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北の最果てと、雪鬼の襲来

蟹蟹鍋を堪能した僕たちは、北地方現地調査本部へ向かうため、町の外れにある雪上輸送場へと向かっていた。


町を出る頃には、黒はいつのまにか黒猫の姿になっていた。


雪道を進む僕の足元で、黒が尻尾をゆらりと揺らす。


「おい、あかり」


「なに、黒?」


「この雪の上を歩いたら、肉球が冷えるだろうが。抱いて運べ」


「……黒、そりに乗るんだよ?」


「そりに乗るまでの話だ。俺の肉球が冷えてもいいっていうのか?」


黒は当然だと言わんばかりに、前足を持ち上げた。


「ほら、早くしろ」


「もう……分かったよ」


僕は苦笑しながら黒を抱き上げた。


腕の中に収まった黒は、満足そうに喉を鳴らす。


こうして黒を抱いたまま、僕たちは雪原に用意されたそりへと向かった。


輸送場には、頑丈な木材と霊的な金属を組み合わせた大型のそりが用意されていた。その前に立っているのは、普通の狼よりもはるかに大きな二体の狼型式神だ。


「こちらの式神が、北地方現地調査本部までそりを引いてくれます。道中は険しい山道が続きますので、どうかお気をつけください」


案内役の陰陽師が説明してくれた。


「山の奥では、異常な妖気が観測されています。現地の状況も、決して楽観できるものではありません」


「分かりました。案内をお願いします」


僕が答えると、案内役はうなずき、そりへ乗るよう促した。


紺は大きな狼型式神を見上げ、嬉しそうに尻尾を揺らしている。


「わあっ、大きいね!」


「すごいね、紺」


「うんっ!」


一方、僕の腕の中にいる黒は、そりを眺めて不満そうに鼻を鳴らした。


「まったく。移動するだけでも面倒な場所だな」


「黒、まだ出発してもいないよ?」


「だから言っているんだ。俺はもっと快適な移動手段を要求する」


「そんなこと言われても……」


僕が苦笑していると、案内役が出発の準備を整えた。


狼型式神が低く唸り、そりがゆっくりと動き出す。


雪原を抜け、山道へ。


進むにつれて雪は深くなり、左右には険しい斜面が迫ってきた。吹きつける風が頬を刺し、遠くの山々は白い靄に覆われている。


僕は周囲に意識を向けた。


山の奥から漂ってくる妖気は、やはり普通ではない。


ただ強いだけではない。冷たく、重く、何かを拒絶するような気配が混じっていた。


その感覚は、旧出雲の国にあるという封印の異変と、無関係ではないように思えた。


やがて、そりは険しい山々に囲まれた谷へと入っていった。


その先に見えてきたのは、分厚い防壁に囲まれた大規模な施設だった。建物の周囲には結界が張り巡らされ、見張りの人たちが警戒を続けている。


入口には、看板が掲げられていた。


『陰陽寮・北地方現地調査本部』


「到着しました。ここが北地方現地調査本部です」


案内役の言葉を聞き、僕たちはそりから降りた。


施設内を見渡すと、慌ただしく行き交う人たちの姿が目に入った。救護班、結界師陰陽師、それから守備兵らしき人たちも見える。


負傷者を運ぶ者、道具を準備する者、結界の状態を確認する者。誰もが緊張した面持ちで、休む間もなく動き続けている。


それだけで、ここがどれほど切迫した状況に置かれているのかが伝わってきた。


やがて、正面の建物から一人の男が姿を現した。


鍛え上げられた大柄な体躯に、鋭い眼差し。立っているだけで周囲の空気が引き締まるような迫力があった。


彼こそ、武闘派の名門として知られる物部家の当主、物部猛虎(もののべ たけとら)だ。


土御門(つちみかど)家、明神(みょうじん)家、天条(てんじょう)家と並ぶ四大陰陽師家の一つ、物部(もののべ)家。


その名は、術だけでなく、鍛え上げた肉体と霊力を組み合わせて戦う一族として知られている。


猛虎さんは僕たちの前まで歩み寄ると、まずは静かに頭を下げた。


「遠路はるばる、よく来てくれた。雪道での移動は大変だっただろう。まずは暖かい部屋でゆっくり休んでくれ」


その声には、長旅をしてきた相手を気遣う落ち着きがあった。


けれど、彼はふと目の前を見渡し――言葉を失った様子だった。


