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婚約破棄の瞬間に「前世の記憶」が戻りまして。〜ヒロインの座は譲りますので、私は推しキャラの側仕えを目指します!〜  作者: 綾瀬蒼


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第119話 氷のCEO、前世の激重溺愛モードを完全インストール

 翌朝。


 私は、自宅の洗面台の鏡の前で、たいへん静かで、そして深刻な顔をしていた。


 鏡に映る表情だけを見れば、どこからどう見ても完璧な社会人である。

 シワ一つないスーツ、よし。

 一糸乱れぬまとめ髪、よし。

 気合を入れ直したメイク、よし。

 背筋をピンと伸ばした姿勢、よし。


 そして、その内側にある『心の準備』だけが、これっぽっちも、全く、微塵も、よくなかった。


「……無理ですわね。一歩も外に出たくありませんわ」


 昨夜。

 あの荒れ狂う雷雨の夜。

 暗闇の密室となった、エレベーター。

 そして、劇的に訪れた、彼の『記憶の覚醒』。


 九条柊介という現代の若きCEOとして生きていた今世の最推しは、ついにすべてを思い出したのだ。

 魔法の吹き荒れる前世の記憶も。

 あの最後の誓いも。

 そして、私と過ごした、甘くて騒がしい日々の全部も。

 何より、覚醒直後のあの耳を孕ませるような致死量の第一声を。


 ――待たせてすまない、俺の愛しいルシア。


「ッ……!!」


 私は反射的に両手で茹で上がった顔を覆い、その場にうずくまった。

 だめですわ。

 朝の洗面台で回想するだけで、心拍数が人類の限界デッドラインを越えてしまいますわ。


 だが、落ち着きなさい、藤咲瑠衣。

 本日は忌々しくも輝かしい、平日。

 社会人としての出社日。

 つまり、私の愛するクライス様――いいえ、今世の肩書きで言えば九条社長が、完全に記憶を取り戻して『激重溺愛モード』をインストールした状態で、通常通り会社へいらっしゃる、地獄の初日ボーナスステージなのである。


 何ですのそれ。

 どう論理的に考えても、全方位への大惨事(公式爆撃)にしかなりませんこと?


