第55話 「推しの領地を荒らすなんて万死に値します!」最強妻、ブチギレ
グランゼル皇国からの“宣戦布告もどき”が届いたその日、フェルド辺境伯爵領は一気に戦時の顔へ変わった。
城壁の上では見張りの兵が倍増し、
領兵たちは長年閉ざされていた重武装の武具庫を開き、
馬屋では伝令用の馬が次々に引かれ、
市場では商人たちが慌ただしく荷をまとめ、
屋敷の中では使用人が備蓄倉庫と医務室を走り回る。
不安は当然あった。ざわめきもある。
だが、以前のような絶望的なパニック(崩れ)は起きなかった。
それはきっと、ここへ来るまでの数か月で、この領地が私とクライス様の手によって少しずつ“自分たちの力で立て直せる、希望のある場所”へ変わっていたからだろう。
そして、その中心で防衛の指揮を執る私はというと。
「……」
執務室の机へ両手をつき、広げた防衛地図を静かに見下ろしていた。
怒っていた。
それも、限界オタクとして、これまでの人生で最も本気で。
「ルシア」
クライス様の低い声が落ちる。
「顔が怖いぞ」
「そうでしょうとも」
私は地図から顔を上げずに、絶対零度の声で答えた。
「だって、愛する推し(夫)の領地を、土足で踏み荒らそうとしているのですもの」
「……」
「しかも、罪なき領民の命の水源へ猛毒を撒いて。それが失敗したら、今度は逆ギレで大軍を寄越す?」
私はニッコリともせずに、氷のように冷たく笑った。
「底辺のクズの浅ましさにも、限度がございますでしょう」
「完全に同感だ」
「本当に」
私はようやく顔を上げた。
「万死に値しますわね。消し炭にして差し上げますわ」
執務室の空気が、私の放つ魔力と怒気で一瞬だけピシリと凍りついて鳴った気がした。
ハインツさんも、控えていた近習兵も、皆が怯えたように小さく息を呑んでいる。
あら。
そんなに怖い、魔王のような顔をしておりましたかしら。
けれど仕方がない。
これは、ただの国境紛争ではない。
ただの外交摩擦でもない。
あの愚かな皇太子の、単なる個人的な癇癪でもない。
私の、この世界で一番大事なものが。
全部まとめて、理不尽な暴力で踏みにじられようとしているのだ。
クライス様の生まれ育った故郷。
領民たちの慎ましい暮らし。
ようやく戻ってきた、子どもたちの明るい笑顔。
あの極上の温泉の湯気。
新しく立ち上げた、美味しい焼き菓子の甘い香り。
私の魔法で蘇った、美しい緑の畑。
朝の、夫婦水入らずの静かなお茶の時間。
そして何より。クライス様と二人で積み上げてきた、この『尊い新婚の日常』そのものが。
その全部を、身勝手な理由で壊そうとしている。
(絶対に、1ミクロンも許すわけがございませんでしょう)
◇ ◇ ◇
「まず、非戦闘員の避難区画を三段階へ分けます」
私は地図へ次々と赤い印をつけながら、前世のプロジェクトマネージャーの顔で淀みなく指示を飛ばした。
「領都中心部の堅牢な地下、城壁内北区画の修道院、そして山側の仮設避難所です」
「山側に仮設、ですか?」
医務担当の女性が、驚いたように問う。
「ええ」
私は頷く。
「国境(西)側からの侵攻なら、西と南の街道の動線が危ない。なら、一番安全な北の山側へ逃がせる裏の導線を、最初から作っておく方が迅速で確実ですわ」
「なるほど……!」
「食糧はどうする」
クライス様が、兵站の要を問う。
「既存の備蓄の三割を、ただちに避難用へ振り分けます」
私は素早く計算した別紙を出す。
「ただし、一か所の巨大倉庫へ集中させると、万が一火矢で焼かれた時に全滅しますから、必ず複数箇所への小分け(分散投資)です」
「水は」
「北側水源を主軸とし、東側の副水路も急ぎ繋ぎ直しましょう。温泉の湯も、飲用には向かない分を生活用水や消火用へ回せば、意外と長く保ちます」
「医薬は」
「薬草庫を二つに割って、安全な北区画へ移送」
「お菓子の工房は」
「稼働を完全に止めます」
私は即答した。
「少なくとも、商品作りという『表向き』は」
「表向き?」
ハインツさんが目を瞬く。
私は少しだけ、悪い顔をして笑った。
「あの巨大な雪花菓子の焼成窯、そのまま別の用途に転用できますもの」
「何にだ」
クライス様が問う。
