最強の猫又と、僕の初陣
一カ月が経った。
全身を覆っていた傷もすっかり癒え、僕はようやく、元気に動き回れるまでに回復していた。
囲炉裏の中で、薪がパチパチと爆ぜる。
香ばしい醤油の匂いが、ふわりと鼻をくすぐった。
その心地よさに誘われるように目を開けると、黒はすでに旅支度を整え、僕が起きるのを待っていた。
「お、起きたか、あかり。体調はどうだ?」
「うん! もうどこも痛くないよ、黒!」
勢いよく起き上がると、枕元に小さな着物が畳んであるのが目に入った。
動きやすそうな、紺色の着物だ。
「これ、僕の?」
「ああ。今日から山に入るんだからな。動きやすいもんがいいだろ」
僕はそっと着物を手に取った。
指先に触れた布地は驚くほど柔らかく、ふんわりとした温もりを感じさせた。
実家にいた頃、僕が着せられていたのは、いつだって兄のお下がりだった。中には姉のおさがりの着物さえ混ざっていた。
袖も裾も擦り切れて、ところどころ布がほつれている。丈が合わなくても、直してもらえることなんてなかった。
冬になれば、季節外れの薄い布一枚で寒さをしのぎ、納屋の隅で体を丸めていた。
それが、僕の当たり前だった。
なのに。
「……こんなに、きれいな着物……」
僕のために、黒が用意してくれた。
僕の体に合うように、僕が動きやすいように。
そんなことを考えてくれたのだと思うと、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「黒、ありがとう!」
僕はさっそく着物に袖を通し、黒の前でくるりと一回転してみせた。
「どうかな? 似合う?」
朝ごはんのおにぎりを頬張っていた黒は、僕を上から下まで眺めると、満足そうに親指をグッと立てた。
「おう、最高に似合ってるぞ。俺の弟分だからな。身なりも一級品じゃなきゃ格好がつかねえ」
「弟分……えへへ」
その言葉が嬉しくて、僕は思わず笑ってしまった。
黒は何でもないことのように言うけれど、僕にとっては、何よりも大切な言葉だった。
黒が僕を弟だと思ってくれている。
僕はもう、一人ぼっちじゃないんだ。
「ほら、あかり。飯だ。今日は久しぶりに握り飯にしてみたぞ」
黒が差し出してくれたのは、出来立ての大きなおにぎりだった。
この一カ月、食事といえば、いつもお椀によそってもらった温かいご飯を食べていた。もちろん、それだって十分すぎるほど嬉しかった。
けれど、こうしておにぎりを手にするのは久しぶりだ。
一カ月前、黒が初めて僕のために握ってくれたおにぎり。あのときの温かさと美味しさは、今でもはっきり覚えている。
僕は両手でおにぎりを受け取り、そっと頬を緩めた。
「えへへ……黒のおにぎり、久しぶりだね」
「ああ。たまにはこういうのもいいだろ」
何でもないことのように笑う黒を見て、胸の奥がじんわりと温かくなる。
僕はさっそく、一口頬張った。
ふっくらとしたご飯の中から、鮭の旨味が広がる。
温かくて、優しくて、心まで満たされるような味だった。
誰かが自分のために、ご飯を作ってくれる。
自分が食べることを考えて、おにぎりを握ってくれる。
「美味いか?」
黒が、少しだけこちらをうかがうように尋ねてくる。
「うんっ! すっごく……すっごく美味しいよ……!」
答えた途端、視界が滲んだ。
実家にいた頃の僕は、そんな幸せがあることさえ知らなかった。
あの日、黒が握ってくれたおにぎりを食べながら、僕は泣いてしまったんだ。
もう一カ月も経つのに。
