山の侵入者と、初めての力
黒から剣術の特訓を受け始めて、さらに数ヶ月が経った。
僕は、黒からもらった小さな木刀を、少しずつ自分の手足のように扱えるようになっていた。
最初は構えを維持するだけでも大変だった。足の位置がずれたり、肩に力が入りすぎたりして、黒に何度も直されたものだ。
それでも、毎日欠かさず木刀を振り続けた。
今では、木刀を握れば自然と体が動く。黒に教わった足運びも、間合いの取り方も、少しずつ身についてきていた。
もちろん、黒の剣術にはまだまだ及ばない。
それでも、以前の僕とは違う。
自分でも、そう思えるようになっていた。
その日の午後も、僕は屋敷の庭で木刀を振っていた。
「いち、にっ……!」
風を切る音が、静かな庭に響く。
「今日の晩飯に使うキノコを採ってくる。お前はここで素振りしてろよ」
そう言い残し、黒は大きな黒猫の姿で山の斜面へと駆けていった。
二本の尻尾を揺らしながら、もふもふの体が木々の向こうへ消えていく。
「うん! いってらっしゃい、黒!」
僕は元気よく手を振り、再び木刀を構えた。
今日の夕飯はキノコ料理らしい。
黒が作るご飯は何でも美味しいから、今から楽しみだ。
そんなことを考えながら、もう一度、木刀を振り下ろした。
そのときだった。
――ガサガサ。
山の斜面へ続く茂みから、草木をかき分ける音が聞こえてきた。
動物でも迷い込んだのかな?
そう思って顔を上げたけれど、聞こえてくる声はそれではなかった。
「おい……マジかよ。霧の結界を破った先に、ホントに屋敷がありやがったぞ」
「へへっ、あの厄介な結界を破った甲斐があったぜ。こんな山奥に、こんな立派な屋敷が隠れてやがったとはな……」
下卑た笑い声が、霧の向こうから近づいてくる。
「おい、見ろよ。小綺麗なガキが一人でいやがるぞ」
霧を割って現れたのは、二人の男だった。
僕は木刀を手にしたまま、男たちを見つめた。
この屋敷の周囲には、黒が張った強力な結界がある。山自体にも弱い結界を張ってあるはずだ。普通の陰陽師なら、結界に触れた時点で黒に気づかれてしまうだろう。
それなのに、この二人はここまで入り込んできた。
結界を真正面から破れば、黒が気づかないはずがない。だとすれば、結界のわずかな隙間を見つけ、そこから侵入してきたのだろうか。
……だとしたら、この二人、ただの陰陽師じゃない。
僕は木刀を握る手に、そっと力を込めた。
どちらも背中に鉄の刀を背負い、手にはトゲのついた頑丈な鉄の網を持っている。もう片方の手には、何枚もの符が握られていた。
山のあやかしを捕らえ、式神にして売り捌くことを稼業とする陰陽師たちだ。
男たちは庭を見回したあと、僕へと視線を向けた。
そして、僕の顔と、土御門の血筋に特有の深い藍色の髪をじろじろと見比べる。
やがて、二人の口元に、嫌な笑みが浮かんだ。
「おいガキ。お前、この山に追放されたっていう土御門の『霊力なしの忌み子』だな? 噂は聞いてるぜ。こんなところで生きてやがったか」
「その着物や木刀、売ればいい金になりそうだな。お前自身も、別の使い道がありそうだ。霊力のない忌み子でも、顔だけはいいからなァ!」
男たちは下品な声で笑いながら、鉄の網を広げた。
一歩。
また一歩。
僕との距離を、じりじりと詰めてくる。
『霊力なしの忌み子』。
『ゴミ』。
昔、実家で何度も浴びせられた言葉が、頭の片隅をよぎった。
けれど、不思議だった。
以前なら、その言葉を聞いただけで胸が苦しくなったはずなのに。
今の僕の胸に浮かんだのは、恐怖でも悲しみでもなかった。
ただ、ひどく不快で。
それ以上に、呆れていた。
この人たちは、何も知らないんだ。
僕がこの三年間、どんな日々を過ごしてきたのか。
誰が僕を育ててくれたのか。
そして――この庭が、黒にとってどれほど大切な場所なのか。
「……あの」
僕は木刀を手にしたまま、男たちを見つめた。
「僕のことはどうでもいいんですけど、ここ、黒が大切にしてるお庭なんです」
二人が怪訝そうに眉をひそめる。
僕は静かに続けた。
「足跡で汚さないでくれませんか?」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、男たちは腹を抱えて笑い出した。
「ハハハハッ! 何が黒だ!」
「忌み子のガキが、強がるんじゃねえよ!」
片方の男が、手にした鉄の網を大きく振りかぶった。
「大人しく捕まりやがれ!」
網が僕の頭を目がけて飛んでくる。
けれど、僕は慌てなかった。
危ないとも思わなかった。
黒との特訓で、何度も何度も動きを見極めてきたからだ。
相手がどこから攻めてくるのか。
どこへ踏み込もうとしているのか。
その動きが、手に取るように分かる。
目の前の男たちの動きは、黒の剣術に比べれば、まるで時間が止まっているかのように遅かった。
僕は小さく息を吸った。
「……おいで、影猫たち」
その声に応えるように、僕の足元の影が、どろりと波打った。
次の瞬間。
十匹の影猫たちが、黒い影の中から一斉に飛び出した。
「なっ――!?」
影猫たちは空中を駆け抜け、迫りくる鉄の網へと飛びかかった。
ギャリッ、ガギンッ!
