第118話 記憶の覚醒。「待たせてすまない、俺の愛しいルシア」
一階のエレベーターの重い扉が静かに開いた時、私は、自分のヒールの足音が妙に遠く聞こえた。
無人のロビー階。
いつも見慣れたはずの、クライス・ホールディングス本社の豪華な一階。
落ち着いた大理石の床。
受付を照らす上品な間接照明。
少し離れた位置にある、警備員の詰め所。
その全部の景色が、先ほどの密室の出来事のせいで、ほんの少しだけ現実感を失ってフワフワしていた。
さっきまで閉じ込められていた真っ暗な箱の中で、九条さんの中へ、間違いなく『何か』が流れ込んだ。
それは、ただの高熱や疲労が見せた、悪夢の断片などではない。
私にはもう、魂のレベルで分かってしまっている。
魔王城。
赤い空。
最後の誓い。
そして、彼がさっき言いかけた、あの言葉。
『待たせ――』。
そこまで来て、止まった。
「……」
私は一歩、無言で先を歩く九条さんの大きな背中を見る。
広い肩。
どんな時も真っ直ぐな背筋。
濡れた夜のロビーを、何事もなかったような静かな足取りで進む姿。
今までも何度となく見てきた、見慣れた背中だ。
前世でも。
今世でも。
でも、今は違う。
さっきのあの目。
私を見た時の、あの激しい揺れ方と、確信に変わった熱。
もう、“何となく君が懐かしい”という無自覚な好意のレベルでは済まないところまで来ている。
「……社長」
私は、消え入りそうな声で小さく呼んだ。
九条さんの足が、ピタリと止まる。
でも、振り返らない。
ただ、その場で何かを噛み締めるように、静かに立ち尽くしていた。
外ではまだ、バチバチと雨が強く窓を叩いている。
エントランスの巨大な自動ドア越しに、濡れた東京の夜景と、細かい稲光が見える。
雷鳴も少し遠ざかったとはいえ、完全には去っていない。
「……大丈夫ですか」
私は、できるだけ秘書としての落ち着いた声を作って問う。
「……」
「少し、ロビーのソファで休まれます?」
「……」
「あるいは」
私は勇気を出して、一歩だけ彼に近づいた。
「私の方で、送迎車の中で休めるように――」
「藤咲」
低く、有無を言わせない声が、私の言葉を静かに断った。
それだけなのに、オタクの心臓がドクン! と大きく跳ねる。
「はい」
「……」
「こっちへ来い」
私は一瞬だけ迷って、それからすぐに従った。
一歩。
また一歩。
夜の静まり返ったロビーに、私の靴音だけが小さく響く。
警備員は、九条さんの纏うただならぬ空気に気を利かせて、少し離れた位置へ静かに下がっていた。
今、この広い空間には、完全に私たち二人しかいなかった。
あと数歩で手が届くところまで来て、私は止まる。
九条さんが、ゆっくりと振り返った。
その瞬間。
私の息が、完全に止まった。
目が、違った。
顔立ちは同じだ。
綺麗な黒髪も、高級なスーツも、今世の現代の『九条柊介』のままだ。
けれど、目の奥にある静けさと、私を捉える激重な熱だけが、決定的に違う。
それは。
私が時を越えてずっと探して、ずっと知っている『彼』の目だった。
ひどく冷静で。
ひどく強くて。
そして、どうしようもなく、私にだけやさしい。
「……ッ」
喉が、ヒクリと鳴る。
ああ。
だめですわね。
もう、完全に分かってしまいましたわね。
「社長……?」
かろうじて、震える声でそう呼ぶ。
すると、九条さん――いいえ。
彼は、ほんの少しだけ、昔のように困ったように目を細めた。
それから。
「待たせて、すまない」
低く。
でも、私の魂の奥深くまで、はっきりと届く声で。
「俺の、愛しいルシア」
「――ッ!!」
私の世界が、完全に止まった。
◇ ◇ ◇
「……ぁ」
声にならない音だけが、震える唇から漏れた。
目の前にいるのは、九条柊介のはずだ。
現代日本の、若きエリートCEO。
前世の記憶を失ったまま、それでも理屈抜きで私へ惹かれ、私を選んでくれた人。
でも今、その人の口から。
私が何より聞きたかった、前世の私の名前で。
何より聞きたかった、あたたかい温度で。
何より聞きたかった、不器用でやさしい声音で。
『ルシア』、と。
ハッキリと、妻である私を呼んだ。
「……ッ、ク……」
喉が震える。
胸が張り裂けそうに苦しい。
視界が、一気に熱い涙でぼやける。
「私はここです」と言いたい。
