山の主と、真の覚醒
黒と山に入って、一ヶ月が経った頃。
僕たちは、山の一番奥にある古びた社の跡地に辿り着いた。
ここに来るまでの道のりは、僕にとって、毎日が初めての体験に満ちた冒険の連続だった。
道中で見つけた甘い木の実や、清流を泳ぐ魚。
……かつて土御門で虐げられていた頃、空腹に耐えかねて、泥のついた木の実を貪り、捕まえた魚を必死に口へ運んでいたことがある。
食べていたものは、きっと同じだったはずだ。
けれど、あの頃は違った。
いつ見つかるか分からない恐怖。何をしても認められない惨めさ。明日も食べ物にありつけるか分からない不安。
そんなものばかりが胸を占めていて、食べ物の味なんて、少しも感じられなかった。
「あかり、あっちだ!」
「逃がすな!」
影猫たちと一緒に水しぶきを上げながら小魚を追いかけ、捕まえた獲物を黒と分け合う。
「うまいな」
「うん! すごく美味しい!」
黒と顔を見合わせて笑う。
ただ、それだけのことだった。
それだけなのに、あの頃は喉を通らなかったはずの木の実も魚も、驚くほど美味しく感じられた。
誰かと笑い合いながら食べること。
美味しいものを、美味しいと伝えられること。
そんな当たり前の幸せが、僕にとっては何よりも大切だった。
僕はもう、一人で怯えて泣いていたあの頃の子供じゃない。
そう思うたび、胸の奥がじんわりと温かくなった。
なかでも、一番忘れられないのは、黒が豪快に仕留めてくれた大きなイノシシの肉だ。
パチパチと薪がはぜる焚き火。その炎に照らされながら、じっくり狐色に焼けた肉にかぶりつく。
噛んだ瞬間、香ばしい匂いと肉汁が口いっぱいに広がった。
「うわぁ……! 黒、これ、すっごく美味しい!」
「だろ? こういうもんは、焼き加減が大事なんだよ」
黒は得意げに笑い、自分の分の肉を豪快に頬張った。
焚き火の向こうで揺れる黒の金色の瞳。
隣では、影猫たちが丸くなって気持ちよさそうに喉を鳴らしている。
一人じゃない。
誰かと食べて、誰かと笑って、同じ火を囲んで夜を過ごす。
そんな温かな時間が、胸がじんとするほど愛おしかった。
手探りの修行も、決して楽なものではなかった。
黒の指導は手厚いけれど、そのぶん容赦もない。
何度も失敗して、悔しくて、地面にへたり込んだことだってある。
それでも黒は、僕がもう一度立ち上がるのを待ってくれた。
そして、できるようになったことを見つけては、ぶっきらぼうに褒めてくれた。
そのおかげで、僕の身体は一ヶ月前とは見違えるほど引き締まった。
そして何より、影猫たちと一緒に戦うことにも、少しずつ慣れてきた。
かつて土御門では、僕には何の力もないと言われていた。
霊力はなく、呪符は反応しない。式神も扱えない。
だから、僕は無能なのだと。
けれど、黒と出会ってから、その言葉がすべてではなかったのだと、少しずつ思えるようになっていた。
――けれど。
古びた社の敷地に足を踏み入れた瞬間、それまで胸に満ちていた温かな余韻は、跡形もなく吹き飛んだ。
そこは、まるで時の流れから取り残されたような場所だった。
半ば崩れ落ちた真っ赤な鳥居。
ひび割れた石畳を覆う、湿った苔。
朽ちた社殿の残骸には、長い年月のあいだ誰も手を触れていないことを物語るように、蔓や草が絡みついていた。
かつては、人々の祈りが捧げられていた神聖な場所だったのだろう。
けれど、今ここに満ちているのは、祈りとは正反対のものだった。
肌を細かな針で刺されるような、鋭く冷たい気配。
息を吸うだけで、身体の奥まで凍りついてしまいそうな、圧倒的な死の気配。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。
「……黒?」
思わず隣を見上げる。
黒の二本の尻尾が、ゆっくりと揺れていた。
けれど、その金色の瞳からは、いつもの気安さが消えている。
黒は社の奥をじっと見据え、腰の刀へと手を伸ばした。
「……妙だな」
低く呟いた、その直後だった。
ズゥゥゥン……!