そこに立っていたのは、荷物を抱えた僕と、腕の中で気だるげに欠伸をする一匹の黒猫、そして目をキラキラと輝かせている紺である。


猛虎さんの顔に、隠しようのない「がっかり感」がみるみる浮かび上がった。


「……ん? いや、待て。本部に連絡があった応援というのは、確か土御門あたりの精鋭だと聞いていたんだが……」


猛虎さんは思わずといった様子で頭を抱え、大きなため息をついた。


(連絡ミスか、あるいは足手まといを送り込まれたのか……?)と顔に書いてある。


それでも当主としての理性で何とか表情を取り繕うと、猛虎さんはすぐに表情を引き締めた。


「ここは今、非常に危険な状況にある。申し訳ないが、今日は奥の部屋で休んでいてくれ。明日、式神で町まで送り届けよう。それまでは、こちらのことは気にせず、身体を休めてほしい」


穏やかな口調ではあったが、その判断は明確だった。


僕たちを軽んじているわけではない。むしろ、危険な現場に巻き込まないための配慮なのだろう。


それでも、僕にはここまで来た理由がある。


「お気遣いありがとうございます。でも、僕たちは封印の調査に協力するために来ました。状況を確認させてもらえませんか?」


猛虎さんは僕の顔を見つめた。小さく首をふった。


「気持ちはありがたい。だが、今の状況は君が考えている以上に厳しい。現場では、熟練の陰陽師ですら命を落としかねないのだ。」


「それは分かっています。それでも、僕は自分の目で確かめたいんです」


僕は視線を逸らさずに答えた。


猛虎さんはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……そうか。なら、せめて無理だけはしないでくれ。君たちを案内するにしても、今日の現場の状況を見極めてからだ。ひとまず部屋でゆっくりなされよ」


「…ありがとうございます」


そのときだった。


ズンッ――!


地面が大きく揺れた。


建物の中から物が落ちる音が響き、天井の照明が激しく揺れる。周囲にいた陰陽師たちが一斉に顔を上げた。


「な、なんだ!?」


続いて、遠くから轟音が響いた。


結界が軋むような、耳障りな音。


バキィィンッ!


何かが砕ける音が、谷全体に響き渡った。


僕は即座に意識を研ぎ澄ませた。


山の奥から、冷たく禍々しい妖気が押し寄せてくる。


その気配は、先ほどから感じていたものよりも、はるかに濃くなっていた。


しかも、ただ本部へ向かっているだけではない。


この妖気は、封印の気配と、奇妙な共鳴を起こしている。


「報告!外壁の結界に亀裂が発生しました!」


一人の陰陽師が駆け込んできた。


「何だと!?」


猛虎が鋭い声を上げる。


「山側からあやかしの大群が侵入しています!すでに外壁付近まで到達しているとのことです!」


「なぜ、接近に気がつかなかった!?数は!」


「確認できただけで百以上……、まだ増えています!」


その報告に、周囲の空気が一気に張り詰めた。


猛虎はすぐさま踵を返した。


「全員、迎撃態勢を取れ!負傷者は後方へ!結界師は残った防壁を維持しろ!」


「「「はっ!」」」


陰陽師たちが一斉に動き出す。


僕たちも猛虎さんの後を追い、施設の外へと向かった。


防壁の向こうに広がる雪原。その先から、巨大な影が次々と姿を現していた。


全身を分厚い氷の鎧で覆い、頭には太い角を生やした異形の妖怪。


雪鬼だ。


その体躯は、ゆうに三メートル近くある。雪を踏みしめるたびに地面が揺れ、吐き出す息は白い霧となって周囲に漂っていた。


しかも、一体や二体ではない。


視界を埋め尽くすほどの群れが、山の斜面から次々と押し寄せてくる。


「何をしている!!そなたは少女と猫を連れて早く本部の奥へ退避せよ!!」

「迎撃開始!」


その号令を皮切りに、防壁の前に並び立った者たちが一斉に動き出した。


後方からは陰陽師たちが呪文を唱え、燃え盛る炎の札や天空を引き裂く雷撃を放つ。


さらに霊力で編み上げられた幾重もの鎖が、迫り来る雪鬼の巨体へと絡みついていく。


それだけではない。最前線には、武芸を極めた剣士や、それぞれの流儀で戦う者たちの姿があった。


しかし――。


ガキィンッ!


