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婚約破棄の瞬間に「前世の記憶」が戻りまして。〜ヒロインの座は譲りますので、私は推しキャラの側仕えを目指します!〜  作者: 綾瀬蒼


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110/120

第110話 逆上したアーサーの刃。推しが私を庇った日

 公開記者会見は、表向きには“大成功のうちに無事に終了した”はずだった。


 まばゆいフラッシュの嵐を背に、会場の壇上から降りた後も、記者たちの興奮したざわめきと怒号はやまなかった。だが、それはもう勝者である私たちへ向けられたものではない。

 カメラのレンズもマイクも、その半分以上は、自ら掘った墓穴の底で顔面蒼白になり立ち尽くす有栖川玲央――アーサー・テック社長と、腰を抜かして泣き崩れかけたミレンへと、残酷に向けられていた。


「社長、藤咲さん。では、こちらへ」

 広報責任者の案内で、私たちは会見場奥の静かな控室へ向かって歩き出していた。


 九条CEO――私の最愛のクライス様は、相変わらず乱れのない、静かな足取りだった。

 全国ネットの生配信で、卑劣な相手を完膚なきまでに合法的に叩き伏せ、社会的抹殺ざまぁを遂げた直後だというのに。その横顔には、驕りも、浮ついた色も少しもない。

 ただただ冷たく整っていて、ひどく、暴力的なまでに美しい。


 ああ。

 本当に。

 こういう修羅場(断罪)を越えた直後ほど、推しの顔面偏差値オーラがカンストして上がるの、一体どういう理屈ですの? 生命の神秘ですわね。


「藤咲」

 低い、極上の声が落ちる。

「はい」

「また、仕事とは全く関係のない変なことを考えてるな」

「失礼ですわね」

 私は即座にポーカーフェイスを作り、真顔で答えた。

「本日の社長も、最高にお強く、そして世界で一番お美しいと、秘書として再確認しただけです」

「……たった今、何百万人の前で会見を終えた直後だぞ。少しは緊張感を持て」

「だからこそです」

「……」

「修羅場を越えた今の社長のフェロモン、普段の三割増しで火力が高いのでは? 直視すると目が潰れますわ」

 九条CEOが、やれやれと小さく息を吐く。

 でも、その整った耳の先が、ほんの少しだけ照れたように赤い。


 ああ、ええ。

 そういう可愛らしいところは、前世から相変わらずですのね。


 法務責任者が、少し前を歩きながら呆れたように肩越しに言った。

「二人とも」

「何でしょう、部長」

「いくら大勝したからといって、今はまだ少し緊張感を持ってくれ。完全に気を抜くのは会社に戻ってからだ」

「ありますわ」

 私は即答した。

「大変に、限界レベルの緊張感(胸の動悸)が」

「その涼しい顔で?」

「ええ、仕事用の完璧な平常心の仮面ですので」

「君の言うことは、どうも信用しづらいな……」


 冗談めかして言ったものの、実際、バックヤードの空気はまだ弓の弦のように張り詰めていた。


 念のために配置された警備員が増員されている。

 会見場の出入り口も、報道陣の混乱を避けるために一部規制が始まっている。

 アーサー・テック側の関係者(敗者)たちは、すでに我々とは別の裏導線へ誘導されているはずだった。


 そう、完全に隔離されているはず、だったのだ。


 ◇ ◇ ◇


 控室までは、会見場の横手にある、少し薄暗い短い通路を抜ける必要があった。


 人払いはされている。

 だが、完全に無人というわけではない。

 ホテルのスタッフが数名、急ぎ足で機材を運んでいる。

 記者の残党も、少し離れた位置で、まだ興奮冷めやらぬ様子で何事か話していた。


 私はヒールを鳴らして歩きながら、すでに頭の中で「次の手」を理路整然と整理していた。


 会見後の、株主向けの公式リリースの配信タイミング。

 関係各社への事後説明の順番。

 法務部と連携した、有栖川とミレンに対する損害賠償と刑事告発の次の手。

 そして、追い詰められたミレン側からの、SNSでの追加暴発(逆ギレ)リスクへの対応。


「本日中に」

 私は手元のタブレットを見つめ、小さく呟いた。

「相手のすべてのSNSアカウントの削除請求ラインまでは、証拠を固めて詰めますわね」

「何だ」

 九条CEOが、私の呟きを拾って低く問う。

「有能な秘書の独り言です」

「それにしては、だいぶ物騒で不穏だったぞ」

「業務上の意味で、です」

