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婚約破棄の瞬間に「前世の記憶」が戻りまして。〜ヒロインの座は譲りますので、私は推しキャラの側仕えを目指します!〜  作者: 綾瀬蒼


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120/129

第120話 現代でもやっぱり有能すぎる夫婦。企業買収を華麗に阻止

 記憶を完全に取り戻した私の愛するクライス様(九条CEO)は、あらゆる意味で、非常によろしくなかった。


 何がよろしくないかと言えば、すべてである。


 朝の挨拶の声音が、溶けるように甘い。

 すれ違う時に投げかけられる視線が、砂糖漬けのように甘い。

 歩く時の立ち位置の距離が、パーソナルスペースを無視して近い。

 仕事中の私に対する絶対的な信頼が、激重すぎる。

 そして何より。会議室などで二人きりになった瞬間、前世の『夫』としての独占欲丸出しの熱い温度を、平然と出してくる。


 つまり。


「……公式からの供給が、明らかにキャパオーバー(過剰)ですわね」


 私は社長室前の自分のデスクで、役員会議の資料を整理しながら、限界オタクの深い溜め息とともに小さく呟いた。


「藤咲さん」

 隣の先輩秘書が、私の顔をジッと見てくる。

「はい、何でしょう」

「最近、藤咲さんの独り言の幸福度(糖度)が、明らかに高すぎる」

「気のせいです」

「いや、絶対違う。なんか後ろに薔薇のエフェクト飛んでるもん」

「仕事が順調ですので」

「絶対仕事だけじゃない顔してる!」

「では、仕事と私の人生そのものが絶好調ですので」

「認め方の圧が強い!」


 その、平和な朝のやり取りの最中だった。


『ピーン』と。

 秘書課と役員フロアの共有端末に、物々しい緊急表示が赤く点滅して出た。


【至急】

 海外投資ファンド《グレイヴ・キャピタル》より、金融庁へ大量保有報告書の提出通知あり。

 市場外取引を含む、当社の株式取得(発行済株式の5%超)が判明。

 本日十時、全役員対象の緊急対策会議を招集。


「……あら」


 私は、その赤い警告画面を見て、冷たく目を細めた。


『グレイヴ・キャピタル』。


 近年、アジア市場の優良な成長企業へ強引な敵対的買収を仕掛け、創業者を理不尽に追い出し、事業を切り売りして莫大な利益を抜くことで悪名高い、ハゲタカ海外巨大ファンドである。


