第117話 雷雨の夜。閉じ込められたエレベーターと、フラッシュバック
その日の東京は、昼過ぎから空模様が不気味なほど怪しかった。
朝はあんなに雲一つなく綺麗に晴れていたのに。
夕方になるにつれ、社長室の巨大なガラス窓の向こうで、空の雲がゆっくりと、不吉な鉛色へと染まっていく。
「……来ますわね」
私は社長室前の自分のデスクで、窓の外の淀んだ空を見上げながら、ポツリと小さく呟いた。
低く垂れ込める、分厚い黒雲。
遠くの空を切り裂く、紫がかった稲光。
そして、少し遅れて腹の底へズシンと重く響くような、不気味な雷鳴。
ああ。
はい。
これはだいぶ、気象庁が本気を出すタイプのゲリラ雷雨ですわね。
「藤咲さん」
隣の先輩秘書が、不安げに顔を上げる。
「はい。何でしょう」
「今日の天気、ヤバいね。もう仕事が上がれる人は、早めに退社させた方がよさそう」
「ええ、同感です」
私は即座に、キーボードを叩きながら頷いた。
「交通機関が完全にマヒして乱れる前に、役員と各部の退勤の段取りを変えます」
「助かる!」
「当然ですわ。秘書ですので」
そう。
本来なら、ここで私の有能な仕事の自慢話は終わるはずだった。
不要不急の社員を早めに帰宅させ。
残るタスクを効率的に整理し。
九条社長の最終スケジュールを前倒しで詰め直して。
雨脚が強まって電車が止まる前に、私も彼と一緒に、スマートに送迎車で退勤する。
普通なら、それで完璧に終わる。
だが。
「社長」
私は、十九時過ぎに入った最後の来客(しぶとい取引先)がようやく帰ったあと、社長室へ入った。
「何だ」
「本日の残件は以上です」
「……」
「先方への面倒なメール返信も完了済み」
「……」
「役員への明日の緊急共有も、すでに済ませました」
九条さんが、最後の稟議書へ視線を落とし、ペンを走らせたまま言う。
「ご苦労。相変わらず仕事が早いな」
「光栄です」
「外の様子は」
「だいぶ、大荒れでよろしくありません」
「そうか」
「ええ。もう退勤の判断をすべきかと」
その瞬間。
窓の向こうの空が、昼みたいに真っ白くピカッと光った。
「ッ……!」
一拍遅れて、空が爆発したような轟音の雷鳴が来る。
ドォォン! と、社長室の分厚い防音ガラスが、わずかにビリビリと震えた。
「……」
「……」
ああ、はい。
結構ですわね。
雷神様、かなりお怒りで本気ですわね。
「社長」
「何だ」
「本日は、これ以上交通機関が死ぬ前に、少々、早めのご帰宅を強く推奨いたします」
「俺もそうしたいところだが」
「……」
「これからもう一本、時差のある海外拠点とオンラインで繋ぐ」
「は? 今からですの?」
「向こうの工場での、システム障害対応の緊急確認だ」
「……」
「早ければ、三十分で終わる」
私は、呆れて小さく溜め息を吐いた。
でしょうね。
このワーカホリックの権化のような方が、ただの雷程度で、しかもトラブル対応を切り上げて帰るはずがないのだ。
分かっていた。
分かってはいたのだけれど。
「では」
私は諦めて、タブレットを胸に抱え直す。
「私も当然、残ります」
「お前は帰っていい」
「即、却下です」
「……」
「この大荒れの天気で、社長だけ残して先に帰るような薄情な秘書が、どこにおりますの」
