猿の佐吉人情噺01
猿の佐吉人情噺
1.子猫と娘
◎
「もし、お侍さん。いったい何をなさっておいでで?」
貧乏長屋の前でかがんで何かしている侍に後ろから声がかかった。侍はかがんだままで振り返ると、ゆっくり立ち上がって、手にしたものを前に突き出した。
「いま、ここを通りかかったら、子猫の泣く声がした。気になって溝を除いたら、この猫が哀れな声で震えていたというわけだ」
「そうですか。まあ、そういうことなら安心いたしました。何かあったのかと心配しました」
「この猫、野良ではないな。誰かの飼い猫が迷子になったのではないか。そうだ、私はこれから行かねばならぬところがあって、この猫の飼い主を捜しているわけにもいかん。おぬし、この猫の世話を頼むことはできぬか?」
「そうですか。まあ、それぐらいはしても良いですが」
「用事を済ませたあとでどうなったか訊きに行く。おぬし、住まいはどこだ」
「私ですか? 私は猿の佐吉という岡っ引きで、このあたりに住んでおります。ここら当たりで人に訊いていただければ、家はすぐ分かりますので」
「手間をかけるのだから、猫の餌代ぐらいはおいて行こう。これを受け取ってくれ」侍は小判を三枚出して、佐吉に渡そうとした。
「ちょっと待って下さいよ。子猫の餌代に三両なんて、そんな大金をもらえるわけがない。二朱も出せば喜んで世話をする連中なんて山ほどいますよ」子猫を受け取った佐吉は、腕に抱えた子猫をなでながら言う。
「そうか。おぬしは欲のない男だな。少なくて文句を言うのは分かるが、多くて文句を言う男には初めて会ったぞ」
侍は愉快そうに笑った。佐吉はその愛嬌のある笑顔に警戒心を解いた。
「冗談じゃない。多いにも程がありまさあ。お侍さんはお金が余って困っているんですかい」
「まあ、余っているとは言わんが、お金に困ったことはないな。長い旅の費えにと親が充分に持たせてくれたおかげで、少し余った。着いた先にはすでにお金が送られているはずだから、今これを払ったら後で困るということではないので、まあ受け取ってくれ」
「いや、受け取れませんて。有って困るものでもなし、まあ、お持ち下さい。子猫の餌代ぐらい何とでもなりますんで」
警戒心はなくなっても、人を観察する癖は無意識のうちに働いている。金持ちのお坊ちゃんなんだろう。確かに着ているものは極上の生地と仕立てだ。惜しいことにそれを無造作に着ているもので、せっかくのいい着物が台無しになっている。現に猫を溝から出すときに着いたのだろう。袴は泥だらけだ。それに気がつけば彼の旅の荷物であろう、剣道の胴着と竹刀など、それに風呂敷包みが少し離れたところに無造作に土の上に置いてある。
「江戸への旅をしてこられたんですかい?」
「そうだ。初めての旅は面白かったぞ。特に富士の山を観たときには心を動かされた」
「そうですか。それは良かった。こちらはこの江戸から出たことがござんせんでね。しかし、お目当ての場所にはまだ行っておられないのでは?」
「私は土佐の郷士で、藩邸を捜しながら歩いていて、猫の鳴き声を聞いたというわけだ。これからの住まいで、猫を飼えるかどうか分からんので、おぬしに頼んだという次第さ」
「そうですか。土佐藩邸まではすぐですんでお連れしましょう。お供します」
「それはありがたいな。よろしくお願いする」
二人は連れだって歩き始めた。佐吉が荷物持ちを買って出ようとしたが、侍はそれを断って自分で肩に担いだ。佐吉はこの気さくな侍を好きになった。これから、何度も会うことがあるような予感がした。
「お侍様は剣道がお得意なんですね」
「え? 誉めてもらって恐縮だが、なぜ得意だと思った?」
「これでも目明かしですからね。捕り物に際して相手の力量をきっちり見極めないと、命がいくらあっても足りませんや。あなた様の力量が並々ならぬものであることは、背中を見ただけで分かります。打ち込む隙がない」
「なるほどな。そう言ってもらって自信が付いた。田舎道場の技が江戸の道場でどれぐらい通用するものか心配なのだが」
「いや、あなた様なら、すぐ免許皆伝まで行くでしょう。まあ、道場にもよりますが」
「桶町の千葉道場に行くことになっている」
「桶町ですか。あそこは一流だ。それは何より。ところで桶町と言えば私の縄張りですんで、これから何かありましたらよろしく。私も千葉道場の若先生にはお世話になっておりますんで」
「そうか。それは良かった。これからもよろしく頼む」
