三年後、十歳になった過保護な日常と、新たな刃
山の社の主である八ツ目大蛇を倒してから、三年という月日が流れた。
あの日から、僕は黒の立派なお屋敷で、これでもかというほど大切に育てられてきた。
「ほら、あかり。今日の朝飯は特製の鯛雑炊だぞ。火傷しないように、ちゃんとフーフーして食えよ」
「わあ、ありがとう、黒!」
囲炉裏の前に座る僕の前へ、人型になった黒が、湯気の立ち上るお椀をそっと置いてくれた。
ふわりと漂う出汁の香りに、思わず頬が緩む。
実家にいた頃の僕は、体中が傷だらけで、骨が浮き出るほど痩せていた。顔色も悪く、いつもお腹を空かせていたのを覚えている。
けれど、黒は毎日、僕にたくさんのご飯を食べさせてくれた。
おにぎりに焼き魚、ときには今日のような豪華なご馳走まで。お腹いっぱい食べられることが、こんなにも幸せなことだなんて、あの頃の僕は知らなかった。
そうして三年が過ぎ、僕は十歳になった。
伸びた髪は艶を取り戻し、背も少し伸びた。頬には健康的な赤みが差し、かつてのやせ細った姿はもうない。
今着ているのも、黒が街からこっそり仕入れてきてくれた、仕立てのいい上質な絹の着物だ。
「んんっ……! お出汁が染みてて、すっごく美味しい!」
鯛の身をほぐしながら頬張ると、優しい旨味が口いっぱいに広がった。
「だろ? 三年も飯を作ってやりゃ、お前の好物くらい完全に把握してるっつーの」
黒は得意げに鼻を鳴らした。
次の瞬間、ぽん、と軽い音とともに煙が上がる。
そこにいた人型の黒は、あっという間に普通の黒猫へと姿を変えた。
そして、当然とばかりに僕の膝へぴょんと飛び乗ってくる。
「く、黒。くすぐったいよ」
ゴロゴロゴロ……。
黒は返事の代わりに喉を鳴らし、二本の尻尾をぱたぱたと揺らした。
こうしていると、黒はただの甘えん坊な飼い猫みたいだ。
……実際は、山のあやかしたちが恐れるほど強い猫又なのだけれど。
しかも、僕のこととなると、とにかく過保護なのだ。
膝の上で丸くなる黒を撫でていると、今度は足元の影がどろりと揺れた。
そこから、黒い猫の姿をした影猫たちが次々と這い出してくる。
一匹、二匹、三匹……。
全部で二十匹。
影猫たちは黒の真似をするように僕の足元へ集まり、それぞれ好きな場所を見つけて丸くなった。
三年前、八ツ目大蛇と戦ったときには、自分でも驚くほどの力を引き出していた影猫たち。
今では僕の命令を正確に理解し、複雑な動きまでこなせるようになっている。
一匹が僕の足に頭をすり寄せ、別の一匹がその隣で尻尾を揺らした。
「ふふっ。みんな、今日も元気だね」
僕が笑いかけると、影猫たちは嬉しそうに喉を鳴らした。
そんな賑やかな朝食の時間は、僕にとって何よりも大切なひとときだった。
やがて、お椀の中身をすっかり食べ終える。
「ごちそうさまでした!」
「おう。しっかり食ったな」
膝の上にいた黒が、すっと顔を上げた。
金色の瞳が、いつもより鋭く輝く。
『さて。腹もいっぱいになったところで、今日から新しい修行だ』
「新しい修行?」
『ああ。あかり、お前に俺の『神代の剣術』を仕込んでやる』
「黒の、剣術……!」
思わず身を乗り出した。
黒の剣術なら、僕も何度か目にしたことがある。
あやかしが襲いかかってきた瞬間、黒が刀をひと振りする。
それだけで、どれほど大きな相手でも、一瞬のうちに斬り伏せてしまうのだ。
あの速さ。あの鋭さ。そして、刀を構えたときに漂う、近寄りがたいほどの迫力。
僕にとって、黒の剣は憧れそのものだった。
「あの、一瞬であやかしを斬っちゃうやつ? 僕も、あんなふうにできるの?」
『おうよ。ただし、いきなり同じことができると思うなよ?』
黒は僕の期待を見透かしたように、にやりと笑った。
『お前の神代の力と影猫は、とんでもねえ可能性を秘めてる。だが、力があるだけじゃ駄目だ。体の使い方も、間合いの取り方も、武器の扱いも知らなきゃならねえ』
黒の声から、いつもの軽い調子が少しだけ薄れる。
『どれだけ強い力を持っていても、敵に懐へ入り込まれたら危ねえからな。俺としては、お前に傷一つつけたくねえんだよ』
最後の言葉は、少しばかり不機嫌そうだった。
まるで、僕が傷つく未来など、最初から認めるつもりがないみたいに。