「……いいですか、私。自分に言い聞かせるのです」

 私は鏡の中の、瞳に炎を宿した自分を見つめた。

「会社では、私はただの有能な秘書」

「オフィス内での公私混同は、コンプライアンス的に厳禁」

「記憶を取り戻した推しに、人前で致死量の甘い言葉を吐かれても」

「平常心」

「平常心」

「鋼の心臓でポーカーフェイス……」

「……うん、三秒で決壊しそうですわね」


 それでも、行かなければ給料は出ないし、何より推しをサポートできない。

 私は震える足で、どうにか深呼吸を一つして、覚悟を決めて家を出た。


 ◇ ◇ ◇


 クライス・ホールディングス本社。


 朝の秘書課は、今日も変わらずいつも通りに見えた。

 淡々と稼働するコピー機の電子音。

 足早に行き交う社員たちの靴音。

 通知を知らせるアプリの着信音。

 社長の到着を待つ朝礼前の、ピンと張り詰めたほどよい緊張感。


 よし。

 世界は昨日と変わっていない。

 私の限界オタクの心臓だけが、ドラムの連打みたいにうるさいだけである。


「藤咲さん、おはよう」

 隣の席の先輩秘書が、デスクからひょいと顔を上げた。

「はい、おはようございます」

「……今日、なんかやけに背筋が伸びてない? 鉄柱でも入ってる?」

「プロの秘書としての、当然の規律ですわ」

「いや、いつも以上にピリピリしてるっていうか。なんか殺気立ってるよ?」

「……気のせいです」

「最近それ(気のせい)で全部押し切ろうとしてるよね。無理あるよ」

「秘書の職能として、大変便利な言葉ですので」

「自分の怪しさを認めるんだ……」


 その、いつも通りの掛け合いの最中だった。


『チン』と、専用エレベーターが開く音。


 その瞬間、秘書課の空気が、まるで瞬間冷却されたようにぴんと張った。

 朝の、あの独特の静けさ。

 絶対的な支配者である社長が、フロアへ一歩を踏み出す直前の緊張。


 私は反射的に、軍人のような正確さで顔を上げた。


 そして、そのまま、数秒間完全に時が止まった。


「…………」


 九条社長――いいえ、もう私の魂のなかでは完全にクライス様でもあるその人は、いつも通りの、隙のない最高級のスーツ姿でエレベーターから降りてきた。


 漆黒のスーツ。

 一ミリの乱れもなく整えられた黒髪。

 近寄りがたいほどに冷たく、端正な美貌。

 無駄のない、静かな覇気を纏った歩幅。


 外見だけを見れば、昨日までと同じだ。何も変わっていない。


 でも、違う。

 オタクの解像度で見れば、絶望的に違う。


 空気が違う。

 向けられる視線の温度が、数百度ほど違う。

 そして、何より。


 受付に控える私を見た時の、あのほんのわずかな――けれど確実な独占欲の滲む目元のやわらぎが、完全に『記憶を取り戻した後の、最愛の妻を見つめるクライス様』のそれだった。


「ッ……」


 だめですわね。

 出社初手から心臓への火力が強すぎますわね。


「おはようございます、九条社長」

 私はどうにか理性をかき集め、完璧な角度で一礼する。


 すると、クライス様――九条社長は、他の秘書たちには見向きもせず、私の目の前でぴたりと足を止めた。


「おはよう、ルシア」


「…………」


 秘書課の空気が、今度こそ文字通り物理的に凍りついた。


 私も凍った。

 背後の先輩秘書も凍った。

 隅でコーヒーを飲んでいたチーフは、手にしていたタブレットを危うく床に叩き落としかけた。


「……ッ!!」

 私は秒速で顔を上げた。

「し、ししし、社長!?」

「何だ」

「ここここ、ここは社内ですわ! オフィスですわ!」

「そうだな。よく分かっている」

「今」

「……」

「何と、おっしゃいました……?」

「挨拶をしたまでだ。おはよう、と」

「そうではなく、その後の名前が!!」


 だが、クライス様は少しも動じていなかった。

 むしろ、今の挨拶のどこに一ミリの問題でもあるのかと言わんばかりの、ひどく落ち着いた涼しい顔で、私を熱っぽく見つめている。


 ああ。

 はい。

 そうでしたわね。


 この方、前世でもそうでした。記憶を取り戻すと、自分の中の優先順位を一切ぶらさず、外聞なんて気にせず当然のように愛を投下してくるタイプでしたわね。不器用な激重がカンストしているのですわ。


