第111話 どうして君は、そんなに泣きそうな顔で俺を見るんだ?
病院の無機質な『白』は、どうしてこうも心臓に悪いのだろう。
チカチカと冷たい蛍光灯の白。
一切の温かみがない壁の白。
血の気が引くようなシーツの白。
そして、鼻を突く消毒液のツンとした匂いまで。そのすべてが、どこか冷酷で、「あなたの愛する人が傷ついた」という現実だけをこちらへ容赦なく突きつけてくる。
私は処置室の外にある硬い待合椅子に座ったまま、祈るように両手をきつく握りしめていた。
「……」
指先が氷のように冷たい。
でも、身体の奥はずっと熱くて、心臓が痛い。
過呼吸気味で呼吸が浅い。
喉はカラカラに乾いているはずなのに、すぐ横にある自販機で水を買って飲む気にもなれない。
九条CEO――私の愛するクライス様が、私を庇って怪我をした。
あの愚かな有栖川の刃から、私の盾になって。
その事実だけが、頭の中で何度も何度も、呪いのように反芻される。
振り下ろされるナイフの銀の光。
間に割って入る大きな身体。
白いシャツに、赤く生々しく滲んだ血の色。
そして、顔面蒼白の私へ向けられた、あの低い、やさしい声。
――大丈夫だ。泣くな。
――見た目ほどじゃない。
「……ッ」
私は、頭を振ってギュッと目を閉じた。
違う。
そうではない。
大丈夫かどうかを決めるのは、傷の深さや出血の量だけではないのだ。
私にとっては。
少なくとも、前世からずっとあなたを愛している『妻(私)』にとっては。
私の世界で一番大切なこの人が、「また自分を庇って傷ついた」という事実そのものが、到底大丈夫ではなかった。心が、耐えきれずに砕けそうだった。
「藤咲さん」
広報責任者が、少し離れたところから遠慮がちに、心配そうに声をかけてくる。
「……はい」
「処置、もうすぐ終わるそうです」
「そうですか」
「中の看護師さんの話だと、傷は浅いと」
「……」
「数針縫うほどでもないかもしれないと」
「……はい」
ちゃんと、ビジネスパーソンとして返事はしている。
しているのに、自分の声が、遠い海の底から響いているみたいに自分のものじゃない気がした。
法務部長も近くにいたが、今は珍しく無言だった。
あの方なりに、私の様子が「ただの有能な秘書が上司を心配しているレベル」の正常な状態ではないことを、空気を読んで察しているのだろう。
当然だ。
会見場で事件が起きてから救急車でここへ来るまでの間、私はずっと、ガタガタと震えてひどく取り乱していたのだから。
大勢の部下や記者の前で、声を上げて泣くつもりなど毛頭なかった。
プロの秘書として、そんな見苦しい顔を見せるべきではないとも分かっていた。
でも、無理だった。
だって、前世と、あの悪夢と完全に同じなのだ。
あの人はまた、私が傷つくのを良しとせず、私の前へ出た。
私が魔法の使えない現代の身体で動けなくなるより先に、あの人の『騎士の魂』が動いた。
そしてまた、私だけが無傷で守られた。
「……ッ」
駄目ですわね。
思い出すだけで、また涙がボロボロと滲んでくる。
「藤咲さん」
今度はチーフが、少しだけ強めの、母のような声で言った。
「呼吸」
「……」
「過呼吸気味で、浅くなってるわよ」
「すみません……」
「謝らなくていいから。ゆっくり息をして」
「……はい」
「吸って」
私は言われた通り、息を吸う。
でも途中で震える。
吐く。
またうまくいかない。
チーフが、困ったように、それでもできるだけやわらかい声で言った。
「大丈夫だから」
「……」
「社長、命に別状があるような怪我じゃないわ」
「……分かって、おります」
「うん」
「頭では、分かっておりますのに」
私は、震える手を握りしめ、俯いたまま小さく、弱音を吐いた。
「これは、そういう物理的な傷の問題では、ないのでしょうね」
チーフは何も言わなかった。
代わりに、私の隣へ静かに座り、私の冷たい肩をさすってくれた。
ああ。
ええ。
ありがとうございます。
今は、その無言の優しさだけで十分ですわ。
◇ ◇ ◇
やがて、重たい処置室の扉がガラリと開いた。