「今、お前の目の前にいるだろう。帰れ」
「おりません。私は帰りません」
「いる」
「断固として帰りません」
九条さんが、やれやれと小さく息を吐く。
だが、その氷の口元が、私が残ってくれることへの安堵で、ほんの少しだけ嬉しそうに緩んでいた。
「……勝手に好きにしろ」
「ありがとうございます。特等席で残業させていただきます」
◇ ◇ ◇
結果として、すべての業務を終えて退勤の準備ができたのは、二十一時を少し回った頃だった。
フロアにはもう、私たち以外にほとんど人がいない。
非常灯と間接照明だけが静かに灯る役員階は、しんと静まり返り、昼間よりずっと広く、冷たく感じた。
外では、雨がゲリラ豪雨の狂気の本気を出していた。
窓ガラスへ叩きつけるような雨粒の音。
時折走る、目を焼くような鋭い稲光。
それに続く、腹の底を揺らすような重い雷鳴。
「……だいぶ、遅くなりましたわね」
私は、社長室のメイン照明を落としながら、小さく呟いた。
「そうだな。悪かったな、付き合わせて」
「送迎車を、地下駐車場へすぐ回すように呼びます」
「頼む」
「承知しました」
端末でハイヤーへ連絡を入れ、私は九条さんと並んで、静かな専用エレベーターホールへ向かう。
夜のオフィス。
ほぼ無人の薄暗いフロア。
恋人になって以降、こういう『二人きりの帰り道』ですら、私の心拍数(BPM)にはやや刺激が強くてよろしくないのだが。
今日はさらにそこへ、『密室で雷雨』という乙女ゲームのような神演出までついている。
現代日本、私への公式イベント過多ではありませんこと? 供給で死にますわよ。
「藤咲」
「はい」
「さっきから、妙に静かだな」
「思考が少々、宇宙へ飛んでおりました」
「何だ、それは」
「『供給過多』という名の、私の心臓への試練です」
「……またか」
「またです」
「雷雨で怖いからか?」
「それも、少々ございます」
私は少し顔を赤くして、真顔で答えた。
「ですが」
「……」
「夜の無人のフロアで、仕事終わりに、大好きな推し(恋人)と二人きりでエレベーター待ち」
「……」
「このシチュエーションの火力が、低いはずがありませんでしょう? 限界化しておりますわ」
「……頼むから、俺のことを『火力』で表現するな」
「事実です。焼き尽くされます」
その時、チン、と涼やかな音を立てて、専用エレベーターが静かに到着した。
扉がスーッと開く。
広めの高級感のある箱内。
壁一面の鏡張り。
柔らかな、少しオレンジがかった間接照明。
私たちは、肩が触れそうな距離で並んで乗り込む。
静かに、扉が閉まる。
ゆっくりと、地階への下降が始まった、その瞬間だった。
ズン! と腹へ直接響くような、今日一番の特大の雷鳴。
そして――。
バツンッ! と、不吉な音を立てて箱内の照明が完全に落ちた。
「ッ!」
一瞬の完全な暗闇。
次いで、ビーッという警告音と共に、天井の非常灯が、不気味な赤みを帯びた弱い光を灯す。
ガコンッ! と、エレベーターが大きく不自然に揺れて、途中の階で完全に停止した。
「……あら」
私は、状況を理解するのに数秒遅れて、そう間抜けに呟いた。
いや、『あら』、では済みませんわね。
これ、本気で密室に閉じ込められましたわね?
吊り橋効果のフラグ建築、回収が早すぎませんこと!?