「……ねえ、藤咲さん?」

 背後から、先輩秘書が震える小声で囁く。

「今、社長……ルシアって……誰のこと?」

「気のせいです」

 私は感情を殺した能面のような顔で答えた。

「いや、無理があるって。はっきり聞こえたよ!?」

「空調の音の反射かと」

「部屋の空調、どんなエコーかけてるのよ!?」


 クライス様が、私の焦り具合を見て、フッと小さく愛おしそうに息を吐いた。


「仕事の話をしたい。……中へ」

「……ッ、……承知いたしましたわ!」


 私は半ば反射でタブレットを胸に抱え込み、逃げるように社長室へ続く。


 自分の背中へ、ひしひしと秘書課全員の驚愕と好奇の視線が突き刺さるのを感じた。

 ええ、分かりますとも。

 今のは現代日本において、だいぶ情報量と糖度が高すぎましたものね。


 でも、本当の問題はそこではない。


 本当の試練は、この扉の向こうで、二人きりになることである。


 ◇ ◇ ◇


 社長室の重厚な扉が、バタンと閉まる。


 その瞬間、私はバッと振り返った。


「クライス様!!」

「何だ」

「一つ、秘書として非常に重要な、コンプライアンス上の確認がございます!」

「言ってみろ」

「ここ、は、社内、です!!」

「……」

「公私の区別は、企業倫理において極めて大事です!」

「そうだな。否定はしない」

「でしたら!!」

「……」

「初手でいきなり“ルシア”と前世の名前を呼ぶのは、少々、オタクへの火力がカンストしすぎておりませんこと!?」

 クライス様が、ほんの少しだけ楽しそうに目を細めた。


「嫌だったか」

「嫌なわけがございませんでしょう!! むしろ一生呼び続けてほしいくらいですわ!!」

 思わず本音が即答で爆発してしまった。


 沈黙。


 ああ。

 やってしまいましたわね。

 嬉しさが先走って、オタクの勢いが出てしまいましたわね。


 でも、仕方ないのだ。

 嫌なはずがない。

 何しろ、この現世に転生して以来、ずっと彼から聞きたかった愛しい呼び方なのである。


「……では」

 クライス様が、満足げに静かに言う。

「お前も喜んでいる。何も問題ないな」

「そこは論理が飛躍しておりますわ! 感情と職場環境は別問題です!」

「そうか」

「そうです」

 私はバクバク鳴る胸元を、ブラウスの上から押さえた。

「私が嬉しいのと、会社で公衆の面前でそれをやられるのは、私の社会的な生存本能が拒否反応を起こすのです!」

「……面倒だな」

「恋愛とは、そういう繊細なものです!」

「……」

「少なくとも、情緒不安定な限界オタクを恋人にした場合は!」

「それもそうか。納得した」


 そう言って、クライス様はごく自然に、私が制止する間もなく、私の方へ歩いてくる。


 一歩。

 また一歩。


 近い。

 いえ、物理的にはまだ距離はある。

 でも、向けられる「雄」としての存在感が、前世より濃密で近い。


 そして、彼はそのまま私の頬へ、慈しむようにゆっくりと手を伸ばし――。


「ッ……!?」


 私はビクリと、電流が走ったように肩を揺らした。


「ク、クライス様!? 何を!?」

「髪だ」

「……?」

「一筋、跳ねている。……直させろ」

「……」


 大きな、温かい指先が、私のこめかみの髪をそっと優しく整える。

 耳の裏をかすめるその感触。


 たったそれだけ。

 たったそれだけの、主従でも恋人でもありそうな仕草。

 それなのに。


 彼が記憶を取り戻したという事実が乗るだけで、破壊力がカンストしているでしょう。


「……っ、あ、朝から、そういうのは……」

 私は掠れた声で、どうにか抗議する。

「何がだ」

「その」

「……」

「息を吸って吐くような、自然体での極上の甘やかし(ファンサ)が!」

「前から、お前にはこうしていただろう」

「前世の屋敷のなかではそうでした! でも今は令和のオフィスです!」

「今も同じだ。俺の場所(執務室)だ。文句があるか?」

「会社ですのに!?」

「会社であろうと、お前は俺のルシアだ。それ以外、何がある」

「ッ……」


 ああもう。


 本当に。

 本当に、この人は。


 記憶を完全インストールしたことで、不器用さが消えて、むしろ遠慮という概念が消滅しているではありませんこと!?


