猿の佐吉人情噺05
猿の佐吉人情噺
5.京都は混乱の中
◎
「おや、才谷様じゃございませんか。こんな所でお会いするとは」
佐吉が声をかける。
「おや、佐吉ではないか。今、京に来ているのか?」
「ええ、最近の京の治安が余りにひどくなって、実は江戸町奉行所から何人か腕利きを京都所司代の東御役所に援軍として派遣することになったのです。私も、尾上様、立花様について、京都にしばらく滞在する事になりました。とは言っても、いつ江戸に帰れるかという目処はまったく立っておりませんが」
「なるほど、今の状況では、そんなにすぐに治安が良くなる気配はなさそうだの」
「まあ、そんなに長く滞在させるのも気の毒だという事で、長くなりそうなら、定期的に次の与力たちに交代させるという事になりそうで、まあ、一年ぐらいで帰れるのではないかという話は出ております」
「しかし、わざわざ奉行所の者を派遣しなくても、治安に関しては京都所司代の元に新撰組なる別働隊が組織されたではないか」
「いや、彼らは京都で激しくなってきた暗殺などの件に関わる者で、過激な動きをしている藩の武士たちを牽制するのが仕事ですから、町人の間でのもめ事などは扱いません。ところが京都の治安が悪くなってくると、世情も荒くなってきて、町人同士の争いも増えています。今までの人手では所司代もどうしようもない状況になっているという事なんです。そういった事件に関しては、やはり江戸町奉行所の者が慣れているので」
「なるほど、それで援軍に京都へ派遣か。しかし、なつかしいな。尾上殿、立花殿なども来ておられるのならお会いしたいものだが。あ、それに、京には今、和田殿もおられるし、一度皆で食事にでも行くか」
「それはよろしいですね」佐吉がうれしそうに言う。「尾上様らは、京都所司代の屋敷におられますが、私は実は駿河屋さんの京の支店に泊めて頂いております。いつでもお尋ね下さい。店は四条烏丸にあります。店を仕切っているのは例の番頭さんですから、才谷様の事は良く知っておられますんで、行けば歓迎されると思いますよ」
「しかし、さっきも言ったように、今、和田君も京に居る」才谷が言う。「皆が京に集まっているというのは不思議な縁だなあ。これでセンセーとマメゾーがおれば、いつもの連中が勢揃いなんだが」
「まあ、センセーとマメゾーは江戸を離れる事はないでしょうな。しかし、他に播磨屋の常吉が今、京に居るといったらどうします」
「まさか、そんなことが…」
「あるんでさあ」佐吉が言う。「播磨屋は武具を扱っております。今、京は播磨屋の商売にとって、一番重要な拠点になっておりますんで」
「いや、才谷様、和田様、本当によく来て下さいました」駿河屋の番頭二人が頭を下げる。その横には少し後ろに下がって佐吉が座っている。「いつぞやは命をお助け頂いて本当に感謝いたしております」
「いや、そのことについては、もう忘れて下さって結構」才谷が言う。「それより二人が元気で活躍している様子、何よりです」
「ありがとうございます。京は商いの重要な拠点とは言え、治安が悪うございますんで、あまり皆行きたがらないので、元武士の私ども両名が店を預かる事となりました」
「それは良かった」和田が笑う。「確かに最適な人事だの」
「ところが播磨屋さんの方は、常吉さんご夫妻が直々に来ておられまして」
「そうらしいな」和田が言う。「播磨屋にもその内に顔を出さねばと思っているところだ」
「その必要はございませんよ」番頭の一人が言う。二人とも笑っている。「今、ここに来られます」
「はあ?」どうなっているのだという顔で、才谷も和田も戸惑った声を出した。
「播磨屋さんとは、店は通り一つ離れておりますが、実は裏口でつながっておりまして」番頭はしてやったりという顔で説明する。「お二人が来られてすぐ、播磨屋さんにも連絡を入れました。すぐ来られるそうです」
そう言っているところへ、まさにその二人が部屋に入ってきた。
「才谷様、和田様、お懐かしゅうございます。よく来られました」
「おお、常吉さん」才谷が言う。「お元気そうで何より」
「しかし、お二人が京に来られて、江戸の店は大丈夫なんですか」和田が訊く。