「徹底的に息の根を止めることを、不穏と言うんだ」


 その、時だった。


 背後から。

 張り詰めた空気を、暴力的に引き裂いて弾けるような、異様な気配がした。


「ふざけるなぁっ!!!!」


 獣のような、怒鳴り声。


 私は、反射的に振り返った。


 そこには、鬼の形相をした有栖川玲央の姿があった。


 高級なネクタイは無様に緩み、セットされた髪は乱れ、血走った目は異常に充血している。

 理性の最後の糸まで完全にブチ切れているのが、その歩き方ひとつで一目で分かる。

 その醜く歪んだ顔は、まさに前世の断罪の場で何度も見た、“自分の非を認めず、他人に責任を押し付けて追い詰められた王太子アーサー”そのものだった。


「……ッ!」


 まずい。


 私がそう思考した瞬間には、彼はもう、狂ったようにこちらへ向かって走り出していた。


「全部、お前のせいだ!!」


 憎悪に塗れた怒声とともに、右手が大きく振り上がる。


 ギラリ、と。

 薄暗い通路の照明を反射して、銀色の光が見えた。


 ナイフ。


 そんな物騒なものを、一体どこからこの会見場へ持ち込んだのかなど、論理的に考えている暇はなかった。


「あぶな――!」


 法務部長の悲鳴のような声がした。

 数メートル先にいた警備員も、顔色を変えて動いた。

 でも、間に合わない。圧倒的に遅い。


 有栖川の血走った視線(殺意)の狙いは、九条CEOではない。


 私だった。


 視線が、真っ直ぐにこちらへ向いている。

 すべてを失った絶望と、逆恨みの怒りと、己の無能さの責任のすべてを、私(秘書)という存在へぶつけて終わらせるつもりの、狂人の目だ。


 その一瞬で。


 私の脳内に、前世のトラウマが、最悪の形で蘇った。


 ――振り下ろされる、冷たい刃。

 ――私を庇って立ち塞がる、大きく広い背中。

 ――自分へ向けられた理不尽な悪意。

 ――そして、その悪意の前へ、少しの迷いもなく踏み込んでくる、私の最愛の推し。


「……ッ、だめ――!」


 私は、喉が裂けるほど叫んだ。

 叫んだ、はずだった。


 だが、私の口から出たその声は、かすれて音にならず、自分でも驚くほど弱々しかった。


 身体が、1ミリも動かなかった。


 ここは今世のオフィスでも、現代日本の会見場でもない。

 前世の、あの血生臭い光景の感覚が、一瞬で現在の視界を上書きする。

 クライス様が、私を庇って傷つく。私のせいで、血を流す。

 あの、心臓を素手で握り潰されるような恐怖。

 あの、息が止まるような痛み。

 それが、逃げるという理屈より先に、全身を縛り付けて凍らせたのだ。


 そして。


「藤咲!!」


 鼓膜を打つ低い声が、すぐ耳の近くで響いた。


 次の瞬間、私は強い力で肩を引かれていた。


 視界が、大きく斜めに揺れる。

 九条CEOの大きな身体が、私の小さな身体を庇うように、完全に前へ出る。

 ほとんど、無意識の反射だった。

 思考して判断するより先に、彼の『騎士としての魂』が、私を守るために動いていたのだ。


 ――ザクッ。


 肉を裂く、鈍くて生々しい音。


「……ッ!」


 世界から、音が消えた。

 時間が、スローモーションのように完全に止まった気がした。


 有栖川の無軌道に振り下ろしたナイフは、九条CEOの左腕を浅く、だが確かに、容赦なく切り裂いていた。


 白いシャツが、一瞬遅れて、じわりと生々しい赤色に染まっていく。


「社長!!」


 広報責任者が絶叫する。

 警備員たちが弾かれたように飛び込み、有栖川の身体を床へ叩きつける。

 ナイフが乾いた音を立てて床へ転がり、周囲の人間が一気に騒然となる。


 でも、私には、その後の喧騒なんて、何も聞こえなかった。

 ただ、耳鳴りだけがガンガンと鳴り響いている。


 私の視界に見えていたのは、ただ一つ。


 私を庇ったせいで、私の最愛のクライス様が傷つき、血を流した。

 その絶望的な光景だけだった。


 ◇ ◇ ◇


「……ッ、や、だ……」


 自分の声が、海の底から響くように、ひどく遠く聞こえる。


 九条CEOは、顔をしかめ、すぐに右手で自分の左腕の傷口を強く押さえた。

 動脈には達していない。致命傷ではない。

 傷口も、命に関わるほど深くもない。

 それは、冷静に見れば分かる。前世で数え切れないほどの戦傷を見てきた私には、分かるはずなのだ。


 分かるのに。


 だめだった。

 理性が、完全に吹き飛んでいた。


「藤咲」