「……し、仕事を始めますわよ! 手を離してくださいませ!」

 私は真っ赤な顔で、どうにか秘書の仮面を貼り直した。

「当然だ。やるべき仕事は山積みだ」

「本日の予定を読み上げます」

「聞こう」

「ですが」

 私は震える手でタブレットを差し出しながら、真顔で、釘を刺すように続けた。

「その前に。社内では、衆人環視の中では、せめて少しだけその……情熱をお控えくださいまし」

「何を、だ」

「その」

「……」

「有無を言わせない、自然体の激重溺愛モードをですわ」

 クライス様は、少しだけ面白くないといった顔で、顎に手を当てて考え込んだ。


 それから、ひどく静かに、逃げ場のない声で言う。


「……善処する」


「……一ミリも、信用できませんわね」

「だろうな。俺もお前を離したくない」


 ◇ ◇ ◇


 しかし、その“善処”という言葉は、文字通り何の役にも立たなかった。


 なぜなら、クライス様は、彼なりの『露骨ではないつもり』の形で、周囲の神経を逆撫でする極めて高火力な振る舞いを連発してきたからである。


 朝一の、重要な役員会議の前。


「社長、本日の資料です」

 私がファイルを差し出すと、クライス様は受け取る瞬間、指だけではなく、私の手の甲を包み込むようにほんの少しだけ指を添えた。


「……ッ」

 私は無言で顔を上げる。彼の指先が熱い。

 彼は、平然とした顔で、何もなかったみたいに低く言う。


「助かる。お前の資料は、いつも分かりやすい」

「……」

「何だ。もっと触れてほしいのか?」

「違いますわ!!」

「そうか?」

「そうです! 公私混動です!」


 昼前。

 別のフロアへの会議室移動の際。


 廊下を歩く私の、少し斜め後ろ――護衛の位置へ、クライス様が自然についてくる。

 そして、角を曲がる時、向こうから来た社員と私がぶつからないようにと、ごく当たり前みたいに私の腰のあたりへ、グイッと自分の方へ引き寄せるように手を添えた。


「ッ!?」

「前を見ろ。危ないだろう」

「……っ、気をつけておりますわ!」

「ならいい。お前に傷一つつけたくない」

「よくありませんわ! その過保護すぎるセリフが!」

「ぶつかって怪我をするよりはマシだ」

「そういう問題ではございません!」

「……何だ。また『供給』とやらが過多なのか?」

「またです! 致死量です!」


 午後。

 一通りの来客対応を終えた後。


「社長、本件の商談の要点は以上です。議事録はこちらに」

「よくまとめた。完璧だ」

「ありがとうございます」

「さすがだな。……やはり、俺のルシアは世界一優秀だ」

「…………(フリーズ)」


 後ろで控えていた若手社員が、持っていた資料をパサリと一枚落とした。


 ああ。

 はい。

 そうでしょうとも。

 よく分かりますわよ。

 今のは、ビジネス用語としてだいぶ放送事故でしたものね。


「社長」

 私は笑顔のまま、青筋を立てて言った。

「ここは、社内、ですわ」

「そうだったな。つい昔の癖が出た」

「しかも今、所有格がつきましたわね。所有格が」

「俺の妻だ。事実だろう」

「事実でも、現代日本では調整というものが必要です!!」


 その一連のやり取りを、少し離れた廊下の位置で見ていた、社内事情に耳ざとい女性社員たちが、顔を見合わせてヒソヒソと騒然とざわついているのが見える。


「え、今の聞いた……? 『俺のルシア』って……」

「ルシアって、藤咲さんのこと? ニックネーム?」

「っていうか社長のあの甘い声、何……?」

「社長、今日なんか雰囲気が違くない?」

「違うどころか、完全に目が恋してるよね……?」


 ええ。

 そうでしょうね。全会一致でその通りだと思います。

 私も、本日の自分の心臓の耐久限界を、一時間おきに更新しておりますので。


 ◇ ◇ ◇


 そして、決定的な事件は夕方に起きた。


 大口の取引先との、神経をすり減らす打ち合わせを終え、私はエレベーターホールへ向かっていた。

 同席していたのは、営業本部のベテラン女性マネージャー二人と、広報部の若手社員。


 会議内容の事後共有を軽くしつつ、歩いていた、その時。


「藤咲」


 背後から、低くよく通る声がした。


 驚いて振り向く。

 クライス様が、忙しいはずなのに、少し離れた廊下の向こうからわざわざこちらへ歩いてくる。


