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北の脅威と、決意の杯

「……なるほど。現場の状況は、想像以上に深刻というわけですね」


陰陽寮の二人――菅野室長と澄真さんからもたらされた報せは、隠れ里の平穏を一気に吹き飛ばすほど、重いものだった。


広間からお屋敷の奥の間へと場所を移し、桜茶を差し出しながら問いかけると、菅野室長は深々と溜め息をついた。


「北の最果て、『旧出雲の国』の地下深くに封印されている神代のあやかし。その封印の揺らぎは、もはや誤魔化しがきかない段階に達している」


菅野室長の表情は険しい。


「現地を守備していた陰陽部隊は壊滅。こちらから新たに派遣した部隊も、物部家の部隊もほぼ全滅だ。現在は物部家の当主自らが前線に立ち、決死の覚悟で足止めをしてくれている状態だ」


「物部家が……」


物部家といえば、土御門家と並ぶ、古くからの陰陽の名門だ。


その当主自らが陣頭に立たなければ抑え込めないほどの危機。事態の凄惨さが、ひしひしと伝わってくる。


「物部家の次期当主である二人も、南の地への討伐に出たきり、苦戦しているようだ。天条家は天条家で、東の地に生じた結界の綻びを修復するために動いている」


澄真さんが、疲れたように眼鏡の位置を直した。


「陰陽寮も各地へ人員を分散させ、それぞれの活動を補助している。その結果、帝都は今、実質的に明神家だけで守っているような状態なんだよ」


「そんなに……」


各地で、同時に異変が起きている。


南ではあやかしの討伐、東では結界の修復、そして北では神代のあやかしの封印が弱まりつつある。


偶然にしては、あまりにも重なりすぎていた。


「……それに、本当の問題はそこじゃないんだ、あかりくん」


澄真さんが眼鏡の奥の目を細め、声音を一段と低くした。


「あやかしの出没もそうなんだけど、封印が急激に弱まったタイミングが、あまりにも不自然すぎるんだ」


「不自然、というと?」


「まるで……内側から封印が解かれようとしているか、あるいは外から誰かが結界を意図的に破壊したか…」


「意図的に……?」


僕は思わず眉を寄せた。


「それは、誰かが神代のあやかしを解き放とうとしている、ということですか?」


僕の問いに、菅野室長は苦々しい表情で頷いた。


「左様。断定はできんが、その可能性は十分にある」


そして、菅野室長は一度言葉を切った。


「さらに恐ろしいのは、陰陽寮上層部の動きだ」


その声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。


「現場からの悲痛な増援要請に対し、幹部連中は『精査が必要だ』『慎重を期すべきだ』などと理屈を並べ、追加派遣や救援部隊の出動を意図的に遅らせている」


「どうして、そんなことを……」


「まるで、出雲が呑み込まれるのを待っているかのようにな」


菅野室長は、悔しそうに拳を握り締めた。


「そんな……!それじゃあ、物部家の人たちは見殺しにされているってことですか!?」


思わず声が大きくなった。


現地では、命懸けで災厄を食い止めている人たちがいる。


それなのに、助けられる立場にある者たちが、理由を並べて救援を遅らせているなんて。


「ケッ、くだらねぇ」


憤る僕の言葉を遮るように、隣で腕を組んでいた黒が冷ややかに鼻を鳴らした。


「利権だか保身だか知らねぇが、陰陽師の腐れどもが考えることなんざ昔からお見通しだ。都合の悪い奴らを怪物に食わせ、自分たちは安全な高みから見物ってわけだろ」


「……ぐ、ぐうの音も出ないな」


黒の容赦ない指摘に、澄真さんは苦笑いを浮かべながら、降参するように両手を上げた。


「否定はできないよ。僕たち分析方や討伐方の現場にいる人間は、一刻も早く出雲へ向かいたい。でも、上からの締め付けが厳しくて、思うように動けないんだ」


澄真さんは、悔しそうに息を吐いた。


「機密性の高い式神で連絡を取ろうとしても、途中で撃ち落とされたり、文を盗み見られたりする危険が高かった。だからこそ、僕たちは直接ここへ来たんだ」


「まあ、お前はちょくちょくここに顔を出してるようだが……」


菅野室長が、苦笑いを浮かべながら澄真さんを見る。


すると、澄真さんはすかさず反論した。


「これ持っていけ、あれ持っていけって、毎回お土産を持たせるのは菅野室長でしょうが!こまめに式神を飛ばしてるのも知ってるんですからね?」


「なっ……!余計なことを言うな、相模!」


「いやいや、事実でしょう?」


「お前という奴は……!」


さっきまでの重苦しい空気が、ほんの少しだけ和らいだ。


僕は思わず笑みをこぼした。


こんな状況でも、二人のやり取りはいつもどおりだ。


それだけに、二人がどれほど切迫した思いでここへ来たのか、改めて伝わってくる。


やがて、澄真さんと菅野室長は示し合わせたように座り直した。


そして、僕に向かって真っすぐに頭を下げた。


「組織の枠組みに縛られず、圧倒的な力を持つ君に頼るしかないんだ、あかりくん」


澄真さんの声は、いつになく真剣だった。


「頼む。どうか出雲の危機を……ひいては、この国を救うために力を貸してほしい」


国家の重鎮である二人が、わずか十六歳の僕に対して、本気で頭を下げている。