そんな話をしている内に土佐藩邸についた。侍は門番に来意を告げると門から入っていった。入る直前に振り返って佐吉に手を振った。佐吉は桶町の家に帰る途中、そのときの笑顔を思い出して少し楽しくなった。腕の中では子猫が震えている。少し弱っているようで、急いで世話をしなければと思い、道を急いだ。
◎
「それじゃあ、お滝さん、この猫は駿河屋さんの飼い猫かい」
佐吉が、お隣のおばあさんと話をしている。
「えらく汚くなっているから見違えたけど、間違いないね。駿河屋さんでも捜していたから、連れて行っておあげよ。喜んでもらえると思うよ」
「そうかい。それじゃあ、明日にでも」
「でも、駿河屋さんも大事にしていたはずなのに、どうして逃げだしたのかね」お滝さんは、これは内緒だけれどという感じで声を潜めた。「この猫はね、下女のお志乃という子が世話をしていたんだけれど、そう言えば近頃お志乃さんを見かけないんだよ。何かあったのかね」
「それは、この猫が逃げ出したことと関わりがあるのかね」佐吉は不思議だという感じで一人つぶやいた。
次の日、猫を連れて駿河屋へと出向いた。玄関先で手渡すつもりが、お礼をしたいからと座敷に上げられた。いつもなら遠慮するところだが、下女の件があるので、好意に甘えることにした。さすがに大店だけあって、座敷に置かれている調度品もなかなかの値打ちものだと思われた。前に出されたお茶も銘品であろう。良い香りがしている。恐縮して待っていると、程なく十二歳ぐらいであろうか、良い着物を着た少女が入ってきて、彼の前に座った。
「ありがとうございました。我が家の猫を助けていただいて」少女は屈託のない声で話しかけてきた。金持ちのお嬢様ではあるが、堅苦しい感じはしない。言ってしまえば、どちらかというとお転婆の方であろう。彼の目にはそれが非常に好ましく映った。
「白がどこに行ってしまったのか心配しておりました」
「はあ、この猫は白と言うんですかい」
「はい、何か問題でも?」
「でもこの猫、黒猫でしょう」
「ええ」
「それで白というのはちょっと問題では」
「お志乃もそう言って反対するものですから、「じゃあこの猫の名前、白でだめなら志乃にする?」と言ったら、あきれて諦めてくれました」
このお嬢様はどうもいたずら好きのようだと佐吉は思った。しかし、決して不快ではない。むしろ好感を持った。
「でも、なぜ白と?」
「白なら面白いでしょう」
「それは尾も白いというしゃれですかい?」
「あ、それを分かってくれた人は初めてです」
三十を少し超えた大の大人が小娘にからかわれている図だが、佐吉は怒りよりも笑いの方がわいてきた。
二人でしばらく笑った後、佐吉は顔を引き締めて訊いた。
「先ほど、お志乃さんと言われましたが、この猫の世話係ですか」
「ええ、そうです。少し前、猫がいなくなったのですが、その時にお志乃がいなくなってしまい、心配しております」
「それは、そのお志乃さんが失踪したときに、猫が逃げ出したということでしょうか」
「ええ、そうとしか思えません。それで心配してお志乃を捜したのですが、未だに行方が分かりません。親御さんの元には返っておりませんのです。しかし、それ以外にお志乃が頼れるところなどありませんし、こちらとしても途方に暮れるばかりで。そうかと言って、町方のお役人に届けるのも、いろいろ差し障りが出そうで」
「わかりやした。私にお任せ願います。何があったにせよ、駿河屋さんにご迷惑がかからないように処理させていただきますので、ご安心下さい」
「まあ、ありがとうございます。それでこちらも安心出来ます。佐吉親分のことはこちらでもよく噂になっておりますが、いつも人情味あふれた働きをなさるということで、頼りになる方と聞いております。こちらから相談に行こうかという話しをしているところに、そちらから来て頂いて、白に感謝しなくてはなりませんね」
◎
その後、駿河屋の番頭と少し打ち合わせをして、店を出たときにはまだ明るかったが、その後、ついでにお調べのことでいくつか店を回って、家に向けて歩いて行く頃には日が暮れてしまった。人通りのなくなった川端を歩いていると、いやな予感がした。誰かがつけてきている。人目がなくなったら、襲ってくる積りかも知れない。そうは言っても、この道は夜も賑やかな大通りからは少し離れている。困ったなと思いながら、気づいたことを悟られぬように、気を遣いながら、少し足を速めた。
周りに人通りがなくなって、困ったなと思っていると、つけてきた男二人がこちらに走ってくる。覆面をしているので、最初からこちらを害するつもりで付いて来たことは明らかである。しかも、この二人の男は多分かなり腕が立つ。自分の腕では二人同時に太刀打ち出来るかどうか危ういと感じて、背筋が凍った。