名前を呼びたい。
今すぐその広い胸に飛びつきたい。
大声で泣きたい。
幸せで笑いたい。
何十年分もの感情の全部が一気に押し寄せてきて、私のポンコツな身体の処理能力が、完全に追いつかなかった。
「クライ……ス、様……?」
ようやく、涙の奥から絞り出したその名に、彼の目が、ひどくやわらかく、愛おしそうに揺れた。
ああ。
はい。
そうですわね。
その不器用な顔。
その真っ直ぐな目。
その、少しだけ照れを押し殺したみたいな、微かな口元の動き。
私の最推し。
私の運命の夫。
前世で、世界の終わりのその先(来世)まで、絶対に離さず一緒に歩くと誓ってくれた、ただ一人の人。
「……ああ」
彼――クライス様が、静かに、深く頷く。
「全部、思い出した」
「……」
「遅くなった」
「……」
「一人にして、すまなかった」
「……ッ」
だめですわ。
それは。
それはもう。
耐えられるわけが、無理に決まっておりますでしょう。
私は、その場で限界を迎えて一歩ふらついた。
嬉しい。
嬉しいのだ。
何よりも。
誰よりも。
喉が焼けるほどに、息ができないほどに、嬉しい。
でも、それと同時に。
ずっと探して、ずっと焦がれていたものが、突然、目の前へ全部戻ってきた特大の衝撃(供給)に、私の脆弱なオタクの身体の方が耐えきれない。
「ルシア」
今度は、もっと甘く近くで呼ばれる。
気づけば、クライス様は私のすぐ目の前(ゼロ距離)まで来ていた。
その大きくてあたたかい腕が、崩れ落ちそうな私の肩へ伸びる。
「おい、顔色が悪いぞ。真っ青だ」
「だ、だって」
私は、どうにかバグった脳で言葉を繋ごうとした。
「だって」
「……」
「急に」
「……」
「何の前触れもなく、急に全部戻られて」
「……」
「そんな、私が平常心で平気でいられるわけが……」
最後まで言えなかった。
だって、その私の肩を抱き寄せる手が。
そのあたたかい触れ方が。
その耳元で囁く声が。
全部、私の待ち望んだ本物だったから。
夢ではない。
幻覚でもない。
記憶の取り違えでもない。
この人は、本当に、私の元へ帰ってきたのだ。
「ルシア」
クライス様が、今度は少しだけ心配そうに眉を寄せる。
「無理をするな。足が震えてるぞ」
「無理なのは」
私は涙目のまま、顔を真っ赤にして抗議した。
「あなたの方の、その破壊力ですわ」
「何がだ」
「何が、ですの!?」
私は本気で、泣きながら言った。
「落雷で記憶を取り戻して、開口一番のセリフが“待たせてすまない、俺の愛しいルシア”などと」
「……」
「そんな乙女ゲームのトゥルーエンドみたいな神セリフ」
「……」
「限界オタクにとっては、致死量に決まっておりますでしょう!?」
しばし沈黙。
それから、クライス様が、ごくかすかに息を吐いた。
多分、私のあまりの限界っぷりに、愛おしさで笑いを堪えたのだ。
ああもう。
そこですの?
今、笑うところなのですの?
「……そうか」
「そうですわ!」
「それは、少し配慮が足りなくて悪かった」
「絶対に1ミクロンも悪いと思っていませんわね!?」
「少なくとも」
彼は、私の肩をグッと力強く引き寄せながら、耳元で低く言った。
「お前がそんなに可愛い顔(反応)をするなら、言わない方がよかったとは、全く思っていない」
「ッ……!!」
だめですわね。
やはり、記憶を完全に取り戻した推し、火力が一段階どころではなく、致死量レベルでカンストして上がっておりますわね。
◇ ◇ ◇
外では、また遠くで雷が鳴った。
けれど、もう私は、少しも怖くなかった。
目の前にいる人が、ちゃんと私の『クライス様』だから。
それだけで、さっきまで密室の箱の中で感じていた息苦しさも、トラウマのざわつきも、全部どこか遠くへ飛んでいく。
「本当に」
私は、彼の胸元を掴み、震える声で言った。
「本当に、全部、思い出しましたの?」
「ああ」
「私のことも」
「全部だ」
「異世界でのことも」
「全部」
「あの魔王城でのことも」
「……ああ」
「私が最後に言った、最後の誓いも」
そこで、クライス様の蒼い目が、ほんの少しだけ、熱を帯びて深くなる。
「忘れるはずがない」
「ッ……」
ああ、だめですわ。
その重い言い方。
その熱い言い方、本当に。
こちらの情緒と心拍数へ、配慮というものがありませんの?
