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捨てられた忌み子 と、山の主(第1章 神隠しの山・無双編 1話)

「――おい。起きろ」


雨音を切り裂くように、低い男の声が降ってきた。


「こんなところで寝てると、凍えて死ぬぞ」


……死ぬ。


その言葉だけが、不思議なくらいはっきりと耳に届いた。


重たいまぶたを、どうにか持ち上げる。


目の前は、泥と雨水と、自分の血でぐちゃぐちゃだった。


頬を打つ雨が痛い。


息を吸うたび、胸の奥が焼けるように痛む。


崖から落ちたのだ。


途中で木の枝に体を叩きつけられ、何度も岩にぶつかりながら、ここまで転がり落ちてきたのだろう。


腕も、足も、どこが無事なのかわからない。


指先はとうに感覚を失っていた。


それでも、僕は必死に首を動かした。


……誰?


誰か、いるの?


ぼやける視界の向こう。


紅い月を背にして、何かが僕を覗(のぞ)き込んでいた。


夜よりも深い、艶やかな黒い毛。


すっと伸びた猫の耳。


闇の中に浮かぶ、二つの金色の瞳。


そして、その後ろでゆらり、ゆらりと揺れる――二本の尻尾。


「…………っ」


息が止まった。


知っている。


陰陽師の家に生まれた僕が、それを知らないはずがない。


猫又…あやかしだ。


人を喰らい、惑わせ、時には魂さえ奪う、人ならざるもの。


その姿を見た瞬間、全身から血の気が引いていく。


逃げなきゃ。


早く、逃げなきゃ。


頭ではわかっているのに、体はぴくりとも動かなかった。


「……う、ぁ……」


喉から漏れたのは、情けない声だけだった。


僕は血と泥にまみれた着物を握りしめ、震える体を少しでも小さくしようとした。


怖い。


怖い、怖い、怖い。


でも――。


もう、逃げる場所なんて、どこにもなかった。




僕は、ついさっきまで陰陽師の名門、土御門家(つちみかど)の人間だった。


少なくとも、そういうことになっていた。


けれど僕には、陰陽師にとって何より大切なものがなかった。


霊力。


あやかしを祓(はら)い、式神を使役(しえき)し、術を操るための力。


生まれた時から、それがまったくなかったのだ。


土御門の血を引きながら、霊力を持たない――忌み子。


それが、僕だった。


『霊力を持たぬ忌み子め。我が土御門家の面汚しが』


父上は、僕を一度も息子として見てくれなかった。


『あやかしの餌にでもなるがいい』


冷たい目でそう告げられ、僕は式神たちに痛めつけられた。


抵抗なんてできなかった。


何をされても、僕には自分を守る力がなかったから。


そして最後には、呪符によって、決して生きては戻れないという『神隠しの山』へ飛ばされた。


……それで、終わるはずだった。


なのに。


山へ放り出された僕を、誰かが追ってきた。


背後から突き飛ばされ、気づいた時には崖の向こうへ体が投げ出されていた。


あの足は誰のものだったのだろう…。


どうして、僕はそこまでして殺されなければならなかったのだろう。


もう、わからない。


考える力さえ、残っていなかった。


寒い。


痛い。


怖い。


お腹がすいた。


母さん。


……誰でもいい。


誰か、助けて。


心の中で何度叫んでも、返事はなかった。


雨だけが、僕の体温を奪っていく。


「……ほう」


大きな黒い猫が、僕の藍色(あいいろ)の髪を覗き込んだ。


「人間の子か。しかも、その髪の色……土御門の血筋だな」


金色の瞳が、すっと細められる。


「噂には聞いてはいたが…。無能の忌み子が7歳になって捨てられたか…」


嘲笑するような口調だった。


僕は思わず目を伏せた。


そうだよ。


僕は無能だ。


だから、捨てられた。


だから、誰にも必要とされない。


「……う、ぅ……」


「おい。何を泣いてやがる」


猫が顔を近づけてきた。


ひげが頬に触れそうなほどの距離。


逃げられない。


食べられる…


そう覚悟して、ぎゅっと目を閉じた。


ところが。


「……ん?」


猫は、僕の胸元に鼻先を寄せた。


くん。


もう一度、くん。


そして――。


「…………は?」


間の抜けた声がした。


先ほどまでの余裕たっぷりな態度が、嘘のように消えていた。