 つまり、法の網の目を潜り抜ける『現代日本版の経済ヤクザ』。


「藤咲さん! 社長へ共有を――」

 チーフが慌てて指示を出すより早く、私はすでに立ち上がってタブレットを掴んでいた。


「もう参ります」

「……仕事早っ!」

「私の推し(社長)の会社を狙う、薄汚い害虫の気配がしましたので」

「言い方!」

「法と実務で、合法的に徹底駆除してまいります」

「だから顔が怖いし言い方!」


 ◇ ◇ ◇


 重厚な扉を開けて社長室へ入ると、九条社長――いいえ、私にだけはその真実の姿を見せるクライス様は、すでにデスクのマルチモニターで通知のすべてを見ていた。


 黒いデスクの上には、メインバンクから緊急で届いた速報資料。

 異常な出来高を示す株価推移グラフ。

 最新の株主構成比率。

 ファンド側の過去の悪辣な買収案件のリスト。

 そして、当社の社外取締役へ裏で接触してくる可能性のシミュレーション。


 一目で、企業としてかなりまずい、首元に刃を突きつけられた状況だと分かる。


「……来たか」

「はい」

「見たな」

「ええ」

 私は彼から資料を受け取り、数秒で全体へ鋭く目を走らせた。

「敵対的買収の、セオリー通りの初手ですわね」

「ああ」

「しかも、だいぶ性格が悪いスキームですわ」

「……分かるか」

「ええ」

 私はオタクの感情を排し、プロの秘書として淡々と答えた。

「表向きの提案書は『企業価値向上と株主還元』の甘い言葉」

「……」

「しかし実態は、株価を吊り上げて市場に圧をかけ、現経営陣あなたの求心力を揺さぶり、切り売り前提で主導権を握る気満々の強奪型です」

「……」

「前世で言うなら、『平和的な同盟交渉』を装って使者を送りつつ、その実、城門の無条件開放と武器の放棄を要求してくる、卑劣な帝国軍のやり方ですわね」

 クライス様の氷のような蒼い目が、わずかに、好戦的に細まった。


「なら、要求を通すわけにはいかないな」

「当然です」


 その瞬間、社長室の空気が完全に『戦場』へと決まった。


 前世なら、城壁の上から攻めてくる敵軍の何万の兵を冷たく見下ろしていた場面だろう。

 今世では、モニターの赤い数字と株主名簿のリストを見ている。


 だが、やることは前世から何一つ変わらない。


 守る。

 潰す。

 二度とこちらの領土(会社)へ手を出す気が起きないところまで、徹底的に、再起不能になるまできっちり叩きのめす。


「……ルシア」

 低い、絶対的な強者の声が落ちる。

「はい」

「俺と共に、戦えるか」

「何を今さら」

 私は胸を張り、最高の笑みで答えた。

「私の愛する推し(あなた)の会社を守るためなら、株主名簿も法務資料も投資契約書も、全部まとめて物理で焼き尽くしますわ」

「……書類を燃やすな。犯罪だぞ」

「比喩ですわ」

「本当に?」

「九割ほどは」

「残り一割は」

「気合い(殺意)ですわ」


 クライス様が、たまらないといった様子で、ほんの少しだけ喉を鳴らして笑った。


「……なら、行くぞ」

「はい」


 ◇ ◇ ◇


 重苦しい空気の緊急役員会議には、前世の騎士団――もとい、現在の『クライス・ホールディングス』の中核を担う精鋭メンバーが揃っていた。


 CFO(最高財務責任者)の鷹宮さん。

 CTO(最高技術責任者)の相馬さん。

 COO(最高執行責任者)の榊さん。

 法務統括の神代さん。

 広報責任者。

 そして、前世のローデン隊長の生まれ変わり疑惑の総務部長兼危機管理室長『露木蓮司』さん。


 露木部長は、配布されたファンドの資料を見た瞬間、あからさまに不快そうに眉間に深い皺を寄せた。


「……こりゃ、厄介な『籠城戦』だな」

「分かりますか、露木部長」

 私が静かに問うと、露木部長は獰猛にニヤリと笑った。

「分かるぜ。こいつら、正面から正々堂々と来るフリして、裏門に油まいて火をつける陰湿なタイプだ」

「ええ」

「個人的に、一番嫌いな戦い方(やり方)だな」

「同感ですわ。反吐が出ます」

「で、どうやって叩き潰す? 藤咲さん」

「まずは感情で動いて潰す前に」

 私は迷いなくホワイトボードへ向かった。

「敵の陣形(布陣)を正確に見ます」


 全員の視線が、スッと、ただの秘書であるこちらへ一点に集まる。


 この空気。

 前世の、出陣前の作戦会議そのものだ。


 私はキュッキュッとマーカーを走らせる。


 一、ファンド側の現在の正確な取得済み株式比率

 二、水面下で接触済みの、大株主のリストアップ

 三、彼らが狙い撃ちしてくるであろう、自社の社外取締役

 四、メディアを使った世論の誘導工作

 五、こちらの法的な対抗策(ポイズンピル等)


