最強の猫又ご飯と、僕だけの式神
黒に抱えられ、深い霧の結界を抜けた先。
僕の目の前に現れたのは、想像もしていなかった光景だった。
「……わぁ……!」
思わず、声が漏れた。
そびえ立つのは、立派な黒塗りの門。
門の向こうには、手入れの行き届いた広い庭があり、その奥には、堂々たる佇まいの和風屋敷が建っていた。
軒先には風鈴が揺れ、庭石の間を清らかな水が流れている。古い木々が屋敷を囲み、どこか懐かしいような、穏やかな空気が漂っていた。
ここが、本当にあやかしの住む場所なのだろうか。
神隠しの山といえば、人間が足を踏み入れれば二度と戻れない、恐ろしい場所だと聞かされていた。
けれど、この場所には不思議な静けさと、あたたかさがあった。
「ほら、着いたぞ。ここが俺の家だ」
黒が、得意げに笑った。
僕は黒の腕の中から、もう一度屋敷を見上げた。
「……すごい。黒って、こんなに立派なお屋敷に住んでるんだね」
「まあな。なんせ俺は、この山じゃちょっとした顔役だからよ」
「ちょっとした……?」
「おう。ちょっとした、だ」
黒はニヤリと笑った。
その顔を見ていると、本当にちょっとした顔役なのか、山じゅうのあやかしが恐れる大物なのか、わからなくなってくる。
でも――。
こんなに強くて、こんなに立派な家に住んでいる人が、僕を拾ってくれた。
そのことが、なんだか夢みたいだった。
「……さて。まずは、その泥だらけの体をどうにかするか」
黒は僕の着物を見て、眉をひそめた。
「まったく。どこのどいつだ、こんなボロボロにしやがって……」
低く呟く声に、一瞬だけ冷たい怒りが滲む。
けれど、僕を見下ろした時には、もういつもの不敵な笑みに戻っていた。
「よし、あかり。ちょっと我慢しろよ。先に傷を治すぞ」
「……うん」
黒は僕を抱いたまま、屋敷の裏手へと歩いていった。
そこには、苔むした石に囲まれた古い井戸があった。
黒が指先を軽く動かすと、井戸の水がふわりと宙に浮かび、まるで意思を持っているかのように僕の体へと流れてくる。
「わっ……!」
「暴れるなよ。目に入るぞ」
冷たい水が頬を伝い、髪に絡んだ泥を洗い流していく。
黒は僕の体を支えながら、血と泥に汚れた着物をそっと脱がせ、傷口を一つひとつ丁寧に洗ってくれた。
その手つきは、見た目の荒っぽさからは想像できないほど慎重だった。
痛む場所には直接触れないように。
傷口に水が染みる時には、少しだけ動きを緩めて。
まるで、僕が壊れやすい宝物であるかのように。
「……黒」
「あ?」
「……ありがとう」
小さな声で伝えると、黒は一瞬だけ手を止めた。
それから、フン、と鼻を鳴らす。
「礼はいいから、じっとしてろ。まだ終わってねえぞ」
そう言いながらも、僕の頭を支える手は、どこまでも優しかった。
やがて、傷口の汚れがすべて落ちると、黒は懐から小さな薬壺を取り出した。
蓋を開けた瞬間、独特の薬草の香りが漂う。
中に入っていたのは、鮮やかな緑色の軟膏だった。
「よし、次はこれだ」
「……それ、何?」
「霊薬だ。あやかし用の強いやつだな」
黒は平然と言った。
「人間の生身の傷なんざ、放っておけばすぐ化膿する。こいつを塗れば、傷口はあっという間に塞がる」
「そ、そうなんだ……」
「ただし――」
黒の金色の瞳が、すっと細くなる。
「めちゃくちゃ痛い」
「…………え?」
「我慢しろよ」
「えっ、あ、黒、待っ――」
ぺたり。
「ひゃあああっ……!」
傷口に薬が触れた瞬間、焼けた鉄を押し当てられたような激痛が全身を駆け抜けた。
思わず体が跳ねる。
「いっ、いた……っ!う、うぅ……!」
「おいおい、動くな。薬が塗れねえだろ」
黒は呆れたように言いながらも、僕の肩をしっかり支えてくれていた。
「……こ、こんなに痛いなんて……!」
「そりゃそうだ。人間向けの生ぬるい薬じゃねえからな」
黒は悪びれもせずに言い切った。
……黒、ひどい。
そう思ったけれど、口には出せなかった。
だって、黒は僕を助けてくれたんだ。
傷を治そうとしてくれているんだ。
ここで泣いて、これ以上心配をかけたくない。
(痛い……でも、我慢しなきゃ……!)
