴様が絶対と信じる愛も」

 その赤い目が、真っ直ぐに私へ向く。

「その男への信頼も」

「……」

「ほんの少しの幻影で、簡単に裏返る(絶望する)」


 あら。


 私は、そこでようやく、ほんの少しだけ警戒して眉をひそめた。


 はい。

 来ますわね。

 その、卑劣な精神攻撃の手ですのね。


 ファンディスク終盤、魔王の厄介さは、単純な物理火力や魔力量だけではなかった。

 プレイヤーの精神を揺らす。

 一番大事なものを見せて、それを目の前で壊す。

 攻略対象との『絆そのものを試しにくる』、極めて嫌らしい幻影の精神攻撃イベントが、確かあったのだ。


「クライス様」

「何だ」

「少々」

 私は小さく、面倒くさそうに息を吐く。

「相手が、精神に干渉する面倒な手札(幻影)を切ってきそうですわ」

「ああ。小細工だな」

「お気をつけて。惑わされないで」

「お前もな。俺はお前しか見ない」


 魔王の口元が、ゆっくりと三日月型に吊り上がる。


「まずは」

 低く甘く、けれどどこまでも不快な呪いの声。

「最も愛する者が、貴様を裏切り、殺しにくる絶望を、その身で知るがいい」


 その瞬間、ドス黒い赤い魔力が、私の視界いっぱいへフラッシュバン(閃光弾)のように広がった。


 ああもう。

 本当に。

 最終ボスというものは、どうしてこう、真正面から殴り合わずに、ひとつひとつの手がネチネチと面倒くさいのでしょうね。

 さっさとワンパンで終わらせて、家族旅行の温泉に行きたいですのに!



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