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婚約破棄の瞬間に「前世の記憶」が戻りまして。〜ヒロインの座は譲りますので、私は推しキャラの側仕えを目指します!〜  作者: 綾瀬蒼


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111/120

第111話 どうして君は、そんなに泣きそうな顔で俺を見るんだ?

 病院の無機質な『白』は、どうしてこうも心臓に悪いのだろう。


 チカチカと冷たい蛍光灯の白。

 一切の温かみがない壁の白。

 血の気が引くようなシーツの白。

 そして、鼻を突く消毒液のツンとした匂いまで。そのすべてが、どこか冷酷で、「あなたの愛する人が傷ついた」という現実だけをこちらへ容赦なく突きつけてくる。


 私は処置室の外にある硬い待合椅子に座ったまま、祈るように両手をきつく握りしめていた。


「……」


 指先が氷のように冷たい。

 でも、身体の奥はずっと熱くて、心臓が痛い。

 過呼吸気味で呼吸が浅い。

 喉はカラカラに乾いているはずなのに、すぐ横にある自販機で水を買って飲む気にもなれない。


 九条CEO――私の愛するクライス様が、私を庇って怪我をした。

 あの愚かな有栖川の刃から、私の盾になって。


 その事実だけが、頭の中で何度も何度も、呪いのように反芻される。


 振り下ろされるナイフの銀の光。

 間に割って入る大きな身体。

 白いシャツに、赤く生々しく滲んだ血の色。

 そして、顔面蒼白の私へ向けられた、あの低い、やさしい声。


 ――大丈夫だ。泣くな。

 ――見た目ほどじゃない。


「……ッ」


 私は、頭を振ってギュッと目を閉じた。


 違う。

 そうではない。

 大丈夫かどうかを決めるのは、傷の深さや出血の量だけではないのだ。


 私にとっては。

 少なくとも、前世からずっとあなたを愛している『妻(私)』にとっては。


 私の世界で一番大切なこの人が、「また自分を庇って傷ついた」という事実そのものが、到底大丈夫ではなかった。心が、耐えきれずに砕けそうだった。


「藤咲さん」


 広報責任者が、少し離れたところから遠慮がちに、心配そうに声をかけてくる。


「……はい」

「処置、もうすぐ終わるそうです」

「そうですか」

「中の看護師さんの話だと、傷は浅いと」

「……」

「数針縫うほどでもないかもしれないと」

「……はい」


 ちゃんと、ビジネスパーソンとして返事はしている。

 しているのに、自分の声が、遠い海の底から響いているみたいに自分のものじゃない気がした。


 法務部長も近くにいたが、今は珍しく無言だった。

 あの方なりに、私の様子が「ただの有能な秘書が上司を心配しているレベル」の正常な状態ではないことを、空気を読んで察しているのだろう。


 当然だ。

 会見場で事件が起きてから救急車でここへ来るまでの間、私はずっと、ガタガタと震えてひどく取り乱していたのだから。


 大勢の部下や記者の前で、声を上げて泣くつもりなど毛頭なかった。

 プロの秘書として、そんな見苦しい顔を見せるべきではないとも分かっていた。

 でも、無理だった。


 だって、前世と、あの悪夢と完全に同じなのだ。


 あの人はまた、私が傷つくのを良しとせず、私の前へ出た。

 私が魔法の使えない現代の身体で動けなくなるより先に、あの人の『騎士の魂』が動いた。

 そしてまた、私だけが無傷で守られた。


「……ッ」


 駄目ですわね。

 思い出すだけで、また涙がボロボロと滲んでくる。


「藤咲さん」

 今度はチーフが、少しだけ強めの、母のような声で言った。

「呼吸」

「……」

「過呼吸気味で、浅くなってるわよ」

「すみません……」

「謝らなくていいから。ゆっくり息をして」

「……はい」

「吸って」

 私は言われた通り、息を吸う。

 でも途中で震える。

 吐く。

 またうまくいかない。


 チーフが、困ったように、それでもできるだけやわらかい声で言った。


「大丈夫だから」

「……」

「社長、命に別状があるような怪我じゃないわ」

「……分かって、おります」

「うん」

「頭では、分かっておりますのに」

 私は、震える手を握りしめ、俯いたまま小さく、弱音を吐いた。

「これは、そういう物理的な傷の問題では、ないのでしょうね」

 チーフは何も言わなかった。