「ええ、そろそろ代替わりを考えていたんですが、尾上様からお佐代の婿にどうかという方を紹介頂き、今、お佐代と二人で、一番番頭の元で修行中でございます」
「ほお、佐吉の取り合いは決着がついたのだな」才谷が笑う。「それで佐吉は駿河屋の方に泊まっているのか?」
「いやな事を覚えていらっしゃいますね」佐吉が苦笑いをする。「お佐代ちゃんにせよ、お妙さんにせよ、あれは子供の戯れ言でございます。余りからかわないでくださいまし」
「しかし、駿河屋と播磨屋が仲が良いのは結構だな。裏口でつながっているというのが面白い」和田が笑う。
「さようで」佐吉が少し真面目になって言う。「今、京は危のうございます。もしこのあたりで何か事があったら、駿河屋と播磨屋を使って籠脱けが出来ますので覚えておいて下さい」
「あ、なるほど」才谷が笑う。「誰か危険な奴に追いかけられた時には使えるかもしれん。佐吉、この二つの店が裏口でつながっているという事は余り知られておらんのだな」
「へえ、この店の者以外は知らないと思います」
「まあ、使わなくて済めばそれに超した事はないが、今の京の状況ではな」和田がため息交じりで言う。
「それとこれを持って参りました」
食事が終わって、常吉が才谷と和田につつみを差し出した。
「これは何かな」才谷が訊く。
「私どもからお二人への贈り物でございます」常吉が言う。「お二人が剣の達人だという事は存じ上げております。しかし、これも持っておられればなお安心かなと」
包みを開けると、ピストルと弾が出てきた。才谷は笑って、手に持って誰も居ない方向に銃口を向けて構えてみた。和田は真剣な目をして手に取って調べている。
「ミニエー銃の買い付けなどで、ライフルは何回も見た」和田が言う。「しかし、このようなピストルをじっくり見た事はない。これだけ小さいといつも持って歩けるの」
「さようで」常吉が言う。「しかも、一度の装填で五発続けて撃てます。戦争では、こんな小さいピストルでは射程距離も短いし、命中率も低いし、威力も小さいので、ライフルに比べて不利ですが、敵に囲まれて斬り合いになりそうな時には、むしろこの方が便利です。近くに居る相手には射程距離や命中率は問題になりませんし。実はこのピストルの弾は、アメリカの軍隊で使われているものと比べて少し小さいのですが、軍用拳銃は弾が大きい分だけ反動が大きくて、慣れない人が使うと撃った時に手を折りかねません。この小さい弾を使うピストルの方が扱いやすいと思いましてこちらにしました。相手を殺すのではなく、手傷を負わせてひるませるだけなら、これで充分です。それに命中率も上がりますし」
「これはありがたいの」和田が頭を下げる。才谷もそれに合わせて頭を下げた。
「しかし、先ほど五発と言われたの。弾を入れる穴は六つあるが?」
「まあ、使い方は後で店の者に説明させますが、その拳銃の後ろについている撃鉄というものが弾の後ろに当たって、発射されます。それはお二方ともご存じだと思いますが、そのため、撃鉄に当たる穴には決して弾を入れないで下さい。何かの加減で撃鉄が当たって自分で自分を傷つける事になりかねませんので」
「ああ、なるほどな」二人は笑って、ピストルを包みにしまった。
「しかし、これはお代を払わなければならないのではないか」才谷が言う。「播磨屋の商売物だろう」
「はあ、今の時代、昔のままの刀、槍だけではだめだという事で、ライフルやピストルを扱うようになりました。というより、それを斡旋して下さったのが才谷殿ではありませんか」番頭二人が笑う。「そういうことで、勿論、商売物ではございますが、お二方からお代を頂こうなんてこれっぽちも考えておりませんので、贈り物としてどうぞお持ち下さい。実は佐吉さんや尾上さんたちにもお渡ししております。同じ物ですので、弾も同じです。いざというときは弾のやりとりが出来ます。なお、弾は消耗品ですから、いつでも補充に来て下さい」
「それはお代を払うのだな」才谷が言う。
「まあ、ぜひ払いたいというのなら受け取りますが、払いたくないと言えばそれで結構です」
「それで佐吉」才谷が訊く。「やはり、京では事件は多いか?」
駿河屋を訪ねてから三日ほどたった日の夕刻、才谷と和田は佐吉と食事をしている。尾上と立花は用事があって来られなかった。かなり忙しいようだ。北町奉行所の時とは違って、何かと勝手が違って、捜査の連絡や確認に時間がかかっているらしい。
