猿の佐吉人情噺02
猿の佐吉人情噺
2.死体は語る
◎
「才谷様。食事に誘って頂きましてうれしいんですが、本当によろしいんですか」
佐吉が訊ねる。
「いや、いつも美味い店を教えてもらっているのに、親分をおいて自分だけで食べに行くのは申し訳ないのでな。たまには一緒にと思っただけだ。まあ、あまり恐縮されるとこっちも困るので、楽しんで下さい。親分の勧める店なら、さぞかし美味いだろうし、拙者も楽しみです」
「そう言ってくださるとありがたいですが、最近、鰻もずいぶん高直になりましたのでね」
「そのようですな」才谷がうなずく。「昔はもっと安かったらしいが」
二人がとりとめのない話しをしながら歩いていると、突然、佐吉が足を止めた。前から歩いてきた浪人が知り合いのようで、才谷もその横で少し離れて立ち止まった。
「これは、センセー。こちらに何か御用事で? いつもなら、いつもの場所で砂絵を描いておられる頃ですが」佐吉が訊ねる。
「これは佐吉親分。いや、昨日少し棚ぼたのお金が入ったので、砂絵の方は少しさぼって、何か美味いものをと思って出てきたのだが」
「そうですか。私どももこれから食事にと歩いていた所なんですが」佐吉は才谷の方に振り向いて、少し言いにくそうに言う。「才谷様、実はこのご浪人は神田のなめくじ長屋という所に住んでいるお方で、お名前は私も実は存じ上げないのですが、長屋の皆からはセンセーと呼ばれていて、なかなか人望のある方なんで、よろしければ同席させて頂いてもよろしいでしょうか。この方の分は私が出しますので」
「いや、親分の知り合いなら、同席して頂いて何の問題もない。むしろこちらからお願いしましょう。勘定も拙者が出しますので。今の話を聞いただけで、なかなか一筋縄では行かない方のようだから、面白い話が聞けそうだし、楽しみです」
「それはありがたい」センセーは悪びれずに言う。「親分と一緒なら、日頃は入れないような店にも入れるので」
「日頃は入れないとは」才谷が不思議に思って聞く。
「私どものような尾羽打ち枯らした浪人など、ちょっと格式の高い店だと出入り禁止ですよ」センセーは悪びれずに言う。「親分と一緒なら、歓迎はされませんが、お断りもされませんし。ところでどこに行くおつもりでしたか」
「あの、森川という鰻屋で」
「ああ、あそこですか。それは、私一人では門前払いの口ですな」
「なぜ、センセーと?」
鰻屋は客に聞いてから作り始めるので料理が出てくるまでが長い。三人で話しをする時間は充分以上にあるが、才谷がまず訊いたのはそれだ。
「いや、それは長屋の連中が勝手に言い始めたことで、拙者は寺子屋の師匠でも、心学の先生でもありません。野原で砂絵を描いて喜捨を頂いて暮らしているただの貧乏な大道芸人ですよ」
「砂絵?」
「それがね」才谷が怪訝そうな顔をしたので、横から佐吉が口を挟む。「なかなか大した物でしてね。様々な色で染められた砂を使って絵を描くんですが、その描き方というのが、砂を握った手のすき間から落とすというやり方で、しかも注文を受けて何でも描くというもので。センセーは絵筆を持っても充分に食べて行けるだけの絵が描けるはずなんですがね」
「ほお、それは面白いな。一度見せてもらいに行こうか」
「それは歓迎しますよ。いつもだいたいは筋違御門の近くの八辻ヶ原でやっています。お分かりだと思いますが、雨で土がぬかるんでいる日や風の強い日は出来ませんので、晴れた日に限りますが。おひねりは一文で充分ですので」そう答えてから、センセーは改めて佐吉に訊いた。「それで、猿の親分、この方は?」
「いや、ひょんなことから、関わりを持つようになってね。才谷様という土佐の郷士でして、私のような者にも隔てなくお付き合い下さる奇特なお侍さんなんです。今日は、日頃美味い店を教えてもらっているお礼と言ってお誘い頂いたという次第で。まあ、下駄常とセンセーのような間柄と思ってもらえれば結構です」