◇ ◇ ◇
「……非常停止か」
九条さんの低い声が、薄暗い密室の箱の中へ落ちる。
「そのようですわね」
私は、バクバク鳴る心臓を落ち着かせるために深呼吸した。
「近隣の落雷による、一時的な停電の保安停止の可能性が高いかと」
「非常通話は活きているか」
「今、確認しますわ」
私はすぐに壁の非常用インターホンボタンを強く押した。
少しして、ノイズ混じりで管理室側と繋がる。
『申し訳ありません! 先ほどの付近での落雷の影響で、一部系統の電源が停止しています! 現在、急ピッチで復旧作業中です!』
「こちら、役員階専用エレベーター内です」
私は秘書として即座に名乗る。
「九条CEOと、秘書の藤咲が閉じ込められています。怪我はありません」
『確認しました! お怪我がなくて何よりです。閉じ込めは当該の1基のみです』
「システムの復旧見込みは」
『安全確認を含めて、早くても十五分から三十分ほどかと……』
「承知しました。状況変化があれば、即こちらへ連絡を」
『かしこまりました!』
通話が切れる。
「……三十分程度、かかるそうです」
「そうか」
「ええ」
「なら、焦っても仕方ない。待つしかないな」
「はい」
九条さんは、相変わらず冷静で落ち着いていた。
当然だろう。
この大企業のトップに立つ人は、少々のマシントラブルや停電で取り乱すようなヤワな方ではない。
問題は、私の方である。
いえ。
もちろん、パニックになっているわけではない。
エレベーターに閉じ込められた程度で『キャーッ!』と悲鳴を上げるほど、前世の修羅場を含めて、ヤワな環境で育っていない。
ただ。
暗い。
狭い。
雷の音が近い。
そして何より、推し(恋人)との距離が、物理的に近すぎる。
「……」
「……」
だめですわね。
密室の暗闇という情報量が、オタクには逆に多すぎますわね。
「藤咲」
「はい」
「顔」
「何ですの」
「少し、強張ってる」
「気のせいです」
「そうは見えない。唇が白いぞ」
「雷の音が、少々」
「……雷、苦手なのか」
「得意では、ございませんわね」
私は、見栄を張らずに、少しだけ正直に答えた。
前世の、あの魔法の世界の雷は、もっと暴力的で直接的だった。
魔王城の赤い空を裂く、呪いのような紫電。
神殿を覆う、不吉な黒い雷雲。
戦場で落ちれば、ただの自然現象ではなく、確実に人が焼け焦げて死ぬ種類の、殺意のある光。
現代日本の落雷は、避雷針もあるし、理屈では前世より遥かに安全だ。
そう頭では分かっていても、雷鳴を聞くと、身体の奥の魂で、少しだけ前世の血なまぐさい嫌な記憶がざわついてしまうのだ。
「そうか」
九条さんは、私の怯えを察して短く言った。
それから、ごく自然に、私の立つ位置へ、触れるか触れないかの距離まで半歩だけ近づく。
「……社長?」
「何だ」
「今」
「……」
「少々、距離が。近いです」
「雷が、怖いんだろう」
「ッ……」
「一人で立っているより、この方が、少しはマシじゃないか」
非常灯の赤い薄明かりの中、私を見下ろす九条さんの横顔は、ひどく静かで、あたたかかった。
ああもう。
そうやって息をするように、何でもないことみたいにスパダリな気づかいを差し出すから、この方は本当に心臓に悪いのだ。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「ッ……」
だめですわね。
停電中の密室のエレベーター内で、その低い声での返答は、だいぶ致死量ですわね。
◇ ◇ ◇
また、外で激しく雷が光る。
今度は、先ほどよりずっと近かった。
真っ白な閃光が、窓のないエレベーターの隙間から一瞬だけ差し込み、箱内の鏡を不気味に照らす。
その刹那。
私の隣に立つ九条さんの肩が、ピクリと、何かを弾くように震えた。
「……?」
「社長?」
私は反射的に顔を上げる。
九条さんは、正面の鏡を見たまま、石像のように固まっていた。
さっきまでの落ち着いた静けさとは、明らかに違う。