僕はぎゅっと唇を噛み締めた。
目の奥が熱くなる。
涙がこぼれそうになるたび、必死に堪えた。
黒はそんな僕を見て、ふっと小さく息を吐いた。
「……おい、あかり」
「……な、なに……?」
「別に泣いたって構わねえぞ」
「……っ!」
思わず顔を上げた。
黒は相変わらずぶっきらぼうな顔をしていたけれど、その金色の瞳は、僕を責めるどころか、どこか心配そうだった。
「痛えもんは痛えだろ。無理して我慢すんな」
「……でも……」
「でも、じゃねえ。ほら、もうちょっとだ」
大きな手が、僕の背中をぽん、と軽く叩いた。
「俺がついてる。だから、安心してろ」
その一言が、胸の奥にじんわりと染み込んだ。
僕は、こくんと頷いた。
「……うん」
今度は、涙を堪えるのをやめた。
ぽろり、と一粒だけ頬を伝った涙を、黒は何も言わずに親指で拭ってくれた。
そして、すべての傷に薬を塗り終えた頃。
あれほど激しかった痛みは、少しずつ引いていた。
代わりに、傷口の奥から、じんわりとした温かさが広がっていく。
「……あれ?」
僕は自分の腕を見つめた。
裂けていた傷口が、目に見えて塞がり始めている。
「す、すごい……!」
「だろ? 俺が選んだ薬だからな」
黒は得意げに胸を張った。
「まあ、まだ完全に治ったわけじゃねえ。しばらくは無茶するなよ」
「うん、黒!」
僕が頷くと、黒は満足そうに笑った。
それから、ふかふかの柔らかい布で、僕の体をすっぽりと包んでくれた。
温かい。
昨日からずっと、冷たくて、痛くて、怖くて。
そんなことばかりだったのに。
今は、体の芯から温もりが広がっていた。
僕は布に頬を寄せ、そっと目を閉じた。
……ここなら。
ここなら、もう大丈夫なのかな。
そんな気持ちが、ほんの少しだけ芽生え始めていた。
屋敷の中へ入ると、囲炉裏には赤々と火が燃えていた。
パチ、パチ、と薪が爆ぜる音が、静かな部屋に心地よく響いている。
黒は僕を座布団の上に座らせると、囲炉裏のそばに布団を敷いてくれた。
「そこに座って待ってろ。今、美味いもんを作ってやる」
「……黒が、作るの?」
「なんだよ。俺が料理しちゃ悪いのか?」
「う、ううん!そうじゃなくて……」
僕は慌てて首を横に振った。
ただ、少し驚いただけだ。
あんなに強くて、何十人もの陰陽師が相手にするような化け物を一瞬で倒してしまう人が。
自分に料理を作ってくれるなんて、思いもしなかったから。
「……楽しみにしてろ。腹が減ってんだろ?」
「……うん!」
黒が台所へ向かう。
その背中を見送りながら、僕は囲炉裏の火を見つめた。
ぱち、ぱち。
火が弾ける。
温かい。
静かだ。
誰かの怒鳴り声も、冷たい視線も、痛みもない。
僕を追い立てる人もいない。
気がつけば、ずっと張り詰めていた体から、少しずつ力が抜けていた。
まぶたが重い。
眠い。
でも、駄目だ。
黒がご飯を作ってくれているのに、寝てしまうなんて失礼だ。
「……ん、んん……」
こくり。
頭が前に傾く。
「……はっ!」
慌てて顔を上げた。
危ない。
寝るところだった。
そう思った矢先。
「ほらよ、あかり。できたぞ」
黒が大きな木のお皿を運んできた。
ふわり、と。
香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
お皿の上に乗っていたのは――大きなおにぎりだった。
つやつやと輝く白いご飯。
そのてっぺんには、こんがりと焼かれた鮭の切り身が、ちょこんとのっている。
立ち上る湯気から、炊きたてのお米の甘い香りが漂っていた。
「…………わぁ」
思わず、目を見開いた。
美味しそう。
すごく、美味しそうだ。
こんなに大きなおにぎり、見たことがない。
僕は目の前のお皿と黒の顔を交互に見つめた。
「……あの、黒」
「あ?」