猫は僕の胸元を見つめたまま、ぴたりと動きを止めている。


やがて。


金色の瞳が、ぎらりと輝いた。


「……おいおい。冗談だろ」


低い声に、初めて驚きが混じる。


「土御門の連中……揃いも揃って節穴か?」


猫の尻尾が、ぴんと立った。


「こいつの体に眠ってるのが、ただの霊力だと思ってやがったのか…傑作だぜ!」


雨音が、遠くなった。


僕には、何を言っているのかわからなかった。


ただ、目の前の猫の瞳が、今までとは違う光を帯びていることだけはわかった。


「――神代の力だぞ」


その声は、ひどく静かだった。


「人の世の術なんぞとは、格が違う。こんなものを抱えておきながら、無能だと?」


猫は呆れ果てたように、大きなため息をついた。


「……ああもう、なんか腹が立ってきたな」


その瞬間。


空気が、歪んだ。


ぐにゃり、と。


猫の輪郭が陽炎(かげろう)のように揺らめき、黒い毛並みが夜の闇へ溶けていく。


ポンッ。


軽やかな音とともに、白い煙が立ち上った。


そして、煙の向こうから現れたのは――。


黒い着流しに、紫の羽織をだらしなくまとった美しい男だった。


頭には、黒い獣の耳。


腰には、禍々しい紫の鞘に収められた一振りの刀。


濡れた夜のような黒髪。


目を奪われるほど整った顔立ち。


口元には、いたずらを思いついた子供のような笑みが浮かんでいた。


その美しさは、人間のものとは思えなかった。


けれど、僕が何より驚いたのは――。


その男が、僕を見下ろす瞳だった。


金色の瞳。


猫の姿をしていた時と同じ色なのに。


今は、不思議なくらい、あたたかく見えた。


男はそっと膝をつくと、僕の体に手を伸ばした。


「……っ!」


反射的に、肩が跳ねる。


殴られる。


また痛いことをされる。


そう思って、僕はぎゅっと目を閉じた。


けれど。


いつまで待っても、痛みは来なかった。


代わりに、背中と膝の裏に、大きな手が差し入れられた。


「おいおい。そんなに怯えんな」


少し呆れたような声。


それなのに、僕を抱き上げる腕は、驚くほど優しかった。


傷口に触れないように。


痛むところへ余計な負担をかけないように。


壊れやすいものを扱うように、そっと。


「……あの」


声が震えた。


「僕は……あかり、と…申します」


男が、わずかに眉を上げる。


「あなたは……僕を、食べるのですか?」


男は一瞬、きょとんとした。


それから。


「はっ!」


喉の奥で笑い声を弾けさせた。


「食うわけねえだろ!」


八重歯が覗く。


「俺をそこらのあやかしと一緒にすんな。失礼なガキだな、お前」


……ガキ。


怒られるのかと思った。


けれど男は、楽しそうに目を細めただけだった。


「俺は黒曜(こくよう)。神隠しの山の猫又だ」


こくよう。


その名前を、僕は小さく口の中で繰り返した。


黒曜。


少し難しい名前だ。


僕は男の顔を見つめ、それから、頭に生えた黒い耳を見た。


ふわふわしている。


触ってみたい。


……いや、駄目だ。


そんなことをしたら、怒られる。


迷って、迷って。


僕は、ようやく口を開いた。


「……こくよう、さん」


「おう」


「……じゃあ、黒(くろ)と呼んでも…いいですか?」


「…………あ?」


男の顔が、固まった。


しまった。


変なことを言ってしまった。


慌てて謝ろうとした、その時。


「……っ、ははっ!」


黒曜は、腹の底からおかしそうに笑い出した。


「黒、か! ははっ、そりゃいい!」


何がそんなにおかしいのか、僕にはわからなかった。


ただ、その笑い声は、不思議と怖くなかった。


「フン。気に入ったぜ」


黒曜は僕を抱き直し、金色の瞳でまっすぐに見つめてきた。


「いいか、あかり」


その声が、少しだけ低くなる。


「今日からお前は、俺の『身内』だ」


……みうち。


聞き慣れない言葉だった。


「好きに呼びな。黒でも、黒曜でもな」


僕は、何も言えなかった。


身内。


それは、家族という意味だろうか。


僕を捨てた土御門家では、僕は家(・)族(・)ではなかった。


父上にとって、僕は恥さらしで、誰にとっても、役に立たない存在だった。


それなのに、この人は。


会ったばかりの僕を、身内だと言ってくれた。


どうして?


