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婚約破棄の瞬間に「前世の記憶」が戻りまして。〜ヒロインの座は譲りますので、私は推しキャラの側仕えを目指します!〜  作者: 綾瀬蒼


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113/122

第113話 恋人になっても秘書は秘書。推しへの尊意は揺るぎません

 運命の告白から一夜明けた、翌朝。


 私は、狭いワンルームの洗面台の鏡の前で、たいへん真剣な、それこそ出陣前の武将のような顔をしていた。


 戦闘服スーツ、よし。

 髪の乱れ、よし。

 気合を入れたメイク、よし。

 隙のないポーカーフェイスの表情、よし。


 そして、最も重要な『限界オタクの心構え』も、完全によし。


「……本日も、有能な秘書はただの秘書ですわ」


 私は鏡の中の自分へ、厳かに、己の魂を縛るように宣告した。


 昨夜。

 いいえ、正確には昨夜までに、私のオタク人生にとって、致死量を超えるいろいろな重大イベントがありすぎた。


 あの記憶のない九条CEOからの、ド直球で重たい告白。

 私の、面接のように深々と盛大に頭を下げる形での「謹んでお受けいたします」の返答。

 その後の、だいぶ公式からの供給過多で心臓が止まりかけた、あたたかい抱擁。

 そして。


 ――『これからの君の隣は、俺がいい』。


「ッ……!!」


 私は反射的に、鏡の前で膝から崩れ落ちて胸元を強く押さえた。

 危ない。

 朝から反則級の尊い回想で、出社前に致死量のダメージ(致命傷)を負うところでしたわね。


 だが、落ち着きなさい、藤咲瑠衣。

 本日から、私は晴れて推しの“恋人パートナーになった”。

 つまり、私生活においては、推しと合法的に至近距離まで距離を詰められる、SSR確定のボーナスステージへ突入したわけである。


 ……が。


 会社は会社だ。


 ここで「恋人になれましたわウフフ」と浮かれて、秘書としての完璧な実務の精度を落とすなど、プロの側仕えとして言語道断の論外である。

 社内恋愛がどうこうという世間体以前に、私はこの人の『世界一有能な専属秘書』なのだ。

 推しへの尊意(愛)は、むしろ仕事の完璧さでこそ体現され、発揮されるべきである。


「よろしいですわね」

 私はもう一度、緩みそうになる自分へ言い聞かせた。

「オフィスでは、1ミクロンの隙もない完璧な秘書」

「プライベートでは……」

「……」

「その時の供給量に合わせて、臨機応変に考えますわ」


 そこは、ちょっとだけオタクの都合の良いように曖昧にしておいた。


 ◇ ◇ ◇


 クライス・ホールディングス本社三十階。エグゼクティブ・フロア。


 朝の秘書課は、今日もほどよくピリッとした緊張感があり、ほどよく忙しい。

 私はいつもの涼しい顔で、九条CEOの分刻みの本日スケジュールを再確認し、役員会議の資料の優先順を彼の思考に合わせて並べ替え、朝一でお出しする特製紅茶を、香りが一番立つ最適な温度で完璧に整えた。


 うん。

 完璧な仕事ぶりですわね。今日も私は有能ですわ。


 問題は、その“いつも通り”の業務を、限界オタクの心臓があまり理解してくれないことである。


 だって、昨夜までと今日とでは、決定的に、世界の見え方が違うのだ。


 今の私は。

 この重厚な執務室の扉の向こうにいる、あの気高く美しい人の、『恋人』なのである。


 こ・い・び・と。


「……ッ」

 私はそっと、資料を持つ手へギリッと力を込めた。

 いけませんわね。

 その甘美な響きの単語を頭で再生するだけで、少々毛細血管が浮き立ちますわね。


「藤咲さん」

 隣の席の先輩秘書が、小声で呼んだ。

「はい、何でしょう」

「今日、なんか妙に機嫌いい?」

「そうでしょうか。いつも通り平常心ですが」

「ううん、違う」

「気のせいですわ」

「そう?」

「ええ」

「でも」

 先輩は少しだけ首を傾げて、私の顔をジッと見る。

「なんだか、お肌がつやつや(ピカピカ)してる」

「……」

「何か、すっごくいいことあった? 宝くじ当たったみたいな顔してるよ」

「業務が円滑で、進捗が予定より巻きで進んでおりますので」

「その嘘くさい仕事の返し、絶対違う時のやつだ」

 先輩、鋭いですわね。

 ですが、そこは鉄壁の秘書として崩しません。


「あ、社長、そろそろお見えになります」

 私はエレベーターの稼働音を聞き取り、静かに話題を変えた。

「あ、露骨に逸らした」

「仕事ですので」

「はいはい」


 ちょうどその時、専用エレベーターが開く気配がした。

 秘書課の空気が、一段だけ冷たく引き締まる。


 九条CEOが、無駄のない足取りでフロアへ入ってこられた。


 上質な黒のオーダースーツ。

 今日も完璧に整えられた黒髪。

 朝の光を受けて影を落とす、彫刻のようにひどく整った氷の横顔。


 ああ。

 はい。

 無理ですわね。(眼福)


 恋人になった翌朝の推しが、いつも以上にフェロモンダダ漏れで完成されている問題について、少し国会で協議が必要ではありませんこと?