「九条社長。どうかされましたか」

「この後、五分だけ時間は空くか」

「はい、スケジュールは調整可能です」

「なら、先にこれを。忘れていたぞ」

 彼が差し出したのは、私が会議室に置いてきてしまったタブレットだった。


「あら、すみません」

 私は目を瞬いた。

「会議室へ置き忘れておりましたのね。助かります」

「ああ」

「ありがとうございます」

 受け取ろうとして、手を伸ばした、次の瞬間。


 クライス様が、私の肩へ不自然に落ちていた小さな糸くずを、ごく自然に、愛おしそうに指先で払った。


「……ッ」


 営業マネージャーたちが、その親密すぎる動作に、石のように固まった。


 広報の若手が、あいた口が塞がらないといった様子でぽかんとする。


 そして、クライス様は周囲の目など気にせず、私にだけ聞こえるような、ひどく甘く静かな声で言った。


「……気をつけろ。お前は、時々こういうところが無防備だ」

「……」

「あまり、一人で根を詰めて無理をするな。俺が心配だ」

「……はい。承知いたしましたわ」


 だめですわね。


 その、距離。

 その、甘い声音。

 その、妻を慈しむような騎士の眼差し。

 完全に、これっぽっちも、一ミリも。周囲へ私たちの仲を隠す気がありませんわね、この王(推し)は。


 クライス様は、それだけ言うと、用は済んだと言わんばかりに颯爽と去っていった。


 残された廊下に、数秒間、重たい沈黙が落ちる。


「……」

「……」

「……」


 最初に沈黙を破ったのは、営業の女性マネージャーだった。


「……藤咲さん」

「はい、何でしょう」

「一応、秘書室のよしみで聞いてもいいかしら?」

「内容によりますわ」

「九条社長……。今日、一体どうされたの? 宇宙人に乗っ取られた?」

「…………(無言)」


 私は、一瞬だけ、どのようなビジネス用語で取り繕うか真剣に考えた。


 だが、もはや誤魔化しが効かない領域だと悟り、答えは一つしかなかった。


「……『平常運転』ですわ」

「全然、平常じゃないわよ!! 異常事態だよ!!」

 広報の若手が、我慢できずに思わず叫ぶ。


「いや、でも、なんていうか」

 もう一人の営業マネージャーが、頬を赤らめて妙に真剣な顔で言った。

「前からも藤咲さんには信頼が厚いとは思ってたけど……」

「ええ」

「でも、今日のは、なんていうか……。信頼とか仕事のパートナーっていうレベル、完全に超えてない?」

「……」

「目が、もう完全に『俺の女に手を出すな』って言ってたわよ……」

「甘い。甘すぎるわ。胸焼けしそう……」

「社長、あんなトロけるような目をするのね。信じられないわ……」


 私は、そっと爆発しそうな胸元を押さえた。


 ええ。

 分かりますとも。皆様のおっしゃることは重々分かります。

 私も本日、何度目かの『尊死びっくり』を更新して、魂が抜けかけておりますので。


 ◇ ◇ ◇


 終業後。


 どうにか怒涛の一日の業務を終えた私は、呼び出されて社長室へ入った。


 扉を閉めた瞬間、私は振り返って真顔で言った。


「クライス様!!」

「何だ」

「今朝おっしゃった『善処』とは!!」

「……」

「一体、どのような意味の辞書を引けば、今日のあの狼藉になるのですの!?」

 クライス様が、少しだけ不満げに目を細める。


「……これでも、最大限控えめに抑えたつもりだが」

「どこがですの!? ツッコミどころしかございませんでしたわよ!」

「以前の、屋敷にいた頃のお前への振る舞いに比べれば、今の俺はだいぶ大人しくしている」

「それは前世の、外界から隔絶された領地経営の屋敷のなかですわ!」

「今世の会社でも、俺の城であることに大差ない」

「大差ございます! 労働基準法も世間の目もございますわ!」

 私は胸を張って全力で抗議した。

「本日だけで! 秘書課と営業部の女性社員たちの間に、あらぬ憶測のざわつきが合計三回発生しておりますのよ!」

「そうか。お前が愛されている証拠だな」

「違いますわよ! 完全に私たちの仲を疑われてますの!」

「……お前を見れば、俺が我慢できなくなるのは当然だろう。お前が悪い」

「ッ……!!」


 ああもう!!


 そういう殺傷能力の高い顔で。

 そういう低くて熱い温度で。

 さらっと、呼吸をするように甘いことを言わないでいただけます!?