「まあ、さようでございますね」佐吉が答える。「今も色町で起った人殺しの捜査で走り回っておりやす」
「ほお、色町で人殺し? それは物騒だの」和田が言う。
「そうですね。和田様はよく行かれると聞いております」佐吉が嗤う。「まあ、お茶屋さんで和田様を襲おうという者はおりませんでしょうし…」
「すぐ私たちの動きを調べたのか。さすがだの。しかしそんなに通い詰めた覚えはないのだが」
「ですが、さまざまな打ち合わせに使っておられますでしょう」
「まあ、そうだ。京のお茶屋の良いところは口の堅い事だしな」
「しかし、その人殺しだが、なぜ走り回る必要がある?」才谷が話を戻す。「あんなところで人を殺したら、すぐに騒動が起り、その場で殺した男は捕まるだろうに」
「それが殺されたのは薩摩屋という菓子舗の旦那で、花魁と食事をしようとして、突然に倒れたんです。後で調べたら、確かに赤だしに毒が入っておりやした」
「なるほど。毒殺か」和田が首をかしげる。「そうだとすると少し難しいな」
「最初はすぐらちがあくと思ったんですがね」佐吉が言う。「毒を入れる機会がある者はそれほど多くありません。そして料理人たちには殺す動機がない」
「花魁は?」
「そうなんで」佐吉が言う。「そうだとすれば後は花魁しかいない。しかし、花魁が毒薬を持っていたはずがないんです。いろいろな薬種問屋を回ったんですがね。花魁に石見銀山を売った者はおりません。それに、花魁の汁にも石見銀山が入っておりました」
「石見銀山か」才谷が言う・「毒薬としては手に入りやすい方ではあるが、まあさすがに花魁に売れば、店も覚えているだろう」
「それで、石見銀山を買った者を調べてみました」佐吉が言う。「まあ、それほど多くはなかったのですが、一人だけ薩摩屋に恨みを持っている者を見つけました。ただ、幸三というその男は、その日は一日、務めている店にいたという証言がとれています。石見銀山をなぜ買ったかという事については、ネズミ退治だと言っておりました。」
「薩摩屋を恨んでいるというわけは?」才谷が訊く。
「幸三は、元萩屋という菓子舗の番頭だったんですが、その萩屋が薩摩屋のおかげで潰れてしまったんです。どうもヤクザを使ってかなりひどい嫌がらせをやったみたいで」
「萩屋はお上に訴えて出なかったのか?」和田が訊く。
「それが、薩摩屋がすでにお役人に媚薬を嗅がせた後だったらしく、門前払いを食らったそうです」
「京の旗本は尾上殿たちとは大違いだな」才谷が言う。
「ええ、私どももそれを聞いて唖然としましたが、金で裁きを曲げる捕り方の役人は多いようです」
「それと、実は死因はさっきも言ったように毒なんですが、皆が戸惑って右往左往している間に、いつの間にか心の臓に簪が刺さっておりました。前のめりに倒れたので、背中からですね。さらに、盆の窪に按摩さんが使う鍼が刺さっておりました。みなゴタゴタしておりましたから、人に見つからないように刺す事自体は難しくありません。そこに居た者全員が容疑者です。ただ、殺人の犯人かといえば、相手は死人ですからね」
「えらく、念入りだの」才谷が何か思う事があるような感じで言う。「その簪は花魁のものか?」
「それがそうではないので」佐吉が即答する。「平吉という手代が買ったものということまでは突き止めました。尋問すると好きな女にやったということで、確認を入れたところ、問題のお茶屋のお貞という下女の女である事が分かりました。下女は「確かにもらいました。大事な物ですから大切にしまっておいたんですが」と言いながら、箪笥の引き出しを開けて、「あれ、無い。誰かに盗まれたのかしら」と言っておりましたが」
「その下女がやったのではないのか?」才谷が訊く。
「いや、それが、その時には下女はやり手婆のところで仕事をしておりましたので、現場には行っておりません。平吉はその日は店の用事で一日店にいた事が分かっております」
「鍼の方は?」和田が訊く。「それこそ犯人は鍼灸師以外無いと思うが」