「……これ、僕が食べてもいいの?」
黒が、ぴたりと動きを止めた。
「…………は?」
金色の瞳が、まん丸になる。
「何言ってんだ、お前」
「だ、だって……こんなに大きいし……」
「大きいから何だよ。お前の分だぞ」
「……僕の?」
「そうだっつってんだろ」
黒はフンと鼻を鳴らし、僕の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「遠慮すんな。食いたいだけ食え。足りなきゃ、いくらでも作ってやる」
……いくらでも。
その言葉を、僕はすぐに理解できなかった。
土御門家にいた頃。
僕は、まともな食事を与えられなかった。
他の子たちが温かいご飯を食べている間、僕は裏山で木の実を探したり、自分で捕まえた小魚を食べたりして、どうにか飢えを凌いでいた。
お腹が空いたと言えば、霊力もないくせにと罵られた。
食べ物を分けてほしいと願うことさえ、いつしか怖くなっていた。
だから目の前に置かれた温かいおにぎりが、まるで夢のように思えた。
「……いただきます」手を合わせる。
僕は両手で、そっとおにぎりを持ち上げた。
そして。
ぱくり。
思いきりかぶりついた。
「…………っ!」
口の中いっぱいに、炊きたてのお米の甘みが広がる。
ふっくらとしたご飯。
ほどよい塩気。
香ばしい鮭の旨味。
それらが一つになって、冷え切っていた体の奥へと染み渡っていく。
美味しい。
……美味しい。
こんなに美味しいもの、食べたことがない。
「……っ、う……」
ぽろり。
涙が落ちた。
手の中のおにぎりに、一粒、また一粒。
止めようとしても、どうしても止まらなかった。
「……おいしい……」
声が震えた。
「すっごく……おいしいよ、黒……っ!」
黒は、目をぱちくりさせた。
それから、困ったように頭を掻いた。
「……お、おう。そりゃよかったけどよ」
僕は何度も頷きながら、おにぎりを頬張った。
「……あかり」
黒が、僕の顔を覗き込んだ。
「そんなに慌てて食わなくても、飯は逃げねえぞ」
「……っ、でも……でも、おいしくて」
「でも、じゃねえ。ほら、まだある」
黒は、いつの間にかもう一つのおにぎりを差し出していた。
「……えっ?」
「おかわりだ。食え」
「……いいの?」
「何回聞くんだよ。いいに決まってんだろ」
黒は呆れたように笑った。
「ここじゃ、腹が減ったら飯を食う。眠くなったら寝る。痛え時は泣いてもいい。お前は誰に遠慮する必要もねえんだよ」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥で、何かがほどけた気がした。
ずっと、我慢していた。
お腹が空いても。
痛くても。
寂しくても。
誰かに迷惑をかけないように。
誰かに嫌われないように。
僕は、ずっと我慢してきた。
でも。
ここでは、我慢しなくてもいいのだろうか。
「……黒……」
「ん?」
「……僕、ここにいても……いいの?」
黒の手が止まった。
僕は慌てて俯いた。
「ご、ごめんなさい……!変なこと聞いて……」
「……あかり」
低い声が、静かに僕を呼んだ。
顔を上げる。
黒は、真剣な目で僕を見つめていた。
「昨日も言っただろ」
そして、僕の頭に大きな手を置いた。
「お前は、俺の身内だ」
ぽん、と。
優しく撫でられる。
「飯くらい好きなだけ食え。寝床だってある。ここはお前の家でもあるんだ」
「…………っ」
「だから、そんな顔すんな」
黒は、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
「お前が腹いっぱい食って、元気になってくれりゃ、それでいいんだよ」
もう、駄目だった。
涙が、どっと溢れた。
「……う、うぅ……っ」
「お、おいおい!また泣くのかよ!」
黒が慌てて僕の目元を拭う。