「おいおい、えらく物騒だけれど、一体何事だ」
男に向き合うために振り返った佐吉の後ろから、声がした。佐吉はほっとした。この前のお侍が、覆面の男たちに声をかけたのだが、それがまたこの緊迫した状況で、ひどくのんびりした口調であった。その割に、鯉口を切ったお侍の醸し出す雰囲気は厳しいものであった。男たちが下手に斬りかかれば、一刀のもとに斬り捨てられるであろうと思われた。二人もそれを感じたのか、一人がもう一人に「引け」と声をかけると逃げていった。
「旦那。ありがとうございました」
「おや、この前の岡っ引きか。佐吉と申したな。おぬしどうした? まあ、岡っ引き家業をしていれば、恨みを買うことも多いだろうから、逆恨みで襲われることもないとは言えんだろうし、驚きはせんが」
「はあ、それが突然のことでなんとも言えませんが、どうも、旦那に預けられた猫がからんでいるのではないかという気がしましてね」
「あの黒猫か? なんか曰くのある猫だったのか?」
佐吉はお侍に事情を話しした。
「なるほど、下女の失踪とからんで何かあるのではないかということか?」
「そうなんで。なにしろ今日その話しを聞いたばかりなんでね。何か関係ありそうな勘が働くんでさあ」
「そうだな。そうだとすれば、拙者も少しは関わりがあることになるし、まあ、親分を助けることが出来たのは幸いだった。この件、少しお手伝いをさせてもらおう」
「ありがたいと言いたいところですが、良いんですかい。藩の御用がおありでは?」
「いや、剣術修行の名目で来ておるので、藩の仕事はない。藩邸に住まわせてもらっているので、半端仕事が全くないとは言えんが。まあ、やっとうの稽古をしていれば文句は言われないので、捕り物の手伝いぐらいは問題ない」
「それはありがたいですが、捕物控に書かなければなりませんので、お名前をお伺い出来ますか。まあ本名である必要はないので、岡っ引き風情に名乗る名はないということならば、適当にでっち上げて頂いても構いませんが」
「そうか。本名だと差し障りが出てくるか知れぬと言うことなら、仮名でゆくか。才谷梅太郎ということにしておいてくれ。これで土佐藩邸にも通じるはずだ。土佐で才谷と言って知らん者はおらんからな。才谷と言って訊ねてくる者がおれば俺に通せと門番にも言っておく」
「へえ、その才谷さんとどんな関係で?」
「ご本家だよ。俺の家の」
「ああ、それでお金持ちのお坊ちゃんなんだ」
「まあ分家だが、それなりに大きな店を構えている。と言っても、郷士は郷士だがな」
「郷士ってどんな地位なんです。商売をやっている武士なんて余り聞きませんが」
「佐吉は関ヶ原の戦いを知っているか?」
「まあ、講談で聞くぐらいは」
「土佐の長宗我部家は、関ヶ原で負けて、土佐一国を取り上げられた。そこをもらったのが山内家で、長宗我部家の武士たちは、山内家から弾圧を受けた。その山内家の武士たちが上士で、長宗我部家の武士たちが郷士だと言えばどういう者か分かるだろう。武士ではある。しかし領主様には拝謁する資格を持たない。様々な面で虐げられている。それが土佐郷士さ」
「なるほど、よく分かりました。要するに上士に蔑視されているわけですな」
「まあな。くだらん話しさ。上士にも下らんやつもいれば、郷士にも優れた者はいる。しかし、いかに優れていても郷士は藩政には口出し出来ない」
「それは、土佐藩にかぎらずどこでも一緒でしょう。私の知っている範囲で言えば、与力や同心はすべて世襲ですから、同心はどんなに能力があっても与力の下です。まあ、お奉行様は、奉行になれる家柄の出でなければならないとはいえ、その中から選ばれるためには、やはりそれなりの人でなければならないので、余りひどい人はなれないようですが」
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「それで、下女が一人行方不明というわけか。しかし、その二人が佐吉を切ろうとしたということなら、ただの神隠しで片付けられんな」
佐吉は上司の同心立花格之進と与力尾上介三郎の二人に、下女の失踪にからんで、覆面の男二人に襲われたことを報告している。
「ええ、あれは町人ではございません、かなり腕の立つお侍です。そんな者が絡んでくると言うことは、この件は下女の神隠しで収まるような物ではないということです」
「しかし、おかしいな。その下女の実家まで訪ねていって、そこにいないことははっきりしたんだな」