 代わりに、私の隣へ静かに座り、私の冷たい肩をさすってくれた。


 ああ。

 ええ。

 ありがとうございます。

 今は、その無言の優しさだけで十分ですわ。


 ◇ ◇ ◇


 やがて、重たい処置室の扉がガラリと開いた。


 私は反射みたいに弾かれたように立ち上がる。

 震えで足が少し痺れていたのに、そんなことへ構っていられなかった。


 医師が出てくる。


「ご家族の方……ではないですね。社員の方ですか」

「秘書です」

 私は即答した。

 医師が、私のあまりの悲壮な顔に少しだけ目を丸くした。

 でも、すぐにカルテを見て頷く。


「ご安心ください。傷は浅いです」

「……」

「縫合までは不要でした。自然に塞がります」

「……」

「消毒とテーピングでの固定で済みます」

「……」

「ただ」

「はい」

「今日は、ご自宅で安静にしてください。仕事はさせないように」

「……」

「アドレナリンが出て興奮していましたし、痛みも後からジワジワ出ますから」

「承知いたしました。絶対に安静にさせます」

 私の声は、思っていたよりちゃんと、秘書として冷静に出た。

 よかった。

 私の理性は、まだ完全に死んではいないらしい。


 医師が少しだけ、安堵させるように微笑む。

「中へどうぞ。すぐ帰れますよ」

「ありがとうございます……!」


 私は深く一礼して、処置室の中へ入った。


 ◇ ◇ ◇


 九条CEOは、処置室の中の簡易ベッドへ、少し気怠げに腰かけていた。


 上着は脱がされ、たくましい左腕には真っ白な包帯とテーピングが巻かれている。

 忌まわしい血の色は、もう見えない。

 ちゃんと処置された清潔な『白』だけが、そこにあった。


 それなのに。

 血は止まったのに、それでも、私の胸は痛かった。


「……社長」


 私が震える声で呼ぶと、九条CEOがゆっくりと顔を上げた。


「……藤咲か」

「はい」

「お前に、入っていいと言った覚えはないぞ」

「今は、その命令は却下です」

「そうか」

「そうです」


 ああ。

 返ってきた。

 いつもの、少しだけ意地の悪い、でも不器用な応答。

 それだけで、私のガチガチに固まっていた胸の奥が少しほどける。


 でも、同時に。


「……ッ」


 やはり、だめだった。


 処置は終わっている。

 意識もはっきりしている。

 いつもの低い声で喋っている。

 なのに、彼の腕に巻かれた痛々しい包帯を見た瞬間、またボロボロと熱い涙が込み上げて視界が滲む。


「藤咲」

「はい」

「……」

「……」

「また、泣いてるのか」

「すみません」

「謝るな」

「でも」

 私は、血が出るほど唇を強く噛んだ。

「社長が、私のせいで怪我を……」

「大したことはないと言っただろう」

「ございます」

「……」

「私には」

 そこまで言って、喉が熱くつまった。


 言えない。

 前世で、あなたが私を庇って傷ついたというあのトラウマのことは、記憶のないあなたには、まだ言えない。

 でも、この私が抱える理不尽な恐怖が、ただの“部下が上司に向ける心配”の範疇を超えていることくらい、もう自分でも嫌というほど分かっている。


 九条CEOは、少しだけ眉を寄せた。

 だが、その表情は「いい加減に泣き止んでくれ」という苛立ちではなかった。

 純粋に、困っているのだ。

 目の前で泣きじゃくる私を、どう慰めればいいのか、少しだけ不器用に迷っている顔。


 ああ。

 その顔も、私は知っている。

 前世でも、この人は、私が泣くと少しだけ困ったような、自分まで泣きそうな顔をした。

 そして、その後で、どんなに不格好でも、絶対に私を見捨てずに守ってくれた。


「……どうして」

 低い声が、静かな処置室に落ちる。


「……」

「君は」

 九条CEOの目が、真っ直ぐに、私の瞳の奥を覗き込むように私を見る。

「そんなに」

「……」

「切なくて、泣きそうな顔で、俺を見るんだ」


 その低く甘い問いが、私の胸の奥の一番やわらかいところへ、深く刺さった。


 どうして。


 そんなの、私が一番知りたい。

 どうして今世でも、あなたが傷つくと、こんなふうに自分の身を引き裂かれるより息が苦しくなるのか。

 どうして、庇われた瞬間、前世のあの血の記憶が一気に蘇るのか。

 どうして、あなたを失うかもしれないと想像しただけで、私が生きていく世界の輪郭が崩れるみたいに怖くなるのか。


 でも、そんな難しい理屈の答えは、最初から一つしかない。