「鼻水まで出てんぞ!ほら、顔上げろ!」
「……っ、だって……おいしいんだもん……っ!」
「わかった、わかった! だから泣きながら食うなって!」
黒は呆れたように笑いながら、僕の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「まったく……手のかかる弟だぜ」
その声が、ひどく優しかった。
僕は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、何度も頷いた。
そして、温かいおにぎりを、最後の一口まで大切に食べた。
お腹がいっぱいになる頃には、体の奥からぽかぽかと温かさが広がっていた。
囲炉裏の火が、ゆらゆらと揺れている。
黒が隣に座っている。
それだけで、どうしようもなく安心した。
「……ふぁ……」
小さなあくびが漏れる。
「ククッ。なんだ、もう限界か?」
黒が楽しそうに笑った。
「傷だらけで倒れてたんだ。昨日は散々な目に遭ったんだろ。眠いなら寝ちまえ」
「……でも、黒……」
「ん?」
「……まだ、お礼を……」
「だから、礼はいらねえって」
黒は、ひょい、と僕を抱き上げた。
大きな腕に包まれると、体がすっぽり収まってしまう。
そのまま、ふかふかの布団へと運ばれた。
柔らかな布団。
温かい毛布。
そして、頭を撫でてくれる大きな手。
「……おやすみ、あかり」
低く、穏やかな声。
「明日から、いろいろ教えてやるからな」
「……うん……」
僕は小さく頷いた。
まぶたが、ゆっくりと閉じていく。
もう、何も怖くなかった。
誰かに怒鳴られる心配も。
食べ物を奪われる心配も。
朝になったら、また一人ぼっちになるのではないかという不安も。
黒が、そばにいてくれる。
僕の頭を撫でてくれる。
それだけで、十分だった。
……ああ。
こんなふうに眠るのは、初めてだ。
誰かの温もりを感じながら。
明日が来ることを、怖がらずに。
僕は、生まれて初めて――心から安心して眠りについた。
翌朝。
障子の向こうから差し込む、柔らかな朝日。
そして、ふわりと漂ってくる香ばしい匂い。
「……ん……?」
僕は、ゆっくりと目を開けた。
昨日までの痛みが、嘘のように軽くなっている。
体を起こしてみると、腕や足に残っていた傷も、ほとんど塞がっていた。
「……すごい。もう、こんなに……」
自分の体を確かめていると、奥から足音が聞こえてきた。
「おう、起きたか」
黒が、お盆を抱えて戻ってきた。
お盆の上には、湯気の立つ味噌汁、ふっくら炊けた白米、香ばしく焼かれた魚。それに、小鉢に盛られた漬物まで並んでいる。
「……わぁ……!」
「朝飯だ。ほら、食え食え」
黒は当たり前のように、僕の前へ朝ご飯を並べた。
「……黒、また作ってくれたの?」
「あ? ほかに誰が作るんだよ」
「……ありがとう!」
「おう」
黒はニヤリと笑った。
「昨日みてえに泣きながら食うなよ? せっかくの飯がしょっぱくなっちまうからな」
「……も、もう!黒!」
「ははっ!冗談だよ、冗談!」
僕は思わず頬を膨らませた。
そんな僕を見て、黒はまた楽しそうに笑った。
……なんだか。
こうして誰かと笑いながらご飯を食べるのは、初めてかもしれない。
僕たちは並んで座り、温かい朝ご飯を食べた。
味噌汁は、体に染み渡るような優しい味がした。
白米はふっくらとしていて、お魚は香ばしく、身がほろりとほどける。
美味しい。
そして、嬉しい。
お腹いっぱいになって、最後にお茶を飲み干す。
「……ふぅ」
思わず、満足の息が漏れた。
すると、黒がニヤリと笑った。
「よし。腹も膨れたところで――」
金色の瞳が、いたずらっぽく細められる。
「ちょっと、お前の力を試してみるか」
「……僕の、力?」
「ああ。昨日も話しただろ。お前の中に眠ってる『神代の力』だ」