「ええ、駿河屋さんのお嬢様に実家には帰っていないと聞きましたが、念のために下っ引きを確かめにやりました。間違いありません。問題は、そうなると下女のお志乃さんが頼れそうな人がいないということなんでさあ。下手をすると誰かに殺されて、死体をどこかに放り出されているということもあり得ると思い、いろいろ聞き込みをしていますが、どこの番所でも身元不明の死体など報告されていないそうで、まあ、まだ生きているのではないかと」
「そうか。それで今はどういう手を打っている?」
「とりあえず、下っ引きには、駿河屋を見張ってもらっておりやす。怪しい行動をするもの、出入りするお侍などがおれば、報告が来るようになっております」
「まあ、それぐらいしかないかな」
与力の尾上介三郎がため息をついた。
「それとその土佐のお侍さんはどうしておられる?」
「へえ、桶町の千葉道場へ毎日かよって稽古をしておられます。なかなかの腕前で、道場の若先生に訊くと、非常に高く評価しておられました」
「へえ、あの若先生がねえ?」
「それはかなりの腕前ということですか?」同心の立花格之進が訊く。
「まあ、そういうことだ。一度、手合わせをお願いしたいものだな」
「佐吉。お前はどちらが上と見る?」立花は、尾上が興味を示したので、あえて訊いてみた。尾上介三郎はかなりの腕前なのだ。
「答えにくいことを訊きなさるんですね」佐吉が苦笑いしながら答える。「多分、道場での試合なら、その才谷様が上だと思います。しかし、実際に真剣を手にしての勝負なら尾上様に利があろうかと」
「それは尾上様は修羅場を何度もくぐり抜けてきておられるから」立花が言う。
「わからんぞ。その襲ってきた侍が才谷殿の気迫に負けて逃げ去ったのだろう? 度胸も座っているお方らしい。真剣での勝負は死を前にしてどれだけ冷静に振る舞えるかという一点にかかっている。才谷様はその点では申し分ないようだの」尾上は少し厳しい顔をした。
◎
「やあ、佐吉親分。お宅を訪ねたら御用で出かけておられるということで会うのを諦めて帰ろうとしていたところだ。ここであえてちょうど良かった」
「あれ、才谷様。何かありましたか」
佐吉はどんな用事か気になったが、それを訊く前に与力の尾上介三郎が声をかけた。
「そこもとが才谷殿でござるか? 拙者、佐吉の上司で与力の尾上介三郎と申す者でござる。こちらは同心の立花格之進。佐吉から才谷殿の話しは聞いております。今後ともよろしくお願い申し上げます」
「そうですか。こちらこそよろしくお願いいたします。今日はその方々がそろってということは何か御用の向きでもおありかな」
「いや、貴殿が関わりになった下女の失踪事件の話を聞いていて、ちょうど良い時間になったので三人で蕎麦でもたぐろうかと歩いていただけのことで。なんなら才谷殿もご一緒しませんか。このあたりに中々うまい蕎麦を出す店がございまして」
「いや、よろしいのですか」才谷は遠慮しながら訊く。「まだこのあたりに慣れておりませんので、おいしい蕎麦屋があるというのならぜひお教えねがいたいものですが」
「それならぜひご一緒しましょう。与力や同心、それに目明かしは食べ物に関しては目利きでして、おいしい店をお探しなら、佐吉に訊けばまず外れはないと思います」
四人で蕎麦屋に入った。お互いの紹介を終えて、雑談に入って、才谷が佐吉に訊く。
「佐吉という親分の家はと言って探したのだがな、ああ蛇の佐吉親分ですかいと言われた。親分、猿のだけではなく、蛇のという二つ名も持っているのか」
「それは気の毒ですよ」尾上介三郎が口を挟む。「蛇ではなくて捕り縄の佐吉というんです」
「ああ、そうですか。いや、蛇なんていうから蛇のように絡みついてくるのかと。ちょっときっぷのいい佐吉親分と合わないような気がしていたのですが」
「まあ、悪党どもには蛇のと言っているのがいるかも知れませんね。でも、捕り縄のというのは、佐吉親分の縄術がすごいからなんです。目明かしは誰しも縄術がうまいものですが、なかでも佐吉の腕は図抜けていまして」
「尾上様、そんなにからかわないで下さいまし」
「からかってなぞおらん。佐吉の縄は、私でもできたら立ち会いたくないと思うぐらいだからな。そういえば、佐吉の縄が手に絡みついてくるところは蛇のような感じがしないでもないな」
「縄術というのは下手人を縛る縛り方とは違うのですか」才谷が訊く。
「ええ。剣道や薙刀と同じく武術です。そうですな、鎖鎌の鎖と同じようなものだとお考えになれば分かりやすいかもしれません。」
「ああ、なるほど。十手が鎌で縄が鎖だと思えばいいんですな」
「そういうことです」
「捕り縄ってどんな物なんです」