「……九条社長」

「今は二人だ。名前で呼べ」

「……クライス様」

「ああ、それでいい。落ち着く」

「はい」

「何が問題だ」

「問題だらけですわ!」

 私は、震える唇で真顔で答える。

「私は、まだ……」

「……」

「記憶を完全インストールした直後の推しからの、この『自然体・フルオート激重溺愛モード』に」

「……」

「心の準備が、1ミクロンもできておりませんの!」

 クライス様が、やれやれと小さく息を吐く。

 だが、その鋭い口元は、愛おしそうにやわらいでいた。


「なら、今すぐ」

「……?」

「慣れろ。命令だ」

「暴論ですわね!? コンプライアンス違反ですわ!」

「夫婦だった頃も、最初はお前もそうやって騒いでいただろう。そのうち慣れた」

「慣れきってはおりませんでしたわ! 毎回心臓が止まっておりましたわよ!」

「そうか。……なら」

 彼は音もなく一歩、私との距離をゼロにするまで近づいた。

「今世の人生でも、死ぬまでかけて少しずつ、俺の愛に慣れていけばいい」

「……ッ」


 ああ。

 だめですわね。


 その、逃げ場を塞ぐ言い方は。

 その、甘やかし、蕩けさせるような熱い温度は。

 前世も今世も、ずるいくらいに格好良すぎて反則なのですわ。


「……ルシア」

 低い、地を這うような甘い声。

 私の心臓のスイッチを、一瞬で入れる魔力。

「……はい」

「俺は、お前を思い出したからといって」

「……」

「急に、お前の知らない別人になるつもりはない。そんな器用な男じゃない」

「……」

「九条柊介として生きてきた合理的思考も、クライスとしてのお前への激しすぎる執着も、どちらも『俺』という一個の魂だ」

「……」

「だから、愛する妻を慈しむのに、今さら遠慮はしない。覚悟しろ」


 彼の手が、そっと私の熱い頬へ触れる。


「ッ……!!(限界)」


「……俺に愛されるのは、嫌か」

 静かな、けれど熱烈な問い。

 その瞳は、真っ直ぐに私の本心を射抜いていた。


 私は、少しだけ震える熱い息を吐いた。


 嫌なわけがない。

 そんなはずがない。

 むしろ、あまりにも幸せすぎて、苦しくて、オタクのキャパシティが忙しすぎて困っているだけなのだ。


「……嫌では、ございません……」

「……」

「……むしろ、光栄ですわ」

「そうか。……なら何も問題ないな」

「だから!! そこへ至る理屈の押しが、強すぎるのですわ……!」


 クライス様が、満足そうにほんの少しだけ、低く笑った。


「分かった」

「……」

「明日からは、みんなの前では、少しだけ今よりも抑える努力をしよう」

「本当ですの? 約束してくださいましよ?」

「ああ。嘘はつかない」

「……」

「ただし」

「……やっぱり、不穏な条件がつきますのね」

「当然だ。等価交換だ」

「何でしょう」

「二人の時は、相応の覚悟をしておけ」


「…………」


 私は、数秒遅れて、耳まで真っ赤になって両手で顔を覆った。


 ああもう!!


 本当に!

 本当に、本当にこの人は!!


 記憶を取り戻した途端、前世のあの『激重溺愛モード』を最新スペックで完全にインストールして、こちらの許容量へ一切の手加減をなさらないのだから!


 ◇ ◇ ◇


 その夜。


 なんとか命からがら帰宅した私は、服を着替える間もなくベッドへ倒れ込みながら、ぼんやりと天井を見上げた。


 社内での、あの耳を孕ませる低い声。

 無意識での、完璧すぎるエスコート。

 隙あらば触れてくる、さりげない接触。

 息をするように付け加えられる、甘い所有格。

 そして、同僚たちの間に広がる、驚愕のざわめき。

 最後に突きつけられた、“覚悟しておけ”という神の宣告。


「……無理ですわね。明日も会社に行ける自信がありませんわ」


 私は枕へ顔を深く埋めた。


 でも、不思議と、心は嫌がってなどいなかった。

 むしろ、幸せすぎて、この奇跡が消えてしまうのが怖いくらいだった。


 九条柊介としての今を持ったまま、私の愛したクライス様が、魂の底から戻ってきた。

 その上で、来世でもやっぱり私を見つけ出し、当然みたいに甘やかし、当然みたいに執着して、愛してくれる。


 そんな御伽話のような奇跡が、今、私の目の前で本当に起きている。


「……っ、ああ、もう……」


 私は、赤くなったままドクドクと鳴り止まない胸元を、ギュッと押さえた。


 明日からの会社生活、一体どうなってしまうのか。

 そして私は、この致死量の甘さへ、いつまで理性を保って耐えられるのか。


 不安は山積みである。

 だが、それ以上に。


 ――今世でも、やっぱり私の推しはスパダリで、世界一最高ですわね。


 そう、幸せな絶望と共に確信してしまう自分が、どうしようもなくそこにいた。



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― 新着の感想 ―
もう、会社中の壁を壊して、砂糖が爆発するまでやっていいと思うの。
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