↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/36

最強の猫又と、僕の初陣

一カ月が経った。


全身を覆っていた傷もすっかり癒え、僕はようやく、元気に動き回れるまでに回復していた。


囲炉裏の中で、薪がパチパチと爆ぜる。


香ばしい醤油の匂いが、ふわりと鼻をくすぐった。


その心地よさに誘われるように目を開けると、黒はすでに旅支度を整え、僕が起きるのを待っていた。


「お、起きたか、あかり。体調はどうだ?」


「うん! もうどこも痛くないよ、黒!」


勢いよく起き上がると、枕元に小さな着物が畳んであるのが目に入った。


動きやすそうな、紺色の着物だ。


「これ、僕の?」


「ああ。今日から山に入るんだからな。動きやすいもんがいいだろ」


僕はそっと着物を手に取った。


指先に触れた布地は驚くほど柔らかく、ふんわりとした温もりを感じさせた。


実家にいた頃、僕が着せられていたのは、いつだって兄のお下がりだった。中には姉のおさがりの着物さえ混ざっていた。


袖も裾も擦り切れて、ところどころ布がほつれている。丈が合わなくても、直してもらえることなんてなかった。


冬になれば、季節外れの薄い布一枚で寒さをしのぎ、納屋の隅で体を丸めていた。


それが、僕の当たり前だった。


なのに。


「……こんなに、きれいな着物……」


僕のために、黒が用意してくれた。


僕の体に合うように、僕が動きやすいように。


そんなことを考えてくれたのだと思うと、胸の奥がじんわりと熱くなった。


「黒、ありがとう!」


僕はさっそく着物に袖を通し、黒の前でくるりと一回転してみせた。


「どうかな? 似合う?」


朝ごはんのおにぎりを頬張っていた黒は、僕を上から下まで眺めると、満足そうに親指をグッと立てた。


「おう、最高に似合ってるぞ。俺の弟分だからな。身なりも一級品じゃなきゃ格好がつかねえ」


「弟分……えへへ」


その言葉が嬉しくて、僕は思わず笑ってしまった。


黒は何でもないことのように言うけれど、僕にとっては、何よりも大切な言葉だった。


黒が僕を弟だと思ってくれている。


僕はもう、一人ぼっちじゃないんだ。


「ほら、あかり。飯だ。今日は久しぶりに握り飯にしてみたぞ」


黒が差し出してくれたのは、出来立ての大きなおにぎりだった。


この一カ月、食事といえば、いつもお椀によそってもらった温かいご飯を食べていた。もちろん、それだって十分すぎるほど嬉しかった。


けれど、こうしておにぎりを手にするのは久しぶりだ。


一カ月前、黒が初めて僕のために握ってくれたおにぎり。あのときの温かさと美味しさは、今でもはっきり覚えている。


僕は両手でおにぎりを受け取り、そっと頬を緩めた。


「えへへ……黒のおにぎり、久しぶりだね」


「ああ。たまにはこういうのもいいだろ」


何でもないことのように笑う黒を見て、胸の奥がじんわりと温かくなる。


僕はさっそく、一口頬張った。


ふっくらとしたご飯の中から、鮭の旨味が広がる。


温かくて、優しくて、心まで満たされるような味だった。


誰かが自分のために、ご飯を作ってくれる。


自分が食べることを考えて、おにぎりを握ってくれる。


「美味いか?」


黒が、少しだけこちらをうかがうように尋ねてくる。


「うんっ! すっごく……すっごく美味しいよ……!」


答えた途端、視界が滲んだ。


実家にいた頃の僕は、そんな幸せがあることさえ知らなかった。


あの日、黒が握ってくれたおにぎりを食べながら、僕は泣いてしまったんだ。


もう一カ月も経つのに。