「まず、彼らはまだ議決権の過半数を握っていません。奇襲です」

「はい」

 鷹宮CFOが、深刻な顔で頷く。

「ただし、市場の浮動株と、利益に敏感な一部の機関投資家を取り込まれると、一気にひっくり返されて危険です」

「なら、先にこちらが株主側を完全な理論で押さえます」

「……」

「次に、社外取締役への切り崩しの圧」

「既に水面下で接触がある可能性は、極めて高いですね」

 神代法務統括が推測を述べる。

「そこは先回りで面談を組み、彼ら(ファンド)の過去の悪質な手口のデータを提示します」

 私は手を止めずに続けた。

「すべてにおいて、こちらから先に、正確な情報を市場に出す」

「……」

「相手が“現経営陣(九条社長)は株主の利益を無視して隠蔽している”という捏造の物語を作る前に、我々の正当性を全部透明化して開示します」

 広報責任者が、力強く頷く。

「午後一で、メディア向けにも会見の準備をします」

「ええ。ただし、泣き落としのような『被害者ムーブ』は一切不要です」

「被害者ぶるのは、不要?」

「ええ。私たちは、一方的にハゲタカに攻められて可哀想な、弱々しい会社ではありません」

 私はホワイトボードを叩き、キッパリと言った。

「不当な切り売りから、自社の社員と、顧客と、この国の事業の未来を『圧倒的な力で守り抜く』、正当で強い会社です」

「……ッ」

「その絶対的な軸で、メディアに発信してください」


 露木部長が、腕を組んだまま、昔を懐かしむように痛快に笑う。


「……いいねえ、その強気」

「何がですの」

「相変わらずあんたは、戦場で『言葉の選び方』を絶対に間違えねえ」

「ここは血生臭い戦場ではありません」

「似たようなもんだろ、生きるか死ぬかの」

「まあ」

 私は小さく、微笑んで頷いた。

「否定はしませんわ」


 そこで、上座で黙って聞いていたクライス様が、静かに口を開いた。


「敵は、俺たちがこのまま防戦(専守防衛)に回ると思っている」

「……」

「だが、それは違う」

「……」

「ただ守るだけでは、根本の解決に足りない。また来るぞ」

 クライス様の目が、絶対零度に冷たく光った。

「……逆に、丸ごと飲み込んでやる(市場から退場させる)」


 会議室の幹部たちが、その覇王のような宣言に、一瞬で息を呑んで静まり返った。


 私は、思わず震える胸元を押さえる。


 ああ。

 はい。

 出ましたわね。

 前世の、魔王軍を前にした時と全く同じ、“俺の領地に足を踏み入れた敵なら、根絶やしにして斬る”の、現代経済版の宣言。


「……社長」

 私は、震える声で言った。

「何だ」

「今の発言」

「……」

「非常に、非常に、推しとしての火力が致死量に高かったです」

「今は役員会議の真っ最中だ。真面目にやれ」

「存じております」

「なら黙れ。あとで聞く」

「善処しますわ」

 露木部長が、耐えきれずに吹き出した。


「ははっ、本当にあんたら二人は変わらねえなあ!」

「何がですの」

「いや、何でもねえよ」


 ◇ ◇ ◇


 そこからの『元騎士団』の反撃の動きは、神速だった。


 鷹宮CFOが、過去のデータを洗い出し、友好的株主ホワイトナイトと機関投資家の優先順位を完璧に整理する。

 神代法務統括が、買収防衛策の適法性と、金融庁への適時開示の法的ラインを隙なく詰める。

 広報は、社員向け・顧客向け・市場向けの、三種類の全くブレない力強いメッセージを作る。

 相馬CTOは、相手が真に狙っている『事業価値の中核(自社システム)』を可視化し、安売りできない理由をデータ化する。

 榊COOは、現場の動揺と混乱を止めるべく、各部門長へ的確に指示を飛ばす。


 そして露木部長は、社内の不穏な噂と、外部からの探りの接触を、一気に洗い出した。


「社長、藤咲さん。裏で動いてるファンド側のPR会社(世論工作)、二つ見つけたぜ」

「早いですわね」

「現場を嗅ぎ回るドブネズミの匂いだ。すぐ分かる」

「さすが、頼りになるローデン隊長ですわね」