炎も雷も、刀も氷の鎧に弾かれてしまう。


霊力の鎖さえ、雪鬼が腕を振るうだけで砕け散った。


「くっ、効いていないだと!?」


「防御が硬すぎる」


「もっと霊力を集中させろ!」


雪鬼たちは勢いを緩めない。


先頭の雪鬼が巨大な腕を振り下ろし、地面を叩き割った。


衝撃で雪が舞い上がり、前衛にいた者たちが吹き飛ばされる。


「ぐああっ!」


「負傷者を下げろ!陣形を崩すな!」


その中で、猛虎さんが前へ出た。


「退くな!」


猛虎さんの両腕には、あらかじめ朱色の呪文がびっしりと記された布状の強化符が巻かれていた。


彼はそこへ、自身の膨大な霊力を流し込む。


強化符に刻まれた文字が赤々と輝き、拳から腕にかけて強い光を帯びた。


「物部家の力、見せてやる!」


猛虎は雪原を蹴り、一気に雪鬼との距離を詰めた。


巨大な雪鬼が拳を振り下ろす。


猛虎さんはひるまず、その懐へと踏み込んだ。


「――砕け散れッ!」


渾身の拳が、雪鬼の氷の鎧を正面から打ち砕いた。


バギィィンッ!


分厚い氷が粉々に砕け散り、衝撃を受けた雪鬼の巨体が後方へと吹き飛ぶ。


続けざまに別の雪鬼へと向かい、強化符の輝く拳を叩き込んだ。二体目の氷の鎧が砕け、巨体が雪原を転がる。


その姿に、周囲から驚きの声が上がった。


さすがは物部家当主。


並の陰陽師では歯が立たない雪鬼の鎧を、正面から打ち砕いている。


だが、敵の数はあまりにも多かった。


一体を倒しても、その背後から二体、三体と新たな雪鬼が迫ってくる。


皆必死に攻撃を続けているが、氷の鎧に術を弾かれ、反撃を受けて倒れる者が増えていった。


猛虎さんもまた、次々と押し寄せる雪鬼を相手に、前線を維持するだけで精いっぱいになりつつあった。


このままでは、いずれ防衛線が崩れる。


そう判断した、そのときだった。


僕の腕の中から、黒がひらりと雪原へ飛び降りた。


「黒?」


黒は一度だけ僕を振り返ると、次の瞬間、全身を紫色の霧で包み込んだ。


霧が晴れたとき、そこに立っていたのは黒髪の青年だった。


黒は静かに戦場を見渡す。


その身体から、圧倒的な妖気が放たれた。


雪原を覆っていた冷気が震え、迫り来る雪鬼たちの動きが一瞬止まる。


黒は面倒くさそうに肩を回した。


「……やれやれ。せっかく蟹鍋で温まったところだってのによ。偵察だっつうからおとなしくしてやってたのによ…」


その隣で、紺も小さな手を掲げた。


「狐火」


淡い青色の狐火が、いくつも空中に灯る。


「黒、紺も手伝うよ!」


「行くぞ、紺」


「うんっ!」


黒の手に、紫電をまとった妖刀が現れた。


次の瞬間、黒と紺が同時に動いた。


紺の狐火が雪原を駆け、雪鬼たちの足元へと広がっていく。


青白い炎は、ただ燃え上がるだけではない。雪鬼たちの動きを絡め取るように広がり、巨大な身体をその場に縛りつけていった。


動きを封じられた雪鬼たちへ、黒が一気に迫る。


紫電をまとった妖刀が、鋭い軌跡を描いた。


「神威一閃」


一閃。


その斬撃が、雪鬼たちの氷の鎧ごと巨体を切り裂いた。


黒は止まらない。


紺の狐火が敵の動きを封じ、黒の刃がその隙を逃さず切り払う。


二人の連携は見事なものだった。


雪鬼の群れが押し寄せても、黒と紺は一歩も退かない。青白い狐火が雪原を照らし、紫色の雷光がその間を駆け抜けていく。


そして、次の瞬間。


雪原を埋め尽くしていた雪鬼の大群が、まとめて切り裂かれた。


砕けた氷の破片が宙を舞い、妖気が霧散していく。


ほんのわずかな時間で、目の前にいた雪鬼たちは一掃されていた。