その言葉に、僕の胸がどきりと鳴った。
神代の力。
昨日、黒が僕の中に眠っていると言った、特別な力。
僕はずっと、霊力がないから何もできないと思っていた。
でも、黒は違うと言ってくれた。
僕には、何かがあるのだと。
「……僕にも、本当にできるのかな?」
思わず尋ねると、黒は鼻で笑った。
「できるかどうかじゃねえ。まずは、やってみろって話だ」
そして、僕の頭をぽんと叩く。
「安心しろ。失敗したって、俺がいる」
「……うん!」
胸の奥に、熱いものが込み上げた。
僕も、強くなりたい。
黒のように。
どんな化け物にも怯まず、大切なものを守れるように。
もう、誰かに守ってもらうだけの自分ではいたくない。
「……黒!」
「あ?」
「僕、やってみたい!」
黒は、一瞬だけ目を見開いた。
それから、口元を大きく吊り上げた。
「……いい面構えじゃねえか」
金色の瞳が、嬉しそうに輝く。
「よし。庭に出るぞ、あかり!」
屋敷の庭には、朝の光が降り注いでいた。
木々の葉が風に揺れ、澄んだ空気の中を、小さな虫が飛んでいる。
僕は庭の中央に立ち、少し緊張しながら黒を見つめた。
黒は腕を組み、いつもの余裕たっぷりな顔で僕を見ていた。
「いいか、あかり。まずは、お前の力について説明しておく」
「うん!」
「普通の陰陽師が使う霊力ってのは、簡単に言えば、術を動かすための力だ。式神を使役するのも、結界を張るのも、その霊力を使って術を成立させる」
黒は指先を軽く振った。
すると、足元の小石がふわりと浮かび、宙でくるりと回ってから元の場所へ落ちた。
「だが、お前の力は根本から違う」
黒の声が、少しだけ真剣になる。
「お前の中に眠ってるのは、『神代の力』。万物を生み出す、根源の力だ」
「……万物を、生み出す……?」
「ああ。俺が持ってる『神代の妖力』とも、また別物だ」
黒は自分の胸を指差した。
「俺の力は、あやかしとしての存在を根源から支えるもんだ。だが、お前の力は――何かを生み出し、形にすることができる」
僕は、ごくりと唾を呑んだ。
何かを、生み出す。
そんなことが、本当にできるのだろうか。
「お前の力は、式神を『操る』んじゃねえ」
黒は、僕の目をまっすぐに見つめた。
「式神そのものを――『生み出す』力なんだ」
「……っ!」
胸が高鳴った。
僕にも、式神が作れる。
土御門家の陰陽師たちが使っていた、あの式神を。
「……でも、僕……霊力がないのに……」
「だから、神代の力だっつってんだろ」
黒は呆れたように笑った。
「人間の物差しで測ろうとすんな。まずは自分の中にある力を感じてみろ」
「……どうやって?」
「目を閉じろ。自分が生み出したいもんを、強く思い描くんだ」
黒は、少しだけ声を落とした。
「そいつの姿も、気配も、どんなふうに動くのかも。頭の中で、はっきりとな」
僕は、ゆっくりと目を閉じた。
……僕が、生み出したいもの。
何を思い描けばいいのだろう。
最初に浮かんだのは、実家で襲いかかってきた、恐ろしいあやかしたちの姿だった。
牙を剥き、爪を振るい、僕を傷つけようとした化け物たち。
怖い。
あやかしは、恐ろしいもの。
僕にとっては、ずっとそうだった。
けれど。
ふと、別の姿が頭に浮かんだ。
夜の闇のように真っ黒な毛並み。
金色に輝く瞳。
ふわふわの尻尾。
そして、ぶっきらぼうな声で「俺の身内だ」と言ってくれた、大きな黒猫。
僕を助けてくれた、優しいあやかし。
黒。
……僕は、黒のようになりたい。
強くて。
優しくて。
誰かを守れる存在に。
僕は、そっとお腹の奥へ意識を向けた。
そこに、何かがあった。
小さな火種のような、温かな塊。
今まで、一度も気づかなかったもの。
それが、呼吸に合わせて、ゆっくりと脈打っている。
これが、神代の力……?