「おはようございます」

 私は、昨日までと1ミリも変わらない、完璧な三十度の角度で一礼した。

「おはようございます、九条CEO」

「……おはよう」


 九条CEOの返答は、いつも通り低くて短い。

 だが、その鋭い視線だけが、ほんの一瞬、私の上で熱を帯びて止まった。


「ッ……」


 だめですわね。

 たったそれだけの視線の交差だけで、内心のBPM(心拍数)が警報を鳴らして少し忙しくなりますわね。


 けれど、表には絶対に出さない。

 私は、誰より彼を愛する完璧な秘書である。


「社長、本日の予定です」

 私は彼が歩き出すと同時に、スッとタブレットを差し出した。

「十時より、定例の役員会議」

「……」

「十一時半に、海外拠点とのオンライン接続」

「……」

「昼食後、来客が二件」

「……」

「十五時の社外の新規打ち合わせについては、先方都合で十五分後ろ倒しになっております。その間に決裁を二件挟めます」

 九条CEOは、淡々とタブレットを確認しながら歩く。

 私は彼の半歩後ろの定位置を維持し、そのまま社長室へ入った。


 うん。

 完璧。

 いつも通り。

 プロの仕事として、何一つ問題ありませんわね。


 ――と、私が安心したのも、そこまでだった。


「藤咲」

「はい」

 社長室の重厚な扉がパタンと閉まった瞬間、九条CEOが、少し不機嫌そうに低く言った。


「距離が遠い」

「……はい?」

「今朝から、だ」

「……」

「お前の『秘書モード(ATフィールド)』が、強すぎる」


「…………」


 私は、しばし、鳩が豆鉄砲を食ったように固まった。


 何を我が儘をおっしゃっているのかしら、この尊い推しは。


「社長」

「今は、扉も閉まって二人きりだ」

「……」

「せめて、もう少し『普通』にできないのか」

 私は、とても真剣に、オタクの脳をフル回転させて考えた。


 普通。


 普通とは何でしょう。

 恋人になった翌朝、オフィスの社長室という神聖な職場で、最愛の推しへ“普通”に接するとは。

 それは、具体的にどういう挙動スキンシップを指すのでしょう。


「……大変申し上げにくいのですが」

 私は慎重に、言葉を選んで口を開いた。

「何だ」

「私、今、かなり決死の覚悟で頑張っております」

「……」

「これでも、発狂しそうなのを堪えて、だいぶ平静を装っておりますのよ?」

「全く、そうは見えない」

「え?」

「むしろ」

 九条CEOは、少しだけ不満げに眉を寄せた。

「昨日より、対応がよそよそしくて硬い」

「当然ですわ!!」

 思わず、素の大声が出た。


 あら。

 いけません。

 でも仕方ありませんでしょう。言わせてくださいまし。


「何がだ。付き合ったのに、なぜ硬くなる」

「だって」

 私は、爆発しそうな胸元を押さえた。

「恋人になった翌日に! 同じ会社で、同じ狭い空間で、昨日と同じように平常心で仕事をするのですわよ!?」

「……」

「無理がありませんこと!? オタクの心臓の耐久テストですか!?」

「……」

「しかも社長は、昨日よりさらに、今日も朝から顔が良すぎます! 直視できません!」

「そこか」

「最も重要です」

 九条CEOが、やれやれと小さく息を吐く。

 だが、その氷の口元が、ほんの少しだけ嬉しそうに緩んでいる。


 ああ、はい。

 そういう、素直な好意に少し照れてデレるところ、だいぶ前世から大好きですわね。


「藤咲」

「はい」

「一つ、確認する」

「何でしょう」

「付き合う前と後で」

「……」

「俺への『特別な扱い』を、変えるつもりは全くないのか」

 私は、キョトンとした。


「変わっておりますわよ?」

「どこが。ずっと鉄仮面のままだろう」

「心の中の、熱量です」

「見えない」

「それはそうです」

 私は真顔で深く頷いた。

「ですが、『公式供給量(萌え)』が、昨日比で二割増しです。致死量です」

「……」

「プライベートで、甘い恋人」

「……」

「会社で、最高に格好いい推し兼社長」

「……」

「今世、かなりのSSR確定のボーナスステージではありませんこと?」

 九条CEOが、今度こそ呆れて、はっきりと額へ手を当てた。


「……お前」

「何でしょう」

「本当に、それでいいのか」

「何がですの」

「もっと」

 彼は少しだけ、不器用な言葉を選ぶように沈黙した。

 それから、少し拗ねたように低く続ける。

「普通の恋人みたいに、イチャついたり甘えたりできないのか」


