黒の刃と、初めての連携
山の奥へ進むほど、霧は濃さを増していった。
木々の間を漂う紫色の霧は、まるで生き物のようにうごめき、足元にまとわりついてくる。空気は鉛のように重く、息を吸うだけでも胸の奥が圧迫されるようだった。
「……黒、なんだか空気が変わってきたね」
「ああ。中層に近づいてきたからな」
黒は周囲の霧を見渡し、金色の瞳を細めた。
「この辺りまで来ると、あやかしどもの気配も濃くなる。俺が人型のままでいると、余計な連中まで寄ってくるおそれがあるからな」
そう言うと、黒の姿がふっと揺らいだ。
次の瞬間、ポンという軽い音とともに、一匹の大きな黒猫が地面に降り立っていた。
僕を助け、運んでくれた時の人ほど大きな黒猫の姿だった。
二本の尻尾が、ゆらりと揺れる。
「これなら無駄にあやかしを刺激することもねえだろ」
木々の間を漂う紫色の霧は、まるで生き物のようにうごめき、足元にまとわりついてくる。空気は鉛のように重く、息を吸うだけでも胸の奥が圧迫されるようだった。
木々の隙間から覗く空も、禍々しい紫色に染まっている。
実家の土御門の陰陽師たちでさえ、「絶対に近づくな」と恐れていた神隠しの山。
その本当の姿が、少しずつ牙を剥き始めているのだろう。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
隣を歩く黒の二本の尻尾が、ゆったりと揺れている。
その姿を見ているだけで、不思議と胸の奥に力が湧いてきた。
黒がいる。
それだけで、僕は前を向ける。
――そのときだった。
前方の霧が、突然、激しく渦巻いた。
「……っ!」
何かが来る。
そう思った瞬間、霧の向こうから低い唸り声が響いた。
「グルゥゥゥ……」
現れたのは、巨大な影だった。
狼に似た姿。しかし、その体躯は普通の狼の数倍もある。全身からは冷たい青い炎が揺らめき、鋭い爪が地面を抉っていた。
その眼光が、まっすぐ僕を捉える。
山の中層を支配する中級あやかし――『影狼』。
「グルァァァッ!」
咆哮と同時に、影狼が地面を蹴った。
巨体が、一直線に僕へと迫ってくる。
速い!
そう思ったときには、もう目の前まで来ていた。
「来るぞ、あかり! 連携で行く!」
黒の声が鋭く響く。
次の瞬間。
僕の隣にいた大きな黒猫の姿が、ふっとかき消えた。
代わりにそこに立っていたのは、猫耳を持つ美しい青年。
黒い着物の袖が風にはためき、紫の羽織が霧の中で翻る。
黒は腰の刀に手をかけた。
チィン――。
澄んだ金属音が響き、紫黒色に鈍く光る腰の鞘から刃を抜く。
その瞬間、黒の纏う空気が変わった。
さっきまでの気安い雰囲気は消え、そこに立つのは、神隠しの山で最強と恐れられる猫又そのものだった。
だけど、僕は怯まなかった。
黒がいる。
なら、僕だってやれる。
「黒、僕が先手を取るよ!」
僕は地面に両手を突き、力いっぱい叫んだ。
「みんな、行って!」
足元から漆黒の影が広がる。
そこから飛び出した影猫たちは、いつもの愛らしい猫の姿を捨てた。
しなやかな黒い体がほどけるように変化し、何本もの太い影の縄へと姿を変えていく。
影の縄は地面を滑るように駆け抜けた。
狙うのは、影狼の足元。
「グルァッ!」
影狼が大きく跳躍しようとした、その瞬間――。
影の縄が、地面に落ちた影をがっちりと絡め取った。
『影縫い』!
「ガッ……!? グルルッ!」
跳び上がろうとした巨体が、空中で不自然に動きを止めた。
次の瞬間、影狼の体が地面へと叩きつけられる。
ドォンッ!
土煙が舞い上がった。
影狼は牙を剥き、四肢をばたつかせて必死にもがく。
けれど、影猫たちが作り出した影の縄はびくともしなかった。
「よしっ……!」
止められた!
僕が、あの大きなあやかしの動きを封じたんだ!
「上出来だ、あかり!」
黒の声が飛んできた。
「最高の隙だぜ!」
その声を合図にしたかのように、黒の体から濃密な漆黒の妖力が溢れ出した。
渦巻く妖力が、紫黒色の刀身へと吸い込まれていく。
刃の周囲に影がまとわりつき、まるで刀そのものが闇を纏ったかのように姿を変えた。
黒が低く告げる。
「俺の神代の妖力は、影を刃に纏わせて切り裂く力だ。影を纏わせりゃ、切れ味も間合いも、威力も段違いになる」
その言葉が終わるより早く、黒の姿が動いた。
「――道をあけろ、ザコが!」
一瞬だった。
地面を蹴る音さえ、ほとんど聞こえなかった。
黒い着物が翻り、紫黒色の刃が閃く。
目で追おうとしても、速すぎて見えない。
ただ、刀が通った軌跡に沿って、紫色の光が霧を鮮やかに切り裂いた。
「一閃!」
影狼の巨体が、斜めに真っ二つに両断された。
「グ……ル……」
最後の唸り声が途切れる。
次の瞬間、影狼の体を覆っていた青い炎が、無数の火花となって散った。
青い光が霧の中へ溶けていく。
そして――静寂が戻った。
黒は刀を鋭く振り、刃についたあやかしの血を払った。
カチリ。
小気味よい音とともに刀が鞘へ収まる。
まるで、今の戦いなど何でもなかったかのように。
「……すごいや、黒!」
僕は目を輝かせながら駆け寄った。
「今の、全然見えなかったよ! 刀を抜いたと思ったら、もう倒してたんだもん!」
黒は人間の姿のまま、僕の前にしゃがみ込んだ。
そして、いつものように大きな手で僕の頭をくしゃっと撫でる。
「お前が完璧に動きを止めてくれたからだ」
「えっ……?」
「初めての強敵相手に、俺とあれだけ息を合わせるなんざ、そうそうできることじゃねえ」
黒は少し照れくさそうに八重歯を見せて笑った。
「やっぱりお前は、俺が見込んだ通りの天才だな」
「て、天才……?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
天才。
僕が?