「親分、下駄常とは?」才谷が訊く。
「私と同じ渡世をしている目明かしでさあ」佐吉が答える。「最近、下駄常が急に大手柄をたてるようになって、皆不思議がっているんですが、私は知っております。裏で、このセンセーが下駄常を助けているってね」
「佐吉親分」センセーは苦笑いをしながら言う。「どうしてそれをご存じで」
「なに、あの下駄常にそんな才覚はない。そう思って調べてみれば、すぐに分かりました」
「これは親分も隅に置けませんね」
「下駄常というのは、顔が四角いとか、本業が下駄屋だとか?」才谷が訊く。鰻はまだ来ない。
「いや、そのどちらでもなく、下駄新町に住んでいる常五郎だからで」
「そう言えば、猿の佐吉という二つ名についても聞いたことがないな」才谷は思い出したように言う。「親分はなかなかの美形で、猿というのはちょっと気の毒に思うのだが」
「それは顔ではございませんよ」佐吉が答えるより前にセンセーが口を出す。「佐吉親分は、十手、捕り縄ばかりでなく、武術に優れた才をお持ちで、実は忍びの術の心得もあって、特に身の軽いこと猿のごとしということでついた二つ名です。うちのなめくじ長屋のマメゾーとどちらが上手いかというぐらいで」
「センセー。それはいけませんや。私などとてもマメゾーさんと比べられるような者ではございません」
「マメゾー?」才谷が訊く。
「いや、センセーの仲間で、身の軽い軽業師。やはり大道芸をして暮らしております。これもなかなか素晴らしいもので、マメゾーの軽業、手妻といえば、もう天下一品で、特に人気なのがお手玉でして。それも、お嬢ちゃんがするかわいいお手玉と違って、こちらは包丁と大根とか、重さも違えば、一歩間違えれば手を切る道具を使ってやるお手玉で」
要するに蛇繰輪具の名人ということらしい。
「ほお。佐吉親分は中々に付き合いが広そうですな」
「それはそうです。そうでなければ聞き込みなど出来ませんから」
「しかし、私が忍びの術をたしなんでいるというのは、どこからお聞きになられたのでしょうな? さすがセンセーというか、よくご存じで」
「忍びの術とは、どんな物なのでしょうか?」二人が当たり前のように話題にしているので、才谷が訊く。
「それは、昔、戦国の世で、草とか乱波と呼ばれて、いろいろ敵の事情を探るために使われていた人達の間で伝えられていた武術です。あまり表に出ませんので知られておりませんが、長い歴史を持つ武術で、いにしえには遁甲術と呼ばれていたものです」
佐吉の言葉に、センセーは頷く。
「武士の表芸の剣術とはまったく異なるものです。私どもが相手にするときに、いつもの道場での試合のような気持ちで対峙すれば、まず瞬時に負けてしまうでしょうな」
「それは、それに対抗する技が、剣術の工夫の中には入っていないということですか」
「まあ、その通りです」センセーは少し真面目に答える。「まあ、その中でも表芸に近いのが手裏剣ですが、これも武士の使う手裏剣とはかなり違うもので、変わった飛び方をします。火薬の取り扱いにも長けており、これは御法度ですが、鉄砲の技も伝えられていると聞いております。また独特の体術があり、猿という二つ名はそこから来ているわけですが、常人には考えられないような技を持っています」
「それをどのように習得されたのでしょうか」
「忍びの術と言えば有名なのは伊賀の国ですが、ひょんなことから仲良くなった伊賀同心から教わりました。と言っても、どんな技があるかということを聞いただけで、その話しを頼りに自分で工夫してみただけなのですが、その伊賀同心からは、まあ間違っていないというお墨付きをもらいました。体術については、戦国の時代に、ある伊賀者がたまたま助けた下柘植の木猿という忍びに教わったものを、その家で代々受け継いできたものだということで、どの伊賀者でも知っているというものではないようです」