「で、こいつら、グレイヴ・キャピタルの過去のえげつない買収案件でも、同じように工作で使われてる」

「……証拠化(裏付け)できます?」

「任せろ、完全にできる」

「では、そのデータを神代法務統括へ」

「了解だ。ハッ、ルシア様!」

「だから! 自然な流れで前世の敬称に戻さないでくださいまし!」


 殺伐としていた会議室に、また小さな笑いが広がる。


 だが、反撃の手は1秒も止まらない。


 ファンド側が出してきた買収の提案書は、市場の投資家から見れば、一見すると非常に魅力的だった。

 莫大な株主還元(特別配当)。

 非中核事業の売却によるスリム化。

 徹底的な人員の最適化リストラ

 資本効率の大幅な改善。


 しかし、その実態は。


「短期的な自分たちの利益を抜くために、この会社の『背骨』を完全に折る、悪魔の提案ですわね」

 私は分厚い資料をめくりながら、冷ややかに言った。


「背骨?」

 広報責任者が聞く。

「ええ」

「具体的にどこが?」

「将来への投資である『研究開発部門』の大幅な削減」

「……」

「質を担保する『顧客サポート拠点』の強引な統合」

「……」

「未来を担う『地方採用』の完全停止」

「……」

「そして、当社の長期的な利益を生む『主要プロダクトの切り売り売却』」

 私は資料を、机へパサリと置いた。

「たしかに、目先の来期の数字だけは綺麗に良くなります」

「……」

「でも、三年後には、この会社はすっからかんの『空洞(抜け殻)』になりますわ」

「……」

「前世で言うなら、厳しい冬を越すために、来年蒔くはずの『大事な種籾』まで全部平らげて食べるような、愚かな略奪行為ですわね」

 露木部長が、妙に真面目な、怒りを孕んだ顔で深く頷いた。

「そりゃ、絶対に駄目だ。社員が飢え死にする」

「ええ、駄目です」

 クライス様が、地を這うような低い声で言う。

「俺は、この会社は絶対に売らない」

「……」

「社員も、事業も、この先の未来も」

「……」

「あいつらには、何一つ、塵一つ渡す気はない」


 ああもう。

 本当に。

 この人は、現代社会でスーツを着ていても、武器がペンに変わっても、やっぱり自分の守るべきものの前では、無敵の気高い『騎士』なのだ。


 ◇ ◇ ◇


 午後。


 グレイヴ・キャピタル側から、牽制としてのオンライン面談の要求が来た。


 画面に映った相手は、アジア統括パートナーの男。

 冷たい、爬虫類のような笑顔をした、いかにも“エクセル上の数字だけで、人の首を切ることに慣れている男”だった。


 画面越しに、彼は余裕ぶって言う。


『九条CEO。誤解しないでいただきたいのですが、弊社は貴社と敵対する意図は全くありませんよ』

「そうですか」

『むしろ、経営陣と手を取り合い、貴社の潜在的な企業価値を最大化したいと願っているのです』

「そのために、我が社の未来である研究開発費を半減しろと?」

『無駄を省く、効率化です』

「重要な地方拠点を閉鎖しろと?」

『適切な資本配分の見直しです』

「長期事業を他社へ売却しろと?」

『株主価値の向上です。市場がそれを求めています』


 クライス様は、その薄っぺらい言葉に、表情を変えなかった。


 ただ、執務室の空気だけが、絶対零度に冷え込む。


『感情論や、社員への情だけでは、この厳しい市場(資本主義)には勝てませんよ』

 相手の男が、勝ち誇ったように薄く嗤う。

『優秀な経営者ならば、冷酷な合理性を――』


「合理性なら」

 クライス様が、相手の言葉を静かに、刃のように遮った。

「俺たちの方が、遥かに上だ」


 その合図で、私が画面共有の操作を行う。


 画面へデカデカと映し出されるのは、グレイヴ・キャピタルの『過去案件の無残な分析データ』。

 買収後の、異常な人員削減率。

 三年後の、右肩下がりの悲惨な売上推移。

 売却された事業の、その後の倒産確率。

 短期的株主利益の搾取と、中長期企業価値の絶望的な乖離。