私は反射みたいに弾かれたように立ち上がる。
震えで足が少し痺れていたのに、そんなことへ構っていられなかった。
医師が出てくる。
「ご家族の方……ではないですね。社員の方ですか」
「秘書です」
私は即答した。
医師が、私のあまりの悲壮な顔に少しだけ目を丸くした。
でも、すぐにカルテを見て頷く。
「ご安心ください。傷は浅いです」
「……」
「縫合までは不要でした。自然に塞がります」
「……」
「消毒とテーピングでの固定で済みます」
「……」
「ただ」
「はい」
「今日は、ご自宅で安静にしてください。仕事はさせないように」
「……」
「アドレナリンが出て興奮していましたし、痛みも後からジワジワ出ますから」
「承知いたしました。絶対に安静にさせます」
私の声は、思っていたよりちゃんと、秘書として冷静に出た。
よかった。
私の理性は、まだ完全に死んではいないらしい。
医師が少しだけ、安堵させるように微笑む。
「中へどうぞ。すぐ帰れますよ」
「ありがとうございます……!」
私は深く一礼して、処置室の中へ入った。
◇ ◇ ◇
九条CEOは、処置室の中の簡易ベッドへ、少し気怠げに腰かけていた。
上着は脱がされ、たくましい左腕には真っ白な包帯とテーピングが巻かれている。
忌まわしい血の色は、もう見えない。
ちゃんと処置された清潔な『白』だけが、そこにあった。
それなのに。
血は止まったのに、それでも、私の胸は痛かった。
「……社長」
私が震える声で呼ぶと、九条CEOがゆっくりと顔を上げた。
「……藤咲か」
「はい」
「お前に、入っていいと言った覚えはないぞ」
「今は、その命令は却下です」
「そうか」
「そうです」
ああ。
返ってきた。
いつもの、少しだけ意地の悪い、でも不器用な応答。
それだけで、私のガチガチに固まっていた胸の奥が少しほどける。
でも、同時に。
「……ッ」
やはり、だめだった。
処置は終わっている。
意識もはっきりしている。
いつもの低い声で喋っている。
なのに、彼の腕に巻かれた痛々しい包帯を見た瞬間、またボロボロと熱い涙が込み上げて視界が滲む。
「藤咲」
「はい」
「……」
「……」
「また、泣いてるのか」
「すみません」
「謝るな」
「でも」
私は、血が出るほど唇を強く噛んだ。
「社長が、私のせいで怪我を……」
「大したことはないと言っただろう」
「ございます」
「……」
「私には」
そこまで言って、喉が熱くつまった。
言えない。
前世で、あなたが私を庇って傷ついたというあのトラウマのことは、記憶のないあなたには、まだ言えない。
でも、この私が抱える理不尽な恐怖が、ただの“部下が上司に向ける心配”の範疇を超えていることくらい、もう自分でも嫌というほど分かっている。
九条CEOは、少しだけ眉を寄せた。
だが、その表情は「いい加減に泣き止んでくれ」という苛立ちではなかった。
純粋に、困っているのだ。
目の前で泣きじゃくる私を、どう慰めればいいのか、少しだけ不器用に迷っている顔。
ああ。
その顔も、私は知っている。
前世でも、この人は、私が泣くと少しだけ困ったような、自分まで泣きそうな顔をした。
そして、その後で、どんなに不格好でも、絶対に私を見捨てずに守ってくれた。
「……どうして」
低い声が、静かな処置室に落ちる。
「……」
「君は」
九条CEOの目が、真っ直ぐに、私の瞳の奥を覗き込むように私を見る。
「そんなに」
「……」
「切なくて、泣きそうな顔で、俺を見るんだ」
その低く甘い問いが、私の胸の奥の一番やわらかいところへ、深く刺さった。
どうして。
そんなの、私が一番知りたい。
どうして今世でも、あなたが傷つくと、こんなふうに自分の身を引き裂かれるより息が苦しくなるのか。
どうして、庇われた瞬間、前世のあの血の記憶が一気に蘇るのか。
どうして、あなたを失うかもしれないと想像しただけで、私が生きていく世界の輪郭が崩れるみたいに怖くなるのか。
でも、そんな難しい理屈の答えは、最初から一つしかない。
「……大事、だからです」
絞り出すような、消え入りそうな小さな声だった。