 九条CEOが、痛みを堪えながら、いつもの落ち着いた低い声で呼ぶ。

「……」

「怪我はないか。無事か」

「……」

「俺を見ろ、藤咲」

「……」

「お前は、どこか切られてないか?」


 ……何を言っているのだ、この人は。


 傷ついたのは、あなたでしょう。

 痛い思いをして庇われたのは、何の役にも立たなかった私でしょう。

 血を流しているのは、あなたなのに。

 なのに、どうして自分の傷より先に、私の無事を必死に確かめるのだ。


 前世も、そうだった。

 今世でも、全く同じだった。

 記憶がなくても、あなたは必ず私を庇い、そして私を心配する。


「……ッ」

 息が、うまく吸えない。過呼吸のように喉がヒューヒューと鳴る。


 視界の端で、警備員に取り押さえられた有栖川が、なおも醜く喚いている。


「離せ!! 離せよ!!」

「全部あいつのせいだ!! あいつが俺をコケにしたんだ!!」

「俺は悪くない!! 悪いのはそいつだ!!」

「そいつが全部悪いんだ!!」


 ああ。

 ええ。

 本当に、変わりませんのね。

 最後の最後まで、自分が悪いとは少しも思わない、その腐りきった魂まで、そっくりですわ。

 今すぐ私の手で八つ裂きにしてやりたい。


 でも、そんな復讐のことなど、今の私にはどうでもよかった。


 私は、ただただ、九条CEOの押さえた腕を見た。


 赤い。

 おびただしい血。

 ここは今世の、平和な現代日本の、安全なはずのホテルの通路。

 その白いシャツの上へ滲む赤色なのに。

 私の頭の中では、前世の血生臭い戦場で彼が流した血の色と、完全にオーバーラップして混ざり合っていく。


 だめですわ。

 やめてくださいまし。

 そんなふうに、また、私を庇ってあなたが傷つくなんて――


「藤咲!!」


 今度は、もっと強く、すぐ目の前で呼ばれた。


 ハッとして顔を上げる。

 九条CEOが、血の滲む傷を片手で押さえたまま、残った手で私の肩を掴み、真っ直ぐに私を見ていた。


「……俺の目を見ろ」


 その、低くて力強い声だけが、混乱する世界の中で、不思議なくらい鮮明に私の魂へ届いた。


「大丈夫だ」

「……」

「傷は浅い。問題ない」

「……」

「お前は? 本当に無事か」

「……ッ」


 私は、そこでようやく、自分の身体がガタガタと異常なほど震えていることに気がついた。


 指先。

 肩。

 彼を見つめる瞳。

 立っている膝。

 全部が、細かく、コントロールを失って震えていた。


 言葉が出ない。

 喉が塞がったように痛くてつまる。

 胸の奥が、ギリギリと締め付けられて痛い。


 前世と同じだ。

 同じなのだ。

 私は、強くなったつもりでいたのに。

 現代日本なら、彼を安全な場所で完璧に守り抜けると思っていたのに。

 私は、また、いざという時にこの人に庇われて。

 また、この人が私のせいで傷ついて血を流すところを、ただ見ていることしかできなかった。


「……や、だ……」


 気づけば、ボロボロと、そんな無力な言葉が零れていた。


「何がだ。痛むところがあるのか」

 九条CEOの声は低い。

 でも、どこまでも不器用で、やさしい。

 やさしすぎて、自分の情けなさが余計に苦しい。


「社長が……」

「……」

「また……私を庇って……」

「……」

「わたし、の、せいで……っ」


 そこまで言った瞬間。

 前世の記憶のフラッシュバックが、完全に現代と重なった。


 ――クライス様が、私を守るために前へ出る。

 ――冷たい刃のきらめき。

 ――飛び散る血。

 ――庇われる私。

 ――守られる私。

 ――そして、自分はただ恐怖に凍りつき、何もできない。


「……ッ、ぅ、うぅ……」


 涙が、ボロボロと勝手に頬を伝って落ちた。


 秘書としての完璧なポーカーフェイスを保とうとしても、無理だった。

 大粒の涙が一粒落ちた瞬間、そこから先はもう、ダムが決壊したように、どうしようもなく溢れ出し続けた。


「藤咲」

 九条CEOが、泣き崩れる私を、もう一度低くやさしい声で呼ぶ。

 その声が、妙に私の耳に近い。


 ああ。

 そうか。

 この人、自分の腕から血を流して怪我をしているのに、まだ私の方へ身体を寄せて、意識のすべてを私へ向けているのだ。


 どうして。

 どうして記憶のない今世でも、そんなふうに。

 そんなふうに、自分の命を投げ打ってでも、私ばかり守ろうとするのだ。

 ずるいですわ。