今だって、黒は変わらず僕のことを気にかけてくれる。僕のために着物を用意して、ご飯を作って、こうして笑いかけてくれる。
――僕は、本当にここにいていいんだ。
そう思った途端、胸の奥がぎゅっと熱くなった。
ポロリ。
大粒の涙が、おにぎりの上に落ちる。
「あ、あれ……? おかしいな……」
拭っても、拭っても、涙が止まらない。
僕はおにぎりをぎゅっと握りしめたまま、ぽろぽろと泣いてしまった。
黒は一瞬、目を丸くした。
けれど、すぐにその金色の瞳を優しく細める。
「たく……お前は握り飯を食うたび泣くのか。そこまで感動してもらえると、握った甲斐があるけどよ」
そう言って、黒は照れくさそうに鼻を掻いた。
「ほら、しっかり食え。今日の初陣に備えろ」
大きな手が、僕の頭をポンポンと撫でる。
その手は温かくて、力強くて。
僕は袖で涙をゴシゴシと拭い、精いっぱいの笑顔を浮かべた。
「うん! いっぱい食べる!」
もう一口、おにぎりを頬張る。
今日はいよいよ、僕の初めての実戦だ。
怖くないと言えば、嘘になる。
それでも。
黒が一緒なら、きっと大丈夫。
僕はおにぎりを食べ終えると、黒と並んで屋敷の外へ踏み出した。
そこに広がっていたのは、家の中の穏やかさとはまるで違う世界だった。
昼間だというのに、山全体が不気味な紫色の霧に包まれている。
霧は木々の間を這い、足元を流れ、まるで山そのものが生きているかのように蠢いていた。
肌を刺すような冷たい空気。
息を吸うだけで、胸の奥まで重苦しさが染み込んでくる。
そして――。
「クスクス……」
「ケケケ……」
鬱蒼とした藪の奥から、不気味な笑い声が響いた。
一つではない。
あちらからも、こちらからも。
姿の見えない何者かが、僕たちを嘲笑っている。
ここが『神隠しの山』。
実家にいた頃、陰陽師である父は、この山をこう呼んで恐れていた。
『一度足を踏み入れれば、二度と生きては帰れぬ呪われた山』――と。
ゴクリ。
僕は唾を飲み込み、小さく拳を握った。
怖い。
やっぱり、怖い。
足が震えそうになるのを必死にこらえていると、不意に、隣を歩いていた黒の手が僕の頭に乗せられた。
大きな手の温もりが、じんわりと伝わってくる。
「あかり、怖気づく必要はねえ」
黒は前を向いたまま、いつもの調子で言った。
「お前の足元を見ろ。さっそくお出迎えだぞ」
「えっ……?」
視線を落とした、その瞬間だった。
僕たちの前にある湿った地面が、ドロリと黒く波打った。
まるで底なし沼が口を開けたように、地面の中から何かが這い出してくる。
一匹。
二匹。
三匹――。
「……うそ……!」
泥をこねくり回し、無理やり人の形に押し固めたような醜い体。
顔にあたる場所には目がなく、そこにあるのは、耳まで裂けた巨大な口だけだった。
ガチガチ、ガチガチ。
不揃いな牙が、不気味な音を立てて噛み合わされる。
この山の下層に棲む、下級あやかし。
『泥餓鬼』。
その数、五匹。
藪の中からも、地面の底からも、次々と這い出してくる。
五つの醜い口が、いっせいに僕たちへ向けられた。
「ウガァァァァッ!」
耳をつんざく咆哮が、山道に響き渡った。
その瞬間。
僕の頭の中に、あの頃の記憶が蘇った。
『役立たずの忌み子が! 怪物のおとりくらいしか使い道がないだろう!』
父親の冷酷な声。
僕を突き飛ばし、暗闇の奥へと押しやった兄たちの蔑むような笑顔。
迫りくるあやかしの爪。
皮膚を引き裂く激痛。
助けて、と叫んでも、誰も振り返ってはくれなかった。
(ひっ……!)