でも、静かな部屋で彼にはちゃんと聞こえたらしい。
九条CEOの目が、驚いたように、ほんの少しだけ大きく揺れる。
「上司として、それだけで」
「……」
「君は、そんなに世界が終わったような顔をするのか」
「……」
「それだけ、では」
私は、涙の奥で苦笑した。
「……到底、足りないかもしれません」
「……」
「でも」
私はようやく、涙を拭って彼を真っ直ぐに見つめ返す。
「今は、それしか言えません」
九条CEOは、しばらく黙っていた。
処置室の中は静かで、外の慌ただしい物音さえ、まるで二人だけの世界のようにひどく遠い。
やがて、彼は低く、諭すように言った。
「俺は」
「……」
「死んでない」
「分かっております」
「……」
「ちゃんと、生きてる」
「……」
「お前の目の前に、ここにいる」
「……」
「だから」
その声は、かつてないほど、少しだけ甘くやわらいだ。
「もう、そんな悲しい顔をするな。藤咲」
「ッ……」
無理ですわよ。
そんな甘い、スパダリみたいな言い方をされたら、限界オタクは余計に限界化して泣いてしまうでしょう。
私はとうとう、耐えきれずに両手で目元を押さえた。
だが、もう遅い。
あたたかい涙は、泉のように止まってくれない。
「藤咲」
「はい」
「本当に」
「……」
「そんなに、俺が怪我したのが嫌か。痛いのは俺だぞ」
「嫌です。私が怪我をするより嫌です」
私は食い気味に即答した。
「……」
「とても」
「……」
「心の底から」
「……」
「二度と、あんな思いをするのは嫌です」
そこまで言って、自分ではッとした。
『二度と』。
今、確かに私はそう言った。
まるで、一度同じような凄惨な経験をしているみたいに。
まるで、ずっと前の過去にも『同じことがあった』みたいに。
九条CEOの目が、ほんの少しだけ細まる。
その私の言葉の明らかな『引っかかり(矛盾)』を、有能な彼も鋭く拾ったのかもしれない。
「……二度と?」
「……ッ」
しまった。
と思った。
でも、口から出た言葉は、今さら引き返せない。
「……いえ」
私はどうにか、有能な秘書として言葉を繕おうとした。
「その、一般論として――」
「藤咲」
低い、絶対的な声が、私の言い訳を止めた。
責めているわけではない。
ただ、真実を逃がさないだけだ。
「君は」
「……」
「時々、俺のことを」
「……」
「まるで」
「……」
「昔から、ずっと前から、俺のすべてを知っているみたいな顔をするな」
「ッ……!」
だめですわね。
本当に、この人は。
最近、妙に前世の私の『核心』に迫ることを鋭くおっしゃる。
私は言葉を失い、固まった。
その肯定も否定もできない沈黙自体が、多分、彼への『答え』みたいなものだったのだろう。
九条CEOは、私の顔を見て、ほんの少しだけ長く息を吐いた。
それから――。
そっと。
本当に、壊れ物を扱うようにそっと。
怪我をしていない右手を、私の頭へ伸ばした。
「……ッ」
大きくてあたたかい指先が、私の髪へ触れる。
撫でる。
やさしく。
泣き虫な私を落ち着かせるように。
怯える幼子へするみたいに。
でも、決して雑ではなく、ひどく昔から私を扱い慣れた手つきで。
「……あ」
それは。
前世と、全く同じだった。
私が泣きそうな時。
不安で押しつぶされそうで、たまらない時。
不器用な彼は、気の利いた言葉より先に、ただ、こうして黙って私の頭を撫でてくれた。
あの時の手つき。
あの時のあたたかい温度。
あの時の、私のすべてを包み込むみたいな、絶対的なやさしさ。
「……ッ、ぁ、うぅ……」
だめですわ。
そんな。
そんなふうに、私が一番欲しい温度で撫でられたら。
記憶がないはずなのに、魂が愛する妻を慰める方法を覚えているみたいに、そんなふうにされたら。
「……泣くな」
九条CEOが、髪を撫でながら低く言う。
「……」
「お前が泣いているのを見る方が、俺は傷よりつらい」
「……」
「だから」
あたたかい手のひらが、もう一度、やさしく私の髪を撫でる。
「俺は無事だ。落ち着け」
その瞬間。
私の理性の最後の壁が、綺麗に音を立てて崩れ去った。