「それが、その日、鍼灸師、犬飼源というふざけた名の男ですが、実はその日にその茶屋におりまして。ただ、事件の申しております時、自分は鍼灸師で医者ではないからと言って、死体を調べる事を拒否して、そのままその部屋で芸妓と酒を飲んでいたそうです。あとで鍼の事を聞いて、自分の鍼である事を認めたものの、その日は茶屋遊びをするのに鍼を持っていかなかったと申しております」
「まあ、そうだの」才谷が言う。
「どういうことだ」と和田が首をかしげる。
「鍼灸師は、何かあった時のために鍼を常に持って歩く者もいる。しかし、お茶屋になんか持って行ったりすると、芸妓や下女たちにせがまれてただ働きをさせられる」
「なるほど」和田が笑う。「しかし、花魁に頼まれてという事もあるぞ。鍼治療をだしにして、花魁の裸に触れるかもしれん」
「まあ、花魁ともなると、下心のある鍼灸師は寄せ付けませんので」佐吉が苦笑いしながら言う。
「では、その鍼は鍼灸師の家から盗み出したという事になるな」才谷が言う。「その茶屋と鍼灸師の両方に関係のある者はそれほど多くないと思うが」
「実はその茶屋の芸妓の中にその鍼灸師にかかっている物がおりまして、珠藻と言うんですが、その日、犬飼は珠藻と酒を飲んでいたんです。珠藻もそのまま部屋にいたそうです」
「では二人はこの事件と無関係だの」和田が結論づける。
「この前の薩摩屋殺しは迷宮入りだそうだな」
才谷が佐吉に訊く。才谷と和田が遊びに行くという名目で、花魁と話しをするために例のお茶屋に足を運んだが、尾上と立花も同道するという無粋な結果になった。これではついでに御茶屋遊びというわけにもいかない。
「さようで」佐吉が神妙に答える。
「まあ、東御役所にもまともな与力はおります」尾上が話しを引き取った。「薩摩屋は鼻つまみでしたから、与力の何人かは、「お上の代わりに裁いてくれた者をわざわざ裁きの座に引き出すことはない」とむしろ迷宮入りにせよと言わんばかりでした。薩摩屋から賄賂を受け取っていた与力たちは苦い顔をしていますが」
「この度は花魁も大変だったな」尾上が言う。「お調べの間、いろいろいやな思いもしただろう。申し訳ない」
「いえ、尾上様や立花様からは本当に親切にして頂き、お調べでどんないやな思いをするか心配していたのがまったくの杞憂でありんした」花魁は本当に感謝しているという感じで答えた。
「まあ、これでこの事件の捜査は終了となる」立花が言う。「花魁もこれで安心だの」
「本当にこれで終わりでござんすか」
「ええ、これで終了という事になりました」佐吉が答える。「東御役所の記録には残りますが。しかし、これで萩屋の旦那も浮かばれますな」
「萩屋の旦那?」花魁がびっくりしたように声を上げる。目には涙が浮かんでいる。
「二年前だそうですね。萩屋さんが花魁を身請けしようとしていたのは」佐吉が淡々と話を続ける。「それを妬んだ薩摩屋が萩屋さんにヤクザを使った嫌がらせをし、旦那は大怪我をし、店が潰れ、その話はなくなってしまった。花魁はさぞかし無念だった事でしょうなあ。お察しいたします」
「その後、当てつけのように薩摩屋が花魁を呼んでは口説いていたそうですね」尾上が口を挟む。
「ええ」花魁がうなだれながら答える。「本当にいやでございました。でも、やり手婆は薩摩屋に媚薬を嗅がされて、わちきに無理強いを。あの男が抱こうとする度に体中鳥肌が立つ思いがしました」
「いろいろ調べてみますと、この件に関わった人たちは皆、萩屋さんにお世話になっているんですね」佐吉が言う。「本当にいい人だったようで、例えば犬飼さんが鍼灸院を出す時にずいぶん面倒を見たらしいですね」
「ええ、開業の資金を貸してくれたと聞いております」花魁が言う。「しかも、そのお金を返そうとしても受け取ってもらえなかったとか」
「萩屋さんが亡くなって、しなくても良い苦労をした人もいるようですね」佐吉が言う。「幸三さんや平吉さんは、まあすぐに他の店に雇ってもらえたようで、お給金は下がったものの、生活に困るような所まではゆきませんでしたが、萩屋のお嬢さんなどはずいぶん苦労をなさった」
「ええ、幸三さんや平吉さんが何かと気を遣ってくれるのですが」花魁は言う。「まだ二人とも新しい店では給金も低く、出来る事は限られておりますし」
「それで仕方なくお茶屋で働くようになった」
「それはつらいな」才谷が口を挟む。