背筋を冷たい汗が伝った。
膝がガクガクと震え、足が地面に縫いつけられたように動かない。
あの頃の僕なら、きっと、このまま泣き叫んで倒れ込んでいただろう。
何もできない。
何も守れない。
そうやって、ずっと自分を諦めてきた。
――でも。
「あかり」
すぐ隣から、低く落ち着いた声が聞こえた。
「俺がついてる!」
僕はハッとして顔を上げた。
黒は焦っていなかった。
迫りくる泥餓鬼を前にしても、少しも動じず、むしろ不敵な笑みさえ浮かべている。
その金色の瞳が、僕をまっすぐに見つめていた。
大丈夫だ。
そう言ってくれているような気がした。
お腹の中には、さっき黒が握ってくれた温かい鮭のおにぎりがある。
背中には、黒が選んでくれた、僕のための着物がある。
そして、隣には黒がいる。
僕の名前を呼んでくれて。
僕に居場所をくれて。
僕のことを、弟分だと言ってくれた黒が。
もう僕は、実家の物置で一人震えていた、無能な忌み子じゃない。
僕には、僕の力がある。
だったら――。
「……僕、もう逃げない!絶対に!」
震える足に、ぎゅっと力を込めた。
怖い。
だけど、怖いからって、何もできないままじゃ嫌だ。
「黒の隣で、胸を張って一緒に戦うんだ!」
僕は両手を地面に向かって突き出した。
「おいで、みんな!」
呪文はいらない。
難しい型だって、必要ない。
胸の奥から湧き上がる想いを、お腹の底にある霊力へと込める。
黒を守りたい。
黒の期待に応えたい。
そして、もう二度と、あの頃の自分に戻りたくない。
その想いに応えるように――。
足元から、漆黒の影が爆発した。
ドッ――!
影は地面を這い、四方八方へと一気に広がっていく。
そして、その黒い闇の中から。
ポンッ。
ポンッ。
ポポポポンッ!
漆黒の小さな体が、次々と飛び出した。
金色に輝く、まん丸な瞳。
しなやかな尻尾。
小さな前足には、鋭い影の爪。
「にゃあぁぁぁ!」
可愛らしい鳴き声が、紫の霧に響き渡る。
僕の式神――『影猫』たちだ!
一匹、二匹、三匹……。
あっという間に二十匹以上の影猫が、僕と黒の前に並んだ。
その愛らしい姿に、思わず頬が緩みかける。
けれど、次の瞬間。
影猫たちは一斉に地面を蹴った。
漆黒の弾丸と化した小さな体が、泥餓鬼たちへと殺到する。
「グガッ!?」
泥餓鬼の一匹が、慌てて腕を振り上げた。
だが、遅い。
一匹の影猫が足元へ滑り込み、敵の影を両前足で踏みつけた。
次の瞬間、泥餓鬼の動きがピタリと止まる。
「グ……ガ……?」
腕を振り上げたまま、まるで見えない鎖に縛られたかのように動けなくなったのだ。
『影縫い』。
影を押さえつけることで、相手の動きを封じる技。
そこへ、別の三匹の影猫が飛びかかった。
「ニャアンッ!」
前足から伸びた漆黒の爪が、鋭い刃となって閃く。
ザシュッ!
ザシュッ!
ザシュッ!
一瞬の交差。
泥餓鬼の体が、あっという間に切り裂かれた。
「ギャァァッ!?」
泥の体が飛び散り、黒いしぶきを上げる。
その間にも、残る影猫たちが次々と敵へ襲いかかっていた。
一匹が足を封じる。
別の一匹が背後へ回り込む。
そして、仲間たちが一斉に飛びかかる。
小さな体からは想像もつかないほどの速さと、息の合った連携。
まるで、最初から何度も一緒に戦ってきたかのようだった。
「グガッ!」
「ギャッ、ギャアァッ!」
泥餓鬼たちは反撃する間もなかった。
縫い止められ、切り裂かれ、次々と地面へ沈んでいく。
そして――。
最後の一匹が、黒い泥水となって地面に崩れ落ちた。
静寂。
あれほど響いていた咆哮も、不気味な笑い声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
五匹の泥餓鬼は、跡形もなく消滅していた。
……たった数秒。
本当に、たった数秒の出来事だった。
「…………」
僕は呆然と立ち尽くした。
倒せた。
僕が?
あの恐ろしいあやかしを?
