過保護な羽織と、旅立ちの朝
北の最果て、『旧出雲の国』への遠征が決まってから、出発までの数日間。
隠れ里のお屋敷は、遠征に向けた準備でどこか慌ただしくも、温かな活気に包まれていた。
お屋敷に遊びに来ていたあやかしたちも、僕たちの門出を応援しようと大張り切りだ。
「あかり様!向こうで美味しいものがなかったら、これを食べてね!」
「ケガをしたら、すぐにこちらを使ってください!僕たち秘伝の薬草です!」
ふさふさの尾を揺らした管狐たちが、特製の干し肉や薬草の詰まった袋を、僕の鞄へ次々と詰め込んでくれる。
さらに、庭の池からぬっと顔を出した河童たちが、青く透き通った美しい石を差し出してきた。
「あかり、これを持っていけ!川の秘石だぞ!身につけておけば、どんな猛吹雪の中でも凍えずに済むんだ!」
「みんな、ありがとう……!大事に使わせてもらうね」
かつての僕は、人間とあやかしは相容れない存在なのだと思っていた。
けれど今、こうして種族の垣根を越え、僕たちの無事を祈り、温かく送り出そうとしてくれるあやかしたちがいる。
その優しさが何よりも嬉しくて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
僕は、みんなの想いに応えたい。
だからこそ、北の地で何が待ち受けていようとも、必ず無事に帰ってこよう。
そう、心に誓った。
その日の夜。
僕が自室で遠征用の荷物をまとめていると、人間の姿になった黒が、大きな風呂敷包みを抱えて入ってきた。
「おい、あかり。ちょっとこっちに来て、これを羽織ってみろ」
黒はそう言うと、卓の上に風呂敷包みを広げた。
中から現れたのは、しっとりとした重厚感と美しい光沢を纏う、漆黒の羽織だった。
「わあ……!綺麗な羽織だね」
思わず感嘆の声が漏れる。
黒は普段から、僕や紺の成長に合わせて着物を仕立ててくれている。けれど、僕たちの前で針仕事をしている姿は一度も見たことがない。
いったいいつ、こんなものを作っているのだろう。
ずっと不思議に思っていたけれど、今回もまた、見事な仕上がりだった。
「これ……黒が作ってくれたの?」
「ああ。北の地は、とにかくクソ寒いらしいからな。生地には俺の妖力を練り込んだ特別な糸を使ってある。裏地には神代の防寒と防呪の術式をびっしり刺繍しておいた」
黒は得意げに八重歯を覗かせ、ニッと笑った。
「冷気や毒はもちろん、並のあやかしの呪詛なら、掠り傷ひとつ負わせねえ代物だ。これなら、あかりが北の地で凍える心配もねえだろ?」
「すごい……!そこまでしてくれたの?」
「当たり前だろ。俺の大事なあかりなんだからな」
黒は当然とばかりに言い切ると、僕の肩にそっと羽織をかけてくれた。
――ふわり。
羽織った瞬間、温かな陽だまりに包み込まれたような感覚が全身を駆け巡った。
寒さを防ぐだけじゃない。黒の圧倒的な強さと、深すぎるほどの過保護な愛情が、そのまま形になったような羽織だった。
これほど心強い防寒着は、世界中を探してもほかにないだろう。
「すごく温かいよ、黒……!刺繍もかっこいいし、本当にありがとう!」
「おう。似合ってるぜ」
黒は満足そうに僕の姿を眺めた。
「背も伸びたし、顔つきも大人っぽくなったからな。すっかり一人前の男の着こなしだ」
そう言って、僕の頭を愛おしそうに何度も撫でてくれる。
その手つきがあまりにも優しくて、僕はつい頬を緩めてしまった。
「うにゃぁぁ!あかり様、すっごくカッコいいなのー!」
勢いよく部屋に飛び込んできたのは、少女の姿になった紺だった。
白いふわふわの防寒着に身を包み、二本の尾をぱたぱたと振りながら、僕の羽織の裾を嬉しそうにすりすりしている。
「紺も黒兄様に特別なお着物と、ふわふわの靴を作ってもらったの!これで北の地の寒さもへっちゃらなの!」
「二人とも、遠征先で風邪でも引かれたら堪らんからな。準備に抜かりはねえよ」