「十手と捕り縄は目明かしはいつも持っております。お見せしましょう。これです」
佐吉は懐から捕り縄を取り出した。
「なるほど。しかし、それなら、この先に分銅をつけた方が扱いやすくはないですか? これでは扱いにくいでしょう」
「才谷様、それはいけませんや。そんなことをしたら相手に怪我をさせてしまいます」
「あ、相手の怪我の心配までするんですか」
「勿論です。一口に捕り物と言いましても、相手は凶悪な者ばかりとは限りません。嫌疑を受けているだけで無実の者もいるかも知れません。そんな人を傷つけては困りますので」
「なるほど。尾上殿、与力や同心など、皆この佐吉のような心がけで動いておるのですか」
「いやまあ、そんな者ばかりではありません。勿論、私どもは佐吉と同じように考えておりますが」
佐吉の縄術を見てみたいという才谷の願いで、蕎麦を食べ終わった後で四人で近くの野原へ移動した。
才谷は佐吉の前に立ち、彼のいうように刀を抜いて正眼に構えた。佐吉の手から縄が伸びたかと思うと手に絡みつきそうになったので、慌ててかわした。するといったん引かれた縄が今度は足下に飛んできた。足に絡められたら面倒なので、飛び上がってよけたが、それを見た佐吉は縄を跳ね上げてきた。中々に鋭い縄捌きで、なるほど捕り縄の佐吉という二つ名は伊達ではないと思わされた。
なんとか跳ね上がった縄をかわして、再び対峙して、しばらくして佐吉の方から仕掛けてきたと思いきや、縄があさっての方向に飛んだ。
「出てこい」佐吉の怒鳴る声がした。
「そこにいるのは分かっている。出てこい」いつの間にかそちらの方に近づいていた尾上と立花がいつでも刀が抜ける体勢でそちらに近づいて行く。立ち上がって逃げようとした侍の足に佐吉の縄が絡みついた。刀を今にも抜きそうな二人に気を取られて、佐吉の縄から気をそらしたのが命取りになった。佐吉は素早く侍に近寄って縄をかけた。
「なるほど、捕縛も中々に練達の動きだな。良い物を見せてもらった」才谷が笑う。
「貴殿も蕎麦屋から気づいておられたのか。なかなか捕り物の才がおありだ」尾上が笑いながら言う。「それで縄術が見たいという口実でこの男を誘い出して下さったこと、感謝いたす」
「いや、縄術が見たいというのも本当ですよ。しかし、先に重りのついていない縄をあのように自在に操るなど、見事な技でござった。敵に回したくないものですな」
「そうですな。拙者も佐吉の縄と対峙して勝てるかどうか自信はござらん。剣道には鎖鎌に対してどう対処するかという技は有るにしても余り充分に工夫されておりませんが、実践では必要ですな」
「まあ、剣道が刀だけを相手にしているというのは本当はおかしいのかも知れません。槍、薙刀、鎖鎌などと対峙することもあり得るわけですから」
「そうですな。まして弓など、どう相手にしたらいいのでしょうな」
四人は佐吉の家に集まった。捕まえた侍は奉行所までつれて行って、とりあえず預かってもらった。
「なにしろ、武士は奉行所の管轄外ですからな。どこの藩の者か明らかになれば、そこの藩に引き渡して、それで終わりですが、幸か不幸か何藩の武士か言いませんので、奉行所に預かってもらっています」尾上が言う。「いずれの藩の家来か分かれば、そちらに移さねばなりませんので、それまでに何とか自供を取りたいものですが」
「しかし、白状しますかね」佐吉が言う。「まさかお武家様を拷問にかけるわけにはいきませんし」
「まあ、無理だろうな。失踪した下女の件については捜査を続けるしかあるまい」
◎
「しかし、そんなところに私が同席しても良いものなのか」才谷がどう思案して良い物か分からないような顔をして佐吉に訊く。
「ええ、お願いします。実はちょっとややこしいことがありましてね。尾上様にお話ししたいことがあるんですが、少しもめかねないので才谷様に横にいて頂けたら心強いと思いまして。断られるだろうなと思いつつ、尾上様に訊いてみたんですが、「それは良い。ぜひ同席して頂けるようにお願いしてこい」ということで、ちょっと戸惑ってはいるのですが、まあ、同席して頂けると助かります。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「いや、迷惑ということは全くないし、拙者もこの件、気になっているので、お話が聞ければうれしい。それにしても、尾上殿の屋敷ではなく、駿河屋でというのが気になるが」
「そうなんで。さっきも申しましたとおり、ちょっとややこしいことになりかねない話しなので尾上様のお屋敷でと思ったら、尾上様の方から駿河屋でと言われましたもので、ちょっとどう話を切り出したら良いものか、まだ迷っている次第なんですが」