その言葉は、今までの僕には縁のないものだった。
『陰陽師の面汚しめ』
『呪符の一枚も燃やせず、式神の一体すら扱えない無能が』
脳裏に浮かぶのは、実家で浴びせられ続けた冷たい言葉。
優秀な兄たちとは違い、僕には霊力がない。
そう決めつけられた僕は、忌み子として物置のような部屋に追いやられた。
どれだけ努力しても、呪符は反応しない。
どれだけ願っても、式神は縛れない。
父も、兄たちも、僕のことを見ようとはしなかった。
僕に与えられた役目は、あやかしを引きつける囮。
誰も、僕自身を必要としてくれなかった。
なのに――。
黒は違う。
黒は、僕の力を見てくれる。
僕が何をできるのか、ちゃんと確かめてくれる。
そして、できたことを、こんなにも嬉しそうに褒めてくれる。
「……黒」
「ん?」
僕は、ぎゅっと着物の胸元を握りしめた。
「……僕、役に立った……?」
声が震えた。
本当は、聞かなくても分かっているはずだった。
影狼の動きを止めたのは、僕だ。
黒が一撃で仕留められたのは、僕が隙を作ったからだ。
でも…黒だったら僕がいなかったとしても…。
それでも、どうしても確かめたかった。
僕は、ここにいていいのか。
黒の隣に立ってもいいのか。
僕の力には、意味があるのか。
黒は一瞬きょとんとした。
それから、呆れたように笑った。
「役に立ったどころじゃねえよ」
大きな手が、僕の頭にぽんと乗せられる。
「お前がいなきゃ、あいつをあそこまで簡単には仕留められなかった。お前が作った隙を、俺が使った。それだけの話だ」
黒の金色の瞳が、まっすぐ僕を見つめる。
「俺たち二人で倒したんだろ?」
「……」
胸の奥が、熱くなった。
僕一人じゃない。
黒一人でもない。
二人で、倒した。
僕の力も、黒の力も、どちらも必要だった。
そんなふうに言ってもらえたことが、嬉しくて、嬉しくて。
「……う、うぅ……うう」
気づけば、視界が滲んでいた。
「あ? おいおい、なんで泣いてんだ?」
黒が困ったように眉を下げる。
けれど、その手は止まらなかった。
大きな手が、僕の頭をガシガシと優しく撫でてくれる。
「ったく……お前はほんと、すぐ泣くなあ」
呆れたような口調なのに、その声はどこまでも優しかった。
僕は袖で涙を拭った。
何度も、何度も。
それでも、胸の奥から溢れてくるものは止まらない。
ずっと欲しかった言葉。
ずっと認めてほしかった自分。
その両方を、黒は何でもないことのように、僕に与えてくれる。
その温もりに触れていると、心の奥にこびりついていた冷たい傷痕が、少しずつ溶けていく気がした。
「……あり…がと…う…く…黒」
僕が小さく呟くと、黒は照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「礼なんざいい。ほら、まだ先があるぞ。中層はこんなもんじゃねえからな」
「うん!」
僕は涙を拭い、力いっぱい頷いた。
怖くないと言えば、嘘になる。
でも、今はもう、ただ守られているだけじゃない。
僕にも、黒を支えられる力がある。
僕と黒なら、もっと強いあやかしだって倒せるかもしれない。
そう思うと、山の奥へ続く道が、少しだけ明るく見えた。
足元では、影猫たちが嬉しそうに尻尾を揺らしている。
「にゃあ!」
「ふふっ、みんなもありがとう!」
僕は小さな頭を順番に撫でた。
黒はそんな僕を見て、満足そうに笑う。
「よし。次もその調子で頼むぜ、あかり」
「任せて、黒!」
僕たちは再び歩き出した。
紫色の霧は、さらに深くなっていく。
その先には、まだ見ぬあやかしたちが待ち受けている。
けれど、僕はもう知っている。
僕の力は、誰かの役に立てる。
そして、僕の隣には、僕のことを信じてくれる最強の猫又がいる。
――だから僕は、もう一歩だって、後ろには下がらない。
お読みいただきありがとうございます。
実家では評価されなかったあかりが、黒に「天才だ」と認められて報われるシーンでした。
加速する二人の絆と無双っぷりの次回もお読みいただけるとうれしいです。