目の焦点が、私でもなく鏡でもなく、もっと遠い『ここではないどこか』を見ているように、ほんのわずかに遠い。
「社長」
「……」
「九条さん?」
「……ッ」
その瞬間だった。
私の耳の奥で。
どこか遠くで、雷鳴とは全く別の『音』が鳴った気がした。
剣戟。
甲高い金属がぶつかり合う音。
爆ぜる強大な魔力。
そして、耳の奥へ直接流れ込んでくるみたいな、不快で、禍々しい赤黒い轟音。
私は、ゾクリと背筋を悪寒に震わせる。
今の、何ですの。
「……ッ、ぐ」
九条さんが、激しい頭痛に耐えるように、片手でこめかみを強く押さえた。
「しゃ、社長!?」
「……いや、大丈夫だ」
「よくありませんわね。顔色が真っ青です!」
「……少し」
「何がございました!?」
「音、が……」
「雷の音でしょうか」
「違う」
「……」
「もっと……」
九条さんの低い声が、苦痛に掠れる。
「……うるさい。もっと、近くで鳴ってる」
次の瞬間。
また、一際大きな閃光が走った。
バチンッ!! と、世界が白く裂ける。
その一瞬、私の目にも、幻覚としてハッキリと見えた気がした。
禍々しい黒い城壁。
血のように赤い空。
吹き荒れる、濃密な死の瘴気。
そして、その地獄の中心で、満身創痍で剣を握り、私を守るために立つ『氷の騎士(クライス様)』の背中。
「――ッ」
息が止まる。
ああ。
これ。
これ、ですわね。
来ていますわね。
彼の記憶の扉をこじ開ける、最悪のフラッシュバックが。
「社長!!」
私はすぐに、頭を抱える彼の腕へ両手を伸ばした。
「九条さん、しっかりしてください! こちらを見てくださいまし!」
「……」
「今、私たちはどこにいます!?」
「……エ、レベーター……」
「そうです! そうですわ!」
「……」
「現代日本の、エレベーターです!」
「……」
「私が、分かりますか!?」
九条さんの喉が、ヒクリと痙攣するように動いた。
そして、ひどく低い、地の底から響くような声で。
「……ル」
「……!」
「……ルシ、ア」
心臓が、跳ねた。
今。
今、この人は。
ハッキリと、前世の私の名前を。
「社長」
私は、嬉しさと恐怖で震えそうになる声を、必死に押し殺す。
「落ち着いてくださいまし」
「……ッ」
「大丈夫です」
「……」
「私は、ここにおります」
「……」
「ちゃんと、無事に、あなたの隣におりますわ」
その私の言葉へ反応するみたいに、虚ろだった九条さんの目が、大きく揺れた。
◇ ◇ ◇
彼の呼吸が、荒く乱れていた。
普段の冷静沈着な九条社長からは想像もつかないほど、目の奥が激しい感情の嵐でざわついている。
でも、それは単なる閉所恐怖症や体調不良ではなかった。
見えているのだ。
多分。
前世の記憶の断片が。
血みどろの戦場の景色が。
私と最後に交わした言葉が。
そして、まだ完全には彼の中で繋がっていない“彼自身の激動の過去”が。
「……く、ろい……城」
九条さんが、額に汗を浮かべ、途切れ途切れに夢遊病のように呟く。
「……」
「赤い、空……」
「……」
「折れた、剣」
「……」
「俺は……お前を……」
また、外で雷が鳴る。
私は反射的に、彼の手を、祈るように強く両手で握った。
「社長」
「……」
「いいえ」
「……」
「九条さん」
「……」
「今は、何も無理に思い出さなくてよろしいです。苦しいなら、やめてください」
「……」
「ですが」
私はギュッと、その冷たくなった手へ力を込めた。
「怖がらなくて、大丈夫ですわ」
「……」
「どんな恐ろしい記憶が来ても」
「……」
「私は絶対に逃げずに、ここにおります」
九条さんの視線が、焦点の合わない状態から、ゆっくり私へ落ちてくる。
非常灯の、血のような赤い光。
窓のない、密室の箱の中。
遠くで、世界を滅ぼすように鳴り続ける雷。
その全部の非現実的な状況の中で、彼のその真っ直ぐな瞳だけが、ひどく強く、私という存在を捉えていた。
「……どうして」
彼が、信じられないものを見るように、掠れた声で言う。
「……」
「君は」
「……」
「俺がこんなにおかしくなっているのに、そんなふうに」