 ◇ ◇ ◇


「救急車を手配しました!」

「止血用のタオルを! 早く!」

「ホテルの医療班、急いでこっちへ!」


 周囲は、怒号と悲鳴が飛び交う、完全にパニックの修羅場だった。


 警備員が有栖川を取り押さえたまま、床へ強く押し下げている。

 法務部長が、顔色を変えながら警察へ電話をかけている。

 広報責任者は、騒ぎを聞きつけて殺到しようとする記者たちを、必死の形相で押し留めている。

 どこかで、自分の引き起こした事態に怯える、ミレンの悲鳴みたいな汚い泣き声も聞こえた気がする。


 でも、私には、そのすべてが遠い世界の出来事のようだった。


「藤咲」

 九条CEOが、右手で血の滲む傷口を押さえたまま、もう片方の大きな手を、震える私へ伸ばしてくる。

「……」

「怪我はないな。無事か」

「……ッ」

「答えろ。お前の声で聞かせろ」

「……はい。無傷、です……」

 私はやっとの思いで、嗚咽を噛み殺しながらそれだけを絞り出した。


 それを聞いた瞬間、九条CEOの強張っていた広い肩から、フッと少しだけ安堵したように力が抜ける。

 その「自分が傷ついても、お前が無事ならそれでいい」という行動を見て、私は余計に大声で泣きたくなった。


 この人は。

 本当に。

 自分が刃物で傷ついて血を流しているのに、自分の痛みより先に、私の無事を聞いて安心するのだ。


 それが、前世と全く同じで。

 魂の在り方が、何一つ変わっていなくて。


 こんなの、今世で好きになり直すどころではない。

 むしろ、前世よりもっと深く、もっと重く、どうしようもなく私の魂の奥底まで刺さるに決まっている。


「大丈夫だ。そんなに泣く必要はない」

 九条CEOが、私を落ち着かせるように再び言う。

「……」

「血の見た目ほど深くはない。数針縫えば終わる傷だ」

「……」

「だから、泣くな」

「……むり、です……」

 自分でも驚くくらい、震える弱い声だった。

 限界オタクの武装が完全に剥がれ落ちた、ただの『瑠衣』の声だった。


 その瞬間。

 九条CEOの蒼い目が、ほんの少しだけ、大きく揺れた。


 あら。

 そんな顔も、なさるのですわね。


 私の涙に驚いたような。

 どう慰めればいいのか困ったような。

 でも、どうしようもなく、泣く私のことを世界で一番大切に気にかけている、切なそうな顔。


 前世でも、私はこの不器用な顔に、とてつもなく弱かった。

 今世でも、やっぱりだめだった。勝てるはずがない。


「社長!」

 法務部長が、血相を変えて駆け寄る。

「救急車が到着しました! 下の搬入口へ!」

「分かった」

「藤咲さんも、顔面蒼白だ」

「……」

「一緒に救急車へ乗って、付き添ってください!」

 私は、すぐには「はい」と答えられなかった。

 恐怖とトラウマで、足の震えが止まらず、まだうまく動かないのだ。


 すると。


 九条CEOが、怪我をしていない方の大きくあたたかい手で、私の震える細い手首を、優しく、けれど絶対に逃さない強さで軽く掴んだ。


「来い」

「……」

「トラウマで一人で立てないなら、なおさらだ。俺から離れるな」

「ッ……」


 だめですわね。


 そんな。

 血を流している側の怪我人が、そんな甘い声で、そんなふうに力強く手を引いてエスコートするなんて。

 前世でも、今世でも、圧倒的なスパダリすぎて反則ではありませんこと?


 私は震える足に力を込め、彼の手の温もりにすがるように、どうにか一歩を踏み出した。


 救急隊員が慌ただしく走ってくる。

 ストレッチャーが見える。

 会見場の外は、警察も到着してまだ騒然としている。


 でも、その怒号の飛び交う混乱の中で。


 私の視界に映る世界は、ただ一つだった。


 今世でも。

 この人は、その身を挺して私を庇った。


 そして私は、また、彼に守られるだけだった。


 その無力な事実が、胸の奥へギリギリと痛いほど刺さって。

 彼が流した血の匂いに、涙は後から後から止まらないのに。

 それでも、彼に引かれたこの右手を、一生離したくないと強く願ってしまう身勝手な自分が、どうしようもなくそこにいた。


 ――前世と同じく、自分を庇って最愛の推しが傷つく。

 ――その悪夢みたいな残酷な現実が、今世でも、私の抱えるトラウマを容赦なく抉り、同時に彼への『重すぎる愛』を再確認させていくのだった。



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