そこには政治的な駆け引きも、実家の人間たちが見せたような身勝手な打算もない。


ただ純粋な信頼と、切迫した願いだけがあった。


僕は二人の顔を見つめ、それからゆっくりと口を開いた。


「頭を上げてください、お二人とも」


二人が顔を上げる。


「……僕にできることなら、喜んで力を貸します」


迷いはなかった。


目の前で誰かが苦しんでいる。


助けを求めている人たちがいる。


それなのに、見て見ぬふりをするなんて、僕にはできない。


「感謝する、あかり殿」


菅野室長は、安堵したように深く頷いた。


「詳しい出雲への経路や手配は、こちらで極秘に進めておこう。土御門家や陰陽寮上層部の目を盗み、数日後には帝都から北へ向かう専用列車の手配を整える」


「よろしくお願いします。……どうか、それまで物部家の当主たちも持ちこたえてくれればいいのですが」


「ああ。彼らなら、きっと踏みとどまってくれる」


澄真さんは、力強く頷いた。


「それに、あかりくんが来てくれると知れば、百人力どころか、百倍の勇気が湧くかもしれないね」


「百倍って……」


「それくらい期待しているってことだよ」


澄真さんは、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。


その後、僕たちは今後の連絡方法や出発までの段取りを確認した。


話を終えた二人は深々と一礼し、急ぎ足で隠れ里を後にした。


帝都へ戻り、上層部の目を盗みながら遠征の準備を進めなければならないからだ。


二人の姿が見えなくなると、広間には再び静けさが戻った。


囲炉裏の薪が、パチパチと小さな音を立てて爆ぜている。


「……あかり様」


不安そうに僕の袖をきゅっと引っ張ってきたのは、紺だった。


十六歳の可愛らしい少女の姿をしているけれど、その瞳には隠しきれない心配の色が浮かんでいる。


頭の上には、小さな白い狐耳がぴょこんと飛び出していた。


「出雲に行くの……?」


「うん」


「すごく遠くて、すごく寒いの。それに……危ないところなんでしょ?」


紺の耳が、しゅんと垂れた。


二本の尾も、さっきまでの元気が嘘のように力なく揺れている。


僕は紺の頭を優しく撫でてやった。


ふんわりとした髪の感触が手に伝わり、胸の奥まで温かくなる。


「大丈夫だよ、紺」


「……ほんと?」


「うん。僕は、ただ自分の守りたいものを守りたいだけだから」


僕は紺の瞳を真っすぐに見つめた。


「出雲に行こうが、どこへ行こうが、それは変わらないよ。それに……僕にはみんながついているからね」


「……あかり様」


紺は僕の胸元に顔を寄せ、ぎゅっと抱きついた。


「紺も一緒に行くの。あかり様を、いっぱい守るの!」


「ああ、もちろんだ」


黒がドカリと僕の隣に座り直し、大きな手を僕の頭にぽんと乗せた。


乱暴だけれど、どこまでも温かい手つきだった。


「出雲だろうが神代の化け物だろうが、俺たちがついてりゃ敵じゃねぇよ」


黒は不敵に笑った。


「……それにな、あかり」


囲炉裏のそばに置いてあった酒瓶を手に取り、自分の盃に酒を注ぐ。


そして、僕の前にはお茶の入った湯呑みを置いた。


「土御門の腐れ親父がどうなろうが、神楽坂が好き勝手に企もうが、お前が引け目を感じる必要は一切ねぇ」


「……うん」


「お前はもう、あの家にも帝都の呪縛にも縛られちゃいねぇんだ」


黒の声が、静かに響いた。


「お前が戦うのは、お前自身と、俺たち『家族』のためだ。違うか?」


「……黒」


その言葉が、胸の奥深くにじんと染み渡っていく。


七歳の頃、無能だと蔑まれ、冷酷に捨てられたあの日の僕とは違う。


僕には、帰るべき温かな居場所がある。


どんなときでも僕を信じ、隣にいてくれる仲間がいる。


そして、命を懸けてでも守りたい大切な家族がいる。


だから、もう過去に縛られる必要なんてない。


「うん……そうだね」


僕は、黒の手に自分の手を重ねた。


「僕たちの平穏を脅かす奴らは、僕が……僕たちが叩き潰す」


「ハッ!そうこなくっちゃな!」


黒は満足そうに口端を吊り上げると、盃をぐっと掲げた。


「よし!出雲遠征の決定と、俺たちの勝利に――乾杯だ!」


「紺も!紺もあかり様と一緒に乾杯するの!」


紺も嬉しそうに自分の湯呑みを掲げた。


僕もお茶の入った湯呑みを持ち上げる。


カチン。


三つの器が、軽やかな音を響かせた。


「乾杯!」


温かな笑い声が、広間に広がる。


北の最果てで待ち受ける災厄。


陰陽寮の内部に潜む、正体の知れない思惑。


そして、これから始まる新たな戦い。


越えなければならない壁は、きっといくつもある。


それでも、僕の心に迷いはなかった。


僕はもう、ひとりじゃない。


黒と紺、そして影猫たちと共に、僕は北の地へ向かう。


守りたいものを守るために。


そして、僕たちの平穏を脅かすものに、決して屈しないために。

最後までお読みいただきありがとうございました!

続き読んでみようかな?と思っていただけたら、ブクマや評価をいただけると執筆の大きな励みになります!

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