「……」
「当たり前みたいに、俺の隣にいる」
胸の奥が、きゅうぅ、と締め付けられるように痛くなる。
それは、ずっと前からいたからです。
前世でも。
その前でも。
私はずっと、どんな地獄でも、あなたの隣にいたかったからです。
でも、今はまだ、それを全部言えない。
だから私は、ただ、彼を安心させるために、やわらかく笑った。
「……あなたの、恋人ですもの」
「……」
「それくらい、当然でしょう?」
九条さんが、ハッと息を呑む。
その瞬間。
今度は外の雷ではない、もっと鮮烈な何かの『記憶の雷』が、彼の中を真っ直ぐに貫いた気がした。
「――ッ!!」
「社長!?」
彼が、耐えきれずにエレベーターの壁へ手をつく。
苦痛に目を閉じる。
苦しそう、というより。
濁流みたいに流れ込んでくる膨大な記憶の奔流に、一気に脳を呑まれている顔だった。
「……魔王城……」
「……」
「最後の……」
「……」
「俺たちの……誓い、を……」
「……!」
だめですわね。
もう、本当に、扉が開くのは目前ですわね。
私は、崩れ落ちそうになる彼の肩を必死に支える。
距離が近い。
狭い箱の中で、彼の体温が、荒い呼吸が、微かな汗の匂いが、全部ひどく近い。
「社長」
「……」
「九条さん」
「……」
「私を見てくださいまし。ルシアは、ここにいます」
ゆっくりと。
彼の瞳が、パチリと開く。
その奥にある激しい揺らぎは、もう、ただの混乱や戸惑いではなかった。
すべてを思い出し、すべてを理解しかけている人の目だ。
ひどく遠い前世のものと、目の前の現代の現実が、ちょうど完全に『重なり始めている』時の、深くて重い目。
「……待たせ、て」
低い声が、感情の昂ぶりで、かすかに震えた。
「……」
「すま、ない……ルシア……」
「……ッ」
「俺の……」
そこで。
エレベーターが、ガコンッ! と大きく揺れた。
非常灯がパチパチと明滅し、外からワイヤーを巻き上げる機械の作動音が響く。
『失礼します! 復旧しました! まもなく運転再開します!』
インターホンからの、管理室の安堵した声。
それと同時に、箱内のメイン照明がフッと一斉に戻る。
明るい白い光が、箱内に満ちる。
私は、突然のまぶしさに少しだけ目を細めた。
そして、恐る恐る、正面を見る。
九条さんは、まだ私を見下ろしていた。
でも、その目は、さっきまでの苦痛に満ちた目とは少し違う。
戸惑いの嵐の中へ。
魂の底からの『確信』に近い何かが、ほんの少しだけ、熱を帯びて混ざっている。
「……社長」
「……」
「大丈夫ですか」
「……ああ」
低い声。
けれど、どこか、その声の深いところの温度が、昔の彼のようにやさしく変わっていた。
エレベーターが、ゆっくりと下降を再開する。
動き出した箱の中で、私たちはしばらく、お互いを見つめ合ったまま何も言わなかった。
言えなかった、の方が近いかもしれない。
だって、お互いに分かってしまったから。
今夜の雷は、ただの悪天候ではなかった。
九条柊介の中で、長く硬く閉ざされていた記憶の扉を、無理やりこじ開ける決定的な『引き金』だったのだ。
そして、多分。
次にその扉が完全に開き切った時。
この人は、もう、現代のただの“九条さん”ではいられない。
チン、と涼やかな音が鳴り、扉が開く。
無人の一階ロビーへ到着する。
私は、そっと息を吐いて、外へ出ようとした。
九条さんは無言で一歩、私より先に出る。
けれど、その直前。
ほんの一瞬だけ振り返って、私の手首を掴み、ひどく静かな、逃げ場のない声で言った。
「……藤咲」
「はい」
「今夜は」
「……」
「帰さない。俺の側にいろ」
「ッ……」
ああ、もう。
その強引な言い方は、私の心臓にだいぶ危険ですわね。
「……承知いたしました」
私は、顔を真っ赤にして、小さく答えた。
雷雨の夜。
閉じ込められたエレベーター。
暗闇と閃光の中で、九条さんの中へ流れ込んだ、前世の強烈な残滓。
『彼』の記憶の完全な覚醒は、もう、すぐそこまで来ていた。