地面が、底から突き上げられたかのように激しく鳴動した。
石畳が震え、足元の小石が跳ね上がる。崩れかけた鳥居から、ぱらぱらと赤い破片が落ちてきた。
「わっ……!」
僕が体勢を立て直すより早く、社の地下から、何か巨大なものが這い出してくる。
地面が裂けるような音。
岩を砕くような轟音。
そして、濃密な妖気が周囲へと一気に噴き出した。
現れたのは、想像を絶する巨体だった。
太い大木を何本も束ねたような胴体。その表面を覆う、黒ずんだ硬い鱗。
そして、頭部には――八つもの血走った目が並んでいた。
八つの眼球が、ぎょろり、ぎょろりと動く。
そのすべてが、獲物を探すように周囲を見渡していた。
何百年ものあいだ、この山に君臨し、数多の陰陽師を喰らってきたという山の主。
上級あやかし――『八ツ目大蛇』。
「……チッ。もう気がつきやがったか」
黒が舌打ちした。
「社の主のお目覚めだ。さすがに圧があるな……」
いつもは余裕たっぷりの黒が、刀の柄を握りしめている。
それだけで、目の前の相手がどれほど危険なのかが伝わってきた。
「いいか、あかり。こいつは少しやっかいだ。お前は後ろに下がって――」
黒が僕を庇うように前へ出た。
その瞬間。
大蛇の八つの目が、一斉にこちらを向いた。
「……っ!」
全身が強張った。
怖い。
頭では分かっている。黒が隣にいることも、僕自身が以前よりずっと強くなったことも。
それでも、目の前にいる存在から放たれる威圧感は、これまで戦ってきたあやかしたちとは比べものにならなかった。
思わず後ずさった僕の足が、地面を這う木の根に引っかかった。
「あっ――!」
次の瞬間、僕は豪快に後ろへひっくり返ってしまった。
「……あかりっ!?」
黒が振り返る。
ほんの一瞬。
本当に、一瞬だけだった。
けれど、大蛇はその隙を見逃さなかった。
大蛇の口が大きく開かれる。
ゴボッ……!
次の瞬間、吐き出されたのは、禍々しい紫色の毒霧だった。
「黒!!」
濁流のような霧が、黒の姿を一瞬で呑み込んだ。
毒霧に触れた木々が、みるみるうちに黒ずんでいく。葉は縮れ、枝は崩れ、腐った木片となって地面へ落ちた。
ただの毒じゃない。
そう直感した瞬間、霧の向こうから黒の声が響いた。
「あかり!! どこだ、無事か!?」
「黒、僕はここにいるよ!」
「ゲホッ……クソッ! 油断した……!」
咳き込む声が聞こえる。
「視界が……この霧、ただの毒じゃねえ。俺の妖力まで吸い取りやがる……っ!」
紫色の霧が、周囲のすべてを覆い尽くしていた。
手を伸ばしても、黒の姿は見えない。
聞こえるのは、荒い息遣いと、霧の向こうで何かが動く音だけ。
黒の気配が、少しずつ弱まっていく。
「黒……?」
胸が嫌な音を立てた。
そのときだった。
ブォンッ!!
空気を引き裂く轟音が響いた。
霧の奥から、大蛇の巨大な尻尾が振り下ろされる。
狙いは、黒のいる場所。
直撃すれば、あの黒でさえ、ただでは済まないかもしれない。
「――っ!!」
考えるより先に、身体が動こうとした。
だけど、足が震えていた。
怖い。
どうすればいい?
僕の影猫たちで、あの大蛇を止められるのか?
もし失敗したら?
もし、黒が――。
その瞬間。
頭の中で、何かがパチンと弾けた。
『俺の弟だ』
『役に立ったどころじゃねえよ』
『俺たち二人で倒したんだろ?』
以前、黒が僕にかけてくれた言葉が、鮮明によみがえる。
僕の力を認めてくれた人。
僕を家族だと言ってくれた人。
僕がここにいていいのだと、初めて教えてくれた人。
黒は、僕のたった一人の家族だ。
その黒を。
傷つけさせるわけにはいかない。
「――黒を、傷つけさせないっ!!」
叫んだ瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
今まで感じたことのない、途方もない何かが、僕の内側から一気に溢れ出した。
それは、土御門の陰陽師たちが使う霊力とは、まるで違うものだった。
僕には霊力がない。
そう言われ続けてきた。
呪符は反応せず、式神を縛ることもできなかった。
どれだけ努力しても、土御門の人たちは僕を無能と呼んだ。
けれど――今、僕の中から溢れているこの力は、一体何なのだろう。
考える暇はなかった。
胸の奥から湧き上がる力に呼応するように、足元の影が波打った。
社の石畳が震える。
紫色の毒霧さえ押し広げるように、黒い影が広がっていく。
それは、普通の陰陽師が扱う力とは根本から異なる、神代の力。
何も持っていないと思っていた僕の中に、ずっと眠っていた力だった。
「おいで――影猫たち!!」
僕の叫びに応えるように、足元の影が一気に膨れ上がった。
黒い水が溢れるように、影が石畳を覆い尽くしていく。
崩れた鳥居を呑み込み、苔むした石段を呑み込み、社の敷地全体へと広がっていく。
そして、その影の沼から――。
金色の瞳が、一つ。
また一つ。
無数に、瞬いていた。
にゃあああああああああっ!!