「ルシア」
「はい……」
「お前は」
「……」
「俺の記憶が戻るまで、この日本で、ずっと一人で待っていたのか」
その切実な問いに、私は少しだけ笑った。
笑おうとして、でも堪えきれずに、涙の方が先にボロボロと落ちた。
「待ちましたわ」
「……」
「かなり。長かったですわ」
「……」
「今世でも、あなたが絶対どこかにいると信じて」
「……」
「探して」
「……」
「やっと見つけて」
「……」
「有能な秘書になって」
「……」
「あなたに選ばれて、恋人になって」
「……」
「それでも」
私は、ぐしゃぐしゃの泣き顔のまま言った。
「あなたが前世の私を思い出してくださる保証なんて、この世界のどこにもなかったのですわよ」
クライス様が、ひどく静かな、痛みに耐えるような顔になる。
ああ。
はい。
そういう顔、知っておりますとも。
怒っているわけではない。
悲しんでいるわけでもない。
ただ、自分のせいで、私にどれほど長いあいだ、一人で不安に耐えさせたと理解して悔やんでいる時の、不器用な男の顔だ。
「……すまない。寂しい思いをさせた」
「だから」
私は慌てて、首を横に振った。
「その謝罪のお言葉は、ずるいですわ」
「何がだ」
「だって」
私は、彼の胸に顔を埋めて、泣き笑いみたいな顔で答える。
「そんなやさしい声で謝られたら」
「……」
「私の方が、もっと安心して、大声で泣いてしまうでしょう」
クライス様は、数秒、何も言わなかった。
それから、ごく自然に、私を強く、深く抱きしめた。
強く。
けれど、私を傷つけず、苦しくさせないように。
世界で一番大切な、壊れ物を扱うみたいに。
「……ッ、ぁ……」
私の顔が、彼のあたたかい胸元へ埋まる。
匂い。
体温。
力強い鼓動。
全部が、前世と同じで懐かしいのに、今この瞬間の現代の現実でもある。
ああ。
本当に、私の推しは、帰ってきたのだ。
「俺も」
頭の上から、低い、愛おしさに満ちた声が降る。
「お前を、ずっと無意識に探していた」
「……」
「夢の中で」
「……」
「現実で」
「……」
「お前に出会うまで、俺の人生は、ずっと何かが決定的に足りなかった」
「……」
「俺の探していた半身は、お前だった」
「ッ……!」
だめですわ。
もう、本当に、キャパシティがだめですわ。
私は彼の胸元へ額を強く押しつけたまま、無言で首を振った。
そんな甘い殺し文句を連発されたら、どうしたらよろしいのか分からない。
今世でも、やっぱりこの人は、私が一番欲しい言葉を、一番痛いところへ正確に置いてくるのだ。
「ルシア」
「……はい」
「まだ、俺が現代の『九条柊介』に見えるか」
その問いに、私は少しだけ泣き顔を上げた。
整った黒髪。
現代の細身のスーツ。
前世の騎士時代とは少し違う、洗練された顔立ちの線。
でも、私を見つめるその目だけはもう完全に、私の愛してやまない『クライス様』だった。
「見えますわ」
「……」
「ちゃんと、現代の九条さんにも見えます」
「……」
「でも」
私は泣きながら、世界一幸せに笑った。
「その奥に、私の大好きなあなたが、全部おります」
「……」
「だから」
「……」
「ズルいくらい、最高の推しですわ」
クライス様が、ほんの少しだけ驚いたように目を見開く。
それから、ひどく小さく、心の底から満たされたように笑った。
「そうか」
「ええ」
「それは、よかった」
「よくありません」
「何がだ」
「公式からの神供給過多です」
「またそれ(オタク用語)か」
「またです」
「……」
「今の私は」
「……」
「尊さで、だいぶ限界です」
「それは、お前の真っ赤な顔を見れば分かる」
ああもう。
本当に。
こういう細かいところまで全部、前世からそのままですわね。
◇ ◇ ◇
だが、限界は本当に唐突に来る。
嬉しい。
安心した。
愛しい。
帰ってきた。
その巨大な感情の全部が、あまりにも一度に胸へ流れ込みすぎて、私の脆弱な身体は、ついに処理能力の限界を迎えたのである。
「ルシア?」
「……」
「どうした」
「……あの」
「何だ」
「ちょっと」
「……」
「限界化して、無理、かもしれませんわ」
言った瞬間、私の膝からプツンと完全に力が抜けた。
「あ、おい!」
クライス様の強い腕が、すぐに私を支える。
でも、だめだった。
視界がグラリと大きく揺れる。
鼓動が警鐘のようにうるさい。
頭の中が尊さで真っ白で、足元がまるで綿みたいに頼りなく崩れ落ちる。