「防衛戦を長引かせるための、『乾燥保存食(兵糧)』の大量製造ですわ」
「……」
「甘味用の蜂蜜と果実は一旦後回し。代わりに、大量の穀粉と木の実と乾燥乳をぶち込んで、兵士向けの『高栄養のカロリーメイト(携行食)』を24時間体制で作ります」
「……そんなものまで、一瞬で思いつくのか」
「前世の社畜(効率化)知識は、伊達ではございませんのよ」
皆が圧倒されたように、一斉に私の指示を紙へ書きつけ始める。
よろしい。
これならまだ動ける。領地の機能は完全に回る。
私は深く息を吸った。
「大丈夫ですわ」
怯える使用人たちの誰に向けたともなく、私は力強く言い切った。
「何も慌てる必要はございません」
「……」
「相手は大軍でも、こちらには圧倒的な地の利があり、備えがあり、何より」
私はクライス様を、全幅の信頼を込めて見る。
「この国で一番強い、『最強の氷の騎士』がおりますもの」
張り詰めていた執務室の空気が、その一言で少しだけホッとやわらいだ。
クライス様は何も言わない。
だが、その蒼い目が、ほんの少しだけ照れたように、そして誇らしげに熱を帯びる。
ああ。
こういう時、この方は本当に精神の支柱として頼もしい。
「それに」
私はニコリと不敵に笑って続ける。
「いざとなれば、広域殲滅魔法の得意な『私』もおりますわ」
「存じております。それが一番の兵器(安心)です」
ハインツさんが、真顔で静かに即答した。
その真っ直ぐすぎる返事へ、私は「まあ」と小さく苦笑して頷いた。
◇ ◇ ◇
だが、私の胸の奥の怒りは消えなかった。
むしろ。
冷たく、静かに、芯の方で青白い炎となって燃え続けていた。
防衛会議が一段落し、人が少しはけた後。
私は一人で窓辺へ立ち、遠くの山並みを見た。
その向こう。
国境のさらに先には、グランゼル皇国の傲慢な兵が集まっている。
数万、とまでの絶望的な大軍にはまだいかないだろう。
だが、数千規模でも、一つの辺境領地を物理的に脅かし、蹂躙するには十分すぎる暴力だ。
普通のお飾りの貴族令嬢なら、震えて泣き叫んでもおかしくない状況である。
けれど、今の私にあったのは、恐怖ではなかった。
「ルシア」
背後から、クライス様が足音もなく近づく。
「こんな時に、一人になるな」
「一人ではございませんわ」
私は振り返った。
「ちゃんと、腸の煮えくり返るような『怒り』が一緒におりますもの」
「……」
「冗談ではなくてよ」
私は小さく、冷たい息を吐く。
「今の私、人生で一番と言っていいほど、だいぶ本気で怒っておりますの」
「分かっている」
「でしょう?」
「顔に出ている」
「隠す気もございませんもの」
クライス様は私の前へ立つと、しばらく何も言わずに私をジッと見た。
その視線が、戦場を前にしているのに妙に静かで、でも甘く柔らかい。
「……何ですの」
「お前が本気で怒ると」
「はい」
「恐ろしく綺麗な顔で、笑うんだな」
「……」
私は一瞬、キョトンとした。
「私、笑っております?」
「ああ」
「そうですの?」
「背筋が凍るほど、怖いくらいにな」
「まあ」
少し考えてから、私は口元へそっと手を当てた。
確かに。
怒りの沸点を越えた時ほど、逆に表情が冷静に整うことはある。
前世のブラック企業でも、理不尽な取引先に散々耐えた末、最後には完璧な営業スマイルのまま、法の抜け穴を突いて徹底的に社会的に詰めた(論破した)ことがあった。
ああ。なるほど。
今の私は、あの時と同じ、完全に『殺る気』の顔をしているのかもしれない。
「仕方ございませんわ」
私は静かに答えた。
「本当に1ミクロンも許せない時ほど、みっともなく怒鳴るより、冷静に殺意が整ってしまいますの」
「……」
「だって、愛する推しの領地を不当に荒らすのですもの」
私はクライス様を、真っ直ぐに見上げる。
「それだけでも万死に値しますのに」
「……」
「そこへ、私がようやく手に入れた『愛する夫との平和な日常』まで、あの愚か者たちは壊そうとしているのですよ?」
「……ああ」
「でしたらもう」
私はニッコリと、最高に美しく、冷酷に笑った。
「慈悲は不要。一匹残らず、国境の塵として駆逐(殲滅)するしかございませんでしょう」
その瞬間。