鳴き声が響いた。
一匹や二匹ではない。
数十匹なんてものでもない。
数百、数千――数え切れないほどの影猫たちが、影の沼から次々と飛び出してきたのだ。
小さな身体。
漆黒の毛並み。
そして、暗闇の中で鋭く輝く金色の瞳。
その群れは、社の敷地を埋め尽くし、さらにその外へと溢れ出していく。
神隠しの山全体を震わせるような、無数の鳴き声。
影猫たちは一斉に地面を蹴った。
黒い津波となって、大蛇の巨体へと押し寄せる。
「ギ、シャァァァッ!?」
大蛇が身をよじった。
しかし、遅い。
影猫たちは、まるで黒い奔流のように巨体を駆け上がっていく。
背中へ。
胴体へ。
八つの頭へ。
大蛇が尾を振り回し、毒霧を吐き散らしても、影猫たちは止まらなかった。
一匹が弾き飛ばされても、その後ろから次の一匹が飛びかかる。
影の爪が、硬い鱗を引き裂く。
影の牙が、巨大な身体へと食らいつく。
そして、無数の影猫たちが大蛇の巨体を取り囲み、足元から広がる影の沼へと引きずり込んでいった。
「グ、ガァァァッ!!」
大蛇が激しくのたうち回る。
地面が揺れ、石畳が砕け、朽ちた社殿の残骸が崩れ落ちた。
それでも、影猫たちは離れなかった。
影の沼は、どこまでも深く。
どこまでも広がっていく。
大蛇が逃れようとすればするほど、その巨体は深く沈み込んでいった。
まるで、この山そのものが大蛇を呑み込もうとしているかのようだった。
「ギ……シャ……ァ……!」
最後の悲鳴が、山の奥へと響き渡る。
そして――。
絶対的な力を持ったはずの大蛇は、数え切れない影猫たちに呑み込まれ、跡形もなく消え去った。
あとに残ったのは、静寂だけだった。
「……はぁっ……はぁっ……」
僕は荒い息を繰り返しながら、ゆっくりと周囲を見渡した。
ついさっきまで社の敷地を埋め尽くしていた影は、少しずつ元の大きさへと戻っていく。
数百、数千といた影猫たちの姿も、次第に消えていった。
やがて、僕の足元に残ったのは、いつもの二十匹の影猫たちだった。
みんな満足そうに尻尾を揺らし、僕の足に身体をすり寄せてくる。
「……みんな、ありがとう」
そう呟いたときだった。
「……あかり」
聞き慣れた声が、霧の向こうから響いた。
顔を上げると、毒霧を振り払った黒が、刀を握ったまま立ち尽くしていた。
その金色の瞳は、驚愕でこれ以上ないほど見開かれている。
「お前……今のは……」
黒は、消え去った大蛇のいた場所と、僕の足元に集まる影猫たちを交互に見つめた。
「社の主を……たった一人で、喰いやがった……」
いつもの余裕に満ちた声ではなかった。
心底、信じられないものを目の当たりにしたような声だった。
「術も呪文もなしに……力の本質だけで、あそこまで圧倒しやがるとは……」
黒がゆっくりと僕のほうへ歩いてくる。
その姿を見た途端、張り詰めていたものが切れた。
足が震える。
手が震える。
自分が何をしたのか、まだよく分からない。
ただ、怖かった。
黒を失うかもしれないと思った瞬間が、何よりも怖かった。
「黒……」
僕が声を絞り出すと、黒は目の前で膝をついた。
そして、小さな僕の身体を、ぎゅっと抱きしめた。
強い腕。
けれど、壊れ物を扱うように優しい抱きしめ方だった。
「……怖かったな」
耳元で、黒の声が響く。
「よく頑張った。ほんとに、よくやったな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「お前を捨てた陰陽師のクソどもに、今すぐこの光景を見せてやりてえよ」
黒の声には、怒りと誇らしさが入り混じっていた。
「俺の弟分は、神をも殺せる本物の『陰陽師』だ」
「……黒……」
僕は黒の着物をぎゅっと握りしめた。
まだ、身体の震えは止まらない。
それでも、黒の腕の中は温かかった。
一ヶ月前、僕は何も持っていないと思っていた。
土御門では、何の力もないと決めつけられ、誰にも必要とされなかった。
けれど、今は違う。
僕には、僕だけの力がある。
そして、その力を信じてくれる人がいる。
僕を家族だと言ってくれる、最強の猫又がいる。
「……黒」
「ん?」
「……僕、もっと強くなりたい」
黒は一瞬だけ目を丸くすると、やがて、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
「へっ。いい面になったじゃねえか」
大きな手が、僕の頭をくしゃりと撫でる。
「その意気だ、あかり。俺がみっちり鍛えてやる。覚悟しとけよ?」
「うん!」
僕は力いっぱい頷いた。
足元では、影猫たちが嬉しそうに鳴いている。
「にゃあ!」
「ふふっ、みんなもありがとう」
僕は小さな頭を順番に撫でた。
黒はそんな僕を見て、満足そうに笑った。
古びた社の跡地には、もう大蛇の姿も、あの禍々しい気配も残っていなかった。
ただ、僕の足元で喉を鳴らす影猫たちと、すぐ隣にいてくれる黒の温もりだけが、確かにそこにあった。
本日もお読みくださりありがとうございました。
山の主すら一瞬で呑み込む、あかりの圧倒的覚醒。
忌み子と呼ばれた少年の反撃がここから始まります。
また読んでいただけると嬉しいです
次回明日18:00更新予定です