そんなことを聞きたかった。


でも、胸がいっぱいで、声にならなかった。


その時だった。


――ガサ、ガサガサ……。


背後の藪(やぶ)が、不気味に揺れた。


黒曜の耳が、ぴくりと動く。


「……チッ」


低い舌打ち。


次の瞬間、闇の中から巨大な影が這い出してきた。


蜘蛛(くも)だ。


大人の背丈ほどもある、巨大な蜘蛛。


濡れた黒い体から、粘つく液体が滴り落ちる。


そして、頭部には――赤い目が、いくつも、いくつも並んでいた。


ぎょろり。


ぎょろり。


何十もの目が、一斉に僕たちを見据える。


「ひっ……!」


僕は息を呑み、黒曜の着物をぎゅっと掴んだ。


怖い。


さっきの猫より、ずっと怖い。


蜘蛛の口元から、糸を引くような涎が垂れた。


その瞬間、僕は理解した。


あれは、僕を食べようとしている。


殺される。


今度こそ、本当に――。


「……おい」


不意に、黒曜の声がした。


いつもの、気だるげな声。


「俺の弟を、そんな目で見てんじゃねえよ」


……おとうと?


僕が顔を上げるより早く。


黒曜の腕が、僕をかばうように動いた。


その動きには、焦りも、恐怖も、迷いもなかった。


ただ、ひどく面倒くさそうに。


「ザコが。俺の身内を怯えさせてんじゃねえ」


蜘蛛が、耳障りな叫び声を上げた。


赤い目が一斉に光る。


巨大な脚が、地面を蹴った。


――来る!


僕は反射的に目を閉じた。


次の瞬間。


チィン。


澄んだ金属音が、雨音を切り裂いた。


……え?