「そんなに微妙な話しなのか?」
「そうなんで。まあ、詳しい話しはあちらで」
「才谷様もよく来て下さいました」
部屋に案内された二人に尾上が声をかける。彼の横には同心の立花も座っている。二人が席に着くと、尾上が話しを切り出した。
「で、佐吉。話しと言うのは?」
「へい、あのお侍を捕らえてからも、どうせ彼は口を割らないだろうと思い、いろいろ探っておりましたんですが、実は、あの下女の志乃さんのことについて、失踪した日にお侍とお話をしていたというたれ込みがありまして」
「ほお、それは…」
「ところが、そこからが問題でして、そのしらせを持ってきた男に、そのお侍さんのことをいろいろ訊いてみたんですが、どうもそのお侍さんというのがどう考えても…」
「拙者だったというのだろう?」
尾上がにやっと笑いながら言う。横を見れば立花も笑っている。佐吉はまさかそんな展開になるとは思ってもいなかったようで、ぽかんとしている。なるほど、もし尾上に後ろめたいところがあれば修羅場になりかねないような状況で、佐吉が万一の時のために、用心棒兼何かあったときの証言者として才谷を同伴した理由は分かる。しかし、佐吉もまさか尾上があっさり認めるとはまったく思っても見なかったようだ。
「その通り。かくまったのは私で、お志乃さんは今私の長屋にいる」
「尾上様」佐吉が本当にがっくりしたような声で言う。「そりゃあないですよ。じゃあ、私は尾上様に泳がされていたわけですかい」
「まあ、そう言われると思ったし、その点については本当に申し訳ないが、事情が事情なので許してくれ。後で償いはするから」
「いや、まあ事情がおありなら償いも何もありませんが、一体どういうことなんです」
「それを話さねばなるまいと思っていたところに、佐吉が深刻な顔をして話があるということで、これはばれたなと思い、それなら才谷殿にも一緒に聞いて頂こうということになって同席をお願いしました」尾上が才谷の方に向き直って言う。
「しかし、話の中身にもよりますな。いささか他言をはばかるような話になりそうですが、同席してよろしいんですか」
「まあ、他言をはばかるというのはその通りですが、立花と相談して、才谷殿には事情を知っておいて頂いた方が良いということになりました。才谷殿は口が堅いと信じておりますし、中途半端のままで終わって、好奇心からあれはどういうことだったのかと探ろうとされても困りますので」
この件で話しをするのに同席していた方が良いということで、あらかじめ示し合わせておいたのであろう。駿河屋が入って来るのを待って、尾上が話を始めた。
「実は、あの二人の侍は、ある藩の侍でとはいっても藩の名前はご勘弁願いたいが、理財を担当していた者です」
「実は一人はこの駿河屋の番頭で、以前、藩で理財関係で問題が起ったときに責任を取って藩を離れて浪人になっています。そのときに、その藩と取引のあったこの駿河屋で雇った者です。まあ、責任を取ったと言いましても、彼が悪いわけではなく、強いて言えば藩の財政状況が悪かったのが原因ですので、雇うのに特に問題はありませんでした。むしろ殿様から感謝の言葉を頂いたぐらいで」
駿河屋の主人が横から口を添える。
「ところが、その藩の元同僚が番頭に頼み事をしてきたんですな。つまり五十両というまとまった金をある商人に払わなければならない。そのためのお金は勿論準備した上でのことだったんですが、その金が入ってくるのが、払わなければならない日の二日後に延びたんです」尾上がため息交じりで言う。
「それで、その理財係の侍が番頭に相談したんですな。相談というよりぼやきと言う方が当たっていると思います。番頭にどうにかして欲しいと頼んだわけではないらしいんですが、藩の理財方の苦労を知っている番頭さんは何とかしてやりたいと思ったんですな。駿河屋さんの金箱から一時立替えをすることを思いついた。たった二日のことだし、二日後に金が入ってくるというのは確かだしと、つい手を出してしまったんです」駿河屋もため息交じりだ。
「運の悪いことに、五十両の払いを済ませたその日に、その話を二人がしているときに下女のお志乃さんがそこをたまたま通りかかった。密談を聞かれたと思った二人は、真っ青になったものの、お志乃さんを二日の間何とか閉じ込めておけば大丈夫だと思い、捕らえようとしたが、お志乃は逃げる、二人はそれを追うという形になった。そこにたまたま来合わせたのが拙者だったというわけだ」