「うぅ……っ、ひぐっ……」
私は両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。
子供みたいだ。
みっともない。
敏腕秘書失格だ。
分かっている。
でも、無理だった。限界だった。
だって。
今、ここにいるのは、現代日本の九条柊介で。
今世では、まだ私の最愛の夫の『クライス様』ではないはずなのに。
その不器用な手だけが、どうしようもなく、前世の私の愛しい人と全く同じだったのだから。
◇ ◇ ◇
どれくらい、そうして彼の前で泣きじゃくっていたのか、自分でも分からない。
私はどうにか深呼吸して泣き止み、でも目元はきっと、メイクも落ちてだいぶひどいパンダ顔になっていることだろう。
九条CEOの方は、そんなみっともない私を見ても、何も咎めない。
ただ、まだ少しだけ女の涙に困ったような、それでいて、どこかこのままずっと放っておけないもの(庇護対象)を見るような、あたたかい目をしている。
「……すみません、お見苦しいところを」
私はハンカチで目を拭い、小さく言った。
「だから」
「……」
「もう謝るな」
「ですが、秘書として」
「それ以上、仕事の理屈を言うと」
九条CEOが、少しだけ意地悪く眉を寄せる。
「……また、お前が泣き止むまで撫でるぞ」
「ッ……!」
私は思わず、信じられないものを見るように顔を上げた。
何ですのそれは。
脅しですの? 罰ゲームですの?
いえ、脅しとして全く成立していませんわよ?
むしろ、ご褒美すぎて、別方向へ効きすぎておりますわよ?
「社長」
「何だ」
「今の」
「……」
「ズルいです」
「そうか」
「そうです」
「……」
「ご自身が無自覚にどれだけ反則か、少しはご自覚になってくださいまし。心臓が持ちませんわ」
「お前の言っている意味が分からん」
「その天然なところもズルいです」
九条CEOが、やれやれと小さく息を吐く。
でも、その氷の口元が、ほんの少しだけやさしく緩んでいた。
ああ。
よかった。
笑っている。
その程度には、ナイフの傷の痛みも少し落ち着いたのだろう。
「藤咲」
「はい」
「今日はもう、会社に戻らず家に帰れ。俺からの命令だ」
「却下です」
「……」
「少なくとも、社長が無事にマンションへご帰宅されるのを見届けるまでは」
「俺は自分の足で帰れる」
「怪我人です」
「傷は浅い」
「怪我人です。安静の指示が出ました」
「……お前は、本当に頑固だな」
九条CEOは、言うことを聞かない私をしばらく見ていた。
それから、もう秘書の意地には勝てないと諦めたみたいに、小さく頷く。
「……分かった。好きにしろ」
「ありがとうございます」
「だが」
「はい」
「もう、俺の前で泣くな。約束しろ」
私は、ほんの少しだけ、嬉しくて笑った。
鼻にかかった、まだ少し涙声のみっともない声だったけれど。
「善処いたしますわ」
「……お前の『善処』は信用できない」
「でしょうね」
そのやり取りが、少しだけ前世の日常の夫婦漫才のようで、いつも通りで。
それだけで、また尊さに限界化して泣きそうになる自分へ、私は心の中で深い溜め息をついた。
だめですわね。
本当に、私の涙腺は。
今世の私は、まだ彼に『本当の全部』を打ち明けられていない。
前世で夫婦だったことも。
私が、この人がどれほど命より大切かも。
どれだけ長いあいだ、この現世であなたを探していたかも。
でも、それでも。
この人の不器用な手は、もう、泣いている私を一瞬で落ち着かせることができる。
前世の記憶がなくても。
名前が違っても。
時代が変わっても。
それだけで、私の胸は十分に幸せでいっぱいだった。
――『どうして君は、そんなに泣きそうな顔で俺を見るんだ?』
先ほどのその問いへの、私の“重すぎる愛の本当の答え”は、まだ言えない。
でも、きっと、遠くないうちに。
彼の魂の方が、記憶より先に知ってしまうのかもしれない。
この人こそが、私が時を越えてずっと探していた、運命の最推しで。
私はずっと、この人へ、こんなふうに泣きそうな顔で恋をしてきたのだと。