あまりにも綺麗な音だった。


まるで、夜そのものが鳴ったような。


恐る恐る目を開ける。


黒曜は、片手で僕を抱いたまま、いつの間にか刀を抜いていた。


紫色の刀身が、紅い月の光を受けて、ひとすじの軌跡を描いている。


そして。


巨大な蜘蛛の体には、一本の線が走っていた。


頭から、胴体まで。


すうっ、と。


蜘蛛の体が左右にずれる。


「……キ、シャ……?」


短い悲鳴。


次の瞬間、化け物の体は黒い塵となって、跡形もなく崩れ去った。


あたりに残ったのは、雨音だけだった。


「…………え?」


僕は、ぽかんと口を開けた。


終わった。


あれだけ恐ろしかった化け物が。


一瞬で。


黒曜は、何事もなかったかのように刀を振り、鞘(さや)へ戻した。


チン。


小さな金属音。


「さて」


僕を見下ろし、ニヤリと笑う。


「邪魔者は消えたな」


……この人は、いったい何者なのだろう。


実家の陰陽師たちなら、あの蜘蛛を倒すために何十人も集まる必要があったはずだ。


それなのに、この人は。


僕を抱っこしたまま、片手で倒してしまった。


まるで、道端の小石でも蹴り飛ばしたみたいに。


「……くろ、さん」


「あ?」


「……強い、ですね」


黒曜は、少しだけ目を丸くした。


それから、心底おかしそうに笑った。


「今さら気づいたのかよ」


そして、ポンッ。


再び白い煙が立ち上がり、黒曜は大きな黒猫の姿へと戻った。


ふわり、と。


あたたかな毛皮が、僕の頬に触れた。


「さあ、帰るぞ」


黒曜は自分の羽織を広げ、その胸元へ僕をすっぽりと包み込んだ。


雨が遮られる。


冷たい風も、肌を刺す雨粒も、もう届かない。


かわりに、ふかふかの毛並みと、じんわりとした温もりが僕を包んだ。


「……あったかい」


思わず、声が漏れた。


「毛が……くすぐったい、です」


「文句言うな。今は我慢しろ」


ぶっきらぼうな返事。


けれど、黒曜の前足が、僕の頭をぽん、ぽん、と優しく撫でた。


「屋敷に着いたら傷を治してやる。飯も食わせてやるぞ」


……ご飯。


その言葉を聞いた途端、お腹がきゅうっと鳴った。


恥ずかしくて、顔を伏せる。


すると黒曜は、また喉の奥で笑った。


「ははっ。いい音だな。腹が減ってんのか」


僕は、小さく頷いた。


「そうか。なら、たらふく食わせてやる」


その声が、あまりにも当たり前で。


あまりにも優しくて。


僕は、何かを言おうとした。


ありがとう、と。


でも、喉の奥が詰まってしまった。


代わりに、涙がこぼれた。


一粒。


また一粒。


止めようとしても、止まらなかった。


「……っ、う……」


「……おいおい」


黒曜が困ったように声を上げる。


「なんだよ。どこか痛むのか?」


違う。


痛いのは、ずっと痛かった。


怖いのも、ずっと怖かった。


でも。


今、僕を抱きしめてくれているこの温もりが。


僕を弟だと言ってくれた、この声が。


どうしようもなく、嬉しかった。


「……ありがとう、ございます……」


震える声で、どうにかそれだけを伝えた。


黒曜は、しばらく黙っていた。


やがて、僕の頭に大きな前足を乗せる。


「……礼なんざ、いらねえよ」


いつもの、ぶっきらぼうな声。


「お前はもう、俺の身内だ」


その一言に、僕の涙はますます止まらなくなった。




紅い月が、雨雲の向こうで不気味に輝いていた。


黒曜は、僕を胸元に抱いたまま、山の奥へと歩き出す。


そして、不意に足を止めた。


金色の瞳が、遠く――土御門家のある方角を向く。


「……土御門、か」


低い声。


その声音から、先ほどまでの気楽さが消えていた。


「自分たちが何を捨てたのかもわからねえとはな…」


二本の尻尾が、ゆらりと揺れる。


「いいぜ。後悔させてやる」


その言葉は、雨音にかき消されるほど静かだった。


けれど、その奥には、山そのものを震わせるような怒りが潜んでいた。


「俺の弟を捨てたこと。泣かせたこと。傷つけたこと――」


黒曜は、僕を抱く腕にほんの少しだけ力を込めた。


痛くないように。


苦しくないように。


ただ、決して離さないと伝えるように。


「全部まとめて、後悔させてやるよ」


金色の瞳が、紅い月を映して細くなる。


「なあ、あかり」


「……はい」


「俺がお前を、誰にも文句を言わせねえくらいの陰陽師に育ててやる」


僕は、黒曜の胸元から顔を出した。


「……僕、霊力がないんです」


ずっと言われてきた言葉だった。


何度も何度も、僕自身に言い聞かせてきた言葉だった。


「だから、僕は……」


「はっ。まだそんなこと気にしてんのか」


黒曜は、呆れたように鼻を鳴らした。


「安心しろ。お前の力は、俺がこの目で見極めた」


その声に、揺るぎはなかった。


「俺が教える。俺が守る。俺が鍛える」


そして、悪戯っぽく笑った。


「だから、お前は腹いっぱい食って、たっぷり寝て、でっかくなりゃいい」


……そんなことで、いいの?


本当に?


僕は、黒曜の金色の瞳を見つめた。


そこには、僕を見下す色なんてなかった。


役立たずだと決めつける色も。


捨ててもいいものを見るような、冷たい色も。


ただ、まっすぐに僕を見てくれる光があった。


「……はい」


僕は、こくんと頷いた。


「僕……頑張ります」


「おう。期待してるぜ、あかり」


黒曜の尻尾が、機嫌よさそうに揺れた。


その温もりに頬を寄せながら、僕は初めて思った。


――生きていて、よかった。


ずっと、死んでしまいたいと思っていた。


誰にも必要とされないのなら。


誰にも愛してもらえないのなら。


生きていたって、仕方がないのだと。


でも。


今は、違う。


僕を抱きしめてくれる人がいる。


僕を弟だと言ってくれる人がいる。


帰る場所を、作ってくれようとしてる人がいる。


「……黒と呼んでも…いいですか?」


「おう。好きに呼びな」


「あの…」


「ん?」


「……僕、ここにいても、いいんですか?」


黒曜の足が止まった。


一瞬だけ、金色の瞳が揺れる。


それから。


「――当たり前だろ」


あまりにも当然だというように、黒曜は答えた。


「お前の居場所は、俺が作る。誰にも奪わせねえ」


僕は、黒の毛皮に顔をうずめた。


もう、涙を隠す必要はなかった。


雨は、まだ降り続いていた。


僕の鳴き声をかき消すように。


紅い月も、相変わらず不気味に輝いていた。


けれど、もう寒くなかった。


僕の世界は、あの崖の下で終わったのではない。




神隠しの山で、最強の猫又に拾われた瞬間から――始まったのだ。


やがて、土御門家が恐れ、あやかしたちがひれ伏し、神々さえも無視できなくなる。


これは、捨てられた忌み子と、過保護で最強な猫又が織りなす――世界を揺るがす逆転劇の始まりだった。

ご覧いただきありがとうございます。


虐げられていた幼いあかりが、最強で過保護な猫のあやかし・黒曜と出会い、最強の陰陽師へと成長していく物語です。

この先も、もふもふの癒やしとスカッとする逆転劇をたっぷりお届けしていきます!


少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価ポイント(★)で応援していただけると大変嬉しいです。

次話もぜひお読みいただけますと幸いです!




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