「……すごい。本当に、倒せたんだ……」
自分の手を見つめる。
実家では、ゴミだと呼ばれた。
役立たずだと、無能だと、何度も罵られた。
そんな僕が、今、自分の力であやかしを退治した。
その事実が、少しずつ胸に染み込んでくる。
すると、役目を終えた影猫たちが、トコトコと僕の足元へ戻ってきた。
「にゃ〜」
「ゴロゴロゴロ……」
小さな頭が、着物の裾にすり寄ってくる。
一匹が足に体をこすりつけ、別の一匹は僕の足元で丸くなった。
「わあっ……!」
僕は思わずしゃがみ込んだ。
さっきまで、あんなに格好よく戦っていたのに。
今はみんな、甘えん坊の猫みたいだ。
「みんな、ありがとう……!」
そっと頭を撫でると、影猫たちは嬉しそうに喉を鳴らした。
その様子を見ていた黒が、呆れたように息を吐いた。
『……容赦ねえな。初陣でこれだけの連携を無意識にやるかよ』
けれど、声には隠しきれない喜びが滲んでいた。
金色の瞳が、誇らしげに細められる。
「黒!」
僕は勢いよく立ち上がった。
「できたよ! 僕、ちゃんと戦えた! ケガもしなかった!」
嬉しくて、思わずその場で飛び跳ねてしまう。
黒はカッカッと豪快に笑った。
「ああ、満点だ! 完璧だったぞ、あかり!」
そう言って、僕の頭を大きな手でガシガシと撫で回す。
「わっ、黒! 髪がぐしゃぐしゃになっちゃうよ!」
「ははっ、いいじゃねえか! 初陣であれだけやれりゃ上等だ!」
乱暴なくらいの手つきなのに、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、もっと撫でてほしいと思ってしまう。
だって、黒が僕を褒めてくれている。
僕の頑張りを、ちゃんと見ていてくれたのだから。
「だがな、あかり」
ひとしきり笑った黒は、山の奥へと視線を向けた。
その金色の瞳に、先ほどまでとは違う鋭い光が宿る。
「ここは、まだ山の入り口だ。奥に進めば、もっと骨のある奴らがゴロゴロ出てくるぜ」
「もっと強いあやかしが……?」
「ああ。だから、ここで満足してもらっちゃ困る」
黒は腰に差した刀へ手をかけた。
紫の鞘が、薄暗い霧の中で鈍く光る。
そして、口元に不敵な笑みを浮かべた。
「――お前の『影猫』と俺の刀、どっちが早く敵を片付けるか。勝負といこうじゃねえか」
「えっ、黒と勝負!?」
「ああ。負けたほうが、今日の晩飯のおかずを一品減らすってのはどうだ?」
「そ、それは困るよ!」
思わず声を上げると、黒はまた楽しそうに笑った。
「はははっ! なら、負けんじゃねえぞ!」
「うん! 僕、絶対に負けないよ!」
胸の奥に残っていた恐怖は、いつの間にか消えていた。
代わりに、今は早く山の奥へ進みたいという気持ちが膨らんでいる。
もっと強くなりたい。
黒の隣に立てるようになりたい。
そして、いつか――。
黒の背中を守れるようになりたい。
「よし、その意気だ。それじゃあ、山の中層まで一気に行くぞ!」
「うん!」
僕は元気よく返事をした。
足元では、影猫たちが「にゃあ!」と鳴き声を上げる。
まるで、僕たちについていくと言っているみたいだった。
こうして僕と黒は、初陣を終えた勢いそのままに、さらに深い山道へと足を踏み入れた。
紫色の霧は、進むほどに濃くなっていく。
その先に待ち受けるものが何なのか、今の僕にはまだ分からない。
けれど、もう足はすくまなかった。
隣には黒がいる。
僕には、影猫たちがいる。
だから、きっと大丈夫。
――神隠しの山で始まった僕の新しい日々は、まだまだこれからなのだから。
ここまでお読みいただきありがとうございます
影猫たちを乗りこなして泥餓鬼を退治するあかりと、誇らしげに鼻が高い黒兄貴のコンビでした。




