38
1-10 教会
アリスは自室で途方にくれていた。
アリス自身、クリスが助けてくれるなんて都合がいい解釈をしていることは重々理解していたのだ。
それでも、今アリスがカルロスから逃亡すればカルロスで築いたローズ商会は解散となる。
ローラン王国で再起を図ればいいと思うかもしれないが、再起にはギルドの壁や取引先が貴族なこともあり、ロジャース商会の後ろ盾をなくし、財産も築けていないアリスを助けてくれるとは思えなかった。ましてや相手はダリルなのだ。ロジャース商会の名のものにローズ商会の工房を占拠して取引先の貴族を奪っていくことは容易に想像がついた。
アリスに残された選択肢は、政略結婚をする、すべてを捨ててクリスのいるローラン王国へ行く、クリスが何らかの方法で助けてくれるのを待つ。
そのどれかだった。
「迂闊だった」
今考え直してみれば、第3回事業計画でダリルから了承を得て行動したのが間違いだった。それに運賃交渉だって何もダリルを経由にしなくてもよかったはずだ。
手遅れだったとわかっていてもアリスは後悔せずにはいられなかった。
「こんなとき、お母様がいれば相談したりできたのかしら」
アリスはぼんやりと窓の外を眺め、そう呟いた。
今、アリスには母がいない。物心がついたときには既に屋敷にいなかった。
小さいころに一度だけ父ウィリアムに聞いてみたことがあったが、悲しい顔をしてはぐらかされてしまって以来聞いていない。
「そのせいだったのかしら。そういえばお父様はアランお兄様とよく一緒に仕事場につれていってくれてたわね」
アリスは幼少時代を珍しく思い出し、懐かしみ始めた。
当時のアリスにとって仕事場は楽しみな場所であった。まだろくに算術や文字も書けなかったため、仕事を手伝うことはできなかったものの代わりに兄のアランから文字や算術を教えてもらい、目の前には仕事をしている父がいる。
父は会長なので仕事中は大人しくしていなければならなかったものの、時折休憩でやってきてお話をしてくれたのだ。
普段、食事のとき以外は父と話をする機会がなかったアリスにとって、一緒に居られることが何よりも嬉しかった。
アリスが大商会を作ろうと考えたきっかけはここからだった。
大人しくして仕事が手伝えるようになればもっと一緒に居られるかもしれない。
当時の幼いアリスにとってはそう思えた状況だった。
こうして、大人しくしながら文字や算術を頑張って覚え、気づけば商会を手伝うようになり、大学にも通うまでになった。
アリスにとって母がいない寂しさはなかったと言えば嘘にはなるが、それ以上に父が常に一緒にいてくれたことを考えればそれ以上のことを望むのはおこがましいだろう。
それでもやはり、結婚に関しては父ではなく母と話してみたかった。
出来ないことを望むなんて私らしくもない。
そう思い、アリスは考えを断ち切ろうと思うがそううまくは思考ができていないらしい。
以前クリスと出かけたときのことを思い出し、クリスがいてくれたらと思ってしまう。
そう思うと歯止めがきかなくなり、アリスは徐々に感情がこみ上げてくる。
しかし、頬を伝う涙を受け止めてくれる人がここにはいなかった。
「けっきょく私はクリスに頼ってしまうのね」
そう呟くとアリスは自分に苦笑いし、枕を少しだけ濡らせた。
その日から、アリスにとっては不幸な何もない日が続いた。
途中、ローラから兄のアランが夜間に外出したという話を聞いたが、アリスが兄を疑うはずもなく何もない平穏な日々だった。
アリスがやれる事といえば、毎日神様にクリスが来てくれる事を願うだけだった。
そして日は流れ、結婚式当日。
ローラからは既に内通者が2名いたことがわかったと報告を受けている。
しかし、アリスは動かなかった。クリスが来ていない状況で追い出したところで状況が悪化するだけだったからだ。
式に向けて、ウェディングドレスを身にまとい、薄いヴェールで髪を覆って待っている間、アリスは覚悟を固めた。
そして、いよいよ式が始まった。
教会への入場を前にアリスは父と並んだ。
そして父ウィリアムが呟いた。
「すまない」
その言葉にアリスは驚いたものの、笑顔で返した。
「私こそごめんなさい」
父ウィリアムはアリスをちらりと見たが何も言わなかった。
教会ではロジャース商会の要人、家族とカルヴァート商会の要人、家族が参列していた。
アリスは父に導かれ入場していき、途中ダリルと共に並び、ようやく目の前の神父のもとへとたどり着くと、何やらいろいろと話し始めた。
そして、神父により式は着々と進み、
「・・・そこで、出席の皆さんのうち、この結婚に正当な理由で異議のある方は、今ここで、それを申し出てください。今、申し出がなければ、後日、異議を申し立て、二人の平和を破ってはなりません」
神父がそう言うと周囲が静寂に包まれた。
誰も異議を申し立ててくれないことはアリスにもわかった。
それがアリスには悲しかった。
もし、もし本当に神様がいるのだとしたらどうして私はダリルと結婚をしなければならないのでしょうか。
アリスがそう思ったとき、ふとクリスとのやり取りを思い出した。
「・・・あなた建前だけでももう少し信仰心を持ったほうがいいんじゃないかしら」
「頼っても助けれくれるのは人だけじゃないですか」
まったくそのとうりだった。今日まで何度も神様にお願いをしてきた。しかし、その願いはもはやかないそうにない。
人も助けてくれない。それだけがアリスの目の前にある現実だった。
みんなはアリスがこの結婚を望んでいないことを知っている。でも今の時代、政略結婚なんて当たり前なのだから仕方ない。
その諦めている状況がアリスには悔しくて仕方が無かった。
お父様、ごめんなさい。やっぱり私はダリルとは結婚したくありません。神父様から問われても私は誓うことができないのです。たとえ、その選択肢が間違っていたとしても神様に嘘をつきたくありません。ましてやクリスを裏切り者扱いしたダリルだけは許すことができません。
誰も助けてくれないのであれば自分で動くしかない。そうアリスが心に誓ったときだった。
「ちょっと待ったー!」
突然の聞き慣れた声に驚きアリスは思わず声のする方をみた。
入り口は光に包まれてまぶしかったものの、一人の黒髪の少女の姿が見えた。
長い黒髪と聞き慣れた声。アリスが間違えるはずがなかった。
「ク、クリス!」
アリスの願いが神様に届いた瞬間だった。