「な……」


猛虎さんが言葉を失っていた。


周囲の陰陽師たちも、誰一人としてすぐには声を出せない。


先ほどまで、自分たちが総力を挙げても押し返せなかった敵の大群。それを、黒と紺は圧倒的な力と連携で退けてしまったのだ。


けれど、僕は戦いの結果だけを見ていたわけではない。


黒と紺が雪鬼を倒すたび、激しい衝撃が雪原を走り、積もった雪が大きく舞い上がっていた。


その衝撃は周囲の山肌にも伝わり、斜面に積もった雪が崩れ始める。


あちこちで雪崩が発生していた。


このままでは、雪鬼を退けても、本部そのものが雪崩に巻き込まれかねない。


(影猫たち、雪崩を食い止めて)


僕が呼びかけると、足元の影が揺らいだ。


そこから、影猫たちが次々と姿を現す。


影猫たちは雪原を駆け、雪崩が迫る方向へと散開していった。黒い影が雪面を覆い、崩れ落ちてくる雪の流れへと広がっていく。


押し寄せる雪の勢いが、少しずつ弱まっていった。


影猫たちはそれぞれの位置で雪崩を食い止め、本部の防壁へと雪が流れ込むのを防いでいる。


黒と紺が前線で雪鬼を蹴散らす一方、影猫たちは雪崩から本部を守る。


僕はその状況を確認しながら、周囲の地形へと視線を巡らせた。


本部を囲む防壁。


雪に覆われた山の斜面。


雪崩が発生した場所と、その流れる方向。


そして、黒と紺が戦っている位置と、本部までの距離。


この雪深い土地で戦うのは、僕にとっても初めての経験だ。


影猫たちをどこへ配置すれば、雪崩を効率よく防げるのか。どの斜面が崩れやすく、どの場所なら安全に移動できるのか。さらに敵が押し寄せてきた場合、どこに影猫たちを集中させるのが最も効果的なのか。


目の前の敵を倒すだけでは、この戦場を守り切ることはできない。


地形そのものが、戦いの行方を左右する。


僕は雪原と山肌を見比べながら、次に影猫たちを投入する場所を慎重に見極めていった。


そのとき、再び山の奥から重い妖気が流れてきた。


先ほどの雪鬼たちとは比べものにならないほど、濃密な気配。


しかも、一つではない。


複数の妖気が、こちらへ向かっている。


僕は山の奥へ視線を向けた。


「……まだ来る」


その言葉に、猛虎がこちらを振り返る。


「何だと?」


「さっきの雪鬼だけじゃありません。もっと大きな群れが、こちらへ近づいています」


猛虎さんの表情が険しくなった。


雪鬼の第一波を退けたばかりだというのに、敵の襲撃は終わっていない。


むしろ、これからが本番なのかもしれなかった。


僕は猛虎さんへ向き直った。


「猛虎さん、僕たちを封印のある場所まで案内してもらえませんか?」


「封印の場所へ?」


「はい。ここで敵を迎え撃つだけでは、根本的な解決にならないと思います。封印に何が起きているのか、直接確かめる必要があります」


猛虎さんは一瞬、山の奥へ視線を向けた。


そこには、今も禍々しい妖気が渦巻いている。


やがて彼は、強くうなずいた。


「分かった。案内しよう。ただし、道中も安全とは限らん。十分に警戒して進むぞ」


「はい。お願いします」


僕はもう一度、山の奥を見つめた。


封印は、確実に何かがおかしくなっている。


そして、その異変は、僕たちが想像していた以上の規模に膨れ上がろうとしていた。


黒と紺が前線を支え、影猫たちが雪崩から本部を守る。


その間にも、山の奥からは新たな妖気が近づいてくる。


僕たちは、封印の異変の核心へと向かうため、動き出した。

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