今だって、黒は変わらず僕のことを気にかけてくれる。僕のために着物を用意して、ご飯を作って、こうして笑いかけてくれる。


――僕は、本当にここにいていいんだ。


そう思った途端、胸の奥がぎゅっと熱くなった。


ポロリ。


大粒の涙が、おにぎりの上に落ちる。


「あ、あれ……? おかしいな……」


拭っても、拭っても、涙が止まらない。


僕はおにぎりをぎゅっと握りしめたまま、ぽろぽろと泣いてしまった。


黒は一瞬、目を丸くした。


けれど、すぐにその金色の瞳を優しく細める。


「たく……お前は握り飯を食うたび泣くのか。そこまで感動してもらえると、握った甲斐があるけどよ」


そう言って、黒は照れくさそうに鼻を掻いた。


「ほら、しっかり食え。今日の初陣に備えろ」


大きな手が、僕の頭をポンポンと撫でる。


その手は温かくて、力強くて。


僕は袖で涙をゴシゴシと拭い、精いっぱいの笑顔を浮かべた。


「うん! いっぱい食べる!」


もう一口、おにぎりを頬張る。


今日はいよいよ、僕の初めての実戦だ。


怖くないと言えば、嘘になる。


それでも。


黒が一緒なら、きっと大丈夫。


僕はおにぎりを食べ終えると、黒と並んで屋敷の外へ踏み出した。


そこに広がっていたのは、家の中の穏やかさとはまるで違う世界だった。


昼間だというのに、山全体が不気味な紫色の霧に包まれている。


霧は木々の間を這い、足元を流れ、まるで山そのものが生きているかのように蠢いていた。


肌を刺すような冷たい空気。


息を吸うだけで、胸の奥まで重苦しさが染み込んでくる。


そして――。


「クスクス……」


「ケケケ……」


鬱蒼とした藪の奥から、不気味な笑い声が響いた。


一つではない。


あちらからも、こちらからも。


姿の見えない何者かが、僕たちを嘲笑っている。


ここが『神隠しの山』。


実家にいた頃、陰陽師である父は、この山をこう呼んで恐れていた。


『一度足を踏み入れれば、二度と生きては帰れぬ呪われた山』――と。


ゴクリ。


僕は唾を飲み込み、小さく拳を握った。


怖い。


やっぱり、怖い。


足が震えそうになるのを必死にこらえていると、不意に、隣を歩いていた黒の手が僕の頭に乗せられた。


大きな手の温もりが、じんわりと伝わってくる。


「あかり、怖気づく必要はねえ」


黒は前を向いたまま、いつもの調子で言った。


「お前の足元を見ろ。さっそくお出迎えだぞ」


「えっ……?」


視線を落とした、その瞬間だった。


僕たちの前にある湿った地面が、ドロリと黒く波打った。


まるで底なし沼が口を開けたように、地面の中から何かが這い出してくる。


一匹。


二匹。


三匹――。


「……うそ……!」


泥をこねくり回し、無理やり人の形に押し固めたような醜い体。


顔にあたる場所には目がなく、そこにあるのは、耳まで裂けた巨大な口だけだった。


ガチガチ、ガチガチ。


不揃いな牙が、不気味な音を立てて噛み合わされる。


この山の下層に棲む、下級あやかし。


『泥餓鬼』。


その数、五匹。


藪の中からも、地面の底からも、次々と這い出してくる。


五つの醜い口が、いっせいに僕たちへ向けられた。


「ウガァァァァッ!」


耳をつんざく咆哮が、山道に響き渡った。


その瞬間。


僕の頭の中に、あの頃の記憶が蘇った。


『役立たずの忌み子が! 怪物のおとりくらいしか使い道がないだろう!』


父親の冷酷な声。


僕を突き飛ばし、暗闇の奥へと押しやった兄たちの蔑むような笑顔。


迫りくるあやかしの爪。


皮膚を引き裂く激痛。


助けて、と叫んでも、誰も振り返ってはくれなかった。


(ひっ……!)