「面白いな。助けたというのは? 普通、伊賀者はそういうことをしないだろう?」センセーが訊く。
「そこなんですがね。ある時に、ある武家屋敷に忍び込んで、なにか密書かなんかを奪って逃げたらしいんですね。何人もの服部家の下忍が追いかけたんですが、たった一人に振り回されて、かなりの者が手傷を負ったそうです。しかし、まあ多勢に無勢で、徐々に追い詰められていたところに、居合わせた伊賀同心のご先祖様が、こんな優れた術者を殺させるのは忍びないとわざと見過ごしたらしいんですね。ばれれば切腹ものですが」
「なるほど。そういうこともあるのか」才谷が感心する。
「まあ、それだけその下柘植の木猿という忍びの腕がすごかったということでしょうな。というより、これだけの忍びだから、疲れ切っているところを捕まえることは出来ても、自分も無傷ではおれないと思案した結果かもしれません」
「しかしそれで猿の佐吉か。その術も一度見せてもらわなければならんな。道場での試合でどれだけ強くなっても、それだけで無敵というわけでは全くないという事だの」
「しかし、才谷殿はかなりの腕前とお見受けするが」センセーが言う。
「そうなんで。桶町千葉道場でも五本の指に入るような腕前だと聞いております」佐吉が誇らしげにいう。「千葉道場の若先生のお墨付きでさあ」
「それはすごい」
「いや、そういうセンセーこそ、かなりの腕前とお見受けするが?」才谷が言う。
「拙者の腕前ですか。竹光を指していることからでもお分かりでしょう。人一人切れませんよ」
「佩刀が竹光であることは歩き方から分かっておりましたが、しかし、センセーならその竹光で人を切ることが出来そうに思いますが」
「ただの貧乏浪人を買いかぶりすぎですよ」
そこに鰻が運ばれてきた。
「いや、本当にありがとうございました。久しぶりに美味いものを食べさせて頂きました」才谷がお礼を言う。「さすが佐吉親分ですな。中々に美味でありました。良い店を紹介して頂きました」
夏の暑い中、夕暮れ時となり、ようやく少し涼しくなってきた頃、食事を終えた三人は川端の道を歩いていた。ふと立ち止まったセンセーが、河原に降りて行く。すぐに佐吉が続き、少し遅れて才谷がその後を追った。
「どうかしましたか」才谷が訊ねる。
「へえ、野良犬の様子がおかしかったもので」センセーではなく、佐吉が答える。
センセーは逃げた野良犬がいたところにかがんで、かなり茂った草を分けて、何かをのぞき込んでいる。
「これは匕首でグサッとやられたな」
才谷がその場に着いた時には、センセーと佐吉が死体を検分していた。二人ともほぼ同時に、河原でうなる犬の様子を見て、即座に何かあると見たのであろうが、さすがだなと才谷は感心して後ろからのぞき込んだ。
「あ、これは夏目様」佐吉がびっくりしたように叫んだ。
「知り合いか」才谷が聞く。
「ええ、北町奉行所の与力です」佐助が答える。「与力の方が殺されたとなると、これはただでは済まない。大変な事態です。番屋に報告に行ってきますので、ここで少し見ておいて頂けませんか。なに、すぐ戻って参ります」
「分かった。しかし、私は良いが、センセーはここにはいなかったことにした方が良いのでは?」才谷が応じる。
「そうですな。センセーには、私が戻ってきてから、ここを離れてもらいやしょう」
◎
「それが、少し壁にぶつかっておりましてね」佐吉が言う。「この件を担当することになった尾上様が、犯人は博徒の黒岩の親分に違いないと目串を指して、調べ始めたんですがね」
数日後、三人はもう一度、森川に集まった。今回は与力の尾上介三郎も加わった。佐吉がセンセーの知恵を借りたいと思って、場を設けることにしたのだ。才谷の方は、ただの野次馬のつもりだ。
「その二人の間で何かあったのだの」センセーが顎に手をやりながら言う。