「黒……」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
僕が強くなりたいと思うのは、もちろん自分のためでもある。
でも、それだけじゃない。
いつか、黒の隣に立って、ちゃんと一緒に戦えるようになりたい。
守られてばかりじゃなくて、僕も黒を守れるようになりたいのだ。
そんな思いを胸に抱いていると、黒は膝から軽やかに飛び降りた。
『ほら、庭に出るぞ』
「うん!」
僕たちは連れ立って屋敷の庭へ向かった。
黒がいったん屋敷の奥へ引っ込んで戻ってくると、その口には一本の木刀がくわえられていた。
僕の体に合わせて作られた、小さくて美しい木刀だ。
「これ、僕の?」
『そうだ。お前用に用意させた』
「わあ……!」
両手で受け取った木刀は、僕の手にしっくりとなじんだ。
軽すぎず、重すぎず、握ったときの感触も心地いい。
僕は何度か握り直しながら、嬉しくて木刀を見つめた。
「ありがとう、黒! 大事にするね!」
『道具は使ってこそ意味があるんだ。大事にするのはいいが、飾り物にすんなよ』
そう言いながらも、黒の尻尾はどこか満足そうに揺れていた。
庭の中央まで進むと、黒は人型へと姿を変えた。
黒い着物に、紫の羽織。
腰には、禍々しい気配を漂わせる妖刀。
黒はその柄に手をかけると、すらりと刀を抜き放った。
朝の光を受けた刃が、鋭くきらめく。
ひとたび風が吹き抜け、黒の漆黒の着物と紫の羽織がさらりと揺れた。
その姿は息をのむほど美しく、同時に、圧倒的な強さを感じさせた。
僕は思わず息を呑んだ。
何度見ても、黒の戦う姿には目を奪われてしまう。
『いいか、あかり。俺の剣術は、ただ刀を振り回すだけのもんじゃねえ』
黒は刀を構えたまま、静かに口を開いた。
『刃を『媒体』にして、『影』と『妖力』を集中させる。それによって、斬撃の威力を何倍にも増幅させ、空間ごと敵を切り裂く』
刀の周囲に、ぞくりとするような気配が漂う。
それだけで、庭の空気が変わったように感じた。
『お前なら、影猫の力と組み合わせることで、さらに化けるかもしれねえ』
「僕の影猫と……黒の剣術を?」
『そうだ。だが、焦るんじゃねえぞ。まずは基礎からだ』
黒は刀を下ろすと、僕の手元へ視線を向けた。
『木刀を両手で握れ。足の位置はこうだ。肩に余計な力を入れるな。……そう、その調子だ』
言われたとおりに構えてみる。
けれど、慣れない姿勢は思った以上に難しい。
「こ、こう?」
『ちょっと力みすぎだ。もっと肩の力を抜け』
黒が近づき、僕の手の位置と足の向きを丁寧に直してくれる。
その手つきは、あやかしを斬り伏せるときとは違って、驚くほど優しかった。
「はい、黒師匠!」
思わず元気よく返事をすると、黒の猫耳がぴくりと動いた。
『……師匠なんて呼ぶんじゃねえよ。黒でいい』
「でも、剣術を教えてくれるんだから、師匠だよ!」
『ったく……。口だけは達者になりやがって』
黒は呆れたように息を吐いた。
けれど、その金色の目は、どこか嬉しそうだった。
『……よし。まずは俺の動きをよく見てろよ』
「うん!」
僕は木刀を握り直し、黒の構えをじっと見つめた。
実家では、何の力もない無能だと言われ、捨てられた僕。
あの頃は、自分に何ができるのかさえ分からなかった。
けれど今は違う。
普通の霊力を持たない僕にも、神代の力がある。そして、僕を信じ、育ててくれる黒がいる。
この三年間、僕はたくさんのものをもらった。
温かいご飯も、安心して眠れる場所も、心から笑える毎日も。
だから今度は、僕自身の力で、少しずつ前へ進みたい。
黒のように強くなりたい。
いつか、黒が驚くくらいの剣を振れるようになりたい。
「黒、僕、頑張るね!」
『おう。期待してるぜ、あかり』
黒が刀を構える。
僕も木刀を構えた。
その瞬間、僕の足元に落ちる影が、すっと鋭く揺れた。
まるで、これから始まる修行を待ちきれないかのように。
「じゃあ、最初の一振りからだ」
黒の声に、僕は大きくうなずいた。
朝の庭に、木刀が風を切る音が響き始めた。
お読みいただきありがとうございます!
3年の月日が流れて、あかりの修行編がスタートします。
よかったら読んでください