背筋を冷たい汗が伝った。


膝がガクガクと震え、足が地面に縫いつけられたように動かない。


あの頃の僕なら、きっと、このまま泣き叫んで倒れ込んでいただろう。


何もできない。


何も守れない。


そうやって、ずっと自分を諦めてきた。


――でも。


「あかり」


すぐ隣から、低く落ち着いた声が聞こえた。


「俺がついてる!」


僕はハッとして顔を上げた。


黒は焦っていなかった。


迫りくる泥餓鬼を前にしても、少しも動じず、むしろ不敵な笑みさえ浮かべている。


その金色の瞳が、僕をまっすぐに見つめていた。


大丈夫だ。


そう言ってくれているような気がした。


お腹の中には、さっき黒が握ってくれた温かい鮭のおにぎりがある。


背中には、黒が選んでくれた、僕のための着物がある。


そして、隣には黒がいる。


僕の名前を呼んでくれて。


僕に居場所をくれて。


僕のことを、弟分だと言ってくれた黒が。


もう僕は、実家の物置で一人震えていた、無能な忌み子じゃない。


僕には、僕の力がある。


だったら――。


「……僕、もう逃げない!絶対に!」


震える足に、ぎゅっと力を込めた。


怖い。


だけど、怖いからって、何もできないままじゃ嫌だ。


「黒の隣で、胸を張って一緒に戦うんだ!」


僕は両手を地面に向かって突き出した。


「おいで、みんな!」


呪文はいらない。


難しい型だって、必要ない。


胸の奥から湧き上がる想いを、お腹の底にある霊力へと込める。


黒を守りたい。


黒の期待に応えたい。


そして、もう二度と、あの頃の自分に戻りたくない。


その想いに応えるように――。


足元から、漆黒の影が爆発した。


ドッ――!


影は地面を這い、四方八方へと一気に広がっていく。


そして、その黒い闇の中から。


ポンッ。


ポンッ。


ポポポポンッ!


漆黒の小さな体が、次々と飛び出した。


金色に輝く、まん丸な瞳。


しなやかな尻尾。


小さな前足には、鋭い影の爪。


「にゃあぁぁぁ!」


可愛らしい鳴き声が、紫の霧に響き渡る。


僕の式神――『影猫』たちだ!


一匹、二匹、三匹……。


あっという間に二十匹以上の影猫が、僕と黒の前に並んだ。


その愛らしい姿に、思わず頬が緩みかける。


けれど、次の瞬間。


影猫たちは一斉に地面を蹴った。


漆黒の弾丸と化した小さな体が、泥餓鬼たちへと殺到する。


「グガッ!?」


泥餓鬼の一匹が、慌てて腕を振り上げた。


だが、遅い。


一匹の影猫が足元へ滑り込み、敵の影を両前足で踏みつけた。


次の瞬間、泥餓鬼の動きがピタリと止まる。


「グ……ガ……?」


腕を振り上げたまま、まるで見えない鎖に縛られたかのように動けなくなったのだ。


『影縫い』。


影を押さえつけることで、相手の動きを封じる技。


そこへ、別の三匹の影猫が飛びかかった。


「ニャアンッ!」


前足から伸びた漆黒の爪が、鋭い刃となって閃く。


ザシュッ!


ザシュッ!


ザシュッ!


一瞬の交差。


泥餓鬼の体が、あっという間に切り裂かれた。


「ギャァァッ!?」


泥の体が飛び散り、黒いしぶきを上げる。


その間にも、残る影猫たちが次々と敵へ襲いかかっていた。


一匹が足を封じる。


別の一匹が背後へ回り込む。


そして、仲間たちが一斉に飛びかかる。


小さな体からは想像もつかないほどの速さと、息の合った連携。


まるで、最初から何度も一緒に戦ってきたかのようだった。


「グガッ!」


「ギャッ、ギャアァッ!」


泥餓鬼たちは反撃する間もなかった。


縫い止められ、切り裂かれ、次々と地面へ沈んでいく。


そして――。


最後の一匹が、黒い泥水となって地面に崩れ落ちた。


静寂。


あれほど響いていた咆哮も、不気味な笑い声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。


五匹の泥餓鬼は、跡形もなく消滅していた。


……たった数秒。


本当に、たった数秒の出来事だった。


「…………」


僕は呆然と立ち尽くした。


倒せた。


僕が?


あの恐ろしいあやかしを?