「ええ、お貞さんも、それまでした事もない掃除、洗濯などする羽目になり、やり手婆にいじめられながら、でも涙をこらえて頑張っております。しかし、「お貞さんはまだましで、身を売らなければならなかった者もおりますよ。珠藻さんは元は萩屋に努めておられたのですが、実は平吉と結婚する予定だったのです。それが、萩屋が潰れて平吉が職を失った時に、平吉を助けるためにみずから苦海に身を沈めて、その代金を平吉に渡したそうです」
「今回の事件には、いくつかの興味深い点がございましてね」佐吉が言う。「まず、毒、簪、鍼の三つの方法のどれも、凶器を持っている者は現場に居なかった事がはっきりしており、それを使って薩摩屋を殺せた者は、それを持っていない」
「なるほど」才谷は佐吉がほのめかした謎解きを理解したようで、こっそり笑う。
「しかし、凶器を持っている者が殺した者にそれを渡す事は可能だという事だの」尾上が言う。花魁の顔が少し曇る。
「毒で死んだ者に、簪や鍼でダメ押しをする」佐吉が続ける。「これは何か恨みを持った者の仕業だという事はすぐ想像がつきます」
「なるほど」和田がうなずく。彼も真相に気がついたようだ。「その者たちが打ち合わせをしていなければ、毒、簪、鍼とが同時にそろう事はない。犯人が一人ではなければ、この事件に何も謎はないということだの」
「まあ、しかし迷宮入りで終わった事件を蒸し返すつもりはない」顔を真っ青にする花魁に尾上が優しく話しかける。「あの腐りきった東御役所の連中にはうんざりだしな」
花魁は尾上の温情についに泣き出した。
「薩摩屋が死んで、もう賄賂が入ってこないと知った途端にこの事件に興味を失うような連中だしな。東御役所でもまともな連中は、「ざまを見ろ。自業自得だ」とせせら笑っている」
「ついでに分かった事がある」立花が言う。「薩摩屋は菓子舗の仕事の裏で御法度の抜け荷買いをやっていた。東御役所の与力で金をもらってそれを見逃していた者は切腹の上お家断絶となった。まあ、それも二人だけだ。それ以外にも抜け荷買いを知っていた者はいたが、お金はもらっていないという事で、きついお叱りで済んだようだ。お奉行様も甘い事だが、まああまり厳しい処置をすると、自分も上司としての責任を問われかねないのでな」
「あの花魁の名前をご存じで?」
お茶屋から出て、才谷、和田、佐吉の三人は居酒屋に入った。しばらくの雑談の後で佐吉が言い出した。
「名前?」
「ええ」佐吉が嗤いながら言う。「千早っていうんでさあ」
「それがどうした」和田がいぶかしげに訊く。
「あ、百人一首か?」才谷が笑う。
「そうでさあ、千早振るです」佐吉が言う。「千早が薩摩屋を振ったのが、この事件の発端です」
「そんな落語があったな」
「そうなんで」佐吉が嗤う。「実は千早の本名が登和でして」
「それは本当か」才谷が唖然とした顔をしている横で、その話を知らない和田が訳が分からないという顔をしていた。その和田の顔を見て、二人がますます笑う。
「まあ、和田様」佐吉が言う。「和田様は真面目なのが取り柄でございますし、言って良いのかどうかよく分かりませんが、たまには寄席にでも行かれてはいかがでしょう。町人たちの暮らしや人情を知る事も大切だと思いますし」
「そうだの」才谷が同意する。「そうしたら、町人のお内儀がどんなに強いか分かる。武士の世界では火の玉を食って、男が偉いという事になっているが、世間一般では夫婦の間で実際の権力を持っているのがお内儀だということがよく分かるぞ」
「ええ、女尊男卑でさあ」佐吉が笑う。「男は主人と呼ばれてはいるが、実際には女将さんが許さなければお小遣いもままならない。常吉さんのところでも、あのお内儀がおられるから持っているんでさあ」
「そうだの」和田も認める。「常吉がお内儀に頭が上がらないのはよく分かる」
三人で大声で笑ったものだから、その隣で酒を飲んでいた町人たちが何事かと振り向いた。
「いや、落語の話をしておりまして」佐吉があわてて言い訳する。
「そうですか。いや楽しそうに話をしておられて何よりです」大店の番頭らしい男が笑いながら徳利を差し出す。「まあ一杯いかがですか。この店の酒では、これが一番美味いんですが」
「いや、ありがたい」才谷が杯を差し出す。