 さらに。


「こちらを御覧ください」

 私は、一切の感情を交えず淡々と説明した。

「御社が過去に関与した複数の悪質な買収案件で使われた裏のPR会社と、今回、当社周辺へ不自然に接触している会社の『相関図』です」

『……なっ』

「偶然にしては、あまりにも綺麗に、見事につながりすぎておりますわね」

『そ、それは根拠のないただの憶測では?』

「いいえ」

 私はニッコリと、悪魔のように微笑んだ。

「公開情報と契約履歴、そしてデジタル上の接触ログに基づく、完璧な事実の整理ですわ」

『……』

「なお、御社が一部の大株主へ裏で流した“現経営陣は不都合な情報を隠している”という卑劣な説明についても」

 私は、次の決定的な資料を出す。

「既に、法的根拠を持って反証済みです」

『……』

「本日中に、すべての主要株主へ、この同一情報を『真実』として開示いたします」


 相手の余裕の表情が、初めてわずかに、焦りで崩れた。


 ああ。

 はい。

 現代のスマートな悪役は、逃げられない証拠をきれいに並べられると、すぐに顔色が変わるので、前世の魔族より分かりやすくて大変よろしいですわね。


 クライス様が、追い打ちをかけるように低く言った。


「こちらからも、一つ提案がある」

『……何でしょう』

「御社が、今回市場外で強引に取得した株式」

『……』

「当社と、当社の理念に賛同する友好的な投資家連合ホワイトナイトが、本日の適正価格で、すべて『買い取る』」

『なッ、ふざけるな! そんなはした金で――』

「もちろん、そのまま御社が持ち続けるというなら、一向に構わない」

 クライス様の目が、氷のように細まり、画面越しの相手を射抜く。

「ただし、その場合は、御社の過去のえげつない失敗案件と、今回の一連の工作の動きのすべてを、オープンな市場がどう評価し、御社の信用がどう落ちるか、自分の身で試すことになるがな」

『……これは、明白な脅しですか?』

「いいえ」

 私は、横からニコヤカに、そして冷酷に答えた。

「上場企業としての、適時開示と正しい説明責任ですわ」


 沈黙。


 画面越しの相手は、明らかに頭の中で高速で計算していた。

 ここで無理に突っ張って戦うリスク。

 自社の悪辣な手口が市場に晒されるリスク。

 友好的投資家連合(圧倒的な資金力)に、逆に完全に包囲されるリスク。


 そして何より、クライス・ホールディングスの経営陣が、まったく防戦一方などではなく、とてつもなく厄介で『好戦的』だという事実。


『……本社へ持ち帰り、検討します』

「検討は早くした方がいいぞ」

 クライス様が、冷たく言い捨てる。

「こちらは、もうすでに動いている」


 ブツンッ、と通信が切れた。


 役員会議室に、数秒の静寂な沈黙が落ちる。


 そして、露木部長が「ふぅーっ」と大きく息を吐いた。


「いやあ、たまんねえな」

「何ですの、露木部長」

「今の、正面の城門前で、敵将の首を問答無用で叩き落としたみたいだったな。スカッとしたぜ」

「表現が物騒ですわね。コンプライアンス違反です」

「あんた、注意してる割に嬉しそうだぞ」

「ええ、否定はしませんわ」


 ◇ ◇ ◇


 夜には、世間の情報の流れが完全に変わっていた。


 主要株主の過半数が、即座に現経営陣の支持を公式に表明。

 友好的投資家連合が、グレイヴ・キャピタル保有株式の取得に向けて、水面下で圧倒的な資金力で動く。

 夕方に開かれた社員向け説明会では、クライス様が全社員に向けて直接言った。


『この会社は、誰かの短期の利益のために、お前たちの未来を売らない』


 その力強い一言で、社内チャットは不安から一気に沸き返った。


 “社長かっこよすぎる! 一生ついていく!”

 “やばい、今日の説明会、聞いてて泣いた”

 “藤咲さんの作った裏付け資料も、説得力あって神だった”

 “今日の役員陣、完全に悪と戦う戦隊ヒーローだったよね”

 “露木部長の現場仕切りが強すぎて草”