黒は腕を組み、満足げに頷いた。
……うん。どうやら黒の中では、北の地の邪神よりも、僕たちが寒さで体調を崩すことのほうが重大な問題らしい。
その徹底した過保護ぶりに、思わず苦笑してしまう。
けれど、それも黒らしかった。
そのとき、足元の影がゆらりと大きく広がった。
影の中から姿を現したのは、二十匹の影猫たちだ。
「にゃあ!にゃあ!」
一斉に威勢のいい声を上げ、僕の足元に集まってくる。
『あかり様、僕たちも準備万端ですにゃ!北の地の悪い神様なんて、みんなで噛みちぎってやります!』
『影の中から、いつでも飛び出せますよ!』
実は、この三年間で影猫たちにも大きな変化があった。
二十匹もいる影猫たちの中には、意思疎通ができるだけでなく、はっきりと言葉を話せるようになった子までいるのだ。
一匹で元気いっぱいに走り回り、戦う気満々の子。
のんびりと毛づくろいをしながら、仲間の言葉に頷いている子。
さらには、北の地の名物に期待しているのか、お腹をぐうぐう鳴らしている子までいる。
みんな個性豊かで、見ているだけでも飽きない。
「ふふっ。みんな、頼りにしているよ。でも、無茶はしないでね」
『もちろんですにゃ!』
『あかり様をお守りするのが、僕たちの役目ですにゃ!』
元気いっぱいの返事が重なり、部屋中に響き渡った。
頼もしい家族たちの声に包まれ、僕の胸はいっぱいになった。
ふと、七歳の頃の自分を思い出す。
実家から追い出され、冷たい雨に打たれながら、誰にも愛されていないのだと思い込んでいた、あの頃の僕。
もし、あの頃の僕に今の光景を見せてあげられたなら。
きっと、驚いて目を丸くするだろう。
そして、ようやく安心して笑えるのかもしれない。
今の僕には、こんなにも温かくて、心強い家族がいる。
どんな困難が待ち受けていても、僕はもう一人じゃない。
「みんな、本当にありがとう。絶対に無事に帰ってくるからね」
そう告げると、黒が僕の頭にぽんと手を置いた。
「おう。だが、無事に帰ってくるだけじゃ足りねえぞ。帰ってきたら、またこうしてみんなで飯を食うんだからな」
「うにゃ!紺、北のお土産もいっぱい楽しみにしてるなの!」
『僕たちもですにゃ!』
……どうやら、無事に帰るだけでなく、お土産まで大量に要求されてしまったらしい。
僕は思わず笑い声を上げた。
この温かな日常を守るためにも、絶対に帰ってこよう。
そう、改めて心に決めた。
数日後。
薄桃色の朝焼けが空を染める中、僕たちは早朝の帝都駅のホームに立っていた。
まだ人影もまばらな駅構内は、ひっそりと静まり返っている。
今回の遠征は内密に進められているため、見送りに来てくれたのはごくわずかな人たちだけだった。
陰陽寮から僕たちを送り出してくれる、菅野室長と澄真さん。
そして――学校の友人であり、明神家の次期当主でもある蓮の姿があった。
「あかり殿。裏での手配はすべて整えてあります。どうかご無事で」
「僕たちが言うのもなんだけど、くれぐれも無茶はしないでね、あかりくん」
二人の温かな言葉に、僕は深く頷いた。
「ありがとうございます。必ず無事に帰ってきます」
それから僕は、最後に蓮へと視線を向けた。
蓮もまた、この三年間で大きく成長していた。
以前よりも密度を増した霊力。鍛え上げられた佇まい。そして、明神家の次期当主としての責任を背負う、凛とした眼差し。
その姿からは、かつて共に学んでいた頃とは違う頼もしさが感じられた。
「あかり、無事に帰ってこいよ」
蓮はまっすぐに僕を見つめた。
「本当は……俺も一緒に行って、お前の背中を守りたい。だけど、今の俺には帝都を守る責任がある」
「蓮……」
「父上が、ほかの地域で確認された邪神の兆候を抑えるために派遣されている以上、明神家の次期当主である俺まで帝都を空けるわけにはいかないんだ」
蓮は一度、言葉を切った。
そして、決意を込めた瞳で言い切った。