「そうなんです」尾上が答える。「実は夏目殿はあまり評判の良くない、少々問題のあるお方で、賄賂をもらって犯人を見逃したり、気に入らぬ町人に無実の罪をでっち上げて牢屋に放り込んだりしていたのではないかという疑いがあります。そのような冤罪で子分の一人を逮捕された黒岩の親分は、その夏目様のことを恨んでおりましてね。どうも夏目殿の悪行の証拠を握っていたようで、いざとなれば奉行所に駆け込む積りだったようです。それで、夏目様はなんとか黒岩の親分を亡き者にしようといろいろ手を打っていたようなんです」
「それで、黒岩の親分を襲ったところが逆に殺されたという筋書きか」
「私どもも、才谷様の今のその筋書きを思い描いて、黒岩の親分を探ってみたんですが」
「黒岩の親分に夏目様を殺せたはずがないという証拠があったのだな」センセーが面白そうに言う。
「そうなんで」佐吉が言う。「動機も、凶器も、状況もすべてそろっている。ただ、夏目様が殺された時刻に、黒岩の親分は、とあるお寺で賭場を仕切っていたそうなんです。その賭場で少しもめ事が起り、親分が間に立って収めたというれっきとした証拠がある以上、親分が殺せたはずがないということになるんでさあ」
要するに鉄壁の有場異があるということだ。それでは黒岩の親分を捕らえても裁判を起こせない。
「夏目様の方は、九つにお客人が来ておられて、八つに帰られました。その後、少し用事があって出ると言われて、外出されたのが暮れ六つですから、死体が発見されたのがそのすぐ後ということになります。その時刻は、賭場で騒動があった真っ最中なんです」
「なるほど」センセーはそれにうなずいたが、なにか話しに納得出来ないような風情であった。「思いついたことはあるが、少し確かめなければならないことがあるので、佐吉親分、長屋の連中を使って少し探ってみる。話しはその後でもう一度ということにさせて欲しい」
「探るんだったら、私がやりますよ」
「いや、探る相手は博徒の親分と奉行所の与力の家来だ。奉行所の者が探るのは少し難しかろうと思う。さて、話が終わったので、今日の所は鰻を楽しませてもらおう」
「才谷様は、あの時までに死体をご覧になったことはおありかな」
センセーが才谷に訊く。尾上と佐吉は奉行所へ帰った。二人は歩きながら話しているのだが、センセーには何か考えていることがあるようで、なかなか手の内を見せない。少し沈黙した後で、センセーが突然訊いてきた。
「ありませんな」才谷が答える。「真剣を持って人と対峙したことはありますが、どちらかが死ぬまでという試合をしたことはありません」
「そうですか」センセーはうなずいた「それでは分からなくて仕方がないですな。しかし、佐吉親分はそうではないはずなんですが」
「それは目明かしという仕事をしておれば、否でも応でも死体を検分する機会はありましょうな」
「まあ強盗殺人といった死人が出るような犯罪というのは、実際にはそれほど多くないようですが、水死とかその他の事故とかで死体を検分する機会は多々あると思います。ですから、今の話しでも、少しおかしいのは、佐吉親分がある事に気づいているはずなのに言わないという事なんです」
「佐吉親分が何か企んでいるという事ですか」
「そういうことです」センセーは難しい顔をして言う。「ですから、この件は実際に何があったかを知る事はそれほど難しくないと思いますが、その後、それをどう収めるかという事では、難しい事がありそうですな」
それっきり、センセーは口を閉ざしてしまった。
◎
三日ほどして、与力の尾上から連絡があり、先の四人が集まった。今度は、尾上の行きつけの船宿が指定されている。その船宿が選ばれているという事は、他言をはばかる話し合いがなされるという事だと佐吉は知っている。才谷もセンセーも、その緊張を感じ取っているようだ
「結局、この件は、これ以上探るなとお奉行から直々の命があった」
「それが良いでしょうな」センセーがあっさりと言う。