鋭い影の爪が網を切り裂く。
呪具として作られた頑丈な鉄の網が、あっという間にずたずたになって地面へ落ちた。
「な、なんだこの黒い猫は!?」
「嘘だろ!? 網は鉄製だぞ! それに呪具だぞ!?」
男たちが目を見開く。
けれど、影猫たちの動きは止まらない。
網を切り裂いた影猫たちは、そのまま地面を滑るように移動し、二人の足元へと回り込んだ。
そして――。
ガシッ!
二人の影を、それぞれの影猫が踏みつけた。
「なっ……!?」
「か、身体が動かねえ……っ!?」
男たちが刀を抜こうとする。
しかし、足が動かない。
体をひねろうとしても、影猫たちが押さえつけた影は、地面に縫い止められたように動かなかった。
「バカな! 術の詠唱も、札も使ってねえぞ!?」
「なんなんだ、このガキは! 霊力なしじゃなかったのか!?」
僕は二人を見据えたまま、木刀を両手で握り直した。
黒に教わった構え。
足の位置も、重心も、木刀を握る手の力加減も。
何度も繰り返してきた動きを、ひとつずつ思い出す。
焦らない。
無駄な力を入れない。
相手との間合いを見極める。
そして、僕は静かに技の名を告げた。
「黒の剣術――神代の剣術、『影一文字』」
お腹の奥で、神代の力が応えた。
それは、陰陽師たちが使う普通の霊力とは違う、僕だけの力。
僕はその力を、木刀へと一気に注ぎ込んだ。
ドロリ。
木刀の表面を、漆黒の影が覆っていく。
影は刃のように伸び、木刀の輪郭を大きく変えた。やがて、その黒い刃は、元の木刀の何倍もの大きさへと膨れ上がる。
男たちの顔から、笑みが消えた。
「な、なんだ……その力は……!」
答える必要はなかった。
僕は地面を軽く蹴った。
トンッ。
次の瞬間、景色が流れた。
男たちの目には、僕の姿は残像すら捉えられなかっただろう。
黒に教わった足運びで一気に懐へ踏み込み、両手で握った木刀を横一文字に振り抜く。
――ドンッ!!!
凄まじい衝撃が庭を駆け抜けた。
空気が震え、周囲の草木が大きく揺れる。
男二人の体が、まとめて宙へと浮き上がった。
「がっ……!?」
そのまま後方へ吹き飛ばされ、山の木々へと激突する。
鈍い音が響いたあと、二人は地面へ崩れ落ちた。
刀を抜く暇さえ与えない、一撃。
二人とも、完全に気を失っていた。
僕はしばらく木刀を構えたまま、倒れた男たちを見つめていた。
……あれ?
もう終わり?