「……大事、だからです」


 絞り出すような、消え入りそうな小さな声だった。

 でも、静かな部屋で彼にはちゃんと聞こえたらしい。

 九条CEOの目が、驚いたように、ほんの少しだけ大きく揺れる。


「上司として、それだけで」

「……」

「君は、そんなに世界が終わったような顔をするのか」

「……」

「それだけ、では」

 私は、涙の奥で苦笑した。

「……到底、足りないかもしれません」

「……」

「でも」

 私はようやく、涙を拭って彼を真っ直ぐに見つめ返す。

「今は、それしか言えません」


 九条CEOは、しばらく黙っていた。

 処置室の中は静かで、外の慌ただしい物音さえ、まるで二人だけの世界のようにひどく遠い。


 やがて、彼は低く、諭すように言った。


「俺は」

「……」

「死んでない」

「分かっております」

「……」

「ちゃんと、生きてる」

「……」

「お前の目の前に、ここにいる」

「……」

「だから」

 その声は、かつてないほど、少しだけ甘くやわらいだ。

「もう、そんな悲しい顔をするな。藤咲」


「ッ……」


 無理ですわよ。

 そんな甘い、スパダリみたいな言い方をされたら、限界オタクは余計に限界化して泣いてしまうでしょう。


 私はとうとう、耐えきれずに両手で目元を押さえた。

 だが、もう遅い。

 あたたかい涙は、泉のように止まってくれない。


「藤咲」

「はい」

「本当に」

「……」

「そんなに、俺が怪我したのが嫌か。痛いのは俺だぞ」

「嫌です。私が怪我をするより嫌です」

 私は食い気味に即答した。

「……」

「とても」

「……」

「心の底から」

「……」

「二度と、あんな思いをするのは嫌です」


 そこまで言って、自分ではッとした。


『二度と』。


 今、確かに私はそう言った。

 まるで、一度同じような凄惨な経験をしているみたいに。

 まるで、ずっと前の過去にも『同じことがあった』みたいに。


 九条CEOの目が、ほんの少しだけ細まる。

 その私の言葉の明らかな『引っかかり(矛盾)』を、有能な彼も鋭く拾ったのかもしれない。


「……二度と?」

「……ッ」


 しまった。

 と思った。

 でも、口から出た言葉は、今さら引き返せない。


「……いえ」

 私はどうにか、有能な秘書として言葉を繕おうとした。

「その、一般論として――」

「藤咲」

 低い、絶対的な声が、私の言い訳を止めた。

 責めているわけではない。

 ただ、真実を逃がさないだけだ。


「君は」

「……」

「時々、俺のことを」

「……」

「まるで」

「……」

「昔から、ずっと前から、俺のすべてを知っているみたいな顔をするな」


「ッ……!」


 だめですわね。

 本当に、この人は。

 最近、妙に前世の私の『核心』に迫ることを鋭くおっしゃる。


 私は言葉を失い、固まった。

 その肯定も否定もできない沈黙自体が、多分、彼への『答え』みたいなものだったのだろう。


 九条CEOは、私の顔を見て、ほんの少しだけ長く息を吐いた。

 それから――。


 そっと。

 本当に、壊れ物を扱うようにそっと。


 怪我をしていない右手を、私の頭へ伸ばした。


「……ッ」


 大きくてあたたかい指先が、私の髪へ触れる。


 撫でる。

 やさしく。

 泣き虫な私を落ち着かせるように。

 怯える幼子へするみたいに。

 でも、決して雑ではなく、ひどく昔から私を扱い慣れた手つきで。


「……あ」


 それは。


 前世と、全く同じだった。


 私が泣きそうな時。

 不安で押しつぶされそうで、たまらない時。

 不器用な彼は、気の利いた言葉より先に、ただ、こうして黙って私の頭を撫でてくれた。

 あの時の手つき。

 あの時のあたたかい温度。

 あの時の、私のすべてを包み込むみたいな、絶対的なやさしさ。


「……ッ、ぁ、うぅ……」


 だめですわ。


 そんな。

 そんなふうに、私が一番欲しい温度で撫でられたら。

 記憶がないはずなのに、魂が愛する妻を慰める方法を覚えているみたいに、そんなふうにされたら。


「……泣くな」

 九条CEOが、髪を撫でながら低く言う。

「……」

「お前が泣いているのを見る方が、俺は傷よりつらい」

「……」

「だから」

 あたたかい手のひらが、もう一度、やさしく私の髪を撫でる。

「俺は無事だ。落ち着け」


 その瞬間。