「このたびはセンセーのお働きによって真相が明らかになったものの、それをそのまま表に出すといろいろ差し障りがあるので、この事件は迷宮入りという事にしました。お奉行様もそのような判断で、一応、真相を知るのはお奉行、私、佐吉かぎりとし、みな他言を禁ずるという事になり申した。ただ才谷殿にはお知らせしても良いというお奉行の判断で、この席を設けました。まあ、口止め料ですな」
「それは奉行所からでているんですか」才谷が面白がって訊く。
「いや奉行所の勘定方を通すわけにはいかないので、お奉行の懐から出ております」尾上が苦笑いをしながら答えた。
「へえ、お奉行も大変ですな」
「ようするに,、夏目殿が黒岩を殺すために、小細工をしたのが、問題の始まりなんでさあ」佐吉が話し始める。「自宅に九つに来るように弟を呼んで、一刻ほどしてから入れ替わって、弟が帰るように見せかけて、夏目殿が出た。目星をつけていた場所で黒岩の親分を殺そうとしたところ、返り討ちに遭ったということですな」
「多分、そういうことだと踏んで、なめくじ長屋の連中に聞き込みをしてもらった」センセーが続ける。「そうすると、九つに弟が訪ねてきたが、その時、頭巾をして、口元か隠れるような格好で来た事が分かった。それまでも内密の話しをする時にはそういう格好で来る事もあり、家来たちは誰も疑っていなかったらしい。八つに帰ったふりをして、夏目殿が出られたのだが、同じ頭巾と服装を準備していたらしく、家来たちは誰も気がつかなかった」
「用意周到なやつでさあ」佐吉が言う。「あれが、けちって、お互いの服を変えるとかしておれば、死体が弟の服を着ているという事になって、身代わりが簡単にばれてしまうところだったんですがね」
「弟はそれから夏目が帰っているのを待っていたが、二刻立っても帰ってこない。しびれを切らして家を出たんだが、その時に家来に身代わりがばれなかったのは、何も言わずにスッと出て行ったからで、弟にしたら、多分、生きた心地はしなかったろう」
「二刻の間、誰も部屋に顔を出していないんですか」才谷が訊く。
「ええ、以前に、密談の最中にお茶を出そうとした家来が非常に激しく怒られたことがあるらしく、誰も顔を出していません。まあ、それも計算に入っていたでしょうがね」センセーが話を続ける。「黒岩の親分が殺された。しかし夏目殿が疑われても、その時刻には家にいたと家来たちが証言すれば、安心だと思ったのでしょうな。その内に事件は迷宮入りすると思ったのではないかと」
「ところが、そんな小細工をしたおかげで、かえって黒岩の親分の無実を証明する証拠を作ったのですから、皮肉なものです」佐吉が笑う。
「しかし、その細工が意味を持つためには、殺されてすぐ死体が見つかる必要がありますね」才谷が言う。「そこは誰か配下の岡っ引きを使って、偶然見つけた形にするつもりだったのでしょうな」
「そうなんです」尾上が言う。「黒岩の親分はそんな事は知りませんから、別に何の工夫もしていなかった。賭場での騒動は偶然で、それがなくても賭場にいたことを証言する者は多くいる。ただ、夏目が殺された直後にセンセーと佐吉がそこを通りかかったのは黒岩の親分にとっては非常な幸運でした。それで殺された時刻がはっきりしたので助かったのですが、二・三日経ってからでは、いや次の日でも、もういつ殺されたか分からなくなりますんで、黒岩の親分は申し開きが出来なくなるところでした」
「ところで」尾上がきっちりと座り直した。「ここからが内密の話しですが、それらをすべて分かった上で、この件は不問にするというお奉行の判断です。奉行所配下の与力たる者が、ヤクザの親分を殺そうとして小細工をしたあげく、返り討ちになったなどという事が外に漏れたら、お上の沽券に関わるということで」
「しかし、夏目殿の弟はそれで納得するのでしょうか」才谷が訊く。