「ふぅ……」
ゆっくりと息を吐き、木刀を下ろす。
「やっぱり、黒の剣術はすごいな」
僕が素直に感想を漏らすと、足元の影猫たちが一斉に鳴いた。
「にゃあ!」
「にゃあ、にゃあ!」
まるで、僕を褒めてくれているみたいだ。
「みんなもありがとう!」
頭を撫でてやると、影猫たちは嬉しそうに僕の足へすり寄ってきた。
そのとき。
「お前……何やってんだ…」
聞き慣れた声が、藪の向こうから飛んできた。
顔を向けると、そこには大きな黒猫の姿の黒がいた。
口には、キノコをたっぷり入れたカゴをくわえている。
けれど、黒は目の前の光景を見た瞬間、ぴたりと動きを止めた。
庭に倒れている男が二人。
ずたずたに引き裂かれた鉄の網。
そして、木刀を手にした僕。
黒の金色の目が、ゆっくりと見開かれていく。
「……おい。こいつら、陰陽師か?」
黒はカゴをくわえたまま、倒れている男たちと僕を交互に見た。
「お前……こいつらを一瞬でボコしたのか!?」
ぽんっ、と軽い音がした。
黒は人型へと姿を変えると、キノコの入ったカゴを放り出し、ものすごい勢いで僕のもとへ駆け寄ってきた。
「怪我はねえか!? どこか痛いところは!? あいつらに何かされなかったか!?」
「だ、大丈夫だよ、黒!」
両肩をつかまれ、あちこち確認される。
「本当にか!? 無理してねえだろうな!?」
「本当だってば! ほら、どこも痛くないよ!」
僕が両手を広げて見せると、黒はようやく少しだけ落ち着いた。
それから、改めて倒れている男たちへ目を向ける。
「……で、どうやって倒したんだ?」
「あのね、黒が教えてくれたとおりに構えて、影猫たちに動きを止めてもらったの。それから、『影一文字』を使ったんだ!」
僕が胸を張って答えると、黒はぽかんと口を開けた。
「……『影一文字』を?」
「うん!」
「初めての対人戦で?」
「うん!」
「しかも、こいつら二人をまとめて?」
「そうだよ!」
僕がにこにこと頷くたび、黒の表情が変わっていく。
呆然としていた顔が、驚きに染まり。
驚きが、やがて誇らしげな笑みへと変わった。
「お前って奴は……!」
次の瞬間、僕の体がふわりと浮いた。
「わっ!?」
黒に、思いきり抱きしめられたのだ。
「最高にかっこいいぞ、あかり!! 初めての対人戦で『影一文字』を成功させるなんて、やっぱり俺の弟分は世界一だ!!」
「く、黒、苦しいよ!」
「おっと、悪い!」
そう言いながらも、黒は僕を離すと、今度は頭をわしゃわしゃと撫で始めた。
「よくやった! ちゃんと俺の教えを覚えてやがるじゃねえか! 構えも、踏み込みも、見事だったはずだぞ!」
「えへへ……!」
黒に褒められると、胸の奥がぽかぽかする。
あの恐ろしい山の主を倒したときとは違う。
今の僕は、黒から教わった技で、自分の身を守ることができた。
そして、黒が大切にしている庭も守れた。
それが、何より嬉しかった。
「よし、今日の飯は特別だ!」
黒が勢いよく宣言した。
「採ってきたキノコだけじゃ足りねえな。肉もたっぷり奮発して、キノコ鍋にしてやる!」
「わあ、やったぁ!」
思わず声が弾む。
さっきまで庭に転がっていた二人の男のことなど、もうどうでもよくなっていた。
黒が作ってくれるキノコ鍋。
きっと、すごく美味しいに違いない。
黒は嬉しそうな僕を見て、また満足げに笑った。
「今日は祝いだ。腹いっぱい食えよ!」
「うん!」
僕は木刀を大切に握りしめた。
――もし、僕を捨てた土御門の人たちが、今の僕を見たら。
いったい、どんな顔をするんだろう。
ほんの少しだけ、そんなことを考えた。
けれど、その考えはすぐに、黒の声にかき消された。
「おーい、あかり! いつまで突っ立ってんだ。鍋の準備をするぞ!」
「今行くよ、黒!」
僕は木刀を手に、黒のもとへ駆け寄った。
庭には、まだ影猫たちが集まっている。
その向こうには、霧に包まれた山が広がっていた。
けれど今の僕は、もうその霧を恐れてはいなかった。
少なくとも、この庭にいる限り。
僕には、守りたい場所があるのだから。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
初めての対人戦でした。
明日の夕方18:00更新予定です