 最後の方は、だいぶ正しい。前世の隊長ですからね。


 私はすべての残務処理と説明会後、社長室へ戻って、ようやく自分の椅子へ深く腰を下ろした。


「……ようやく、終わりましたわね」

「いや、事後処理はまだだ」

 クライス様が、ネクタイを緩めながら低く言う。

「ですが、大勢(勝敗)は完全に決まりましたわ」

「ああ」

「私の推しの会社、防衛大成功ですわね」

「俺の会社じゃない。お前の会社でもある」

「……ッ」


 その、私を共同経営者(妻)のように扱う一言に、心臓が大きく跳ねる。


「クライス様」

「何だ」

「そういう、心臓に悪い言い方」

「……」

「不意打ちでナチュラルになさるの、限界オタクには本当によろしくありません」

「俺は、事実を言っただけだ」

「事実でも、オタクの心臓のキャパへの配慮というものが必要です!」

「ないな」

「ひどいですわね。スパルタですわ」


 クライス様は、少しだけ笑って私の隣へ歩いてきて、そっと、労うように私の髪へ触れた。


「……今日も、本当によくやったな」

「……」

「相変わらず、お前は複雑な戦場(状況)の整理がうまい。助かった」

「現代ではそれを、戦場ではなく会議と呼びますわ」

「俺にとっては、似たようなものだろう」

「まあ」

 私は、彼の手に目を細めて少しだけ笑った。

「否定はしませんわね。今日も激戦でしたから」


 彼の大きくてあたたかい指が、私の髪を梳くようにやさしく撫でる。


「ルシア」

「はい」

「昔から、どの世界でも」

「……」

「お前が俺の隣にいると、絶対に負ける気がしない」

「ッ……」


 だめですわね。


 今日一日、海外の巨大ファンドという化け物を相手に、神経をすり減らして戦って。

 法務も財務も広報も総務も、全部署を総動員して駆け回って。

 それでも最後に、私の心の一番深いところに効くのは、結局、この愛する人のこういう甘い一言なのだから。


「……私もです」

 私は、彼の手に自分の手を重ねて、そっと答えた。

「クライス様が、ずっと私の隣にいるなら」

「……」

「現代の小賢しい経済ヤクザなど」

「……」

「前世の魔王軍の絶望に比べれば、だいぶ可愛いものですわ」

「そうか」

「ええ」

「なら、次も必ず俺たちが勝つ」

「はい」

「俺たちは、最強の」

「……」

「『夫婦』だからな」


「ッ……!!!!」


 私は、限界突破してその場で真っ赤になって顔を覆った。


「今世の戸籍上では、まだ結婚しておりませんわ!」

「いずれ、必ずそうなる。時間の問題だ」

「何故そんなに自信満々に断言なさる!」

「当然だ。俺がそう決めているからだ」

「俺様すぎて当然なのですか!?」

「ああ」

「……」

「俺の妻になるのは、不満か」

「ございません!! 全く!!」


 食い気味の即答だった。


 クライス様が、私の反応に満足そうに低く、喉を鳴らして笑う。


 ああ。

 本当に。

 記憶を取り戻してからの私の推し、独占欲も包容力も、強すぎませんこと?


 ◇ ◇ ◇


 その日の夜。


 グレイヴ・キャピタルは、表向きには“自社の投資方針の総合的な見直し”という苦しい言い訳を発表した。

 実態としては、完全なる白旗の撤退である。


 こちらは友好的投資家連合と完璧に連携し、浮動株式を安全な安定保有へと移した。

 社内はむしろ、この危機を乗り越えたことで結束を強め、取引先からは「さすが九条社長だ」とさらなる信頼の声が届き、市場(株価)も翌日には好意的に大きく反発した。


 私たちの、完全勝利。


 私は帰宅後、ベッドの上で寝転がりながらスマホの経済ニュースを見ながら、ひっそりと、誇らしく頷いた。


「……現代の経済社会でも、やっぱり有能すぎますわね、私たち(最強夫婦)」


 前世では、剣と魔法で魔王を討ち、世界を救った。

 今世では、法とデータで敵対的買収を阻止し、会社を救った。


 武器が、剣と魔法から、法務と財務と広報というコンプライアンスに変わっただけ。

 戦場が、荒涼たる城壁から、空調の効いた会議室に変わっただけ。

 私たちが命を懸けて守るものは、本質的に何も変わっていない。


 愛する人。

 大切な仲間たち。

 その人たちが、人生を懸けて築き上げた、あたたかい居場所。


 それを、土足で理不尽に奪おうとする相手には、いつだって容赦しない。


「……ええ」


 私は、尊い推しの顔が載ったスマホの画面を胸に抱えたまま、小さく、幸せに笑った。


 今世の私たちは、綺麗なスーツを着て、エクセルで資料を作り、会議室で戦う。

 けれど魂の奥底の熱さは、あの魔法の世界の頃と全く同じだ。





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