クライス様の目が、ハッキリと揺れた。
「ルシア」
「はい」
「今のお前の顔は」
「何かしら」
「魔王よりかなり怖い」
「そうですの?」
「俺が敵でなくて本当に良かったと、心の底から安堵するレベルだ」
「光栄ですわ」
私はフンスと胸を張った。
だって、紛れもない本音である。
私の尊い日常(推し活)を壊す相手に、手加減などという生ぬるい配慮は一切必要ない。
すると、クライス様が不意に大きな手を伸ばし、私の頬へ優しく触れた。
冷え切っていた怒りの芯へ、その手のあたたかい温度がジンワリと沁み込む。
「だが」
「はい」
「絶対に、無茶だけはするな」
「……」
「俺たちの日常を壊されて、怒るのはいい」
「ええ」
「領地を守るために、お前のその規格外の力を使うのもいい」
「……」
「だが。お前自身が無理をして、俺の目の前で壊れることだけは、絶対に許さない」
ああ。
本当に。
この人は。
こんな国の一大事の時でも、領地より何より、ちゃんと『私(妻)』の方を一番に見てくれている。
私は愛おしさに目を細め、そっとその大きな手へ、自分の両手を重ねた。
「大丈夫ですわ」
「お前の大丈夫は、全く信用できん」
「ひどい」
「今のような、怒りで冷静さを失っているお前には特にな」
「ですが」
私は少しだけ、心からの安心で笑う。
「私は絶対に壊れませんわ」
「……」
「だって、私のすぐ隣には、誰より強いクライス様がいらっしゃるもの」
その全幅の信頼を込めた一言で、クライス様の厳しい表情が、ほんのわずかに崩れてやわらいだ。
「そうだな」
「ええ」
「お前には、俺がいる。ならいい」
「はい」
◇ ◇ ◇
夕刻には、領都の中央広場へ、不安に駆られた領民たちが集められていた。
『隣国が軍を出した』という絶望的な不安は、すでに街中に広がっている。
ならば、何より先に領主夫妻が直接表へ出て、言葉を届けるべきだ。
そう判断したのは、クライス様と私、両方の完全な一致だった。
広場の演壇に立つと、数え切れない怯えた視線がこちらへ向く。
農民。商人。職人。小さな子ども。
皆、不安そうだ。
けれど、誰も絶望して逃げ出そうとはしていない。
それだけで十分、この領民たちは強い。
クライス様が、静かに一歩前へ出た。
「聞いての通りだ」
低く、腹の底に響くような声が広場を支配する。
「隣国側で、不当な軍事侵攻の兵が動いている」
恐怖のざわめきが波のように広がる。
だが、クライス様は岩のように動じない。
「だが、お前たちが慌てて逃げ惑う必要はない」
「……」
「この領地は、俺が必ず守り抜く」
短く、力強い、絶対的な誓いの言葉。
それだけで、パニックになりかけていたざわめきがスッと静まる。
この人の声には、背中には、そういう有無を言わさぬ力がある。
『氷の騎士が守ると言えば、本当に守られるのだ』と、皆が本能で知っている声だ。
次に、私が一歩前へ出た。
「皆様」
私の声は、驚くほどよく広場全体へ通った。
「非戦闘員の安全な避難準備は、すでに進めております」
「……」
「冬の備蓄も、すべて計算して避難所へ回します」
「……」
「水も食糧も、怪我に備えた医薬も、私が先回りしてちゃんと手を打ちました」
私は広場全体を、一人ひとりの目を見るように見渡す。
「ですから、必要以上に怯えて、生きることを諦めないでくださいまし」
領民たちの目が、祈るようにジッとこちらを見る。
私はその無数の視線を、当主夫人として真っ直ぐに受け止めた。
「今のこのフェルド領は、もう数ヶ月前の、ただ搾取されるだけだった貧しい領地とは違います」
「……」
「あの豚代官がのさばり、皆様が不条理に黙って耐えるしかなかった頃とは」
「……」
「もう、完全に違うのですわ」
広場が、水を打ったように静まり返る。
「だから」
私はゆっくりと、力強く言った。
「理不尽な暴力に、ただ怯えて踏みにじられるつもりなど、1ミクロンもございませんわ」
「……!」
「皆様が汗水流して育てたあの緑の畑も」
「……」
「お菓子を作る活気ある工房も」
「……」
「ささやかな日々の暮らしも」
「……」
「そして、私たちがこの領地でようやく取り戻した、あたたかい日常も」
私は少しだけ、誇り高く笑った。