「…………」


 あらまあ。


 私は、そこでようやく完全に理解した。


 この方。

 だいぶ不満なのだ。

 私が“社長としての尊敬(推しとしての距離感)”を頑なに崩さないことへ。

 晴れて恋人になったのだから、もう少しこう、二人きりの時くらい、距離感の違う『甘さ』を期待していらっしゃるのだ。


 ああ。

 なるほど。

 それはつまり。


「社長。もしかして、拗ねていらっしゃいますの?」

「違う」

「ですが今」

「違う」

「ちょっとだけ」

「違う」

「可愛らしい方向に、いじけて――」

「藤咲」

「はい」

「さっさと仕事に戻れ」

「はい。喜んで」


 でも、その整った耳が、少しだけ赤く染まっている。

 ええ。

 そうでしょうとも。

 完全に図星でしたのね。可愛すぎますわ。


 ◇ ◇ ◇


 その後も、私は鉄の意志で完璧な仕事へ徹した。


 会議室の分刻みの予約調整。

 役員への事前根回しと資料送付。

 海外拠点のサマータイムの時差確認。


 我ながら、完璧である。


 だが、大問題は、九条CEOが時々、執務の合間に、妙に熱を帯びた視線でこちらをジッと見つめてくることだった。


 役員会議の前。

「社長、資料です」

「ああ、こっちだ」

 受け取る瞬間、ほんの少し、意図的に指先が長く触れる。


「……ッ」

 私は、ビクッとしたが平然を装った。

 装ったが、心の中では「指先が触れましたわー!」と大騒ぎでスタンディングオベーションである。


 昼前のオンライン会議後。

「社長、次のお飲み物を。いつもの特製紅茶でよろしいですか」

「ああ」

 カップを置こうとすると、また彼と至近距離で視線が絡む。


「何でしょう」

「いや」

「はい」

「本当に、変わらないなと思って」

 何がでしょう。

 と聞き返したかった。

 だが、その言葉の温度が、妙に甘くやさしかったせいで、少しだけ胸が詰まって言葉を失う。


 午後の来客対応後。

「社長、本件の要点整理です」

「助かる」

「当然です」

「……」

「何でしょう」

「そこも、変わらない」

「何がですの」

「お前の、俺の思考を読む秘書としての異常な精度が、だ」

「最高の光栄です」

「恋人になっても、手を抜かないんだな」

「むしろ、愛の力で精度が上がります」

「なぜ」

「気合い(推し活への熱)が増すからです」

「……」

「至近距離での顔面供給も増しますし」

「やっぱり、理由はそこ(顔)なんだな」


 ええ。

 そうですとも。顔はすべての入り口ですから。


 だが、午後三時を過ぎた頃。

 とうとう、隣の先輩秘書が小声で耐えきれずに言った。


「ねえ」

「はい。何でしょう」

「社長」

「ええ」

「今日、なんかずっと、肉食獣が獲物を狙うみたいに藤咲さんのこと見てない?」

「……」

「気のせいでは?」

「いや、私こういう社内恋愛の甘い空気には敏感だから」

「そうですの」

「うん」

「では」

 私はニッコリと、完璧な営業スマイルで微笑んだ。

「お疲れによる、先輩の気のせいですわね。目薬さします?」

「露骨にごまかしたわね」

「秘書の基本スキルです」

「いや、その基本、使い所どうなの?」


 ◇ ◇ ◇


 問題が限界突破して決定的になったのは、終業後の夜だった。


 他の社員がほぼ帰り、静まり返ったフロアに残っているのは私と九条CEOだけ。

 私は明朝の完璧な準備を終え、最後の退勤確認へ社長室へ入った。


「社長、本日の決裁、すべて以上です」

「……」

「明朝は、予定通り八時半にマンションまでお迎えに上がります」

「……」

「それでは、本日はお疲れ様でし――」

「待て」


 低い、有無を言わせない声。

 私は、ドアノブにかけた手を止めた。


「何でしょう」

「こっちに来い」

「……?」

 九条CEOは、デスクの向こうから、獲物を逃さない目でジッと私を見る。


「今日の勤務時間は、終わった」

「はい」

「社長と秘書の業務も、終わりだ」

「……」

「今は」

「……」

「『恋人』だろう」

「ッ……」


 ああもう。

 真正面から、ド直球で来ましたわね。

 だいぶ特大の火力高めで来ましたわね。


 私は、動揺を隠すようにコホンと咳払いした。

 だが、耳まで熱くなっている頬の赤さは、もう誤魔化しにくい。


「それは」

「……」

「理屈の定義としては、そうです」