僕は、その温もりを感じながら、そっと願った。
――僕にも、誰かを守れる力をください。
そして。
――おいで。僕の影。
その瞬間だった。
足元の影が、ぐにゃりと揺れた。
「……えっ?」
思わず目を開ける。
朝日を浴びて、庭にくっきりと伸びていた僕の影。
その輪郭が、まるで水面のように波打っていた。
どろり。
黒い影が、地面から盛り上がる。
まるで、漆黒の沼が生まれたかのように。
「……おいおい」
黒の声が聞こえた。
いつもの余裕たっぷりな口調に、わずかな驚きが混じっている。
僕の影は、どんどん広がっていった。
そして――。
ぽこっ。
影の沼から、小さな黒い頭が飛び出した。
「……え?」
ぽこっ。
もう一匹。
ぽこぽこっ。
さらに、もう一匹。
それは、猫だった。
夜の闇をそのまま切り取ったような、真っ黒な猫の形をした影。
輪郭はくっきりしているのに、体の表面は煙のように揺らめいている。
顔には、口も鼻もない。
ただ、二つの金色の瞳だけが、美しく怪しく輝いていた。
そして。
「……にゃあ」
小さな鳴き声がした。
影猫が一匹、僕の足元へ飛びついてきた。
すりっ。
「……えっ?」
もう一匹が、反対側の足に体を擦り寄せる。
すりすり。
さらに一匹が、僕の裾にじゃれついた。
気がつけば、僕の足元は、黒い影猫たちでいっぱいになっていた。
一匹、二匹、三匹。
十匹。
二十匹。
影の沼から次々と飛び出してきた猫たちが、僕を取り囲むように集まってくる。
「……わぁ……!」
僕は、思わずしゃがみ込んだ。
影猫の一匹が、僕の手に頭をこすりつける。
撫でてほしいのだろうか。
そっと手を伸ばすと、その体は不思議なほど柔らかかった。
まるで、温かな毛並みに触れているような感触。
なのに、その体は影そのもの。
「……かわいい……!」
思わず、笑みがこぼれた。
その瞬間。
「おおおおいっ!?」
庭に、黒の素っ頓狂な声が響き渡った。
びくっ、と肩が跳ねる。
振り返ると、黒は目を見開き、僕の足元を凝視していた。
「お、お前……!ちょっと待て、マジかよ!?」
「……く、黒?」
「初めての術だぞ!? しかも無詠唱で、自分の影を触媒にして式神を生み出しただと!?」
黒が、信じられないものを見るように僕を見つめた。
「それも、これだけの数を一度に……!?」
僕は、きょとんとした。
「……えっと。これ、すごいの?」
「すごいどころの話じゃねえよ!!」
黒の声が、庭じゅうに響いた。
「普通の陰陽師が、どれだけ修行して式神を一体作り出すと思ってやがる! それをお前、初めての術で二十体以上だぞ!?」
「……に、二十体……?」
僕は慌てて足元を見た。
影猫たちは、相変わらず僕の周りで楽しそうにじゃれ合っている。
一匹が尻尾をぴんと立てる。
もう一匹が、僕の膝に前足をかける。
そして、みんな一斉に喉を鳴らし始めた。
ゴロゴロゴロ……。
ゴロゴロゴロ……。
まるで、庭いっぱいに猫の合唱が響いているみたいだった。
「……えへへ」
僕は、思わず笑ってしまった。
「僕、できたよ。黒!」
黒は、しばらく呆然と僕を見つめていた。
やがて。
「……はっ」
口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「ははっ……!こりゃ、とんでもねえぞ!」
黒は大股で歩み寄ると、僕の肩に両手を置いた。
その金色の瞳は、今まで見たことがないほど輝いていた。
「いいか、あかり。お前、自分が何をやったのかわかってんのか?」
「……ううん?」
「こいつらは、ただの影じゃねえ。お前の神代の力から生まれた、れっきとした式神だ」
黒は、足元の影猫を一匹抱き上げようとした。
ところが、黒の手が触れる直前、その猫はするりと影に溶け込み、別の場所からひょこっと顔を出した。
「……ほう?」
黒の眉が上がる。
「なるほどな。実体と影の境界が曖昧なのか。こいつは面白え……」
その瞳が、じっくりと影猫たちを観察する。