「何一つ、隣国の愚か者どもには奪わせません」
その言葉は、決して大声ではなかった。
だが、静かなまま、熱を帯びて領民たちの心の奥底へ真っ直ぐに広がっていく。
誰かが、深く息を吐いた。
別の誰かが、震えを止めてギュッと拳を握った。
そして、広場のどこかから、ポツリと声が上がる。
「あの奇跡を起こした奥方様が、そこまで言うなら……」
「……」
「きっと、今回も何とかなる」
「……」
「いや」
あのお菓子工房の若い職人が、涙を拭って一歩前へ出た。
「絶対に何とかしてくれるんだろ! 俺たちの無敵の伯爵様と、女神の奥方様なら!!」
次の瞬間、広場の空気が劇的に変わった。
不安はある。死の恐怖もある。当然だ。
でもその上へ、“この夫婦を信じて、自分たちも足掻く”という強い『抗戦の意志』が乗ったのだ。
ああ。
それで十分。
クライス様が私を見る。
私は小さく、頼もしげに頷き返した。
◇ ◇ ◇
夜。
明日の開戦へ向けたすべての指示を出し終えた後、私はようやく自室のソファへドサッと腰を下ろした。
さすがに魔力と頭をフル回転させすぎて、少し疲れた。
頭の中はまだ迎撃の戦術と魔法の構成計算でいっぱいだが、それでも一息つく程度の余裕はある。
すると、クライス様が湯気の立つ温かい紅茶のカップを一つ、私の前へコトリと置いた。
「……ありがとうございます」
「甘くしてある。飲め」
「はい」
私は両手でカップを包む。
あたたかい。
少しだけ、肩の張っていた力が抜ける。
クライス様はそのまま、私のすぐ隣へ腰を下ろした。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
ただ極上の茶の香りだけが、嵐の前の静かな部屋へ広がる。
やがて、私はポツリと呟いた。
「本当に」
「何だ」
「心の底から、腹が立ちますわ」
「……ああ」
「ようやくこの領地が、穏やかで豊かになってきたのですのよ」
私は茶器の湯面を見つめたまま言う。
「死んでいた畑が緑に戻って」
「……」
「皆がお腹いっぱい食べて笑って」
「……」
「私がクライス様と、こうしてただ二人で平和にお茶を飲める時間までできて」
「……」
「それを、自分たちの強欲のために理不尽に壊しに来るなんて」
私はゆっくり顔を上げた。
「万死に値するどころか、1ミクロンも許せるわけがございませんでしょう」
クライス様は、静かに、私の怒りを共有するようにこちらを見る。
「だから」
私は笑った。
今度は、昼間の領民の前よりも、ずっと冷酷で静かに。
「この防衛戦、圧倒的な力で一方的に勝ちますわよ」
「当然だ」
「一匹残らず」
「……」
「この領地に手を出したこと、絶望のどん底で後悔させて差し上げます」
その過激なオタクの宣言へ、クライス様の美しい口元がわずかに上がる。
「怖いな」
「光栄ですわ。魔王の妻ですから」
「だが」
「何ですの」
「その冷酷な顔で俺の隣にいると、これから蹂躙される敵軍が少し可哀想に思えてくる」
「まあ」
私はクスリと笑った。
「愚か者に同情なさるのです?」
「いや」
クライス様は、私と同じように氷のような笑みを浮かべて平然と言った。
「俺も全く同じ、皆殺しにしてやりたい気分だからな」
「…………」
ああ。
もう、本当に。
この人は、最高すぎる。
私は茶器を置き、そっと手を伸ばした。
クライス様の大きくて硬い手に触れる。
向こうも、当然みたいにギュッと力強く握り返す。
それだけで、胸の中のドス黒い怒りが、きれいに鋭い刃の形を持つ。
ただ感情で荒れるのではない。
大切なものを『守るための絶対的な力(怒り)』へ、変わる。
隣国の大軍が迫っている。
小細工も、毒も、私の前で通じなかったから、今度は数の暴力で押し潰すつもりなのだろう。
でも。
それがどうした。
こちらには、絶対に守りたい平和な日常がある。
守りたい、無垢な領民たちがいる。
守りたい、世界で一番尊い推し(夫)がいる。
そしてその推しもまた、同じ熱量と怒りで、私のすぐ隣に最強の剣として立ってくれている。
――でしたら、もう。
私たちが負ける理由など、この世界のどこにも1ミクロンもございませんわね。




