白銀の山道と、挟撃の氷鬼
第一の砦を襲った数百匹の雪鬼の群れを退けた僕たちは、半壊した砦を後にし、休む間もなく地下の封印地へと続く険しい登山道を急いでいた。
物部家当主の猛虎さんを先頭に、数名の陰陽師が道を切り開いていく。
先ほどまで僕たちを危険から遠ざけようとしていた猛虎さんも、今は自ら先頭に立ち、封印地への道を案内してくれていた。
けれど、彼らの態度には、まだ戸惑いが残っている。
時折、猛虎さんがこちらを振り返る。その目には警戒だけでなく、困惑や、目の前で起きたことをまだ受け止めきれていないような感情も混じっていた。
無理もないだろう。
彼らが長年鍛え、命懸けで戦ってきた相手を、黒と紺はほんのわずかな時間で一掃したのだから。
それでも、今は立ち止まっている場合ではなかった。
山の奥からは、まだ異様な妖気が漂っている。先ほど感じたものが消えたわけではない。むしろ、封印地へ近づくほど、その気配は濃くなっているように思えた。
「この先を越えれば、封印地へ続く谷に出る」
猛虎さんが前を向いたまま告げた。
「だが、山の様子がおかしい。雪鬼がこれほどの数で現れることなど、今まで一度もなかった」
「封印の力が弱まっているからかもしれませんね」
僕は足元の雪を踏みしめながら答えた。
「封印に異変が起きて、眠っていたあやかしたちが刺激されている。ここに集まっているのは、たぶんその影響…」
「ならば、封印を修復すれば、あやかしどもも引くのか?」
「それは……分かりません」
僕は正直に答えた。
「封印の中にいるものが、あやかしたちを呼び寄せている可能性もありますから」
その言葉に、猛虎さんは口を閉ざした。
山道は、さらに険しくなっていった。
両側には切り立った岩壁が迫り、足元は狭い雪道になっている。吹きつける風は強く、視界も白く霞んでいた。普通の人間なら、歩くことさえ難しい場所だ。
僕の肩には、再び黒猫の姿に戻った黒が乗っていた。
黒は妖気を必要以上に外へ漏らさないよう、気配を抑えている。強い妖怪の気配は、周囲のあやかしたちを刺激することがある。今は少しでも余計な敵を呼び寄せないほうがいい。
紺も僕のすぐ隣を歩きながら、周囲に注意を向けていた。
「あかり様……さっきから、雪の下が変なの……」
「うん。何かが動いている」
僕は足を止めた。
風の音に混じって、低い地鳴りが聞こえてくる。
ゴゴゴゴ……。
最初は遠くの山崩れかと思った。
けれど、違う。
音は一定の間隔で近づき、雪面の下から重い振動が伝わってくる。
僕は意識を広げ、山の斜面を探った。
そして、思わず息を呑んだ。
「……来るよ!」
「また雪鬼か?」
猛虎さんが拳を構える。
「今度は、さっきよりずっと多い」
その直後、登山道の下方で雪煙が上がった。
山肌を埋め尽くすように、無数の鬼が姿を現した。
先頭を進むのは、先ほどの雪鬼よりもさらに巨大な氷鬼だった。
その体は五メートル近くあり、頭部の高さは岩壁に迫っている。全身を覆う氷は分厚く、肩や腕には鋭い氷柱が生えていた。手にした氷の棍棒が雪面を叩くたび、周囲の岩が砕けていく。
その後ろには、数え切れないほどの鬼が続いていた。
数百匹。
先ほどの群れが、ほんの前触れにすぎなかったことを思い知らされる。
「ば、馬鹿な……!」
陰陽師の一人が声を震わせた。
「これほどの数が、山の中に潜んでいたというのか!」
「前方だけではないぞ!」
別の陰陽師が振り返って叫んだ。
僕たちが通ってきた道の下にも、鬼たちの姿が見えた。雪の斜面を登り、退路を塞ぐように迫っている。
前にも後ろにも敵。
しかも、ここは狭い山道だ。横へ逃げることもできない。
「囲まれるなの!」
紺が叫んだ。
「このままじゃ、雪崩に巻き込まれるの……!」
僕は周囲の山肌を見上げた。
雪鬼の群れが動くたび、斜面に積もった雪が震えている。この場所で大きな術を放てば、敵を倒す前に雪崩を引き起こしかねない。
けれど、敵を放置すれば、僕たちだけでなく、山の下にある砦や本部にまで被害が及ぶ可能性がある。
「落ち着いて、紺。大丈夫だよ」
僕はゆっくりと息を吐いた。
「ここで止めるから」
「止めるって、あかり様…」
僕は片手を雪面へ伸ばした。
足元に落ちる影が、ゆっくりと広がっていく。
岩壁の影、木々の影、僕たち自身の影。
それらがつながり、黒い波のように登山道を覆った。
そして、影の中から影猫たちが現れた。
一匹、十匹、百匹。
影はさらに広がり、その数は瞬く間に増えていく。
やがて、数千匹の影猫が雪道を埋め尽くした。
小さな猫から大きな猫まで、さまざまな姿をした影の群れが、音もなく並んでいく。
「にゃあ」
一匹の猫が鳴いた。
その声を合図に、影猫たちは一斉に駆け出した。
彼らは雪鬼へ直接突撃するのではなく、登山道を横切るように並び、巨大な黒い防壁を作り上げた。幾重にも重なった影が、雪鬼と氷鬼の進路を塞いでいく。
ドゴォォン!