 私の理性の最後の壁が、綺麗に音を立てて崩れ去った。


「うぅ……っ、ひぐっ……」

 私は両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。

 子供みたいだ。

 みっともない。

 敏腕秘書失格だ。

 分かっている。

 でも、無理だった。限界だった。


 だって。


 今、ここにいるのは、現代日本の九条柊介で。

 今世では、まだ私の最愛の夫の『クライス様』ではないはずなのに。

 その不器用な手だけが、どうしようもなく、前世の私の愛しい人と全く同じだったのだから。


 ◇ ◇ ◇


 どれくらい、そうして彼の前で泣きじゃくっていたのか、自分でも分からない。


 私はどうにか深呼吸して泣き止み、でも目元はきっと、メイクも落ちてだいぶひどいパンダ顔になっていることだろう。

 九条CEOの方は、そんなみっともない私を見ても、何も咎めない。

 ただ、まだ少しだけ女の涙に困ったような、それでいて、どこかこのままずっと放っておけないもの(庇護対象)を見るような、あたたかい目をしている。


「……すみません、お見苦しいところを」

 私はハンカチで目を拭い、小さく言った。

「だから」

「……」

「もう謝るな」

「ですが、秘書として」

「それ以上、仕事の理屈を言うと」

 九条CEOが、少しだけ意地悪く眉を寄せる。

「……また、お前が泣き止むまで撫でるぞ」


「ッ……!」


 私は思わず、信じられないものを見るように顔を上げた。


 何ですのそれは。

 脅しですの? 罰ゲームですの?

 いえ、脅しとして全く成立していませんわよ?

 むしろ、ご褒美すぎて、別方向へ効きすぎておりますわよ?


「社長」

「何だ」

「今の」

「……」

「ズルいです」

「そうか」

「そうです」

「……」

「ご自身が無自覚にどれだけ反則スパダリか、少しはご自覚になってくださいまし。心臓が持ちませんわ」

「お前の言っている意味が分からん」

「その天然なところもズルいです」

 九条CEOが、やれやれと小さく息を吐く。

 でも、その氷の口元が、ほんの少しだけやさしく緩んでいた。


 ああ。

 よかった。

 笑っている。

 その程度には、ナイフの傷の痛みも少し落ち着いたのだろう。


「藤咲」

「はい」

「今日はもう、会社に戻らず家に帰れ。俺からの命令だ」

「却下です」

「……」

「少なくとも、社長が無事にマンションへご帰宅されるのを見届けるまでは」

「俺は自分の足で帰れる」

「怪我人です」

「傷は浅い」

「怪我人です。安静の指示が出ました」

「……お前は、本当に頑固だな」


 九条CEOは、言うことを聞かない私をしばらく見ていた。

 それから、もう秘書の意地には勝てないと諦めたみたいに、小さく頷く。


「……分かった。好きにしろ」

「ありがとうございます」

「だが」

「はい」

「もう、俺の前で泣くな。約束しろ」

 私は、ほんの少しだけ、嬉しくて笑った。

 鼻にかかった、まだ少し涙声のみっともない声だったけれど。


「善処いたしますわ」

「……お前の『善処』は信用できない」

「でしょうね」


 そのやり取りが、少しだけ前世の日常の夫婦漫才のようで、いつも通りで。

 それだけで、また尊さに限界化して泣きそうになる自分へ、私は心の中で深い溜め息をついた。


 だめですわね。

 本当に、私の涙腺は。


 今世の私は、まだ彼に『本当の全部』を打ち明けられていない。

 前世で夫婦だったことも。

 私が、この人がどれほど命より大切かも。

 どれだけ長いあいだ、この現世であなたを探していたかも。


 でも、それでも。


 この人の不器用な手は、もう、泣いている私を一瞬で落ち着かせることができる。

 前世の記憶がなくても。

 名前が違っても。

 時代が変わっても。


 それだけで、私の胸は十分に幸せでいっぱいだった。


 ――『どうして君は、そんなに泣きそうな顔で俺を見るんだ?』


 先ほどのその問いへの、私の“重すぎる愛の本当の答え”は、まだ言えない。

 でも、きっと、遠くないうちに。

 彼の魂の方が、記憶より先に知ってしまうのかもしれない。


 この人こそが、私が時を越えてずっと探していた、運命の最推しで。

 私はずっと、この人へ、こんなふうに泣きそうな顔で恋をしてきたのだと。



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