「しかし落語は良いですな」その町人が話し出す。少し酔っているようだ。「私はある店で番頭をしておりますが、百年目という落語が大好きで。来年のれん分けをして頂ける事になっておりますが、あの話に出てくる旦那さんみたいでありたいと」
「落語は、教師でもあるんですな」和田が訊く。
「そうとも」才谷が言う。「あの百年目に出てくる番頭さんは模範になりませんか?」
「それは、下には厳しく自分には甘いという上司は店を腐らせますので」
「なるほど」才谷が感心したように言う。和田は百年目という落語を知らないので取り残されている。
「和田様」佐吉が言う。「百年目という落語を知らなければ今の話しはまったく分からないと思いますが、まあ、機会がありましたら寄席にもお寄り下さい。と言っても、演題はその日の落語家の気分次第ですから、いつ百年目という話しに出会えるかは分かりませんがね。まあ、演題としては、前座や二つ目などは手が出せない、真打ちでもかなり認められた人でないとできない話でもありますし」
「まあ、こんな世情で、寄席も閑古鳥が鳴いているような状況で、落語家の師匠たちも生活が苦しいようです。私の店の旦那なども贔屓の落語家をお茶屋に呼んで話をしてもらうなど、少しは師匠たちの生活が立って行くように心がけております」
「そうか」和田がため息をつく。「京の現状は、町人にとっては…」
「いつまで頑張れるか、まず一寸先は闇といういろはがるたの通りですよ」
「佐吉」才谷が隣を歩いている佐吉に言う。「京はひどい状況だの」
「そうなんで」佐吉が頷く。「早く元の平穏な時代に戻って欲しいですが、むしろ悪くなる一方です」
「そうだの」才谷が嘆く。「良くなる兆しは全くない」
「特に長州が不穏な動きをしているようで、京都所司代も長州の動きを隠密裏に探っております。来島様という過激な人物については、特に警戒しているようで、その方と関わる者は、来島様に賛成する人、反対する人を問わず、監視の対象になっております。新撰組にもその情報は回っておりますから、くれぐれもご注意下さい」
「いや、ありがたい忠告だが」和田が笑う。「佐吉がそんな事を私に忠告したという事は、京都所司代からは利敵行為と見なされるのではないか」
「まあ、たまたまよく知っている間柄だったので、尊皇派の情勢を探るために和田様に近づいているという事になっております」佐吉が真面目な顔をして言う。「情勢が変われば昨日と逆の命令が下るようなお上に自分の判断を任せておれば、いつ上司に陥れられるか分かりません。それより真面目に生きている知り合いを信じる事の方が大切だと思っております。私どもはただ庶民が理不尽な事に出会うような事を一つでも減らせればと思って動いているだけです」
「それでこの度も千早花魁に肩入れをしたわけだの」才谷が言う。
「庶民の中にも武士以上に義侠心のある者はいます」佐吉が言う。「和田様が今通っておられる芸妓もそういう人でしてね。和田様も中々人を見る目がおありになると尾上様が言っておられました」
「佐吉殿は和田君のなじみまで把握しているのか」才谷が笑う。
横で和田が顔を真っ赤にしている。
「そこまで調べがついているとは」
「ですから、和田様は京都所司代の監視対象なんですって。本当にお気をつけなさいまし。ピストルは常時持ち歩き下さい。また前に言った駿河屋の籠脱けなども必ず覚えておいて下さい」
「それで駿河屋に迷惑がかかっては困るがの」
「いや、駿河屋もそれぐらいお二方に恩を受けておりますし、駿河屋さんも腹の据わった方ですから」
「ありがたいことだの」和田がうなずく。
「生きていてこそですよ」佐吉が言う。「生きている間は、まだ何かやらなければならない事をお天道様に預けられているという事です。何かあった時に大義のためには、逃げる事も恥ではありません。死に急ぎなさいませんように」
「ありがとう」和田も才谷も頭を下げた。「肝に銘じて覚えておこう」
「私は明日江戸に立ちます」佐吉が突然言う。「お二方にまた会えるかどうか分かりませんが、どうぞお達者で」
「そうか。それは寂しくなるな」二人は沈んだ声で答える。「尾上殿や立花殿も帰られるのだな。よろしくお伝え下さい。また会いましょう。いずこかで」
そして、佐吉は二人と別れた。
(完)