「そこはそれ、夏目殿の弟はそんな小細工にいやいや付き合うぐらい気の弱い男ですから、少し脅し上げておけば大丈夫ですよ」尾上がしれっと言う。「それに鞭だけではなく、飴もなめさせていますしね。公儀の特別のお計らいによって、弟に家督相続を認めるという沙汰が下りました。本来ならばお家断絶間違いなしの不祥事ですが、家督を継いだのがついこの前であったということもあり、兄は家督を継いだものの不意の病で亡くなったので、兄が家督を継いだという事そのものをなかったことにして、弟に家督を譲る話が進んでいたという形を取りました。ですから、弟がもし騒げば逆にお家断絶という事になりかねませんので、まあ問題は起らないでしょう」
「しかし、なかなか粋な計らいをされますね」センセーが感心する。
「あとは、お奉行とここにいる四人が黙っていれば、この件はこれで終わりです」尾上が言う。
「いや、あと黒岩の親分がいます」佐吉が付け加える。「まあ、黒岩の親分が自分から何か言い出すという事は無いでしょうし。センセーからも厳しく言われたようですしね。親分も、この件を伝えてくれたセンセーに感謝して、いくらか包んだようですし」
「え、それはどこから聞かれたのですかな」センセーがびっくりしている。「佐吉親分にはびっくりさせられますね。さすが忍びの心得のある方は違う」
「いくら包んでもらったのですか」尾上が笑いながら言う。
「三両ですが、こちらからお願いした訳じゃあありません。黒岩の親分の方から、これは世話になったので感謝の気持ちですと言って出して頂きましたので」
「分かっておりますよ」佐吉が言う。「センセーがときどき、そうやって稼いでいるのは存じ上げております。まあ、悪人からはともかく、善良な町人から巻き上げるという事はしない方だということも」
「まあ、お目こぼし頂ければありがたい」
要するに、ときどきこのような有配当をして稼いだ金を長屋の皆に分けて、雨の日など稼ぎに出られないときの飯の種にしているという事らしい。
「そうですな。死体を発見した時のことを黙っていて下さったのですから、黒岩の親分にしたら、感謝の他はないでしょうね」佐吉が言う。
「いや、佐吉親分も分かっていて、黙っておられましたでしょう」
「まあ、私の方は、十手を預かっている身ですから」
「何を黙っておられたというのでしょうか」才谷が訊く。
「死体を見た途端に分かりました。殺されてからどれくらい経っているのかということですね」センセーが答える。「後で、死んでから一刻ぐらいという事になり、不思議に思いました。死体の状況から見て、死後三刻は立っている。それなのに、それとは異なる証言が出てくる。これは誰かが何か小細工をしたなと分かりました。佐吉親分も気がついておられたはずですがね。何もおっしゃられませんでしたが」
佐吉はただ笑っている。
「まあ、野暮なことは言いっこなし」尾上が笑う。「私どもは何も見なかったし、聞かなかったということで。今日はここに食事を楽しみに来ただけですので、楽しく過ごして下さい。お奉行のおごりですから。めったにないことですよ」
尾上が手をたたいて、密談は終わったという事を知らせると、おいしそうな食事が運ばれてくる。
「いや、おいしそうですな」センセーがうれしそうに声を上げる。
「ここも自分一人では入れない店ですか」才谷が訊く。
「もちろん、門前払いの口ですよ」
センセーが笑って、他の三人もつられて笑う。
「もし、また食べたくなったら、拙者に声をかけて下さい」
「才谷様、そんな気前の良いことを」佐吉が言う。「さっきも言いましたが、センセーは裏でそれなりに稼いでおりますのでね。払いはセンセー持ちで大丈夫ですよ」
「佐吉親分。それは無しにしてくれ」センセーが頭をかいた。
(完)
本作品には、私が尊敬する作家の登場人物が出て参ります。その作家へのオマージュとお受け取り頂ければ幸いです。