「いいか、あかり。こいつらはお前の命令で動く。敵の動きを封じることも、影に潜んで忍び寄ることもできるはずだ。鍛え方次第じゃ、あやかしの肉体だって噛み砕ける」
「……噛み砕く……?」
「おう。見た目に騙されんなよ。こいつら、かなりヤバい式神だぜ」
黒は、ニヤリと八重歯を見せた。
「実家の連中が見たら、泡吹いてひっくり返るだろうな!」
「……あははっ!」
想像したら、なんだかおかしくなった。
昨日まで、僕は無能だと言われていた。
霊力がないから、何もできない。
何の役にも立たない。
そう言われ続けてきた。
でも。
僕にも、できたんだ。
自分の力で、何かを生み出せた。
僕の足元では、影猫たちが嬉しそうに尻尾を立てている。
僕は一匹をそっと撫でた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
黒に。
影猫たちに。
それとも、ようやく見つけられた、自分の中の力に。
ただ、胸の奥が温かかった。
黒はそんな僕を見て、満足そうに笑った。
「よし。決まりだな」
「……何が?」
「こいつらの名前だよ」
黒は腕を組み、僕の足元を見渡した。
「お前が生み出した、影の猫ども。『影猫』ってのはどうだ?」
「……影猫……」
僕は、その名前を小さく口にした。
影から生まれた、僕だけの猫たち。
僕の願いに応えて、来てくれた存在。
「……うん!僕、この子たちを『影猫』って呼ぶ!」
その瞬間。
影猫たちが、一斉に尻尾をぴんと立てた。
ゴロゴロゴロゴロ……!
さっきよりも大きな喉の音が、庭いっぱいに響き渡る。
「ははっ!どうやら、気に入ったみてえだな!」
黒が豪快に笑った。
そして、僕の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「いいか、あかり。お前には、まだまだとんでもねえ力が眠ってるはずだ」
その声には、確かな期待が込められていた。
「まずは体をしっかり治せ。傷が癒えたら、山の奥で実戦だ。俺が極上の戦い方を叩き込んでやる!」
「……実戦?」
「おう。あやかし相手の狩りだ!」
黒は、楽しそうに笑った。
「こいつらをどう使えば一番強えのか、どんな相手に何が通用するのか。じっくり教えてやるよ」
僕は、足元の影猫たちを見つめた。
そして、黒の顔を見上げる。
「……うん!」
胸の奥に、今まで感じたことのない熱が灯っていた。
強くなりたい。
黒のように。
誰かを守れるように。
そして、いつか――。
僕を捨てた人たちに、自分の力を証明できるように。
影猫の一匹が、僕の頬にすり寄った。
僕はその頭を撫でながら、小さく笑った。
「これからよろしくね、みんな」
影猫たちが、嬉しそうに喉を鳴らした。
こうして僕は、最強の猫又・黒の指導のもと、自分だけの術――『影猫』を磨き始めることになったのだった。
――その頃。
神隠しの山の崖上。
雨の名残が残る岩場に、一人の男が立っていた。
男の視線の先には、深い谷底が広がっている。
昨日、僕が落ちていった場所だ。
「……チッ」
男は舌打ちし、手元の呪符を握り潰した。
「骨の一本も残さず消えたか……」
冷たい風が吹き抜ける。
男はしばらく谷底を見つめていたが、やがて興味を失ったように目を細めた。
「まあいい。あの高さから落ちて、生きているはずもない」
口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「せいぜい、あやかしの餌にでもなるがいい」
男は踵を返した。
その背中が、木々の影へと消えていく。
――まだ、誰も知らない。
僕が生きていることも。
その体に眠る力が、どれほど恐ろしいものなのかも。
そして。
自分たちが捨てた少年が、いつか土御門家の運命を根底から覆すことになるのだということも。
すべては、まだ始まったばかりだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
拙い文章ですが、少しでも楽しんでいただけたらこれ以上の幸せはありません。