先頭の氷鬼が防壁に激突した。
岩壁を揺らすほどの衝撃。しかし、影猫たちは崩れなかった。無数の影が衝撃を受け止め、押し寄せる鬼の勢いを食い止めている。
「これは……式神か? これほどの数を、一瞬で……」
猛虎さんが驚きの声を漏らした。
「驚くのは後にして。今のうちに片づけます!」
僕は紺に目を向けた。
「紺、狐火をお願い!」
「はいなの!」
紺は両手を広げた。
「狐火!」
青白い炎が、吹雪の中に次々と灯る。
炎は小さな火の玉から大きな火柱へと変わり、影の防壁を越えて鬼の群れへと降り注いだ。
ゴオオオオッ!
狐火が氷の体を包み込む。
普通の炎とは違い、紺の狐火は妖気そのものを焼き払う力を持っている。鬼たちがどれほど厚い氷をまとっていても、その内側に宿る邪悪な気配までは防げない。
「グオオオオッ!」
鬼たちの叫びが山道に響いた。
だが、敵の数はまだ多い。
影猫たちが防壁を維持し、紺の狐火が群れの動きを抑えている。それでも、押し寄せる鬼たちの勢いは衰えなかった。
黒が僕の肩から飛び降り、人の姿へと変化した。
「ならば、中央を割る」
黒い髪が風になびき、腰から抜いた刀から紫の稲妻がその腕を伝う。刀身から放たれる妖気が吹雪を押し返した。
「そこを退け」
黒が一歩踏み出した。
次の瞬間、紫電が走った。
斬撃は、迫り来る鬼の群れを一直線に切り裂いた。氷の装甲も、巨大な棍棒も、紫の雷を帯びた刃の前では意味をなさない。鬼たちの体が次々と砕け、黒い霧となって散っていく。
紺の狐火が左右から群れを焼き、黒の斬撃が中央を切り開く。
二人の攻撃によって、数百匹の鬼の群れに、少しずつ隙間が生まれ始めた。
けれど、僕はすぐに次の問題に気づいた。
鬼たちを倒すために大規模な術を使えば、ここにいる敵を一掃できるかもしれない。
しかし、これほど険しい山道で山を揺るがすような術を放てば、雪崩を引き起こしかねない。他の陰陽師たちまで巻き込むわけにはいかなかった。
僕は雪の斜面と、影猫たちが作り上げた防壁を見比べた。
敵の進路は限られている。
黒と紺が切り開いた中央へと敵が集まるなら、そこを狙うことで、周囲への被害を抑えられるかもしれない。
ふと、蓮と学校の書庫で見つけた術書のことを思い出した。
あそこに記されていたのは、周囲を破壊することなく、対象だけを選んで浄化する術だった。
使うのは初めてだ。
けれど、今の状況にはうってつけの術に思えた。
「……試してみるか」
僕は術式を思い浮かべ、両手を胸の前で合わせた。
僕の内側から、純白の光が溢れた。
光は雪の上を走り、影猫たちの防壁を越え、敵の群れを包み込んでいく。
そこには熱も、爆発もなかった。
ただ、穏やかな白い光が広がった。
光に触れた鬼たちは、抵抗する間もなく消えていった。氷の塊も、妖気も、憎悪も、すべてが浄化されるように消失していく。
数百匹いた第二波は、やがて一匹も残らなくなった。
吹雪の音だけが、再び山道に戻ってきた。
僕はゆっくりと手を下ろした。
「これで、道は開いたね」
紺が大きく息を吐いた。
「はあ……。さすがにつかれたなの……。あかり様、さっきのは何なの?」
「あれは神代の光…だな」
「今は……気にしないで。それより先を急ごう」
「はいなの! 少し……息を整えるなの……」
「そうか?まだ体を温めるほどでもないが」
黒は刀を消し、涼しい顔で言った。
「黒兄様は格好つけすぎなの!」
「事実を述べただけだ」
二人のやり取りを、物部家の陰陽師たちは信じられないものを見るような目で眺めていた。
先ほどまで、彼らは数百匹もの鬼に囲まれていたのだ。
それが今では、登山道を塞いでいた敵の姿は一匹も残っていない。
猛虎はしばらく沈黙していたが、やがて僕の前に立ち、深々と頭を下げた。
「……君たちの力を、私の想像が及ぶ範囲で測ろうとしていたようだ」
その言葉に、僕は首を横に振った。
「気にしなくても大丈夫です。それより、封印地は近いですか?」
「この先の岩壁を抜ければ、地下へ続く入口がある」
猛虎さんは顔を上げ、山道の先へと視線を向けた。
「これほどの群れが現れた以上、封印の中で何かが起きているのは間違いない。急ごう」
「はい」
僕たちは再び歩き始めた。
影猫たちは僕の足元へと戻り、雪に落ちる影の中へ溶けていく。
山道はさらに狭くなり、吹雪も強まってきた。
僕は周囲の地形を確かめながら進んだ。先ほどのような襲撃が再び起きれば、今度は別の場所で雪崩が発生するかもしれない。影猫たちをどこに配置すべきか、どの斜面が危険なのか、頭の中で整理していく。
そして、しばらく進んだ先。
吹雪の向こうに、巨大な岩壁が現れた。
岩壁の中央には、古い石造りの門が半ば雪に埋もれている。
門には、今の陰陽道では読み解けない古代の文字が刻まれていた。
その奥から、冷たい闇の気配が漂っている。
僕は門の前に立ち、静かに目を閉じた。
肌を刺すような冷気。
胸の奥に重くのしかかる妖気。
そして、僕の中にある神代の力が、かすかに反応していた。
「……ここだ」
この門の向こうに、封印がある。
そして、その奥には、長い年月を経てなお、強大な力を秘めた何かが眠っている。
僕たちはついに、北の最果てに隠された異変の核心へとたどり着いたのだった。