「だから、帝都は俺に任せて、お前は北の地で――思う存分暴れてこい! お前なら絶対に負けないって信じてる。」
その言葉に、僕は力強く頷いた。
蓮には蓮の戦いがある。
僕が北の地へ向かうように、蓮もまた、自分の守るべき場所で戦おうとしているのだ。
「うん。頼むよ、蓮。北の件が終わったら、また一緒に…お茶でもしよう」
「ああ、約束だ」
蓮は少しだけ口元を緩めた。
「お前が北で戦っている間、俺もここで限界まで牙を研いでおく。次に会うときは、今よりずっと強くなっているからな」
「ふふっ。それは楽しみだね」
互いに笑い合い、拳を軽くぶつける。
それだけで、十分だった。
あとは言葉にしなくても、僕たちはそれぞれの場所でやるべきことを果たし、またここで顔を合わせるのだと信じられた。
「では、そろそろ出発の時間です」
菅野室長の声に促され、僕たちは特急列車へと向かった。
「皆さん、行ってきます!」
僕が振り返って告げると、菅野室長たちが手を上げて応えてくれた。
蓮もまた、最後まで真剣な眼差しで僕を見送ってくれていた。
こうして僕たちは、北の最果て『旧出雲の国』を目指して走り出した。
列車が動き出してしばらくすると、普通の黒猫の姿に戻った黒が、僕の膝の上にするりと飛び乗ってきた。
どっしりとした重みと温もりが膝に伝わる。
黒は二本の尾を僕の首元へと優しく巻きつけた。まるで、特別製のマフラーみたいだ。
「……あかり。いよいよだな」
「うん」
僕は窓の外を眺めながら頷いた。
「現代の陰陽師じゃ歯が立たない神代のあやかし……いったい、どれだけ強い相手が待っているんだろうね」
正直に言えば、少し緊張している。
これまでにも危険な相手とは戦ってきたけれど、今回の相手はそのどれとも違う。
神代の時代から封じられてきた存在。
しかも、その封印が弱まり、現地の部隊が壊滅寸前に追い込まれているという。
決して油断できる相手ではない。
それでも、不思議と恐怖に呑み込まれることはなかった。
「うにゃ!あかり様と黒兄様、それに紺がいれば、どんな試練も楽勝なの!」
隣に座った紺が、小さな拳をぎゅっと握りしめた。
二本の尾も、やる気いっぱいにぴんと立っている。
「紺、張り切るのはいいけど、ちゃんと僕の言うことを聞いてね?」
「もちろん、なの!……たぶん!」
「たぶんじゃねえだろ」
黒が呆れたように尻尾をぴしりと振った。
そのやり取りに、僕は思わず吹き出してしまう。
影の中でも、影猫たちがやる気満々の様子で瞳を輝かせていた。
頼もしい家族たちがそばにいてくれる。
それだけで、張り詰めていた気持ちが少しずつほぐれていった。
北の地には、いったい何が封印されているのだろう。
その奥で待ち受けている神代のあやかしは、何を思い、何を望んでいるのだろうか。
僕は黒の温もりを感じながら、そっと拳を握った。
かつて「無能の忌み子」と呼ばれ、七歳で捨てられた僕は、今や国家守護特級陰陽師として、北の最果てへ向かっている。
守りたいものができた。
帰る場所ができた。
だからこそ、今度は僕が誰かを守るために、この力を振るいたい。
「黒、紺。みんなも……力を貸してね」
「当たり前だろ、あかり。お前の行くところなら、どこへだってついていくさ」
「うにゃ!紺も一緒なの!」
『僕たち影猫も、いつでも準備万端ですにゃ!』
家族たちの声に、僕は笑顔で頷いた。
列車は闇を切り裂くように走り続ける。
やがて、前方にそびえる山々の向こうから、ただならぬ気配がかすかに伝わってきた。
肌を刺すような冷気とは違う、もっと深く、重く、古い何かの気配。
僕はそっと目を細めた。
――どうやら、北の地は僕たちを歓迎してくれるほど、穏やかな場所ではなさそうだ。
ご覧いただきありがとうございました!
3年経っても黒の過保護っぷりは相変わらずでした。
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