「理屈?」

「ええ」

「感情は」

「……」

「私のオタクの感情キャパは、まだ全く追いついておりません」

 九条CEOが、無言でスッと立ち上がる。

 広い机を回って、逃げ場を塞ぐようにこちらへ歩いてくる。

 一歩。

 また一歩。


 近い。

 いえ、まだ距離はある。

 でも、圧倒的なオスの存在感が近い。


「藤咲」

「はい」

「俺は」

「……」

「もう少し、普通の恋人みたいに、イチャつきたい」

「ッ……!!!!」


 私は、本気で悲鳴を上げて一歩下がりかけた。

 だが、後ろは重厚な扉だった。(壁ドン状態)


 何ですのその直球は。

 語彙が突然、たいへん生々しくなりましたわね!?

 それはオタクの心臓への反則ですわよ!?


「しゃ、社長」

「今は、社長じゃない。違う」

「……」

「いきなり、下の名前で呼べとは言わない」

「……」

「だが」

 九条CEOの目が、少しだけ甘く、熱っぽくやわらぐ。

「せめて、二人きりの時くらい、そこまで頑なに堅くなるな」


 私は、逃げ場のない扉の前で、しばし、真剣に考えた。


 堅い。

 そうだろう。

 私だって分かっている。

 でも、無理なのだ。

 だって、好きすぎるのである。

 前世からの積み上げた重すぎる尊敬と愛とオタク心が、そう簡単に“普通の対等な彼女”へと移行できるはずがない。


「……努力は」

 私は、真っ赤な顔でようやく答えた。

「いたします」

「努力、か」

「はい」

「今日のあれで?」

「かなり、必死に頑張った方です」

「本当に?」

「ええ」

「それで、あの態度か?」

「はい」

「……先は長そうだな。道険し、だ」

「ですが」

 私は、少しだけ勇気を出して、彼のネクタイの端をちょこんと摘んで付け足した。

「嫌では、ございません」

 九条CEOの目が、ほんの少しだけ、驚いたように見開かれる。


「何がだ」

「その」

 私は恥ずかしさで視線を逸らした。

「もう少し普通に、イチャつくという……」

「……」

「恋人らしい甘い距離感、は」

「……」

「決して、嫌では、ありません」

「……」

「むしろ」

「……」

「オタクへの公式供給としては、大歓迎です」

「最後の一言で、せっかくのムードが全部台無しだな」

「そんなことはありませんわ。これが私の愛です」

「ある」

「ありません」

「ある」

「……」

「……」

「では」

 私は、ほんの少しだけ、幸せに笑った。

「焦らず、一歩ずつ、ということで」

 九条CEOは、愛おしそうにしばらく私を見ていた。


 それから、ごく自然に。

 本当に、呼吸をするみたいにごく自然に。


 私の頭へ、ポン、と大きくてあたたかい手を置いた。


「ッ……!」


「……それならいい。待ってやる」

 低い、甘い声が落ちる。

 やさしい。

 少しだけ、私の本音を引き出せて満足したような響きがある。


 ああもう。

 だめですわね。

 結局、こうやって簡単に撫でられるだけで、黙らされて絆されてしまうのだから。


 私は、熱を持った顔を覆いたい衝動をどうにか堪え、でもきっと耳まで少し赤いまま、小さく頷いた。


「……はい」

「明日も」

「……」

「ちゃんと、俺の隣へ来い」

「当然です」

「恋人としてではなく」

「……」

「俺の最高の秘書としてな」

「はい」

「でも」

 私は、そっと上目遣いで顔を上げる。

「退勤後のプライベートでは」

「……」

「少しずつ、恋人として、よろしくお願いいたしますわ」

 九条CEOの氷の口元が、フッと、この上なく甘く緩んだ。


「ああ」

 その力強い一言だけで、私の胸がいっぱいになる。


 恋人になっても、会社では秘書は秘書。

 推しへの尊意は揺るがない。

 でも、それで終わりではないのだ。


 この先は。

 秘書の完璧さの上へ、少しずつ、甘い恋人としての距離を、二人で重ねていく。


 ……ええ。

 今世の恋人のボーナスステージ、オタクの心臓にとっては、なかなか難易度が高くて最高ですわね。



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― 新着の感想 ―
ついに貴社は大量の砂糖生産も社長室で始められましたか。
もうバレバレやね。でも周りは超生暖かく見守りそうだな。
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