「実は、五十両足りないということは、その日の夜には分かっておりました。番頭さんも言ってくれれば良かったんですよ。喜んでお立替えしたのに」駿河屋がきっぱりという。「私ども、幸いにそれなりの財産を持っております。娘がおりますから、娘にはそれなりの物を残さなければなりませんが、まあ、私どもはそれほど贅沢をしたいと思っておりませんし、あの世に財産を持って行けるわけでもありません。それが人助けになるのなら、喜んで出すつもりでおります。お世話になっている藩の苦境を救うためなら五十両が百両でも五百両でも惜しくはありません」
「そういうことで大事にしたくなかったので、駿河屋さんと相談してお志乃さんはこの件が片付くまで我が家でかくまうことにして、その後、番頭さんとお話をするつもりが、猫のおかげで話しがとんでもない方向に向かってしまったということさ」尾上が苦笑いする。「ともあれ、二人を奉行所につれていってから、お奉行に話をつけて、二人がどこの藩の者か、何をしたか、一切記録に残さず、横領の件も駿河屋さんの意向で立件しないという形で収めた」
「横領と言えば横領であることには間違いありません。しかし、二人の藩を思う気持ちを汲んで、この件は握りつぶすつもりです。すでに藩の方にはささやかながら援助を申し出ておりますし、二人に関しては寛容なお裁きをと申し入れております」駿河屋が言う。
「そこで相談なのだが」尾上が言いにくそうに話し始める。「二人の処罰について、藩の方では駿河屋さんの意向に添うようにという形で話しがまとまっておる。二人はこれだけの騒ぎを起こしたのだからけじめはつけなければならないと、腹を切ると言っておられるのだが、佐吉はどう思う? 才谷殿は?」
「なにか許してやって欲しいという気持ちがひしひしと伝わってきますな」才谷が笑いながら言う。「腹を切ってもらって、誰かが助かるわけでもなし、お構いなしで結構ですよ」
「私も切腹まではと思いますが、何かけじめは必要でしょうな。十両盗めば首が飛ぶというのが相場ですし」佐吉が無罪放免には反対する。「それに私は斬り殺されそうになっておりますからね」
「まあ、それもそうだ。理財方の役人は藩を離れて浪人になった上で駿河屋さんに雇ってもらう。番頭さんと二人で駿河屋さんと藩のために頑張ってもらうというのはどうだろうか」才谷が提案する。
「それは、ようございます。この駿河屋にとっても良い話ですし」
「それじゃあ、そういう所で手打ちにしましょう」尾上がうれしそうに言う。「それでは罰が軽すぎるという藩の方がおられれば、私どもから話しはいたします。この件が表沙汰になれば困るのは藩の方ですから」
「まあ、藩に援助を申し入れられた駿河屋さんの意向だと言えば、文句は出ますまい」立花が横から口を添えた。
「しかし、駿河屋さん。大盤振る舞いですな」佐吉が言う。
「いや、先ほども申しましたように、あの世へ財産は持って行けませんのでね」駿河屋が言う。「心学の先生のご講義を聞きますと、働くのは自分の修業であって、その結果としての儲けは自分だけでむさぼっていいものではないと言われ、良い言葉だなと思いましてね。とは言っても、相場を無視して自分の所だけ奉公人の給金を上げたり、商品を安くすれば、他の商人さんに迷惑をかけることになりますので、お祭りに寄付をしたり、お寺さんに寄進したり、親のない子供たちに食事の世話したりといった形で世間に返して行ければなと思っております」
「駿河屋さんは奉公人に良くしてくれるということで有名でしてね」佐吉が言う。「口入れ屋では仏の源兵衛さんといわれておりやす」
「ああ、そう言えば佐吉の家は口入れ屋であったな」立花が頷く。
「口入れ屋?」才谷が首をかしげる。
「目明かしは、捕り物稼業だけでは食っていけませんのでね。皆、本業を持っておりやす。私の家業は口入れ屋でして、実際の仕事は弟が中心になってやってくれております」
「ですから、佐吉さんから奉公人を世話してもらうことも多いんですよ」駿河屋が笑う。「生活に困った人を雇ってくれと良く連れてこられるんですが、親分の人を見る目は大したものでございましてね。これまで親分の頼みで雇った人で問題を起こした人はいないどころか、皆働き者で、ずいぶん助かっております。これからもよろしくお願いいたします」
「では拙者も何かあったら佐吉親分に仕事を紹介してもらいに行こうかな」才谷が軽口をたたく。
「冗談じゃない」佐吉があわてて言う。「旦那みたいな人に役不足でない仕事なんて、我々程度の口入れ屋にはございませんよ」