「ルシア!」
「……」
「しっかりしろ、気をしっかり持て!」
「……無茶ですわ……」
「何がだ」
「だって」
私は半分泣きながら、意識を手放す寸前で訴える。
「愛する最推しが」
「……」
「記憶を取り戻して」
「……」
「私を抱きしめて、愛しいルシア、などと」
「……」
「そんなの」
「……」
「致死量すぎて、オタクのキャパシティを超えます……」
最後の言葉を言い切る前に、私は本当に、尊死してその場へ崩れ落ちた。
いや。
正確には、床に崩れ落ちる前に、クライス様が軽々と私を抱き上げた。
「……ッ」
フワリと身体が浮く。
いわゆる、ロビーのど真ん中での、お姫様抱っこである。
「ク、クライス様!?」
「黙れ」
「ですが、人目が」
「そのまま喋ると、舌を噛むぞ」
「ッ……」
ああ。
はい。
そうでしたわね。
この方、記憶を取り戻すと、こういう私が無茶をした時の容赦がなくなるのでしたわね。
「車を回せ」
クライス様が、少し離れた位置で呆然としていた警備員へ、低く鋭く命じる。
「至急だ」
「は、はいッ!」
警備員が慌てて走り出す。
私は、抱き上げられたまま、クライス様の首元へそっと熱い手を添えた。
だって、こうでもしないと、落ちそうで本当に落ち着かなかったのだ。
「……ルシア」
「はい……」
「顔が真っ赤だぞ」
「存じております」
「熱があるのか」
「多分」
私は茹で上がった真顔で答えた。
「萌えの感情の方に」
「……そうか」
「そうです」
「……」
「ですので」
「何だ」
「少しだけ」
「……」
「このまま、腕の中で休ませてくださいませ」
一拍。
それから、私を抱えるクライス様の腕に、ほんの少しだけ独占欲のように力がこもる。
「ああ」
低い声。
でも、その甘い一音だけで、胸がはち切れそうにいっぱいになる。
「好きにしろ」
「ッ……」
駄目ですわ。
本当に。
本当に、この人は。
記憶が戻ってきたばかりだというのに。
今世の私が一番欲しい言葉のタイミングまで、もう完全にマスターして分かっているではありませんこと。
◇ ◇ ◇
そのまま送迎車へ乗り込み、私は後部座席で、クライス様の広い肩にもたれかかっていた。
外では、まだ雨が降っている。
窓に打ちつける水の筋が、東京の街のネオンの灯りを綺麗に滲ませていた。
でも、車内は不思議なくらい静かで、あたたかかった。
「……クライス様」
「何だ」
「本当に」
「……」
「私を思い出して、戻ってきてくださったのですね」
「ああ」
「私の都合の良い、夢ではなく?」
「夢なら」
クライス様が、少しだけ意地の悪い声で言う。
「お前は、あんな体育会系みたいな返事じゃなく、もう少し上手く返せるだろう」
「……」
「さっきのパニック具合は、かなりひどかったぞ」
「仕方ありませんわ」
私は真っ赤になって、頬を膨らませた。
「限界オタクの心臓のキャパシティに、全く配慮がありませんでしたもの」
「そうか」
「そうです」
「だが」
「……」
「俺は、ようやくお前を思い出した」
「……」
「もう、二度と忘れない。絶対に離さない」
その一言で、また胸が熱くなって泣きそうになる。
ああ。
ええ。
今夜は本当に、私の涙腺と心臓へ過酷すぎますわね。
私は、彼の肩へそっと額を預けた。
そのまま、安心しきって目を閉じる。
前世の記憶を完全に取り戻した、今世のクライス様。
『九条柊介』という現代の今を持ったまま、それでもなお、私を『ルシア』と呼んで抱きしめてくれる人。
それが、どれほど奇跡みたいなことか。
多分、私はこの先も何度だって思い知るのだろう。
「ルシア」
「はい」
「今夜は」
「……」
「もう、一人で限界を迎えて倒れるな」
「……」
「俺がいる。俺に頼れ」
「ッ……」
ああもう。
本当に。
これはだいぶ、火力が致死量すぎるのではありませんこと?
私は、彼のあたたかい肩へ寄り添ったまま、小さく幸せに笑った。
「はい」
「……」
「では、遠慮なく」
「……」
「本日から、記憶を取り戻した推しによる過剰供給を、正式にすべて受け止めてまいりますわ」
「最後だけ、やっぱりオタク語録で変だな」
「平常運転です」
「そうか」
「そうです」
雷雨の夜。
閉じ込められたエレベーター。
そして、完全に覚醒した記憶。
長い長い、遠回りの末に。
ついに、私の愛しい人は、今世の現代日本へ、完全に帰ってきたのだった。