「……すごい。本当に、倒せたんだ……」


自分の手を見つめる。


実家では、ゴミだと呼ばれた。


役立たずだと、無能だと、何度も罵られた。


そんな僕が、今、自分の力であやかしを退治した。


その事実が、少しずつ胸に染み込んでくる。


すると、役目を終えた影猫たちが、トコトコと僕の足元へ戻ってきた。


「にゃ〜」


「ゴロゴロゴロ……」


小さな頭が、着物の裾にすり寄ってくる。


一匹が足に体をこすりつけ、別の一匹は僕の足元で丸くなった。


「わあっ……!」


僕は思わずしゃがみ込んだ。


さっきまで、あんなに格好よく戦っていたのに。


今はみんな、甘えん坊の猫みたいだ。


「みんな、ありがとう……!」


そっと頭を撫でると、影猫たちは嬉しそうに喉を鳴らした。


その様子を見ていた黒が、呆れたように息を吐いた。


『……容赦ねえな。初陣でこれだけの連携を無意識にやるかよ』


けれど、声には隠しきれない喜びが滲んでいた。


金色の瞳が、誇らしげに細められる。


「黒!」


僕は勢いよく立ち上がった。


「できたよ! 僕、ちゃんと戦えた! ケガもしなかった!」


嬉しくて、思わずその場で飛び跳ねてしまう。


黒はカッカッと豪快に笑った。


「ああ、満点だ! 完璧だったぞ、あかり!」


そう言って、僕の頭を大きな手でガシガシと撫で回す。


「わっ、黒! 髪がぐしゃぐしゃになっちゃうよ!」


「ははっ、いいじゃねえか! 初陣であれだけやれりゃ上等だ!」


乱暴なくらいの手つきなのに、不思議と嫌じゃなかった。


むしろ、もっと撫でてほしいと思ってしまう。


だって、黒が僕を褒めてくれている。


僕の頑張りを、ちゃんと見ていてくれたのだから。


「だがな、あかり」


ひとしきり笑った黒は、山の奥へと視線を向けた。


その金色の瞳に、先ほどまでとは違う鋭い光が宿る。


「ここは、まだ山の入り口だ。奥に進めば、もっと骨のある奴らがゴロゴロ出てくるぜ」


「もっと強いあやかしが……?」


「ああ。だから、ここで満足してもらっちゃ困る」


黒は腰に差した刀へ手をかけた。


紫の鞘が、薄暗い霧の中で鈍く光る。


そして、口元に不敵な笑みを浮かべた。


「――お前の『影猫』と俺の刀、どっちが早く敵を片付けるか。勝負といこうじゃねえか」


「えっ、黒と勝負!?」


「ああ。負けたほうが、今日の晩飯のおかずを一品減らすってのはどうだ?」


「そ、それは困るよ!」


思わず声を上げると、黒はまた楽しそうに笑った。


「はははっ! なら、負けんじゃねえぞ!」


「うん! 僕、絶対に負けないよ!」


胸の奥に残っていた恐怖は、いつの間にか消えていた。


代わりに、今は早く山の奥へ進みたいという気持ちが膨らんでいる。


もっと強くなりたい。


黒の隣に立てるようになりたい。


そして、いつか――。


黒の背中を守れるようになりたい。


「よし、その意気だ。それじゃあ、山の中層まで一気に行くぞ!」


「うん!」


僕は元気よく返事をした。


足元では、影猫たちが「にゃあ!」と鳴き声を上げる。


まるで、僕たちについていくと言っているみたいだった。


こうして僕と黒は、初陣を終えた勢いそのままに、さらに深い山道へと足を踏み入れた。


紫色の霧は、進むほどに濃くなっていく。


その先に待ち受けるものが何なのか、今の僕にはまだ分からない。


けれど、もう足はすくまなかった。


隣には黒がいる。


僕には、影猫たちがいる。


だから、きっと大丈夫。


――神隠しの山で始まった僕の新しい日々は、まだまだこれからなのだから。

ここまでお読みいただきありがとうございます


影猫たちを乗りこなして泥餓鬼を退治するあかりと、誇らしげに鼻が高い黒兄貴のコンビでした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。