「それはそうだ」尾上が言う。「才谷殿のような方に見合う給金を払えるような仕事がそうそうあるとは思えませんな」
「そうですな。駿河屋で働いて頂けるのであれば諸手を挙げてお迎えしますが、さて、いくら給金をお払いしたらいいものやら」
駿河屋の言葉に、みな笑った。
◎
「いや、駿河屋さんにお招き頂くとは思っても見ませんでしたな」
改めてお礼とお詫びということで、佐吉と才谷は、後日、駿河屋に招かれた。贅をこらしたごちそうに舌鼓を打った上で、何の弾みか、駿河屋と才谷が将棋の対局をすることになった。横で佐吉が「あ、その手は」とか、「うわ、駿河屋さんも手加減がない」とかうるさいのだが、対局している両人は余り気にしていないようである。これが尾上介三郎と立花格之進の対局ならお叱りを受けるところだが、二人が止めないので、かなりうるさい状況になっていて、それを二人は面白がっている様子である。
「いやいや、こちらはお礼とお詫びが出来てほっとしております。しかし、才谷様の将棋は面白いですな」
「へえ、面白い将棋って、どんな将棋です」佐吉が聞きとがめる。
「あまり細かい定跡はご存じないようで、変わった手を指される。ただ、大局観が良いのか、それがそれなりに形になっている。強いのか弱いのかよく分からない将棋ですな」
「ああ、それは分かるような気がしますね。旦那のやっとうがそれです。気張ったところがなく、風に揺らぐ柳のように強いのか弱いのか分からないようでいて、実はめっぽう強い」
「何か誉められているような気がせんが、しかし、駿河屋さんは強いな」
「お褒めにあずかって恐縮です。しかし、才谷様が少し力を入れて定跡など学ばれれば、私など、すぐ追い越されるように思います。まあ、今のように剣道修行に熱中しておられる間はまだ大丈夫でしょうが、こちらが少しでも気を抜いて間違えれば、勝負はどうなるか分かりませんな。今でも絶対に負けないという程の自信はありません。しかし惜しいな。この大局観は囲碁でこそ生きてくるように思いますが、ご興味はありませんか」
「いや、囲碁も将棋も、まあ面白いと思うが、あまりのめり込むと剣道修行に支障がでるのでね。まあ、藩の同僚とお付き合い出来る程度にとどめています」
「囲碁か将棋と声をかけられたときに将棋を選ばれたのは?」
「まあ、良い駒を見てみたいという気持ちが強かったのと、将棋にはいろいろな駒があるからな」才谷が持ち駒の虎斑の盛り上げ駒を見ながら言う。
「みなそれぞれに働きが違っていて、しかも弱い駒だからといって馬鹿に出来ない。歩のない将棋は負け将棋ということわざもあるぐらいですから」
「そうそう、すべての駒が、その性格を生かして戦う様は何とも美しい。拙者どものへぼ将棋ではなかなかそうは行きませんが」
「しかし、今回の件は面白かったですな。今、将棋をしていて、ふと思ったのですが、差し手を間違えたとき、それ自体は正着とたいした差はなくても、それを挽回しようとして焦ると、打った手、打った手が悪い方へ悪い方へと進んで行く。今回の番頭の行動がまさにそれです。ほんのちょっとした行き違いが、少しづつ大きくなって、最後は動きがとれなくなる。心すべきことですな」
「本当に、最初はちょっとしたことだったんですな。しかし、旦那が猫を助けたことがきっかけに大事になっていったということで」佐吉が相づちを打つ。「あれ、才谷様、今の手で、才谷様の王に詰みが」
「え、本当か」
「ええ、五手詰めです」
駿河屋が言う。その五手詰めの一手目を指されて、才谷も自王の詰みに気がついた。
「なるほどこれは投了だの。いや駿河屋さんは強い」
「いや、私も才谷様のおかげで、いろいろ学ばせて頂きました。おかげでいくつか新手が生まれそうです。今度の将棋仲間の集まりで、少し皆をびっくりさせられるかな」
和やかな会話の内にお開きとなり、二人はほろ酔い気分で駿河屋を出た。玄関でいとまを告げるときに、店の方から番頭が二人、見送りに出てきて、広い玄関から店につながる廊下の所で立ち止まり、頭を下げてきた。佐吉はああ、これが今日のお招きの意味かと悟り、二人に向かって頭を下げた。横で「ああ、この人はこんなに良い笑顔が出来るんだ」という人なつっこい笑顔で、才谷が二人に頭を下げた。そこにいる誰一人声を出さなかったが、佐吉は目と目で充分以上に心が通じ合ったような気がした。番頭の二人は何も言わなかったが、ありがとうございましたという声が聞こえたような気がした。
夜風が気持ちよい。とりとめのない話をしながら、二人は堀端の道を藩邸に向かって歩いていった。
(完)




